フランスの中世における絶対王政なるものを、

レッテルを張られていたそのままに、

たいへん誤解していた。



普通に考えれば、分かることなのに、

あまりに浅学で恥じ入ったので、

フランス史のページを開いてみたい。




そのページは、アンシャン・レジーム(旧体制)と呼ばれる

箇所になるのだろうか。


教会と皇帝を軸とする普遍的な世界秩序の後退は、

ドイツから始まった宗教改革運動で、

ヨーロッパ全体がかかわった大戦争になった。


フランスでは、ドイツより遅れて、始まった。

1510年代からであり、40年代には抑圧されながら、

全国に普及してゆく。


もともとユグノーを始めとするあらゆる社会階層を含んでいたが、

王族・貴族が加わりだすと、軍事的な色彩を帯びだす。


カトリック派は、イタリア戦争の英雄ギーズ公フランソワなどを

頭目として、異端撲滅に燃える。


プロテスタント派は、ブルボン王家のナヴァール王アントワーヌなどを

頭に据えて、少数だったため、保障を求める守勢の立場だった。



シャルル9世が、まだ幼少だったために、

摂政となった母のカトリーヌ・ドゥ・メディシスは、

融和路線をとって、バランスを保ちながら国政を維持しようとした。



でも、宗教的対立は、信心深さを示そうとするものほど、

先鋭的になり、非寛容になる。


だから対立は、1562年のシャンパーニュのヴァシーで

ギーズ公がプロテスタント信徒を虐殺したことから、

フランス革命につぐフランス史上の大内乱が始まる。



この内乱は、35年も続いた。


有名なのは、ちょうど10年後の「サンーバルテルミの虐殺」である。


カトリーヌの末娘マルグリートとナヴァール王アンリ(アントワーヌの息子)

の婚儀に集っていた多くのプロテスタント貴族を、

カトリーヌとギーズ公アンリが、大量虐殺した。


ギーズ公が扇動したため、パリ民兵組織も虐殺に加わって、

約3千名が殺害され、地方都市にも波及し、犠牲者は一万を越えた。


この後は、ごちゃごちゃするので、省略して、

ナヴァール王アンリ(ブルボン王朝第一代王アンリ4世)は、

長い時間をかけて、意表をついた行動で、内乱を終結させる。


終結を見たのは、98年四月の「ナントの王令」で、

これにて一応、宗教戦争に終止符が打たれる




今日は、これぐらいで。

あかん、いきたいところまで全然いってない。(>_<)

んでもって、テストにでる歴史じゃん、マッタク。