ウチでは、居残りのことを、

みな残業と呼ぶ。



この奇妙な言葉遣いは、

昔、バイトの子が、

「オマエラ、残業や~~」

とよく叫んでいたことに由来する。



おお、わかってへんやん~~、

とにっこり笑って、残業やな、とオレも

次第に使うようになった。



これが一般化してしまい、

子供たちまでが、残業という言葉を使ふ。



遅くなるから、電話をさせると、

「今日、残業~~」

と親に伝えている。



はてさて、これはどちらが

残業なのか、長年にわたって、

疑問となっている。



分かってないから、分からすために

残して教えるのだから、

オレが残業していると判断すればいいのか。



あ、一切、その料金はいただいていないので、

今の言葉にすると、サービス残業という

ことになるのかもしれない。



それとも、子供たちに、時間を延長して、

苦行をしいることになるから、

やっぱ子供たちが残業しているのかもしれない。



ほかにも、もんもんとしていた。



残業代、別の日に呼び出しての補習などは、

一切、料金をいただかないことにしている。



理由は2つある。



時間内に収めきれないのは、

プロとしてあかんという思いから、

やらなければならないことは、

時間外でも無料で行うべきだという考え。



もう一つは、親御さんの費用が膨大に

なってしまうことをさけるためである。



一つ目に関しては、いろいろと問題もあり、

どうしようもないから残すと、

こっちがめっちゃやってあげてるのに、

感謝の気持ちがないではないかと、

内面の葛藤があった。



でも、これも長くやっているため、

そういった人の機微が薄らいでいる現代だから

いたしかたないと諦念の心境に達した。



また、自分がやりたくてやっていること、

やらなければ自分が納得できないこと、

などを腹の底にしまうことで解消できた。



また、さまざまな親御さんと出会うことで、

精神的にも鍛えられ、思いやり、

そしてそれに伴う、想像力が欠如しているのだと

だいたいのところ理解できるようになった。



どんなに尽くしても、報われぬことがほとんどなのだと

いくつもの奇跡を演出しては、思い知らされてきた。



しかし、哲学的な思索が、そういうルサンチマンを

かき消してくれる。



真に自分の求めるエロスとは、

他者の喜びの中にあるのであって、

それ以外、別に必要としていないのである。



数多ある人の営みの中で、

他者からのエロスほど、濃密で

甘美なものはない。



それを追い求めているから、

やるべきことをきちんとやる、

この作業を、愛情を込めて、残業と

今では、呼んでいるのである。