先回は、まとまりのない話に終始したので、

今回こそは、ちゃんといきたいと思っているけど・・・・。



プチ家出は、子どもを持つ父兄にとって、

大変心配させる出来事であって、

子どもたちはそれを狙ってやっているように思われる。


子どもは、だんだん成長するにつれて、世界が広がってくる。

それを閉じ込めてしまうのが、家庭なのだとしたら、

なんとも寂しい社会になったのだと感じる。


鷲田清一先生の著書「死なないでいる理由」の

まえがきを思い出すと、寂しい社会、寂しい家庭、寂しい私たち、

オトナも子どもも含めて、ありとあらゆる日本社会の土台が、

非常に寂しいと感じてしまう。


また、まえがきをまたぱくる。


『私がここにいる。物は物としてそこにある。

私の目の前に物があるということのほかに、

そこには関係もなにもない。

ありふれた光景だといえば、たしかにありふれている。


だが、ここで、関係がないというかたちで

わたしと物との関係があるということじたいに、

ある苦痛を感じるひとがいる。


ある物との関係はこれから始まるのであろうに、

なぜか先に、いずれ関係が起こるかもしれない物との

そういう関係のなさに、疼きを覚えてしまう人がいる。


物がわたしとは関係のないものとしてぽつんとそこにあるということ、

その事実に疼くというのは、わたしたちが、

母から引き剥がされたときの生存の原風景とでもいうべきものだった、

と言えるかもしれない。


その事実は、じぶんがそれをともに

見ていた母親から引き剥がされたこと、

わたしが取り残された存在なのだということを

想い起こさせるからである。


そういうダメージが喚びおこす感情と同質のものが、

いまひとびとの、なんでもない、ありふれた物たちに

囲まれた日常のなかに染みわたってきていると、ふと感じることがある。


母から引き剥がされたときとちがって、意味に渇いて。


ここにいること、生きつづけていることに、理由が必要になった。

すくなくともじぶんが納得できる理由が。


そしてそれが見つからないときには、ただ訳もなく生きているという

感情しか生きるということにたいして抱けない、

そういう寂しさがひとりひとりの存在に滲みだしているような。


だからだろう、だれかに、あるいは何かに微かな隙間さえもなく

密着しているのでないと、じぶんの存在がふと消えてしまうような

切迫した想いを、ひとの表情に、あるいはふるまいに感じることがある。


そしてそんなに「寂しい」のに、なぜ、

それでもなおひとは死なないできたのか?

そういう問いがわたしのなかで頭をもたげる。


この本で問題のせめてとば口にでも立ちたいと思ったのは、

わたしたちのそうした「寂しい」光景である。』




プチ家出に関して、少し考察したいと思ったのは、

鷲田先生のこの名文を思い出したからである。


プチ家出を実行する子どもには、かつてとは異なり、

もっと大きなモノがその内部に組み込まれているように思える。


だから、それに至る経緯は、その子の家庭の事情、

生い立ちにまで遡らなければいけない。


世界や日本社会のグローバリゼーションといった陳腐な言葉では

到底、言い尽くせぬような事態が生じていることは確かである。


多産の時代は、とうの昔に終わりを告げ、

2人、多くて3人ぐらいという時代に入ってしばらく経つ。


家庭内にある一定数の子どもがいれば、それだけで

家庭が閉じた空間ではないようにしてくれる。


また、大家族であれば、個人がその存在を他者に負うという

考えをすんなりと体験することが可能になる。


しかし、状況は一変してしまった。


家庭内で唯一開かれた存在である子どもは、

母なる存在が、強引に閉じた存在へといざなう。



そして母なる存在が一番の障害物になる状況が、

今、目の前で展開されている。


それはそれでかまわない、オイディプス・コンプレックスとは

異なって母を超えていかねばならないけれど。


友達親子は、いつまでも続かない。


例外的に継続していくケースは、

いつ、いつまでも家庭が、子どもに与え続けることが

出来うるケースのみである。


与え続けることが出来なくなれば、その世界は、

子どもにとって、息苦しい空間になる。



どんどん年齢を重ねても、精神年齢は幼児のまま、

こんな子ども(中高生?)が急増中である。


なぜ、プチ家出をするようになったのか、

オレから言わせれば、バリ簡単で愛情に飢えているからである。


オレがされたように、かわいい幼児期にはペット扱い、

大きくなって手に負えないようになってからは、

いらない、いらない、を連発する、おそらくは、

こんな状況をプチ家出をする子どもたちは、経験しているのだろう。


かわいい盛りにも、一緒に遊んだか、そうでないか、

躾というものを行なったか、そうでないか、

第二次成長をとげた辺りから、この違いは如実になる。


Tvを子守代わりにさせてはいなかっただろうか?

Tvゲームとちゃんと戦わなかっただろうか?


ありとあらゆる要素が、プチ家出の原因となっている気がする。



経済情勢と社会情勢が、一握りの人々を除いて、

子どもたちに時間を割り当てることを許してくれない。


また、価値観自体が揺れ動いている。

その中で生じる、寂しいプチ家出は、

やはり現代を象徴しているのだなぁと思わざるをえない。


どうか、犯罪などの事件に巻き込まれませんようにと

切に願うが、ほんま厳しいなぁと悲しい。


中高生など性の対象として見て、なにがそそられるのか分からない、

性というものは、満たし満たされることに

本当のエロスが存在するのだが、性急にそれを求めても

何一つ得られはせず、くだらぬ経験だけをするのみであるのに。