ルソーは、アンシャンレジームに対し、

根底的な批判をした。以下は、有名である。



『人間は生まれながらにして自由であるが、

しかしいたるところで鉄鎖につながれている。



ある者は他人の主人であると信じているが、

事実は彼ら以上に奴隷である。



どうしてこういう変化が起こったか、私にはわからない。

しかし、この変化を何が正当化するのか、といえば、

この問題なら解くことができると思う。』

(「社会契約論」井上幸治訳)




ここで、ルソーは統治支配の「正当性」を問うている。

彼は、政治や権力それ自体が不当であるといった、

発想をとらない。



彼は、「社会の秩序のなかに、正当にして確実な

国家の設立や国法の基準があるかどうか、

これを研究したい」(前傾書)といっている。



ルソーの評価は、かなり否定的である。

例えば、マルクス主義的立場からは、

「ブルジョア市民社会的」なそれとみなされている。



保守系の佐伯啓思のような思想家も、

「全体主義的思想」の萌芽とみなしている。

(現在、自分には「保守」の概念が分からない)



けれども、部分修正は必要であるが、「社会契約論」において、

根本的には変更されえないきわめて本質的な政治「原理」を提示している。



その「原理」を竹田先生の言葉から引用する。



『①政治体は、自由な個々人の間で、

その自然な「自由」の権限を、一斉に、特定の人物、団体



による政治統治の権限へと委託する契約があった、

と想定される場合ににみ、「正当化」される。



②この政治統治の権限と権力は、ただそれが人民

(契約によって自然な権利を委託した人々)の



「一般意思」を代表していると

認められた場合にのみ、「正当化」される。』



この「原理」によって、市民社会の基本原則が

たくさん作り出されれたことは、明らかである。



しかし、資本主義と近代国民国家という明らかな矛盾を

生み出したとき、ルソーの「一般意思」と「社会契約」の

概念は、さまざまに批判されることとなった。



例えば、プルードンである。彼はこう言う。



ルソー的社会契約は財産や生命身体の保全に

ついてのみ言うだけで、財産の獲得機会や譲渡を

含む広範な社会関係については口をつぐむゆえに、

それは、欺瞞的である。

(『十九世紀における革命の一般理性』)



しかし、このような批判はルソーが当時持っていた、

国家や社会についての状況的感度への批判であり、



ルソーの立てた「正当性の原理」自体への批判とはなっていない。

現代においても、私たちは、政府や官僚機構、財界などの

政治倫理や癒着構造を批判するとき、その根拠は、

ルソー的原則以外のものではない。



ルソー的原則からはずれて、政治権力の「正当性」の

原理を本質的に批判できるとすれば、



それは、政治権限の基本単位を各人の「自由」に

根拠づける根本プランに代わる、別の根本的な

正当性の原理を提出できる場合だけである。



近代以前の政治の「正当性」を根拠づけているのは、

王の正統性ということのみであり、

これはまた神の権威によって根拠づけられている。



つまり社会的「正義」の根拠は、「神の権威」-

「王の正統性」という両項に位置づけられている。



だからこそ、正統な王が不当な仕方で殺されたときには、

「世界の関節」が外れ(マクベス)、

「正義が回復されねばならない」(ハムレット)。



古代コーマが帝政に移行したとき、

アウグスツゥスが血にこだわったのは、

第一人者=ローマ皇帝の正統性のためである。



だが、これに対して、近代社会の政治の正当性の

最終的な根拠は、各人が「自由」な存在であることが

相互に承認されている「想定」にある。



さて、またここで竹田先生の言葉を引用する。



『人間は先験的に自由な存在なのではない。

むしろ、他者の「自由」を自ら承認することで

はじめて各人は「自由」な存在となる。



しかも自動的にそうなるのではない。

「社会契約」こそはこの「承認」という

行為の実質的現実化であり、



この自律的な意思の行為だけがはじめて

絶対権威によらない政治権力を創出する。



政治権力の意味と本質は、各人が互いに他者を

「自由」な存在として認めるという自律的「意思」、

およびその「現実化」にある。(略)



もう一度確認すると、近代社会の政治原理は、

現実的な差異や多様性にもかかわらず、



人間を互いに「自由」な存在として見なしあう

「自由の相互承認」の理念を根本原理としている。



民主主義や共和制といった政治制度上の概念は、

人々がそれをどの程度自覚しているかにかかわらず、

この原理の帰結なのである。



したがってまた、この原理こそは、われわれが

近代社会においてさまざまな政治現象を批判しうる

基底的な根拠である。



しかしこのことはむろん、民主主義や共和制は

つねに「正しい」政治制度である、といったことを意味しない。



そうではなく、この原理こそが、近代社会において

われわれが政治的統治や政治的現象に

対するさまざまな批判を持ちうる、その「権利と正当性の根拠」

である、ということにすぎない。』



現在あるさまざま民主主義的政体が「一般意思」

(つまり国民の、人民の、その社会の成員の大きな意思)

をつねに十分に代表しているとはいえない。



にもかかわらずわれわれは、政体が政治権力を

さまざまな仕方で行使しているということだけでは

それを批判することはできない。



われわれはそれがどのような仕方で行使されているかを監視し、

それが「一般意思」を代表していないと感じるとき、

自分の批判を「正当」なものだと考える。



つまり、特殊利害が一般意思として僭称されていると感じる場合、

それはつねに批判される理由をもつ。



現代における資本主義の様々な矛盾、

それはおそらくはアメリカに代表されるカタチ、

富が大きく偏在し、その代表者たちによって、

権力が行使され、さらに富の寡占状態を促す

このような場合、一般意思を僭称しているといえる。



資本主義が自由競争であり、コギトが

せめぎあい、勝者と敗者を生み出し、

さらに、敗者は勝者になろうとあがく。



ボードリヤールは、「消費社会の神話と構造」で

さまざまに「消費」を語ったのだが、

消費ゲームを解き明かしたところで、

本質的な原理を出してきたわけではない。



実は、公正なルールゲームの中にあれば、

一般意思を僭称しているとはいえない。



だが、現実的には現在あるいくつかの民主主義的政体では、

公正なルールゲームで、行われているとはいえない。



だからこそ、柄谷はカントとマルクスを通して新しい政治批判、

社会批判を試みたといえる。



けれども、彼の批判は「正当」であるのか、

さらに、われわれの時代のさまざまな「時代批判」は

本質的であるのかどうかを、検証していかねばならない。




例によって、ぱくったのは、

『人間的「自由」の条件』(竹田青嗣・講談社)