ここのところ、忙しいから手早く飯を済ませることと
経済情勢と中東の状況が緊迫していること、
その2点の理由により、よく喫茶店を利用する。
つまり株屋の新聞と飯を一度に味わえる、
これが喫茶店の醍醐味かなという気がする。
株屋の新聞とは、日経新聞のことで、
山本夏彦さんが、使っていて、とても気に入った。
だから、自分も株屋の新聞と勝手に呼んでいる。
株屋の新聞とは、実に見事なネーミングだ。
大本営発表に似通ったところアリ、
単なる後付けの説明アリ、国際的なテーマはズレおり、
ほんとに株屋の新聞たることを
紙面で堂々と証明している。
非常に浅見な記事を書くが、
たまに読むと面白い。
少し前、その株屋の新聞を読んでいたら、
最終面に、とっても興味深い記事を見つけた。
現代という不安定な時代になり、
ポストモダンとは一体なんだったのか、
そしてその再読を気鋭の学者たちが、
集って行なっているという。
これを読んで、う~んと唸り、としばらくの間、
といっても、2週間ぐらいになるのか、
頭の片隅から離れない。
この気鋭の学者とやらに、
竹田青嗣先生の名前は見られなかった。
それでカナリほっとした。
竹田先生や西先生は、そんな小手先のことで、
現代という時代を切り開くことを行なってはいない。
マルクス、ポストモダンなどは、近代哲学から
相対的に生まれてきたものであると、
自分は教えていただいた。
竹田先生が少し明かりが見えてきたと
「甦れ、哲学」の中で語っておられたが、
それを読んで自分も闇の中から引きずり出して、
もらった気がしていた。
そういうお話に魅了されていたときに、
ポストモダニストたちが、未だに蠢いているのを読んだ。
だから、ずいぶんおかしなことに思える。
時代を切り開くための思想は、ポストモダンからは
生まれてこないように思う。
例えるならば、出題された数学の問題において、
まったく異なる漸化式をたて、
それもすべての内容を含まないうえに、
やたらと難解で自分たちでは解けないようなそんな数式を
懸命に解いているように見えた。
ポストモダニズムにまだまだ引きずられている学者が、
多いと竹田先生と西先生は、上記の対談で語っておられたが、
実際に、そうなんだといたく実感してしまった。
さて、休みになったら、竹田先生と西先生の本を
たくさん抱えて、旅に出て、
じっくりと考えながら読むのが楽しみだ。