先回は、ルソーの思想の

強力な原理について、学んだ。



今回は、ルソーの批判から、

学んでいく。



ルソー批判の急先鋒は、なんといっても、

有名どころでは、バートランド・ラッセルだ。



かれは、こういう。



「ルソー以降、みずから社会改革者と目するひとびとは、

二つのグループ、すなわちルソーに追随する者と、

ロックに従う者とにわかれてきた。


(略)



現在では、ヒットラーはルソーの帰結であり、

ルーズベルトやチャーチルは、ロックの帰結である。」

(『西洋哲学史』市井三郎訳)



このようなルソー・ファシズム元凶論は、

彼以前から存在している。



無政府主義者のプルードンは、「社会契約論」を

政府の専制を擁護する欺瞞であると批判した。



フランスのテーヌも、「圧制の賛美」だと

評している。



つまり、ルソーの「一般意思」の概念は、

大きな誤解を生んできた。



「一般意思」の概念は国家意思を

絶対化するという誤解だった。



その誤解を生んだ箇所を見てみる、

一端にすぎないが。



「国家もしくは都市国家が法的人格に

 ほかならないもので、その構成員の結合に

 生命があるとすれば、(略)



国家はその各部分を全体に最も適応した方法で動かし、

配置するために、普遍的強制力を必要とする。



自然は各人に自分の四肢の全てに対して

絶対的権力を与えているが、



これと同じく、社会契約は政治体に全構成員に

対する絶対的権力を与える。



この権力こそ、一般意思に導かれるもので、

前述のように、主権と呼ばれるものである。」

(社会契約論256頁)



このような記述に対し、先生は、批判を

観念的な批判であり、原理的な思考として

理解してはいないという。



「社会契約」の概念は、社会の権威の根拠を

「原理」としてよびあてたものであり、

べつに、近代社会の公準というのではない。



どんな意匠をまとっていようと、

一切の社会の権威の源泉は

ただ成員全体の「合意」にのみある、

ということが「原理」である。



「一般意思」の概念が表現するのは、

この原理からの一帰結であって、



そうであるかぎり政治統治の「正当性」の根拠は

一つであって、社会成員全員の「自由な意思」を

普遍的に代表するものとしての「一般意思」だけである。



というように先生は、この種の批判に対し、

述べておられる。



もっと簡単に言い直すと、「社会契約論」では

「国家意思」が「一般意思」と一体視されていて、

これに絶対の権威が与えられているという批判。



それを象徴するルソーの言葉があって

「一般意思はつねに正しい」

これはつまり、政治権力=国家はつねに正しい、

という考えでははなはだよろしくない、と批判されてきた。



が、統治権力の正当性の源泉は

ただ「一般意思」を代表することにのみある、

というルソーの原理を取り入れず、

めっちゃくちゃな批判だということが理解できる。