現代は、大きな物語が失敗に終わり、

資本主義が本来の獰猛な牙を見せ、

我々大衆に、襲い掛かってきているように見受けられる。



しかし、それならば資本主義に変わりうる

カタチが、いつか見つかるのだろうか、

いや、それとも資本主義というアポリアを

抉り出して、正していく方向性がよいのだろうか、

現実的には、この2択である。



だが、変わりうるカタチであった大きな物語は、

露骨に醜悪な姿を見せつけている。



ここで、思い返すのは、公地公民制を採用し、

それが早期に破綻し、三世一身の法を施行したが、

それでも、足らずに、墾田永年私財法を制定し、

荘園制が始まった歴史的事実である。



公地公民制の試みは、長く持たなかったのに対し、

荘園制は、武士が権力を握り形骸化したが、

完全に機能停止したのは、太閤検地であった。



つまり、人々の欲望の間尺に会わなかったのは、

公地公民制のほうであり、私的所有を認めた

荘園制(もしくは武士の私的所有)は、

間尺にしばらくことはあった事実である。



私的所有は、現代では人間の持つ欲望の要であり、

私見ではおそらく、これからもそうであろう。



ここからは、やはり哲学というルールゲームに参加し、

一から考えて、組み上げながら、そこから

思考を積んでみたい。



もちろん、ベースに流れるのは、竹田先生から

学んだ事柄である。



資本主義というアポリアに真っ向から挑んだ人に、

柄谷行人という人がいる。



この人は、ビッグネームであって、

戦後の日本の思想・論壇の第一人者である。



しかし、残念ながらマルクスの手から

逃れられない残念な人でもある。



そのせいか、ビッグネームであり続けた。

この人の「トランスクリティーク」は、「資本主義」と

「国家」に対する根本的な対抗原理として書かれている。



竹田先生は、この書物を大きく評価している。

以下のように、評している。



「ここには、二十世紀後半を席巻していた

ポストモダン思想の限界を見て、

その先に一歩出ようとする自覚的な試みがある。



つまり、もはやこれまでのさまざまな批判思想自体を

本質的な形で克服する必要があり、

このことが資本主義というアポリアを克服する第一歩である、

という認識がここに明確に提示されている。」



ここでの問題提起が時代的な本質力をもつことを認め、

示されている「資本主義」および「国家」の克服の原理の

「正当性」を、先生はできるだけ本質的な仕方で検証している。


柄谷は、まずカントと格闘し取り出したのは、「倫理」の根拠という

根本問題である。彼が、取り出したのは「超越論的動機」

それから「物自体」の概念、そして「他者」であった。



これは、ニーチェのポストモダン的な「道徳」批判を捨て、

むしろカント的「倫理」の立場に立とうとしている。



なぜ、カントそして後から出てくるマルクスという

近似していないものを一つにして取り出す作業を

柄谷がしているのか、それは現代的資本主義に対する

本質的な対抗原理を提出しているからである。



「つまり、ここにマルクスから取り出された資本主義の

本質的不可能性の思想は、普遍的認識は倫理的対象

としての「他者」に根拠づけられるという思想と結び付けられて

はじめて「主体的」なものとなりうる、という著者のモチーフが

鮮やかに浮かんでくるのである。(略)」



ではまず、柄谷のカント読解から見てみよう。

上記に述べたように、カントは認識論、形而上学に「他者」を

導入した、そこにカントの最大の功績があると

柄谷は主張する。



まず彼は、カントの先験的観念論という哲学的立場を、

大陸合理主義とイギリス経験論の「間」に立つ思考として位置づける。



カント哲学が合理論(独断論)と経験論(懐疑論)を

統合する思考であるという理解は、一般的なものである。



しかし、柄谷によるカントの志向の独創は、両者を調停したり

折衷したりする思考ではなく、「認識を認識たらしめて」いる

根拠を考えようとしている点にある。



「物自体」という概念がこれを象徴するが、

なぜ「物自体」が認識を認識たらしめる根拠を指し示すのかというと、

そこに「他者」が含まれているからである、と彼はいう。



ここが柄谷のカント理解の限界であって、

『純粋理性批判』における「物自体」の位置と、

『判断力批判』における趣味判断の位置が相似形をなしており

趣味判断のあり方は必ず「他者を要請するものであるから、

という中途半端な論理になっている。



いや論理といっていいのかすらわからず、隙がありすぎ、

単なるカントの「物自体」の概念の誤読に過ぎないといえる。



具体的にいこう、カントの『判断力批判』では、「美」の普遍性

という重要なアポリアを提示した。



ここから、柄谷は、”認識を認識たらしめている根拠”は、

「他者」との関係という場面なしには、すなわち

絶対的な主観の場所からも絶対的な客観の場所からも、

かんがえることはできない、と主張する。



この見識は、現代思想ではヴィトゲンシュタイン他が

すでに先鋭的に提出したものであり、独創的なものではない。



現代哲学では、認識の絶対的主観主義も

逆に絶対的客観主義も、ほとんど生き残ってはいない。



普遍的な認識というものを想定するとして

「他者」こそがそれを可能にするという言い方では、

シンプルすぎ、現代認識論が到達した知見の引力圏を

超えて出ているわけではないと、先生は断言する。



以下、引用する。

「カントの「物自体」は、客観認識と主観主義の「間」に

立っている。彼もまた、いわばあらゆる「共同体」や

「国家」の立場の「間」に立つような視点をもっていた。



そのことが、認識と倫理の問題における同時代的自明性を

超えさせたし、そこにカントの独創があった。

これが柄谷のカント論の全体的コノテーションである。



つまり、カントの思想的立場は、反ヨーロッパ主義、

反主観主義、反共同体的なものとしても読めるし、

そう読むべきである、と柄谷は言っている。



だが、このようなアクセントは、いわば

ポストモダン思想の残滓であって、

思想の立場として強いものとは言えないし、

カント論としても強引さの印象を残す。



反ヨーロッパ中心主義、反主観性哲学、反共同体という

モチーフからカントを読み直すこと。



そのような論証として、カントの「認識論」や「倫理性」の

本質を取り出そうとすることは、むしろカントの思想の

本質性を言うには、十分説得的ではないのである(略)」



カントもそうであるし、ルソーやヘーゲルを批判するものは、

後をたたないが、これは事後的な批判であって、

彼らの生きた時代背景を無視している。



思想家もまた生きた時代に大きく影響を受け、

そこを超えようとするところに凄みがある。



ここまできた現代思想の中で、カントの思想に、

共同体の「間」や国家の「間」の役割を持たせようとするのは、

先生の言葉では、牽強付会、自分から言わせれば、

墓場からカントが起き上がって、おいおいええ加減にせーよ、と

つっこまないといけないぐらいである。



柄谷とカントでここまで書いたのは、

資本主義のアポリアについて、

本質的なやり方で挑まなければならないからである。