ボードリヤールは、こう指摘している。



「あらゆる種類の道徳的検問を退けておくことにしよう。

 ここで問題なのは「堕落」などではない。



最悪の性的「堕落」さえ、生命力と豊かさと解放の兆候と

なりうることをわれわれは知っているのだ。



だから性的堕落は革新的なものであり、

勝利を自覚した新興階級が歴史的に



最盛期に達したことを実現している

ーーイタリア・ルネッサンスの場合がそうだった。



このような意味では、性は祭りのしるしなのだ。



ところが、ある社会が衰退に向かう時には、

こうした性ではなく性の亡霊にすぎないものが

死のしるしとして姿を現す。



ある階級や社会の解体過程では、

その構成員が一人ひとりバラバラに

切り離される現象が生じ、



やがて性が個人的衝動や社会的雰囲気として

(他の要素よりも広汎に)蔓延し始めると

その階級や社会はもうおしまいである。



フランス革命前のアンシャン・レジームの末期も

そうだった。



過去から切り離され未来への想像力も

失ってしまったために危険なほど分裂の進んだ集団は、



ほとんど衝動だけの世界、利潤と性に関する

激しい欲求不満が渦巻く世界において

蘇るように思われる。」



これを読み、ハッとなってしまった。

なぜ、今頃、気づいたのだろう。

なんて愚かだったのだろうと大いに嘆いた。



昔、援助交際という言葉が頻繁に使われ、

小説家やちんけな社会学者が、懸命に

語っていたような気がする。



その頃、何も分かっていなかったのは、

年齢のせいであるが、のちに鷲田先生の本や、

そこで引用された村上某の文章で、分かったものだった。



あの頃、既に我々は、過去から切り離され、

未来への想像力も失ってしまったバラバラの

集団になってしまっていたのだ。



日本の共同体は、すでに分解していたのだ。



現在、われわれが手にしているのは、

血縁共同体だけである。



だが、各個として点在するのみになっている。