http://www.asahi.com/national/update/0126/OSK200901260014.html



ここ数年、危惧してのは、携帯型のゲーム機の普及だった。



今や、子どもたちは、誰かの家に集合しては、

全員が持ち寄って、DSなどのゲームに興じている。



また、それは公園でもよく見かける光景となってしまった。



この脳内を汚染するゲームという娯楽が、

現実的に問題を引き起こしているのは、周知の事実である。



大画面を必要とするゲームならば、

まだ誰かの目があり、静止させることが、

可能な家庭も多くある。



しかし、DSのようなゲームの危険性は、

いつでもどこでも楽しめるという点にある。



このようなポータブルな形態のゲーム機は、

親やその他の注意してくれる外部から、

子供を隔絶し、子供とゲームという環境を

長時間にわたって、行うことができる。



例えば、親の目を盗んで、こそこそやれるし、

最悪は、寝床の中に入ってもやることができる。



それがどんどん進行すれば、

完全にゲーム依存症になる。



DSなどの携帯型のゲーム機は、

幼い脳を麻薬に汚染させる時間をどんどん長くさせる

危険性を孕んでおり、実際にそういう現象を見てきた。



この麻薬は、直接、視覚を通じて脳にダイブし、

行う時間が長ければ長いほど、

強力に子供の脳を汚染してゆく。



簡単に言うなら、ゲームをしない時間は、

非常に無気力な人間になるが、一方、

何かの拍子で非常に破壊的衝動に駆られるという

恐ろしい作用を子供にもたらす。



これは、既に実証済みのことであって、

学校という学びを軸に置く場所が、

それに触れさせるという矛盾は、大きなものである。



地味で、面倒な作業こそが、学びの本質であり、

「あ、そうか!」という体験は、それを潜り抜けてなしえる。



教え手は、それにエロスを感じるのであり、

直接それを手渡しにできるのが、現場である。



家庭環境から切り離し、地道な作業を通じて、

学びへと子供をいざなうこと、これが近代教育の理念である。



この理念に立ち返れば、DSを使用した形式を採用すれば、

ガッコウという場所は、学びの場としての記号を

完全に喪失してしまう。



こんな形式をとってしまうなら、

その空間は、学びの本質を放棄して、

子供たちの未来を奪っていくだけの場所になる。