現代に生きる日本人は、大きく変質しつつある。

それは、生と死についてである。



死は、死んだものが死を語ってくれないと

絶対に分かりえぬものであり(実証主義では)、

それを、宗教は物語によって、飛び越える。



その物語性を信じることが、死を超える

まず第一段階なのかも知れず、

そういった意味で、現代日本人の多くは、

そこをうまく飛び越えることができなくなって

きているのではないかと疑念を拭えない。



波平恵美子さんの「いのちの文化人類学」を

読むと、再生信仰を失った現代の日本人が

彷徨っている姿がよく見える。



彼女によれば、


「再生信仰とは、この世で生きた事実の絶対化の一つである。


 この世で生きた事実があったからこそ、

 次の世で生まれかわることができるのであり、


 再生を信じることができれば、この世で生きた証の

 有無について思い悩むことはないのである。」



またこうも述べている。


「『家』意識が消失したことは、平凡な一庶民までもが、


 『自分が生きた証』や『自分が生きてきたことの意味』

 

 を確実に保証される手段を失いつつある。」



そう現代に生きる我々は、その多くが

上記にある保証を失ってしまったのである。



宗教を信ずるものは、大丈夫だとしても、

現代の日本人のように、宗教意識が希薄であれば、

よりいっそう逼迫したものとなっている。



それが、家族の絆を断ってまで、

自分の生を懸命に消費・浪費しないと

いけないような老人たちの行動に納得がゆく。



老人たちは、残り時間が少ないことを重々承知している。



だから、砂漠で水を求めるように

エロスを懸命に求め、消費する。



もともと今の老人たちは戦中・戦後時代の

人々であって、アメリカ型の消費文化にあこがれ、

それに習い、懸命に、消費してきた。



消費それ自体が、この世代のエロスなのかもしれない。

もちろんすべての人がというわけではない。



実際に自分の親自体が、「家」の意識を

喪失して、生を懸命に消費・浪費しており、

波平さんの見解は、すんなりと自分の中で収まる。



すべてが銭の計算に基づき、

血縁関係・その他の人間関係、すべてが

きわめて功利的な計算からなる。



その緻密さは、聞いてびっくりさせられたが、

上記に述べたことと合致し、妙な納得を覚える。



だが自分のような関係性は珍しいようである。



なぜなら、基本的に共同体は、無料で、無償で、

ということが大きな前提に立つものだからである。



おそらく、そうでない関係性はこれから淘汰される。

狂奔して彼らは生を消費しつくしたのち、すべてを失う。



そういう関係性の中に生まれたものも、

おそらく同様の運命を辿る。



不幸とは思うが、こればかりは致し方ない。

子は親を選ぶことができないのだから。