また佐藤卓乙の「メディア社会」から、いきます。


「(前略) 情報技術の発展により、個人はメディアが提示する

無数の選択肢から自らの欲望にそった情報を自由に入手する

ことが可能になった。


だが、選択そのものを自ら放棄しない限り、個人は特殊化、

専門化した趣味の選択に膨大な時間を費やさねばならない。


さらに自分の選択を合理化するために、人々は『自分探し』に

多大なエネルギーを注ぐのだが、それは自己喪失の不安に

由来している。


結局、情報化によって個人は教会や学校や近隣共同体など

物理的空間の規制から自由になったわけだが、

個人の行動規範はもはや共同体によっては担われず、

すべては自己責任となる。


こうして、個人が背負い込む自己責任が増大すれば、

それに耐えきれず、精神的に破綻する者も現れる。」




この類の話は、大学受験の入試問題にもよく出題されており、

情報化社会に人が人たるままで対応できないのではないかと

つねがね感じているところである。


科学技術が高度に特殊化し、専門化するなかで、専門家と

そうでないものとの間には大きな溝がある。


その溝を、メディアはレッテルを貼ることで莫大な情報量を

集約してみせる、いや、そう見せかける。


それで私たち受け手は、理解できたと安直に信じてしまう

素直な子羊のような存在であり、あまりに溢れる情報の中で

見出しのみで、分かった気になってしまうことから

免れることはできない。


イギリスの項で述べたように、教育が崩壊しているとの

メディアの極端な情報に踊り狂って、ホームスクリーニングに

走る中流家庭などは、その一例であるかもしれない。


例えば、ここのところ教師の不祥事が紙面やネット、

TVニュースに流れない日はないぐらいだが、

現場はどうだろうかといえば、こんな話を垂れ流されても

懸命に一日一日、自分にできることをやっているのである。


くだらない教師も多いかもしれないが、大多数がなんとか

現場を維持していることのほうが、真実である。


どこでもそうであろうが、なんとか日常を維持しているのが

本当の姿であるのだ。


人はより劇的なニュースを、それもえげつないニュースを

求める傾向にあり、そこに乗っかることを商売にしている

メディアは、よりえげつない情報を耳目を引くために流す。


これも人のサガを考えれば、当然のことであるかもしれない。

だが、自己責任という言葉はどうにも引っかかる。


選び取ることのできない無限の選択肢を個人にさらし、

「ダメだったら、お前が悪い」

これにはかなり無理があるのではないか。


この情報化時代には、ニーチェのいう「超人」になれとでも

いうのだろうか、人はそれほど強くはないというのに・・・。



ぱくった本は、

「メディア社会」(佐藤卓乙・岩波新書)