現代日本社会が、抱えている病弊の一つに、

コミュニケーションの齟齬がある。



もっとも大切な社会の原基である家庭においてすら、

重度なコミュニケーションの問題がよく見られる。



なぜ、こういう問題が起きたか、また

社会問題の基底に見え隠れするか、

それを考えてみたいと思う。



長らく日本社会は、非言語コミュニケーションともいえる、

関係性の中で生きてきた。



それを可能にさせたのは、狭い居住空間と、

長時間の密接した関係による。



これは、例えれば、まだ話せぬ子と母親との

やりとりから、推測することが出来る。



言葉を用いる子供が、叫んだり、泣いたり、

小さくは、ちょっとした表情から、母親は、

わが子が、何を求めているか、瞬時に悟る。



そして即座に、それに対応できるのだが、

それには、長時間の密接した関係によってである。



現在、私たちの国は、世界でも稀なほど、

豊かになり、住様式を、日本的なカタチから、

西欧的なカタチへと変化させてきた。



それは欲望の表れであり、

至極、当然の流れである。



だが、住様式を変えてしまったことによる変化、

それに目を向けないと、様々な問題への

アプローチができない。



住様式を変えてしまったために、

長年、親しんできた非言語コミュニケーションが

成り立たなくなってきたのである。



非言語コミュニケーションにおいては、

「察する」という作業が欠かせないが、

これは、狭い居住空間と長時間の密接した関係が

必要不可欠である。



だが、そこを変えてしまったがゆえに、

欧米式の言語コミュニケーションが、

非常に強く求められている時代になったのである。



オトコは黙って・・・、背中で語る・・・などの

極めて日本的なカタチのコミュニケーションが、

不可能になっている。



不可能になった以上、言語的なコミュニケーションを

用いなければならないが、まだその点で、

我々は、欧米人と比して、訓練不足は否めない。



欧米の「個」という点も触れないといけないが、

長くなるので、割愛したい。



社会システムの不備が家庭にのしかかっている、

という山本理顕の言葉だけでは、

ここの問題は、光明を見出せない。



言語コミュニケーションという作業は、

我々、日本人にとって、非常に不得手なものである。



だから、夫は長時間労働からイエに帰り、

非常な徒労感を滲ませる。



ここで、妻や子供はかつては「察した」のだが、

今は、もうそれは無理なのである。



「察して」もらえない以上、言葉を駆使しないと

いけないのだが、それすら疲れきってできない。



こうした一行為にすら、コミュニケーションの

悲しい行き違いが、見え隠れする。



我々は、もうすでに言語コミュニケーションの

包囲網の中に、いや、深みに入ってしまっているのだ。



そのことを十二分に認識しないと、

これからのコミュニティのカタチは、見えてこない。



要は、覚悟の問題だと思われる。

言語を駆使しなければ、サバイブできないということの。



言語は常に過小であり、常に過多である。

ちょうどよいということは、滅多にない。



ということは、言語コミュニケーションの世界で、

心地よく生きるために、言語は過多である、

こっちのほうを選んだほうが良い。



語っても語っても語りつくせぬほどに、

語り合わねば、家庭という原基すら、

崩壊してしまう危険性の高い構造になってしまったのである。



全て、欧米方式に変えることはないにしろ、

我々は、上記のことを強く認識し、

言語コミュニケーションの世界の住人になってしまった、

この認識を腹の底に仕舞っておかねばならないようである。