先回の続きから、また、抜粋。


「これと並行するかたちで、個人の健康、とくに

じぶんの身体へのかかわりを、公的な機関が

管理するという事態が発生してくる。


健康診断も、かんたんな治療も、誕生や死の

取り扱いも、すべて病院が独占的に管理する

ことになる。


病気のときに家族や近所のひとがたがいに

からだを摩ったり、葉っぱを煎じて呑ましあったり

して治療しあう、そのような文化伝統も途切れてしまう。


他方、本人は身体をじぶんのもち物であるかのように

取り扱うことになる。物のように自由にデザインしたり、

商品のように売り買いしたりするようになる。


こうして身体は実体としてだれものもか分からなくなる。

身体は、本人はじぶんだけのプライヴェイトなものと

思っていながら、じつは同時に公的に監視され

統制されているものなのである。


こういう二極に引き裂かれた状態が、

身体の現在なのだと思う。」




先回は主に、第二次性長期について経験則から

考えてみたが、先生の「身体の現在」という視点を

自分の中に入れて、もっと一般的に、また、自己にも

関わるものとして捉えたいと思う。


確かに、自分の体は異常を感じなければ、

その機能を思い浮かべることがない。


自分は、胃や食道の調子が悪い日は、その存在に

思いがいく。


正常であれば、忘れて仕事に没頭し、やるべきことを

つねに考えている。


しかし、そうした識意識下に自分の身体をおく経験がなければ、

わからないないようだったかもしれない。


身体の異常と共存しないと自己の身体は、他者性を

持つものではなく、自分でデザインすることが出来たり、

コントロール下にあるものと誤解してしまうかもしれない。


身体という器は、自分で作り上げるという作業を経由することで、

実は、決して意のままになるものではなく、

他者性を見せつけられてしまうものでもある。


それが、身体を二極化し、心理的な側面においても

波及し、私たちは立ちすくむのかもしれない。



ぱくった本は、

「悲鳴を上げる身体」

(鷲田清一・PHP新書)