また佐藤卓乙の「メディア社会」から、いきます。


『(前略)

ダニエル・ラーナー「コミュニケーション体系と社会体系」(1957年)

によれば、全人口の10%以上が都市に住むようになると、

読み書き能力の上昇が始まる。


そしてラーナーは都市住民が25%、識字率が61%を超えた

社会を「近代的」社会と呼び、そのコミュニケーション体系は

「口頭的」段階から「メディア的」段階へ移行すると考えた。


こうしたメディア・コミュニケーションによって、情報の大量生産と

大量消費が繰り広げられることになる。


だが、情報量は私たちの生理的な処理能力を超えて増大するため

一つ一つの情報を落ち着いて考えることは不可能となる。


多すぎる選択肢が選択行為そのものを困難にするように、

コミュニケーションの過剰はコミュニケーションそのものを

空洞化させる。      (後略) 」



この後、筆者は17Cのアメリカ人と現在のアメリカ人の

比較をしている。


17Cのアメリカ人が、日曜のたびに教会へ行き、

生涯に約3000の説教を聴いた。


現在の平均的アメリカ人は、生涯にテレビCMを含む、

説得コミュニケーションを700万回以上浴びている。


17Cに比べ2000倍以上のメッセージの洪水の中では

一つ一つの言葉をまじめに受け止めるゆとりはないと

著者は述べる。


そして、さらにこう続ける。


「日曜日の説教で聴いた生と死の意味を気にかけるに

十分な余裕を清教徒たちは持っていた。


だが、今日の私たちは死を忘却することで宗教から

解放されている。


忘れることは、情報処理上、最も手っ取り早い

問題解決の方法である。



コミュニケーションの過剰は、意味を貧しくし、

大切なことを忘却させるのである。  (後略) 」



本当に恐ろしい時代であると思う。


TVをほとんど見ず、新聞もめったに読まず、

一次情報は、基本的にネットのみ、

他に、月間の文芸春秋だけにしている自分には、
さして被害はない。


学生時代にショーペンハウエルの「読書について」だっけ、

あれを読んだことで、なるべくこの悪い頭で牛のように

現実世界で気になったり、読書をして得た知識や思考法を

何度もひっくり返したり、よく眺めたりして反芻するようになった。


そうした態度でいろんなことに立ち向かうことが、

今の自分のスタイルで、良くもあり悪しくもある。


これは、独りよがりになりやすいという欠点を持つ。

自己の中で問題を解決してしまい、

他者に頼らないという形質を必然的に備えてしまうからだ。


独りよがりにならないためにどうするのか。

自分に言い訳をしないことと自分を許してあげること、

この両者をどう並存させていくのか。


この解決方法は、結局、双方向なコミュニケーッションの

中に内包されているものから取り出していくしかない。

書物の中の知恵だけでは、足りない部分が多い。



こうした愚かな自分がメディアを少し反芻する。


マス(大量の)、メディア(情報媒体)に被爆してしまうことは、

ある種の意識誘導に恒常的にさらされてしまっている

ということを意味する。


例えば、教師の不祥事は頻繁に一次情報として流されており、

少し前には、自分と同業の塾講師が、教え子を殺害するという

痛ましい事件が起きた。


その情報がひとしきり流され、ある特定の側面をメディア情報に

依拠せざるをえない家庭に垂れ流された。


しかも、相当にバイアスがかかり、教育という本質を論じることなく、

なぜ塾屋に各家庭が依存しないではいられないかなどの

具体的なことは二の次になってしまった。




自分も若干は、被害を受けた。

自分の内面にだが・・・・。


ざっくりと述べると、ある小学生が怖いというようなことを話し、

オレ?にそういう恐れがあるのか?と疑われること自体に

畏怖したのだった。



その子には姉がいて、中一のときに少々問題が起こって、

自分は彼女には見えない形で、介在し、母親と幾度も

電話によるやり取りを繰り返し、四六時中そのことについて悩み、

具体的な解決策を探していた。


オレとしては、表立って動くわけには行かなかったので、

基本的にはアドバイスをしていく以外には選択肢は無かった。


しかし母親が、自分の意見によく耳を傾けてくれ、

その母親の精一杯の努力で、

なんとかその難局を乗り切った。


こういう事態はよく起きるもので、別段、取り立てて言う

ことのものではないが、塾での殺害事件を契機として、

その母親が自分に対する疑念を抱いたことに畏怖したのだった。


別に母親や子どもに何か思うところがあるわけではない。

(聞いた当初は嫌な気がしたが、ある程度の耐性がある)



一方通行なメディアに戦慄を覚えたのである。


自分の子どもに対する姿勢、頭を良くする技術?、

それを完全ではないが、ある程度、知っておられる方が

たとえ一時でも疑念を持たれてしまった。


この一つの現実をもってコミュニケーッションの形態を、

述べてはいけないが、経験として自分の中に沈潜してしまった。



双方向のコミュニケーッションは、

一方向のコミュニケーッションに打ち破られている時代が

今、目の前で、到来しているのだと。



忘れることは、情報処理上、最も手っ取り早い

問題解決の方法である。

コミュニケーションの過剰は、意味を貧しくし、

大切なことを忘却させるのである。



この言葉は核心を突いている。


私の中ではいまでもあの小さて大きかった一事件を、

バイアスがかかった情報の過剰流動性が、

大事な意味を薄め、繁忙な日常の経過とともに希薄化し、

ついには、大切なことが失われてしまったのかもしれない。




ぱくった本は、

「メディア社会」(佐藤卓乙・岩波新書)