内田樹先生の「東京ファイティングキッズ」に

先生は、自分は波止場で見送る人なのだ、

なんていつのころか実感した、と書いておられた。


つくづくうまい表現だなと思う。


小・中・高といった教師もそうだろうし、

特に大学の教員の先生方はそういう感じがするだろう。


でも、塾屋も実際そういう感覚から離れることが

出来ないでいるし、また、そういう風に自分を

納得させておかないと、別離という人にとって、

たいへん哀しい出来事を自分の中で、

うまく処理できないのではないかと思う。


基本的に人と接するのが職業であるモノにとって、

別離は避けて通ることができない。


必ず、別離はやってくるのだから、

できるだけのことをやっておかないと、

記憶の中の泉が澱んでしまう。

自分が、沈潜してしまう。



どこからどこまでが、自分の仕事で、

どこから先が自分の心配する筋合いのものじゃないか、

これは子どもたちへの思い込みの度合いによって違うと思う。


どんな子でも肩入れして、わが子のように思い、

現状を憂い、その子の過去を嘆き、将来を案じて止まない。


こんな教え手は、どの立場にいても、

おそらくは波止場で、懸命に出て行く船に荷を、

なるべく多くの荷を積んでほしいと願い、

出来うる限りそれを成し遂げた後、

その船たちの旅路を心配してしまうのだと思う。


もし、疲れて寄港したならば、なんとか癒して、

また、次の航海へと旅立ってもらうために、

出来ることは全部してやる。


こんな気持ちをもつのが、波止場で見送る人なのだと思う。


波止場で見送る人は、自分を持ってはいない。

自分を見捨ててもいない。

いつも新しいことを模索している。


なのに、自分のための自分だけの快楽を

本質的なところで自分に禁じている、

こんな人が波止場で見送る人なのだと思う。


自分はどうかといえば、まだまだそんな人には

なりきれていないで、情けない限りだけれど。



しかし、波止場で年中見送っていれば、

寂しい背中にもなるのも止むを得まい。