今回は、②愛しすぎちゃって、子供と同化してしまう。

この問題を、考察する。



先回、①愛しすぎちゃって、子供中心の家庭になる。に

ついての考察を行ったが、その延長線上に、

今回の問題が、表面化してくる。



もちろん全ての家庭に当てはまるわけではない。

だが、現在、日本の広範囲にわたって、

見られる現象だと思われる。



同化という現象が起きるのは、社会の最小単位であり

原基である家庭が、一つの機能として耐え切れないほど、

最小化してしまったからである。



これは、人間的「自由」の条件設定が、どうしようもなく

揺らいでしまい、標識のない「自由」が、

家庭に入り込み、個々人から「つながり」を奪ったからである。



家族ですら「合意」なしでは崩れ去ってしまう時代に、

「つながり」を求めるのは、当然の帰結である。



子供が幼少期に母親を求め、母親も子供との

「つながり」を求める行為は、ほとんどの哺乳類に見られる。



熊を例に出してみよう。

雄熊は、子育てにまったく絡まない。

全て、雌熊が、行う。



冬眠が終わり、出産をし、新たな個体を誕生させると、

母熊は、子育て中心の生活を行う。



だが、その新たな個体がある程度、成長し、

えさのとり方などの生き方を教えると、

見事なほどに、突き放してしまう。



それからの「個体」つまり小熊は、厳しい現実に放り出されてしまう。

最悪の場合は、生き延びることができず、死んでしまう。



この例は、家族が最小化してしまったこと、

都市部において、共同体(フランス風に社団といってもよい)が、

ほぼ壊滅してしまったこと、この2つあいまって、

似たような様相ではないかと思い知らされる。



熊の子育てと突き放し、この時期の絶妙さは、

現代人にはまず見られない。



現代の母親は、決定的に孤独なのではないかと

現場にいると、考えざるを得ない。



女性は男性と異なり、コミュニケーション能力が極めて高い

それなのに、あまりに孤独である。



時代的なこの孤独さ、それに耐え切れる女性はいない。

その重さに直面した時、2つの行動をとる。



人間の抱える問題のほとんどは、

人間関係から起こるものである。



孤独であるがゆえに、人へ渇望し、

そこに生ずる、軋み、に懊悩する。



それをパートナーである夫は、救い上げてくれはしない。

なぜなら、日本人男性には、ほとんど時間がないからである。



よって、孤独さを埋める存在として、

新たな個体、子供と寄り添うことになる。



子供に寄り添わなければならい時期をすぎても、

子供に寄り添うのは、寄り添いたいからである。



寄り添わなければならないことと、

寄り添わなければならないことは、

まったくの別物であることはいうまでもない。



そして、このケースはざっくりと分けると、

子供が女子である場合と男子である場合になる。



長くなったので、次回に回す。