人類は、他人といっしょに食べるという

習慣を非常に大切にしてきた。



古代ローマ人は寝そべりながら、

友人と語らいながら、食を楽しんでいた。

いくつか、例を挙げてみよう。



ルクルスは、豪勢な食事をしていると聞き、

友人たちは、前もって準備させぬよう、

今日、訪れてもいいかと問うた。



すると、ルクルスは即座に、オーケーの返事をし、

その友人たちといっしょに帰宅した。



そして使用人に今日の食事は、

なになにの間で、行うとだけ告げた。



友人たちと会食をし、語らいを楽しんだが、

友人たちは、出てくる豪勢な食事に目を丸くしたという。



タネを明かせば、なになにの間で食事をすると

告げれば、あらかじめ内容が決められていた。



だから、食事をする場所の指示さえ出せば、

使用人たちや奴隷たちは、何をだせばいいのか

分かっていたという。



他にもたくさんの古代ローマ人の食事の例があるが、

みな、友人と食事を共にすることを、

好んで行っている。



小カトーは、アフリカにおいて、

最後の晩餐をする際、やはり、

ローマ式の食事をし、友人と哲学などを

語り合っていた。



諸外国の歴史にもいっしょに食するという、

営みが多く、いやほぼ全てがそうであるように、

日本社会でも、ごくごく近年まで、

食をみなで行うことが、ごくごく日常であった。



その営みは、人間社会にとって非常に大切なものである。

なぜならば、ともに食べるということが、

他者への思いやりと相互の信頼の基礎を形作るからである。



それが現代社会において、相当程度、

崩れつつあるといえよう。



どこの国も同じであるが、大家族ー核家族、

という変遷をしてきた。



核家族ですら、ともに食べるということが、

せっかちな日本社会では、困難になった。



これは、労働の誘拐現象にも

関係があるだろうし、家族のメンバーの

生活する時間のズレも大きく関与している。



こうして、ともに食事をする習慣を失うことは、

他者への思いやりと相互の信頼の基礎を

根底から突き崩してしまう。



母親が懸命に作った食事を、

子供たちがともに食べる。



過去よりは、ずいぶん手間が簡単になったけれども、

作り手は、おいしい?甘すぎる?などと問いかけ、

食べる側は、それに即応した返事をして、

相互の交流が生まれる。



こうした原石を磨いてゆく作業が、

他者への信頼を生み、他者との信頼関係を

築いていく大切な基礎となる。



他者への共感や相互の信頼の基礎を形作る、

営みは、共食だけではないけれども、

非常に大切にしなければならない作業なのである。