カントの「物自体」を、「認識を認識たらしめる根拠」

のキーワードとしておき、これを「未来の他者」と

結びつける柄谷の論理は、奇妙な飛躍があり、

違和感を覚えざるをえない。



柄谷自身も、自由を義務(命令)に対する服従として

定位するカントの説は、「人を躓かせるポイントである」

と言っている。



実際、自由と道徳とほぼ一つに重ねるカントの説は、

ニーチェ、アドルノ、ハーバーマスなど

批判には事欠かない。



アドルノはこう言う。



『自分と同一であるかぎりで、主体は自由である。

だが、そうした同一性のもとでは主体は、



その同一性の強制に服従し強制を永続化する以上、

自由ではないことになる(略)』(否定弁証法)



だが、先回書いたように、認識の普遍性は、

すでに成立している合意のうちに他者の絶えざる

異議申し立てを迎え入れようとする自律的な「意思」なしには

確保されえない、という意味合いならば生きてくる。



そして竹田先生は、こう言う。



『ところで、まさしくこの言いかたのうちに、

「自由」の本質についての微妙な難問が潜んでいる。



柄谷が受け取ったように、カントでは、

「主体」が自由であるか否かは、道徳的な意思に、

つまり「他者」を自由な人格とみなそうとする自律的な

「意思」にかかっている。



しかし、のちにヘーゲルがこの「自由論」を批判し、訂正を加える。

人間は「自由」な存在であるために、その自律的な意思を

発動させて道徳的存在(他者を尊重する主体)となる、

というのではない。



むしろ、他者を自由な人格であると見なそうとする

「自律的な意思」の相互性だけが、

まさしく人間の「自由」をはじめて確保し、保障する。



このようなヘーゲルの考えを「自由の相互承認」

という概念で括ることができる



(「自由の相互承認」はヘーゲル自身の述語ではなく、

論者がヘーゲル思想から抽出した概念である)(略)』

(人間的自由の条件)



カントからヘーゲルは、「他者」を自由な存在とみなす意思を

人間間の完全な相互規定性としておくことによって、

「自由」という概念に生き残っていた「超越性」を

はっきりと抜き取っている。



ポストモダニストや現代思想家と称する連中と対比すれば、

いかにヘーゲルが卓越した思想家であることがよくわかる。



近代哲学がした仕事の決定的なことは、

このヘーゲルの作業であり、これを踏まえて

進まなければ、我々は自家撞着に陥ってしまい、

論理相対主義者どものえじきになるだけである。



また、柄谷に話を戻そう。



『カントが他者を物自体として見たことは、

わかりやすくいえば、われわれが合意を

とりつけたり、「表象=代表」したりできないもの

としての他者を見たことを意味する。



ことわっておくが、それはレヴィナスがいうような

絶対的な他者ではなく、ありふれた相対的な他者である。(略)』

(トランスクリティーク)



これを竹田先生はこう言う。



『しかし、論理的にはつぎのように言わねばならない。

われわれが「他者」というものを、

いわばつねに歴史の過去と未来から



われわれの生のありようを審判する「回収できない他者」

とみることが(それは例えば物言わぬ死者とか、

メシア的なもの(ベンヤミン)とか、

懇願する他者(レヴィナス)とか、



さまざまな仕方で呼ばれるだろうが)、

「絶対的な他者」を設定することである。



これに対して、つねにせめぎあう強者と弱者、

勝者と敗者という秩序の網の目を



たえず織り変えあう現実的な相互関係として

「他者」を設定することが、「ありふれた相対的な他者」

を設定することである。(略)』



続けて抜き出す。



『現実には、人間は、自由でもないし平等でもない。

人々は強者と弱者、勝者と敗者に分かれ、

また逆転の機会をうかがってせめぎあう。



つまり各人が自由たろうとし、まさしくそのことによって

(特権的な階級をのぞいて)誰も自由な存在たりえない。



これが人間の「自由」の実現についての

最も中心的なアポリアである。

このアポリアの解決は一つしかない。



すなわち、人間は現実には誰も自由ではない、

にもかかわらず、互いに他者を自由な存在である

と承認する各人の「自律的な意思」だけが、



その総体的な合意だけが、はじめて人間の

全般的な「自由」を確保する可能性を作り出すのである。(略)』



竹田先生がヘーゲルから抽出してくれた

「自由の相互承認」は、恐ろしいほどの凄みを持っている。



この概念による合意こそが、市民社会的な

政治統治と政治権力の「正当性」を創出する。



この概念によって、自由主義社会は、

さしあたって民主主義を採用している。



だが近代は、ヘーゲルの手を離れ、強者が跋扈し、

圧倒的多数の敗者を生み出し、それが構造化されるにいたり、

ブルジョアジーのための正当性になってしまったとき、

時代の要請としてマルクスが登場し、大きな物語と称される

モノに、知識人たちは夢中になった。



ブルジョアジーのための正当性を出されると、

アメリカを見てしまうことは、やむをえないだろう。



オーキュパイ・ウォール・ストリートや

99%の運動、医療、仕事、

恐ろしいほどの貧困、現代が抱えるアポリアを

すべて内包しているのがアメリカである。



アメリカ社会がこうなってしまったのは、

一言で言って、哲学、つまり、本質学がないからである。



もう一つ、マルクスはポストモダンによって袋叩きにされ、

彼の思想は消え去ったはずなのに、

その残滓は、いつまで経っても消えていない。



彼らは、現代につきもののイデオロギー対立には、

決まってでしゃばってくるのだが、すでに終止符は打たれたのである。



「革命」=「暴力」この図式でもって得た権力は、

その権力維持のために、つねに「暴力」を伴う。



それは歴史が証明し、かつ、お隣のチャイナでも

現在進行形であり、平等を担保するはずの思想と権力が、

恐ろしい格差を生み出すという異常な現象が起きている。



そして権力を維持せんがために、つねに暴力を用いる。

周辺各国を威圧し、恫喝と軍事行動に出ている。



また国内はマグマだまりが限界点に達し、

大衆の怒りが噴出しては、暴力で抑え込んでいる。



これは、「正当性」のない権力はつねに暴力で、

国民、市民を威圧し、制する、もしくは、

実際に、派手に恐怖政治をやり、

それによって、大衆を怯えさせることで、成立する。



これは、ハンナ・アーレントの指摘そのものであって、

その反動は、歴史が繰り返しわれわれに見せてきた

事実を、呼び込むことになるとしか見えない。



ずいぶん、資本主義のアポリアから外れてしまった。

次回からは、本格的に入ることが出来る。



このテーマで毎回ぱくっているのは

『人間的自由の条件』(竹田青嗣・講談社)