キルケゴールがいったように、
我々は、日々、絶望し、その中から、
可能性を見出し、明日を迎える。
多忙になった現代人、いや、自ら多忙にしている人も
含めて、みな意味に渇いているのではないかと思う。
自分の生はとか、生とは何か、
などの答えられない、根源的な問いから、
日常の些細な問いにまで、意味に渇いていないだろうか。
地縁・血縁共同体に縛られた牧歌的な時代をこえ、
ケータイをいじる現代人は、意味に渇望しているが、
それに直面して、突き詰めて、考えてみようとはしない。
せいぜい、他人の噂が主人である愚婦程度の
ものであることが、多い。
意味を見出し、意味を見つめ、
その意味のために、生きる。
その意味は、追っかけても、
たぶん答えはない。
宗教に、身をゆだねるのなら別だが・・・。
またこの意味探しは、孤独に行わなければ
ならないものでもある。
他者との対話の中に、意味を見出した
気になったとすれば、
それは少々心に引っかかってたモノにすぎない。
考えなければ生きれぬ人間が、
無為に、無理に、時間を消費すれば、
それは、ヒトをやめることを意味する。
意味に渇けば、よく考える、
そして探す、見つからない、
それが、今の在りようなのかもしれない。