また、先生のお話をテキストに使いながら、いきますか。

(ほんとに、先生すいません。m(_ _ )m )



『  じぶんが無条件に肯定されるという経験


さて家庭では、ひとは、〈信頼〉のさらに基礎となるものを学ぶ。

というより、からだで深く憶える。

〈親密さ〉という感情である。


家庭という場所、そこでひとはいわば無条件で

他人の世話を享ける。


言うことを聞いたからとか、おりこうさんにしたから

とかいった理由や条件なしに、

自分がただここにいるという、

ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験が

たいていのひとにはある。


こぼしたミルクを拭ってもらい、

便で汚れた肛門をふいてもらい、

顎や脇の下、指や脚のあいだを

丹念に洗ってもらった経験・・・・・。


そういう「存在の世話」を、いかなる条件や留保もつけずに

してもらった経験が、将来自分がどれほど他人を

憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところで

ひとへの〈信頼〉を失わせないでいさせてくれる。


そういう人生への肯定感情がなければ、

ひとは苦しみが堆積するなかで、

最終的に、死なないでいる理由をもちえないだろう

と思われる。


あるいは、生きることのプライドを、

追いつめられたぎりぎりのところでももてるかどうかは、

じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、

わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ

世話されたことがあるかどうかにかかっていると

言い換えてもいい。


その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして

死んでも耐えられる。


こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか

生きられない。あるいは、じぶんが親や他人にとって

邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。


つまりじぶんを、存在する価値のあるものとして

認めることが最後のところでできないのである。


逆にこういう経験があれば、他人もまたじぶんと同じ

「一」として存在すべきものとして尊敬できる。


かわいがられる経験。まさぐられ、あそばれ、いたわれる経験。

人間の尊厳とは最終的にそういう経験を幼いときに

もてたかどうかにかかっているとは言えないだろうか。

                          (後略) 』




この名文は、私のなんとか沈静化している痛みと

向かい合わせることになった。


実は、私はじぶんをどうしても存在する価値があるものと

認めることができないのである。


生まれてこのかたずーっとそうだったし、

これは終生ついてまわることになると覚悟している。


これは一体なぜなのか、を昔に考察したことがある。

精神医学の本を読み漁ったことがある。



その際、気づくところがあった。

それと現時点での自分の考えをあわせてみよう。


母は自営業を営んでおり、生まれてすぐの私に

あまりかまうことができなかったらしい。


手のかからない子だったと言われている、

それがいいのかどうか分からないが・・・。


当然、ミルクを与えたり、排泄の世話などの必要な行為は

とっていてくれただろうが、基本的には、ほったらかしで、

「冷たくなって寝ていた」と母は語る。


結果、私は一年半を経過しても、立つことができず、

父方の実家に預けられた。


数ヶ月して迎えにいくと、走り回っていたらしい。

目を疑ったと母は述べている。


田舎に預けられることになったのは、

父の母、つまり祖母がこんな狭い家では、

いつまでも歩くことができないと言ってくれたからだった。

果たして、そうなのだろうか。




少し立ち止まって考えてみよう。


ひとは、カナリ不完全な状態で生まれてくる。

これは馬や羊などとは、大きく違う。


だから、ありとあらゆることを、ひとは誕生後しばらくの間、

他者に依存することになる。


しかし、ひとは食や排泄などといった世話をしてもらうが、

おそらくそれだけでは、ひとりで立ちあがることも

できないのではないだろうか。


かわいがられる経験。まさぐられ、あそばれ、いたわれる経験。

と先生が述べられたことに加えると、

いとおしい、と常時、言葉を投げかけてもらうこと、

いつも、すごいね、と元気付けてもらうこと、

各段階での無条件の情愛のこもった言葉がなければ、

実は、私たちは立ち上がるという行為を行えないのかもしれない。



立ち、そして、あるく、ということはかなり困難な動作なのである。

やっと、二足歩行のロボットが誕生したが、

二足歩行は極めて難しく、研究者たちは相当苦労していた。



だから、ひとも、立ち、そして、あるく、という

ごく基本的な所作さえ、実は、相当程度困難なのだと思わされる。



私の場合は、おそらく母からの言葉が少なくて

できなかったのではないかと思う。


祖母からの情愛のこもった言葉の数々が、立ち、そして、歩く、

という動作を可能にしてくれたのではないだろうか。



しかし、ペットとしての私は、とても可愛かったようで

その姿を見るや、すぐさま連れ帰ることになった。


そして、以前の厳しい日常に帰っていくことになった、

無条件に肯定されるということがない日常に。



今一度、この言葉を振り返ってみよう。


「こういう経験がないと、一生どこか欠乏感をもってしか

生きられない。あるいは、じぶんが親や他人にとって

邪魔な存在ではないのかという疑いをいつも払拭できない。」



精神医学では、幼児期の体験がこういう状態を

作り出すということが、いろいろな研究者により、

指摘されている。


これは、私に当てはめるために紡ぎだされたのではないか、

というぐらい自分という人間の本質を突いた言葉である。



「あるいは、生きることのプライドを、

追いつめられたぎりぎりのところでももてるかどうかは、

じぶんが無条件に肯定された経験をもっているかどうか、

わたしがわたしであるというだけでぜんぶ認められ

世話されたことがあるかどうかにかかっていると

言い換えてもいい。」


と先生はおっしゃったが、

私には、その経験がないのである。

幼児期にも、思春期にも、病を幾度えても・・・・・。

記憶にないだけかもしれないが。



かといって、別段、親に恨みつらみはない。


映画、「フランケンシュタイン」のサブタイトルよろしく、

愛もなく、なぜ作った・・・というわけではない。


なんとか自分で、サバイブしてこれたので、

現在の自分は、これはこれでケッコウ好きなのである。


こういう状況を、いかにしてのりこえるのか、

ということは私だけでなく、ひと全体の問題であるから、

よく考えてみたいというだけなのである。






ぱくった本は、

「悲鳴を上げる身体」

(鷲田清一・PHP新書)