排除のディスクール(言説)は、アメリカさん?からやってきて、

今、日本中を覆うようになってしまった。



社会の雛形である子ども社会にも、

この論理はすみずみまで行き届いている。


知識人たちやTvがやたらに、「共生」と叫ぶということは、

過酷な現実社会が、排除の論理で動いてしまって、

渡世がせちがなくなっているということのように思われる。


このせちがなさは、子どもたちの社会も感じているようである。

その息苦しさは、想像もつかないほど、

喉の奥までせりあがってきている気がしないでもない。


賢しらげに、動物化などと一括りにしてしまっては、

大切な何かを見落としてしまうのかもしれない。


この種の息苦しさは、この数年で格段に増し、

おそらくは、他の世代には共有できないものかもしれない。


この国の経済成長とその衰退?に符合させる形で、

各世代は、その皮膚感覚を異にしている。



だから現代の子どもたちは、その空気をもっとも敏感に

皮膚で、臭いで察知しているように思える。


ここ数年、子どもたちは臭いをとても気にするようになった。

それは母親から来ているのかもしれないが、

一番は友達関係の中で、すごく臭いを気にしている。


これは小学生にまで広がり、

女子どころか、男子まで、口臭、体臭、足の臭いなどを

とても気にして、いや、他者への攻撃対象としているのを

しばしば見受けてしまう。


女子はある程度、仕方がない。

元々、排除型のエロスを持つものだから。


しかし、男子までが、あいつ臭い、とよく攻撃しているのを

耳にするとなんか違和感がする。


どうやら排除のディスクールが、そこかしこに働いていて、

普通ではないものは、攻撃対象もしくは、排除の対象になるようだ。


外形、臭いといったすぐに分かるものではなくても、

普通ではないと多数が識別したなら、排除の対象になる。



いやいやおとろしい世の中である。

普通でない自分は、それが売りだったのに・・・。



変わっているのを、まぁまぁ、とする土壌が痩せてしまっている。

いや子ども社会には、同調傾向が常にあるが、

その周縁にその土壌がなくなりつつあるのではないかと危惧している。


経済情勢は、予断を許さない方向に進み、

政治状況もそうである。


大きな物語を作り出す大学も、

経済情勢に押される格好でグラグラしている。

というかえらいことになっている。




その根っこになるところ、家庭を中心とした周縁世界の

寛容の土壌が急激にやせ細ってしまった。


ここにも、自己否定の契機を含まない排除のディスクールが

猛威を振るっていると思う。


こいつに見舞われると、一宿一飯の恩義とかお世話になったとか

そんな気持ちを持つことは許されない。



母親を中心とした子どもたちの周縁も、

常に排除型のディスクールを用いる。


アレはダメ、コレもダメで、ソレもダメ。

どんどん排除して、リセットしてゆく。


そこに自己否定の契機となるものをまったく含まず、

複雑な思考からきていないシンプルさで、排除する。



子どもの周縁から、排除のディスクールが染み出して、

子ども社会にいきわたっている。



児童養護施設からウチに来ている子どもは、

思春期だからなのか、周囲の全てを排除する。


見ていて清々しいほど、周囲を罵倒してはばからない。

まるでそれによって自分が担保されるかのようである。


特異な環境で育ったからなのか、

それとも遺伝的にプログラムされているのか、

周囲との関係を大切にしないと自分の居場所が

失われてしまう危機感を持たないでいられる。


排除のディスクールを使用すれば、

一番先に排除されてしまう可能性の高い彼女が

この言説を声高に用いるのである。


これをまぁまぁと受け入れることができるほど

子どもの社会はまろやかではない。

むしろ動物的な荒々しい社会である。


それなのに、なぜ彼女のディスクールは成立するのかといえば、

自分を横においておき、他者をヒステリックに非難することで

彼女は今までなんとか精神的にサバイブできてこれたのだろう。



これと同様な現象が一般家庭においても頻発し、

排除のディスクールを好んで用いるようになった。

自らを横においておくことは同様に行なう。

(ジャニーズの品定めをするときととても似通っている。)


そうすることで、自分たちの立場を相対的にではあるが、

精神的に優位に立たせることができるかのようである。


だからどんどん弱いものは排除される。

排除されたもの同士で、また、集団を作り、

そしてまた排除の行動をとり始める。



弱者の悲鳴を受け止めるほど、

私たちの社会はゆとりをもたなくなった。


ゆとりが必要なのは、子どもよりも

その周縁世界のような気がする。



教え手側は、子どもやその周縁世界を、排除のディスクールで

鳥瞰してすでに諦めの境地に達してしまっている。


この排除のディスクールを用いれば、

子どもの周縁世界を見て、その子を視界から

はずせばいいだけなのでたいへん楽である。


つまり、教育現場のあちこちでかなり前から、

排除のディスクールによって、

学びに参加できる可能性のあるものを

どんどん削いできたことになる。


公教育でもそうなのだから、

市場では激しいこときわまりない。


だから、より一層の階層の固定化が

進行しているのではないかと感じてしまう。


この時代では、不思議なことに下位階層になればなるほど、

また危機的なときほど、このディスクールは、よく働く。

弱者ほど助け合いのネットワークが不可欠なのに。




はて、非寛容な社会の中で、どのようにして

寛容な雛型をこねていけばいいのか分からない。

歴史的にここまで、排除のディスクールを使用した時代は

日本社会の中にあったのだろうか、

おそらくこれは始めての経験かもしれない。


これが近代社会の通る道なのだろうか、

そして通り抜けた先には、寛容な社会が待っているのだろうか。


排除のディスクールというものが、

いかに不毛なもので、私たちのかつての社会が

どのようにして乗り越えてきたのかから、

語ることで共通了解を深めていくしかないのだろうか。