今回は、中位・下位層について語るつもりだったが、

もう一度、中学受験について書く。



こちら、関西圏では、中学受験がどんどん

ヒートアップしており、中学受験の塾は、

とても利益を上げている。



情報の非対称性を有効に活用し、

かつ、親御さんの不安を煽り、

お金を騙して、毟り取っている。



これは、やはりどう考えても

おかしな状況だと断言できる。



優秀で、親に言われずとも、

お勉強することが出来る子は、

勝手にできる。



そして、自分の力で、なんなく

難関中学に合格してしまう。



しかし、大半はそうではない。

膨大な量の宿題に、青息吐息になり、

ほんのちょっとの点数の差に、

敏感になって、性格がとても悪くなる。



蹴落としあいや陰湿ないじめも

そこでは、見られる。



果たして、精神的に低年齢化が進行している、現在、

こんなカタチの教育システムは、

間尺にあっているのだろうか。



一握りの秀才くんたちには

とてもよいシステムかもしれない。

彼らには、独創性はないのだから。



歴史に名を残す天才たちにとっては、

このシステムは、どうだろうか。



例えば、希代の天才数学者ラマヌジャンが、

このような環境に置かれていれば、

間違いなく、埋もれてしまったことだろう。



科挙じみたお受験システムは、

型どおりの人々を選び出すのには、

最適なシステムかもしれない。



しかし、現在のように、自然科学や科学技術が

急速に進歩している時代には、

目標が目的の学校に入ることになっていると、

知の停滞が起きてしまう。



現に、権力の中枢にいる人々は、

そうやって潜り抜けてきた人たちなのに、

知の力をまったく感じさせない。



これは、ヨーロッパやアメリカも、

同じように見受けられる。



つまり、メリトクラティカルな社会ではなくなり、

階層の流動性が、ほとんど起きなくなっている。



だから、社会システムがうまく機能しなくなり、

共同体も危機に陥っている。



天才たちを育む土壌がなくなってしまった。

これが、中学受験の悲劇の一端である。



中学受験を乗り切って、さあー、大学へ、

医学部へ、とおバカになれないけれど、

ポテンシャルの高い子供は、

どうだろうか。



例えば、六甲中学・六甲高校という

ある程度、難しい学校がある。



そこの光景は、授業中、みな寝ているという、

びっくりする景色が見られる。



なぜ授業中寝ているのかとえいば、

勉強は、塾でー、ということになっていて、

がっこは、お休みの時間になっている。



そんな環境で、ガリガリやって、京大へー、

なんていう子もたくさんいる。



しかし、一方で、六甲は成績が悪いと、

容赦なく辞めさせるので、

下の成績の子供は、悲惨な運命を辿っている。



例えば、中学の時点で辞めさせられたり、

酷い時には、高校三年生、卒業前にして、

辞めさせられることもあった。



こうした子供たちは、心が折れていれば、

進学をせず、中卒になってしまう。



これは、あまりに酷いケースだが、

受験、受験、勉強、勉強、に耐え切れない

子供のほうが、圧倒的に多いのである。



こうした子供たちは、公立がしっかりしていれば、

もしくは、狭い視野にいなければ、

もしくは、学歴コンプレックスがなければ、

ほとんどが、順調に成長し、日本社会にとって、

有為の人材に育っていただろう。



そして、それが今も現在進行形で起きているのが、

悲劇を通り越している。



こちらで、有名な中学受験の塾は、

浜学園、希学園、日能研などで、

一旦、入ると、まるで新興宗教に

嵌ってしまったように、一色に染まってしまう。



卑賤な話しだが、月謝は相場がだいたい6万、

しかし、それでは済まない。

アー社会だー、理科だー、日曜特訓だー、といっては、

親に科目をとらざるをえないようにしている。



まだまだある、もう時期、夏期講習の季節だが、

これまた、塾の稼ぎ時なのである。

だいたい、20万前後が消えてゆく。



最終学年ともなれば、お受験のための

様々なお金のぶんどりを用意しており、

年間100万以上ふんだくられる。



ふんだくっている、教え手は

どういう人たちなのだろうか。



教えているヤツは、ほとんどが、中学受験者であり、

それも難関な学校の出身である。

(なのに、エリートコースにいない・・・)

つまり、壊れちゃった君が、鉢巻をして、

勝つぞーおー、とやっているわけである。



なんなんだこの状況はと、

常識のある人なら考え込まされるだろう。



私個人の考えでは、中学受験は禁止すべきであり、

高校からの激烈な競争は、認めてよいと思う。



天才を生み出す土壌を破壊し、

有為の人材を壊してしまうシステムなど、

ないほうがよいだろう。



これは、哲学的な視点からも、

大きな問題を内包しているといえる。



人間は平等な存在ではない。

歴史上、不平等がなかった時代などない。



マルクスの実験は失敗に終わったと

いってもよいが、彼は結果の平等に

こだわったのは素敵だ。



しかし、結果の平等は可能ではなかった。

人間世界の現実は、そう甘くはない。



だが、機会の平等なれば、

ごく当たり前の「原理」として、

受け入れられている。



それが一番の土台になっている場所が、

学校という世界なのである。



だからこそ、新課程にしたというだけでは、

まったくもって、不満足であり、

小手先でしかないと思っている。



次回こそ、中流以下の層について、

書いていくつもりである。