「排除」=「潔癖」=「清潔」



この等式は、オトナ社会から

子どもたちの関係性にまで、手を伸ばし、

現在、ブレイキングポイントに差し掛かっていると言える。



いくつかの具体例から、迫ってみよう。



学級崩壊が叫ばれ始めてから、

ずいぶん時は、経過した。



学校現場は、一応、機能はしているが、

子どもたちを社会化する役割を果たすことは、

公教育の場では、かなり厳しい。



現在の戦況は、私語をやめさせるところから、

授業中のうたたねを経て、教室から逃走しているのが、

実態であるように思える。



もちろん大多数の子どもたちは、

きちんと授業を受け、おしゃべりもするが、

ちゃんと座ってはいる。



だが、まったく授業についていけない子ども、

そして完全に勉強を拒否している子どもたちの場合、

なんらかのきっかけで、教室からの逃走になる。



教師の側も、時間に追われて忙しくなければ、

こうした子どものケアーを行うことができるのだろうが、

今、起こっていることは、「逃走」という名の排除に近い。



教室やクラブ活動において、めんどくさいから、

意味がないからと、幼い知性で、整合させて、

逃走をはかる子供たちが後を絶たない。



そしてそうすることで、教室やクラブ活動は、

平穏さが保たれ、やりやすくなる。



しかし、これではいけないのではないか、

この状況を改善しないことには、

公教育は、その理念から外れてしまう。



一旦、逃走という「排除」を認めてしまえば、

彼らの世界は、大いに縮小して、

より彼らが収縮し、本来あるべき、

彼らの成長を止めることになってしまう。



やはりここでも鍵になるのは、

カエサルの「寛容」の精神であるように思う。


日本中で、いや世界中で、これほど求められている

時代もないかもしれない。


まだ救われるところは、教師の側に情熱の失われていない

すくなからずの人々が存在し、

また両輪たる家庭も、少なくとも日本において、

ほとんどの家庭が、ある程度のところで機能しており、

多くの人々がその了解を持っているところにある。