また、先生のテキストをぱくっていきますか。



『(前略)


問題は家族が今後も、わたしたちにとって

もっとも濃密な〈親密さ〉の場所でありつづけていくか

ということだろう。


ひとは家族を求めてきたというより、

親密さを求めて家族という共存の形態を

編みだしたのだから、


男性/女性の性役割分担にもとづく核家族という理念が

逆に親密性を息苦しいものへと閉塞させはじめたなら、


あるいは育児を一方的に委託されることで

〈親密さ〉が女性の恒常的なストレスへと

転化しはじめているなら、


たとえば共同家族などといった

よりゆるい生活形態を考えることも必要だろう。


家族は、性関係をつうじて自然に深く根を下ろすとともに、

〈父〉という観念を媒介として仮構される社会秩序の原基でもある。

その意味で、自然と文化の蝶番(ちょうつがい)

のようなものであるから、

その変容は社会の構造にじかに響く。

                        (後略) 」




自分も日頃感じているものが、ここにある。

家庭が、親密さを失っていたり、

もしくは、失いかけていたり、

親密さそのものを前提としていない場合、

子供にその影響は、直撃する。


家庭が、先生が指摘されたように(ちょうつがい)としての

機能を果たしえない、あるいは、

(ちょうつがい)の役割を超えてしまって、

コアに閉じすぎている空間でありすぎるケース、

などの場面を数多く、私は目撃してきた。


距離感が近すぎるために、ユニットとしては、

もはや、限界なのである。


なぜならば、互いに目が行き届きすぎるからなのである。

目が行き届きすぎるならば、各個人の短所があらわになり、

互いに非難しあうことが当然の帰結となる。


個人が、心理的防御を行う上で、ある程度の距離が

必要なように、家族というユニットにもその距離が

必要とされるのではないか。


親密さを前提としてのユニットが、家族というものなら、

距離を形成するために、ある程度のサイズが、必要になる。


また、グローバル化や情報化といった波にさらされ、

その距離がもっと長いものを個人は、望むようになっている。


ある程度のサイズを持ち、かつ、距離感のある、

家族という形態を作りえるのか。

それは、かなり困難なことだといえる。


これには、世の中の経済情勢や個人の労働環境、

などさまざまな変数を入れ込まないといけないし、

忘れていた変数、新たに必要となる変数をはめ込んだり、

といった作業が欠かせない。


仮構されている社会秩序の原基であるからこそ、

現実世界の多変数をじかに受け止めて、

そのダメージをもろに受けているのが、

今の〈家庭〉の状況だと思われる。


では、どうすればいいのだろうか。

社会の構造として組み込まれている、

この〈家族〉というかけがえのない単位を

どういう形にすればいいのだろうか。


現時点では、とりあえず『構え』の姿勢をとることが

一番、賢明だと思われる。

なんとか暴風雨のなかをやり過ごしていくことが

とりうる最善の策ではないだろうか。


ひらたく言えば、家族をかけがえにないものだと

再認識すること、親戚を大切にしていくこと、

先祖を思いやること、近隣の方々と思いやりのある

交流をしていくこと、など当たり前のことを

地道にやっていく以外にないというのが、

現場から見える実感である。



恥ずかしながら、オマエはどうかと問われれば、

ものすごく自信がない。

全然、ダメだなのである。 ヽ(゜▽、゜)ノ



ぱくった本は、

「悲鳴を上げる身体」

(鷲田清一・PHP新書)