先回は、カントの「物自体」の概念が、

合理論や経験論との「世界信念の対立」の

理由を本質的に解明したこと、

つまり形而上学的問いに終止符を

打ったことを書いた。



今回は、柄谷がカントと格闘して取り出した

「未来の他者」について話を進める。



柄谷は、カントの「判断力批判」の

美の本質の問題から、取り出している。



ここは、カントでも根本的な解明にまで届いておらず、

のちに、ニーチェは、善と美を一つのものするような

哲学者は殴り飛ばすべきである、と嘲笑している。



にもかかわらず、竹田先生は次のように述べる。



『柄谷が美的判断の問題のうちに

「認識が認識たらしめているもの」の本質を

観て取ろうとしたのは、きわめて

優れた直感であると思える。略)』



では、柄谷が「未来の他者」を差し込んだ箇所を

書き出してみる。



『しかし、実は、カントは物自体によって、

反証してくるような未来の他者を含意している。



未来の他者がいるから、われわれの認識は

普遍的ではありえない、というのではない。



逆に、それを想定しなければ普遍性は

成立しないのである。



要するに、カントは他者を無視しているのではなく、

ある形で「他者」を導入したのだ。それは哲学史上

において初めてのことである。(略)』



「合意」を「反証」でとらえているので、

非常にあやうい、が、こうも書いている。



『認識が普遍的であるためには、それが

ア・プリオリな規則にもとづいているということではなくて、



われわれのそれとは違った規則体系の中にある

他者の審判にさらされることを前提としている。



これまで私はそれを空間的に考えてきたが、

むしろそれは時間的に考えられなければならない。



われわれが先取りすることができないような

他者とは、未来の他者である。



というより、未来は他者的である限りにおいて未来である

(略)このように見れば、普遍性を公共的合意によって

基礎づけることはできない。



公共的合意はたかだか現在の一つの共同体ー

それがどんなに広いものであれー

に妥当するものでしかない。』(トランスクリティーク)



柄谷のこの概念「未来の他者」は、見事な直感である。

なぜならば、共同体どうしの信念対立の必然性を

空間的地平から、時間軸を巻き込んだからだ。



時間軸を取り入れることで、どんな広範な合意も、

新たな「他者」、新たな「集合体=共同体」の異議の

可能性を排除できない。



簡潔に言えば、世界規模の共通了解ですら、

時間という風雪に耐え切ることができねば、

その原理は、サバイブできず、淘汰されるものとなり、

認識の「普遍性」という概念として、生き残ることが出来ない。



竹田先生は、こう言う。



『認識の「普遍性」という概念をおくとすると、

それはどれほど広範な確固たる合意が

存在しているところでも、



必ず異なった「世界了解」と「世界理念」が参入しうること、

そしてそのつどつねに新しい合意が要請され創出される



その意思と努力の可能性があるということ、

という形で想定されることになる。(略)』



私たちは、今を生きるにあたって、歴史を背負い、

習慣的なルールの束の中で、棲息している。



そのルールは、歴史という時間軸、そのつど立ちふさがる

諸問題に対し、風雪に耐えた「合意」である。



意識しようが、無意識下であろうが、

実は、我々は「未来の他者」がやってくるたび、

その要請に答え、常に新たなルールを作り出し、

時間をかけたり、もしくは即断で、合意形成をなしてきた。



だが、日本人の共同体のルールであるため、

暗黙の合意という形をとってきたため、

書かれたもの(エリクチュール)を必要としなかった。



それを柄谷が「未来の他者」という独自の言葉で、

綴ったことだけは、一定の評価ができるかもしれない。

ただ、「他者」というものの原理があればだが・・・。