そういえばそうだ、先生がおっしゃるように、
私たちの悩みのほとんどは、「人間関係」からくる。
先生は、こういう。
『(前略)
私たちの生の意味は人間関係のエロスから
生じてくるので、ほかに出どころがない。
そして人間関係とは、希望と苦悩、喜びと悲しみの
あざなわれた縄であって、そこから
苦悩だけを抜き取ることはできないのです。 (後略) 』
ほんとにその通りで、表裏一体で、ワンセットだ。
苦悩だけを抜き取ることも出来ないが、
希望だけを抜き取ることもかなわない。
なるべくなら、苦悩を少なくして、
希望の量を増やしたいものだが、
苦悩の量が少なけりゃ、
喜びの量も比例して、減じてしまう。
さてと、本題の「人間関係」にいきますか。
「人間関係」とは、自己価値をめぐる相互的な承認ゲームだという。
学校においても、会社においても、そうなのだが、
さまざまにルールの束があり、
またそのゲームの大きな目標がある。
それらのルールにのっとって、各人は諸目標を
めがけて行動する。
この成果によって評価され、
この評価に応じて社会的な報酬を得るという。
だから、はじめの答えは、
人間関係とは、まず、こうした社会承認ゲームなのだという。
つぎに、この社会的承認ゲームの中で、
「他者」と出会う、という側面がある。
ここで、私たちはそれぞれの「自己ルール」をもつ
他者に向き合い、それぞれが「自己ルール」を交換しあう。
さて、先生の言葉でぱくる。
『(前略)
つまり、具体的な人間関係は、各自が一定の立場でもって
競いあう「承認ゲーム」それ自身ではなく、
この承認ゲームを通して私たちが
個性をもった人間として関係しあい、
了解しあう、相互的な「了解」ゲームなのです。 (後略) 』
なるほど、確かに言われてみれば、
仰るとおりでございまする。
しかし、現代は少々揺れた時代であるので、
あまり他者を認めないほうへと、
社会が進んでいる気がする。
子どもたちは、社会の影響をあまり受けていないときは、
ケッコウ認め合うのだが、
自我が拡大し始め、ヘンに自分に自信がなくなってくると、
自分だけを、認めて、認めて、と叫んでいるような気がする。
さも自信ありげにふるまったり、
必要以上に、ほめられることを要求してくる時期は、
かなり自信を失っている。
こどもたちは、「自己ルール」が曖昧であるために、
他者に依拠する部分が大きいためだろう。
でも、彼らは認められるためには、
実のところ、自分が他者を認めないといけない
という重大な事実に気づいていない。
当たり前といえば、当たり前なのだが、
自分が他者を認めずして、
他者が自分を認めてくれるわけがない。
(明らか、物理的なもの、例えば「金」などがあれば、別だが)
こうした自己の中での他者をへの許容を、
確信的に実行できているかということも、
この了解ゲームの重要なポイントではないかと思う。
私たちは、互いに内的な「自己ルール」をぶつけ合い、
交換しあい、試しあい、鍛えあっている。
これで、うまく「自己ルール」を調整しながら、
絶えず「自己」のありようを変容させていくと、
人は、生の意欲と欲望を充実させていくことができるのだという。
さて、最後に先生の言葉をぱくって、おしまい。
『(前略)
しかし、人間社会の承認ゲームは
単なるルールゲームとは違います。
人生が単なるルールゲームなら、
人生の意味は単純で、
このゲームの勝ち負けはそのまま重なります。
しかし人間の生の内実は、具体的な人間同士の
了解ゲームの中にあります。
社会的な承認ゲームは、
もともとこれを支えるためのものなのです。 (後略) 』
う~ん、もともと支えるためのものが、
現状は、生の内実に食い込んできている。
そのための犠牲者は、天文学的だ。
でも、いまのところ、コレだという妙手はなくて、
あーだこーだと、うろちょろ、うろちょろしている。
やっぱ、強烈な哲学者さまが登場してきて、
強大な膂力で、ガサッといってくれないといけないのかな。
それとも、こつこつ近代社会の成熟に向けて、
それぞれが、それぞれに努力を積み重ねないといけないのかな。
とりあえず、わかんね。(゙ `-´)/