また山本理顕の「住居論」から、考えてみたい。

彼はベルリンと東京を比較し、暗澹たる思いを抱いている。

それを語っている破産都市から、抜粋する。


「(前略)住むための場所を都市は本来その内側に

含んでいる。留まって住むことと、それ以外の都市の

さまざまな流動性、浮動性のようなものとが巧みに

バランスするようなシステムを、本来、都市は持って

いるものなのだ。そのバランスのさせ方が都市の

特徴のようなものをつくりだしていると言ってもいい。


都市が破産しているというのは、そのシステムが

破産しているということである。少なくとも、住むための場所

という視点で見るかぎり、東京はとっくに破産している。


住む場所が、ただ一方的に食い荒らされているのである。


(中略:東京のえげつない交通事情を述べている)


交通行政の破綻というそれだけの問題ではたぶんない。

都市の中の通過するもの、流動するもののすべてのものが

”住む”という、留まり停滞するものを駆逐している。


それを守ろうとする真に強固な意志がないかぎり、

留まり停滞するものは、間違いなく流動しようとするものに

駆逐され排除されるはずなのだ。


(中略:住むということの保守性にふれている)


つまり、都市という、流動化し新しくなっていこうとする

すべてのものの中で、”住む”という概念だけが、

それと矛盾するようなかたちである。


もし都市の流動性や新しさのようなものが経済原則に

よって支えられているとするなら、”住む”という概念ほど

この経済原則からはみだすものはないと言っていい

くらいなのである。都市性というものと”住む”という概念とは

相互に矛盾する概念なのだ。


(中略:サハラ砂漠のガルダイアやベルリンという都市の

例をあげ、住むための場所は都市の流動性や革新性から

丹念に防御されていると述べている)


つまり、ふたつの意味で人の住む場所というのは、

停滞的なのである。通過し流動しようとするものに

対して防御的にできている。空間そのものが通過して

行こうとするものを、許容しないようにできあがっている

ということがひとつ。空間的な意味での停滞性である。


そして、もうひとつは時間的な意味での停滞性である。

絶えず新しくなろうとする都市の革新性、あるいは

刹那的とも言っていいような目まぐるしさからも

人の住む場所は防御されているはずなのである。


空間的な流動性、時間的な革新性に決して

引きずられないだけの強固な自己保存機構を

本来持っているのが住むための場所なのである。


この自己保存機構は経済原則とは関係がない。

経済原則だけで都市を見ようとすれば、もっとも

危うい部分ですらある。


つまり、この停滞的な部分が経済原則に見合う流動性、

革新性によって駆逐されるという構図を、都市は不可避的に

持っているのである。


この互いに他を疎外する関係を認識することである。


停滞的な”人の住む場所”の自己保存機構と都市の中の

流動・流通機構とは本質的に矛盾する関係にある

ということを、最低限認めないかぎり、都市は果てしなく

経済原則、つまり流動し新しくなろうとするものによって

埋め尽くされていくはずである。


(中略:都市に住むことの可能性を模索している)


都市性と呼ぶものとの切断のシステムさえ厳密に

しておけば、それは十分に可能なことだと思えるのである。」



1988年5月の文章であるので、現時点で思えば、

それを実現している部分があるかもしれない。

長くなったのでこれを読み、感じたことはまた今度に。


う~ん、それにしても都市論は面白い。

もっとたくさんの都市論を読んでみたいと思う。