まず、「貨幣」の問題からいこう。



古典派経済学は、貨幣を中立なものと考えた。

だから市場を自動調節する機能があると考えた。



彼らは、事件が起きていることを見なかったため、、

じつは貨幣自身が商品となることに気づかなかった。



「国富論」で有名なスミスは、貨幣起源論で、

資本制の特異性、商品と貨幣の関係の非対称を隠蔽した。



普通、人は貨幣は単に商品の価値を表示するのではなく、

商品の価値が貨幣で表示されていると考える。

しかし、これは事後的観点にすぎない。



商品は貨幣によって買われてはじめて「価値」を実現する。

ここにいは、いわば「命がけの飛躍」がある。



マルクスは、貨幣と商品の関係を、

等価形態=相対的価値形態という等式で示した。



これは交換における両者の非対称性、

つまり、貨幣の絶対的優位を意味する。

ここに資本主義の交換形態の独自の秘密がある。



つまり、資本主義においては剰余価値の産出

をめぐる独自の価値形態をとるということである。



マルクスの「資本論」からふつう受け取るのは、

労働力商品の搾取による剰余価値、資本の蓄積、

生産関係の不均衡そして恐慌、といった一般像である。



しかし、柄谷の中心的アクセントは、

貨幣自体を、いわば一つの神学的形態として

見る点にあるため、一般像とかなり違っている。



剰余価値は、一般的には、商品生産の過程で発生するとされる。

だが、柄谷は、こういう違う見方をする。



これは、根本的には、まずは共同体と共同体の間で、

つまり空間的な差異体系の間で発生し(商業資本)



つぎにこれを時間的差異へと転化する

ことで可能となる(産業資本)



つまり、生産物を価値たらしめるのは価値形態、

言い換えれば、生産が付け加える価値(労働や加工技術)

それ自体というより、商品が差異的な「関係体系」のうちを

通ってゆくことにある、こう彼はゆう。



柄谷の提出する「貨幣」とは、ずばり、超越論的仮像である。

言い換えればそれは、ちょうどかつて「神」がそうであったもの、



「仮像」であるにもかかわらず「容易に取り除けない」もの、

一切の人間力と人間関係の「疎外態」にほかならない。



この超越論的な「信仰の対象は、

その幻想性にもかかわらず容易に廃棄できない。



なぜなら、近代においてそれは国家=ネーション=貨幣

という三位一体を作り上げ、互いに支えあっている。



柄谷の言葉を引いてみよう。



『資本主義的経済は下部構造であろうか。

貨幣や信用の世界は、経済的というよりも、

宗教的な幻想的な構造ではないのか。



われわれは今もそれにふりまわされている。

逆をいえば、国家やネーションが宗教的な幻想であるとしても、



それらが不可避的に存在するのは、資本と同様に、

それらにとっても現実的に不可避な基盤があるからではないのか。



したがって、国家とネーションをたんに幻想(仮像)だといっても、

けっしてそれらを解消できないのである。(略)』

(トランスクリティーク)



では、竹田先生の言葉を書き出してみる。



『さて、柄谷によれば、ここにマルクスが

描き出そうとした資本主義の「秘密」の核心がある。



わたしなりにこれをひとことで言えば、

「貨幣」こそは近代社会における新しい「超越神」

だということである。



貨幣をめぐる価値形態は、人間の欲望の「象徴体系」であり、

同時に社会的な約定関係の「象徴体系」である。



宗教や王権が、顚倒した幻想的な象徴権威であったとすれば、

人間関係の一切が「貨幣」という「超越論的仮像」をめぐる



現代の資本主義的秩序もまた、永続的な悪矛盾に

落ち込んだ人間欲望の顚倒した普遍形態なのである。』



柄谷がマルクスから取り出そうとしている

「貨幣」=「超越神的仮像」、そこから彼が明らかにしたいのは、

なぜ資本主義の運動がはてしなく続かざるをえないか、なのである。



『世界史的に「人類」を形成する資本の運動(蓄積欲動)

そのものは、決して合理的な動機をもっていない。

それは一種の「反復強迫」である。』(前傾書)



マルクスは、こう書いている。



『国民経済学は私的所有の事実から出発するが、

これをわれわれに解明しない・



それは私的所有が現実のなかで経る物質的過程を、

一般的な抽象的な諸方式に表現する。



するとこれらはこれらは国民経済学にとって諸法則と見なされる。

それはこれらの法則を理解しない。


(略)



われわれは、したがって今、私的所有や、貪欲や

労働と資本と地代との分離やの間の本質的連関、



交換と競争のそれ、価値と人間の価値下落とのそれ、

独占と競争とのそれ、等々、この疎外全体と貨幣体制

との本質的連関を理解しておかなくてはならない。』

(経哲草稿・藤野渉訳)



柄谷は、「この疎外形態と貨幣体制との本質的連関を理解」

することが、マルクス論で再構成したかったのであり、

それに基づき、批判と新たな試みを行った。



それは、もう少し後に書くこととする。

実は、この種の批判はいくつも起きてきた。



いくつか例を挙げる。



二十世紀後半、フーコーやドゥールズによる権力と

コードの自動的再編成システムとしての資本主義批判


サイードによる西洋中心主義批判という力点による批判


ウォーラースティンの世界資本主義批判


ロールズによるカントの普遍的立法の立場からの

平等主義的な資本主義批判


など現代の世界資本主義システムに対する

さまざまな批判が現れた。



われわれは、資本主義という普遍交換様式の

巨大な矛盾と悲惨について、誰もが強い疑いを持っている。



またそれであるがゆえに、資本主義批判自体も

ある意味できわめて一般的なものとなっている。



さしあたって、喫緊の課題は、米国とEUと支那が

直面しているものだが、両者はまったく異なる。



本質的な資本主義批判を試みることができるのは、

いわば行き着くところまで行き着いた、哀れな米国だろう。



神なき世界において、貨幣を神とした世界を

完成させてしまい、世界一豊かな世界で、

その豊かさを味わうことが出来る人は、1%のようである。



新古典派経済学、シカゴ学派、呼称はなんでもかまわないが、

資本主義の初期にみられた現象に見舞われ、

治療しようがないようにすら見える。



プラグマティズム、アメリカには哲学が無きに等しい。

だから、見舞われている、貨幣=神学形態という

散々批判されてきたことをきちんと見直しなおす、

知のベースがかの国にはない。



このことが、非常に悲惨な状況を生み出している。

リーマンショック以降にも様々な批判がなされたが、

方向転換の兆しも見られない。



さて、竹田先生の言葉で締めくくる。



『資本主義の運動全体が、それを支える貨幣のへの欲望自体が、

巨大な「フェティシズム」でありこれを自明視し

根拠づける諸学説は壮大な「神学」である、



という柄谷の主張は、たしかに極めて

強い説得力と魅力をもっている。



だが、この批判は、先に挙げた先行的な資本主義批判と

どのように区別されるのか、またどのような批判が、



歴史や社会という集合的なシステムの批判として、

本質的な「正当性」を持つのだろうか。(略)』



例によって、ぱくったのは、

『人間的「自由」の条件』(竹田青嗣・講談社)