今回は、自分の体験と鷲田清一先生のお話を

絡めながら、思考してみよう。


まずは、先生のお話をぱくりませう、

「悲鳴を上げる身体」の第三章の後半部分を。


『(前略)


生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、

じぶんが生きるにあたいする者であることを

じぶんに納得させるのは、思いの外むずかしい。


そのとき、死への恐れは働いても、

生きるべきだという倫理は働かない。


生きるということが楽しいものであることの経験、

そういう人生の肯定が底にないと、

死なないでいることをじぶんでは肯定できないものだ。



(中略)

(永井均の著作から、子供の教育で一番大事なのは

 自己の生が根源的に肯定されるべきものであることを

 教えてやるか、あるいは、家庭でできなければ、

 学校で、その存在理由を与えないといけないということを

 おっしゃっておられます。)



近代社会では、ひとは他人との関係の結び方を、

まずは家庭と学校という二つの場所で学ぶ。

養育・教育というのは、共同生活のルールを教えることである。


が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、

むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを

理解させることであろう。


社会において規則がなりたつのは、

相手も同じ規則に従うだろうという

相互の期待や信頼がなりたっているときである。


他人へのそういう根源的な〈信頼〉がどこかで

成立していないと社会は観念だけの不安定なものになる。

                           (後略) 」



確かにその通りで、生きている理由や自分の存在が

生きるに値するものかどうか、自分自身で見つけていくのは

なかなか出来ないものである。


しかし、この話は次回に引用する先生のお話をしてから、

自分の体験と絡めてみよう。




今回、考えたいのはルールが成り立つための前提である。

実は、今ここが崩れつつあるのではないかと危惧している。


あくまでも、現場サイドでの想いだが。


子供たちの間での作り上げていく信頼関係のようなものの

成り立つための大前提となるものが、

実のところ、存在していない、もしくは、相当程度薄まっている

という事態が厳然としてあるならば、

相互な形での意思の疎通など不可能だからである。


子供の世界は、私たち大人の世界の鏡であって、

私たちの側が、その土台を崩してしまっていては、

彼らも、必然的にその影響を受ける。


例えば、こんな話がある。

子供の一人が、「白い巨塔」ごっこをしていると

語ったことがあった。


(白い巨塔とは、確か医者の世界の話だったと思う。

 見てないし、読んでもいないのでよく知らない。)


TVで流される大人の世界は、確実に子供の世界に

浸透する。


果たして大人の世界が、他者もそうしてくれるだろうという

相互の期待や信頼のある世界に、現状なっているかと

問われれば、大丈夫と答えることのできる人は少ないだろう。



他者への根源的な信頼が、損なわれている中で、

今、ひとりひとりがその風にさらされているようなのである。


伝統的共同体がくずれ、カイシャが担っていてくれた

個人の尊厳も崩れていった。


それで子供の世界はどうかといえば、

影響を受けることは、当たり前といえば当たり前である。



オトナの世界は、観念的世界に移行しつつある。

さすれば、子供の世界も観念的世界に棲むようになる。


しかも昔とは異なり、メディアというものに被爆されるために

視覚的観念世界の中で生きているもので、

ほぼ全てのメンバーが構成されていることになる。



社会が、劇的に変化しようとしている有り様を

私たちは今、見ている最中である。


何もできることはないために、

手をこまねいて・・・・・・・。




次は、家庭を勉強させていただこう。



ぱくった本は、

「悲鳴を上げる身体」

(鷲田清一・PHP新書)