非常に曖昧な知識で、偏った司馬氏観をガキのころ、

形成してしまった身として、恥ずかしながら彼を振り返る。


なぜ、彼をふと思ったのだろう。


おそらく「暗殺」という究極の排除の

ディスクールを用いてしまったこと、

彼が3枚目の世界像を手に入れられなかった典型として、

ふと思ってしまったからだと思う。



彼は、優れた人物だったと唸らされる部分が、

ふんだんにあり、同時代人ならば、

さぞかし魅了されたと思わされる。



彼は、焦っていたからか、可能性の絶望をみたからか、

吉田東洋を暗殺するという手段にでてしまった。


おそらくこれが、彼の限界を示していたと思う。


極めて優れていた人物であることは、

疑いの余地がないけれども、

このような人でさえも、決定的な過ちから

逃れられなかった。


彼の活躍時期は、京都において尊皇攘夷運動を

推進しているときだった。


このとき、彼は目を覆いたくなるような手段、

つまり「暗殺」をどんどん使っている。


岡田以蔵、田中新兵衛などを使って、

究極の排除をしてしまった。



もっと徹底的に対立するものを排除したのは、

スッラであった。


彼は、民衆派に属すると見られるもののリストを作って、

徹底的に、排除した。

ただ、一滴、残してはいけない人を残してしまったが・・・


そうした徹底的なやり方が、スッラを畳の上で、

死なせることになったと塩野七生さんは書いているが

本当にそう思う。


武市が、もっと土佐において徹底的な弾圧をやれば、

公武合体派は、容堂を残すのみとなり、

実行部隊はいなくなったかもしれない。


実行可能であったかどうかはわからないし、
こんなifはしても仕方がないので、置いておく。


彼ほどの人物が、排除せざるを得ないのは、

様々に可能性を探って、その可能性の絶望を見たのだろう。


しかし、彼は時間というものを計算に入れていなかったといえる。

上士ではなくとも、彼ほど一目を置かれていた存在なら、

果実が実る時期をいくらでも待つことができただろう。


彼が、時間軸を計算に入れて行動できなかったのは、

おそらく、一番の理由になるのは、彼の若さによると思われる。


20代ではなく、40代・50代であったならば、

とりうる行動の選択肢は、大きく広がっていただろう。


自己ルールを調整していくことも出来ただろうし、

もっと大きな世界像を手に入れていたと思う。


彼は、ずいぶん若いときに既に教える側にまわっていたことも、

その成長性を疎外した一因だったのかもしれない。


古代ローマでは、30からがキャリアのスタートだったと

塩野さんは、述べておられる。


幕末期を駆け抜けた者たちは、ほとんど若かった。

そのエネルギーが、日本を変えたともいえるが、

まさに急変ともいうべきものだった。




若者は、いやオトナもそうなのだが、排除の仕組みを

形成してしまいがちである。


ある数の集団は、その中に必ず敵を作り出す。

その敵となったものを、内包できるか、

いや、排除してしまうのか、それが若者とオトナの

集団の相違であるように思われる。


また、排除のディスクールは、とかく急進的になりがちである。

異分子をその集団内においておく寛容性があれば、

それが未然に防ぐことができる。



武市が、まだ若すぎて、排除型の集団を形成し、

そしてその思想をより急進的にしてしまったのが、

吉田東洋の暗殺へと彼をいざなった主因ではないかと、

ふと思ってしまった。


また、武市は、3枚目の世界像を手に入れぬまま、

早熟してしまったように思われる。


排除と3枚目の世界像は、

おそらくは表裏一体なのかもしれない。