人はなぜ学ばなければならないかという

基底にある問いに関して、今回、書くわけではない。



しかし、その問いに関しても、幾分、

重要なことが含まれていると思う。



我々は、常に「学び」の中にある。

「学び」の中にない人は、今手持ちの

モノでやりくりしていくだけとなる。



「学び」それ自体は、内田樹が語るように、

その主体となり、巻き込まれなければ、

成立し得ない。



今、学んでいること、それは分からないのが、

当然なのである。



なぜなら、分かっている段階でその「学び」は

役割を終えてしまっているからである。



例えば、左ジャブの習得に、肩を入れて打つ、

ということがあるが、何度も何度も繰り返し、

意味が分からないまま、身につけなければならない。



理由は、後付けでなんとでもいうことが

可能だが、長い歴史を潜り抜けて、

その体系があるものは、すべて無条件で正しい。



それを信じて、丁寧にこつこつと

「学び」を行うこと、そして習得して、

初めてその大切さが、カラダの奥底で理解できる。



すべからく、「学び」というのはそういうように

出来上がっているものなのである。



そういうカタチをとる「学び」は、

なぜそんなことをするのか、という問いには、

あまりに無力である。



そうした問いを行うものは、

未だ見たことも聞いたこともなく、

理解するだけの能力もないからである。



かつて、日本は型の文化であったと

中野孝次?(だったっけ)は言っていた。



そして、なんとも無作法な国になったものだと

大いに嘆いていた。



彼が指摘するとおり、我々は師の教えを

無条件で嚥下してきた。



茶道、お花、格闘技にいたるまで、

すべからくそういう型を習得する文化だった。



それなのに、理由が必要になった。

それは、いたるところに蔓延している。



教え手として、なんとか対処しているが、

それは、結果あってのものかもしれない。



だが、型の習得、それを大切にしなければ、

「学び」の中の主体とはなりえないのである。