「排除」=「潔癖」=「清潔」



先回は、身体的な事柄を書いたので、

今回は、そこから波及してきたものについて考察しよう。



我々は、Tvメデアを主体とした視覚に

非常に偏った脳内活動を行いだして、ずいぶん経つ。



視覚に偏った思考部位のみが発達した人々は、

視覚的な「清潔さ」をとても好む。



これから波及して、人間関係においても、

非常に「清潔さ」を求める時代となった。


ここでいう「清潔さ」とは、他者から心理的な攻撃を

加えられることのない関係性を形容する。



「清潔な」関係においては、ある一定の距離感を

私たちにもたらすことになる。



なぜか、我々はみな基本的に棘を有しているからである。



それは、近づきすぎると発動するが、

ある一定の距離を保って入れば、

発動しない仕組みになっている。



それを本能的に察知して女性たちは、

上手に人間関係をやりくりしているが、

それも「清潔さ」が必要となっている。



人は、不完全な代物であるから、

みっともない部分をたくさん持っている。



近代社会が到来するまでは、人と人の距離感は

もっと近いものであったし、そういうインパーフェクトな存在だと、

ある種の共通の共有部分があった。



日本人は、先に近代社会が到来した欧米から見れば、

そうした部分で、知識人に認められてもいた。



しかし、ここにいたって、それが猛烈な勢いで、

人の不完全さを認めなくなってきたのである。



「不完全さ」=「清潔さ」という等式が、

成り立っているような気さえする。



家庭における不完全さも、母親としての不完全さも、

父親・男としての不完全さも、子どもの不完全さも、

すべて、ダーティな形態とうけとられているふしがある。



所詮は、不完全な人間の行う行為は、

すべてが不完全なのであって、

不完全であるからこそ、その相互補完性を、

近代社会以前は、充実させてきたのではないだろうか。



それを全てリセットしてしまって、

私たちは、自分の醜い部分、また、家庭内の醜い部分、

さらには、子どもの醜い部分さえも、

「清潔」にしようとする。



するがあまりにそれが「潔癖性」へと通じるバイパスとなる。

そしてその上をいって、「排除」となり、完結する。



この論理は、どんどん広がり、日本社会を侵食し、

地域の共同体、さらには、地縁血縁関係、

ひいては、家庭関係までも、崩壊させようとしている。



いや、既に崩壊してしまっているところも多いだろう。

社会的弱者であればあるほど、その確率は、跳ね上がる。



では、一体、どういう風に流れを変えればよいのか、

次回は、そこを中心として考えてみたい。