ユーロは、崩壊したといってもいいだろう。

ギリシアがー、とか、スペイン国債が7%-

そんな瑣末なことは、正直どうでもいい。



なぜ失敗したのかを、

哲学者らしく、一から考えてみたい。



彼らヨーロッパ人の幻想は、

おそらく古代ローマへの回帰である。



塩野七生さんの見解では、

キリスト教が、ローマを滅ぼしたと

たしか、結論付けたと思う。



古代ローマは、元々、敗者から学ぶことに

優れており、版図が広がっても、

常に、ケースバイケースだった。



異なる宗教、異なる文化、多種多様な民族に

自分たちのものを押し付けることはなかった。



だからこそ、長きに渡り、ローマは保った。

皇帝(第一人者)でさえも、ローマ人によらず、

属州出身の人物でも、なりえた。



大好きなヴェスパシアヌスもそうであり、

ローマンスピリットの持ち主だった。



キリスト教が侵食し、ローマンスピリットを

なくして、ローマは滅びてしまった。



だが、ローマの精神は生き続け、

ローマ時代のコアのようなものが、

ヨーロッパ人の奥底に流れている。



だからこそ、EUは諸国の合意をえて、

少しずつ、EU圏を整えていった。



しかし、その合意こそが、問題点だったのである。

ホッブスの指摘した「不信の構造」を、

拭い去るための努力をせず、ばら色の未来ばかり、

みていた、もしくは、みせていたのだった。



ここからは、竹田青嗣先生のお話から、

入ってゆく。


ヘーゲルは、近代国家の本質を

以下のように考えている。



「近代国家の本質は、普遍的なものが、

特殊性の十分な自由と諸個人の幸福とに

結びつけられていなければならないこと、



それゆえ家族と市民社会との利益が

国家へと総括されなければならないこと。



しかし目的の普遍性は、おのれの権利を

保持せずにはおれないところの

特殊性自身の知と意思のはたらきを

ぬきにしては漸進することができないこと、この点にある。」



竹田先生によれば、ヘーゲルは、

ルソーから出発した考えをさらに

推し進めようとしている。



ルソー的な規定のままでゆけば、

市民国家は、「自由=我欲」の放埓な体系としての

「市民社会」(すなわち資本主義的システム)が



生み出す矛盾を決して超えられない、

とヘーゲルもまた考えたからである。



近代国家の本質は、第一に各人の欲望と幸福を

確保するという点にあるが、



しかし、同時に、国家が、「欲望の自由な体系」としての

市民社会性を克服するするような



「人倫的原理」(普遍性)として構想されなければ、

その第一義さえ確保されえない。



これが、ヘーゲルの考えだと先生は述べた。

さらに、先生はこう語る。



しかし現在の時点からは、このような、

国家的人倫精神という原理で近代国家のアポリア

(アンチノミー)を克服しようとするヘーゲル的な構想が、

もはや不可能であることは明らかだ。



近代国家の本質的なアポリアは、

単に「欲望の自由な体系としての市民社会」が

富の配分の不公正を必然化するということに

あるからではないからだ。



もしそうなら、国家の内部で解決の可能性がまだある。

しかし根本的な矛盾は国家間の関係的本質の方から

現れているからである。



先生のお話はまだまだ続く。

次回も先生のお話を噛みしめることから

始めなければならない。



EUが完全に失敗だと感じているのは、

基本的に近代国家のアポリアを無視し、

思想からきちっと組み上げて、

基礎から作り上げなかったためだと思っているからだ。



やりながら考えるという試行錯誤をして、

紆余曲折しながら、EUが良くなっていくと

とてもじゃないが考えられない。



だが、この実験はアジアにおいて、

大きな参考になると思っている。

ゆえに、丁寧な思考を重ねたい。