山本理顕は、「住居論」で次のように述べている。


「(前略)たぶんもう多くの人がいまの家族という

関係に違和感があると感じているのではないか

と思う。


(中略)


違和感というのは、こんな図式に気づいていて、

それでもいまの擬態住宅の中では、ほのぼの

一家団欒夫婦の愛情を演じなければならない

という違和感である。


(中略)


でも単純化してしまえば、問題はふたつだけである。


前述したように、ひとつは女が家族に対する

サービス屋さんメンテナンス屋さんで、社会つまり

家族の外側に対して接続される契機を持っていないこと。


もうひとつは性という関係が家族という関係の中に

閉じ込められてしまっているということ。このふたつである。


だからこのふたつをなんとかしてやればいいじゃないか

というきわめて単純な話なのである。話は単純なのだ。

ところが実際に何とかしようとすると、これがなかなか

むずかしい。


女が直接社会に接続されて、その代わりにサービス屋さん

メンテナンス屋さんの役割から下りてしまったら、

それでは誰が一体そのサービス屋さんの役割を担うのか、

性という関係が家族から解放されてしまったら、

それでは家族に代わるモラルはどうやってつくって

いけるのかだとか、細部がいろいろ問題になって、

なかなか何とかならないのである。」



家族の寂しさを看破し、核家族のユニットとしての

限界を建築家としての視点から見出した人の言葉には

なんともいえぬ重苦しさが漂う。

(そのわりには、文章は軽快で笑みを誘うが)


この文章は1992年のものだが、現時点でよく反芻して

みたい含蓄を含んでおり、現在の状況を見通していたかの

ようにすら思える。


家庭における女性はもはや、家庭における便利屋さんの

役割を下りてしまったことは、当たり前のことで不況に

よって早まってしまっただけである。


今まで、女性たちにのみ家庭の便利屋さんを演じてきて

もらったことは、ありうべからざることであったのかもしれない。


宗教的に女性を縛ることが可能であるならば、

もう少しはこうしたシステムは延命できたかもしれない。


しかし、女性は便利屋さんの役割に辟易しており、

かつ、もはや社会に対し契機を豊富に持つ。


そして女性が圧倒的に男性より優位に立つ能力は

コミュニケーション能力である。


いまやそれを存分に発揮し、社会に積極的にコミットし

その社会性を存分に発揮しつつある。


だから、女性が便利屋さんをしてくれなくなった現在、

家族をミニマム化してしまったユニットの中では、

弾性力が失われてきたのである。


再構築すべきは、この家族というユニットをなるべく

膨らませることであり、これを行うことで社会のシステムの

不備というリスクを最小化していくことができるのでは

ないかと思う。



ぱくった本は、

「住居論」(山本理顕・平凡社ライブラリー)