今度は、まずは2章から抜粋。


「(中略) 身体をめぐるさまざまなオブセッション

〔強迫観念〕、そしてそこから生まれる身体のパニック状態の

根底には、どうも身体のもつ社会性の消失ということが、

その問題の一つとしてあるように思う。


(中略)


身体の使用は社会的なものである。それだけではない。

じぶんと身体とのかかわりでさえ、他者というものを

経由する。


じぶんの表情、外見、身体の全体像といったものの

理解は、他者の視線や表情を鏡としてはじめて

可能になるからだ。


話しかたのスタイルや技法となれば、これをわたしたちは

年長者から教わったものである。


他者との身体とのこうした相互浸透があるからこそ、

自他の身体のあいだではさまざまに共振の現象も

あるのである。


(中略)


こうしてひとの身体は皮膚の内部へと収縮していく。

相互接触の気持ちのよさを忘れてゆく。

そう、大きくなるにつれて、もう手もつながなくなる。


他者との区別にばかり注意がいくようになる。

身体はインターボディではなくて単体のものとなる。」




先生が言われるところの身体の内部へと収束して

いく時期は、第二次性長期に顕著に現れるように思う。


その時期に子供たちは、大きく自分の立ち位置を

変えることになる。特に、中学生を相手にすることを

好む自分には経験則から、じわりと凍みこんでくる

内容である。


この時期は、他者との区別にばかり目がいく時期でもある。


髪、目、鼻といった造作、身体の見栄えのバランスなど

といった外観にばかり焦点を合わせていくケースが

非常に多いというか、ほとんどである。


別にそれを目の当たりにして、肯定も否定もしない。

それが、現実であり、自己を合わせ、対応していかねば

ならないという職業意識が先立つだけである。


しかし、見るに見かねて、自分の意見は伝達することは

してしまう。それが良いのか悪いのかはわからないけれど。



女子にはずいぶん甘くなった。彼女らの置かれている様相は

男子より厳しいように思える。


彼女らは男子より同性を意識し、その関係性や、

枠組み、自分には分からぬなにやらややこしい中で

生きているようである。


同時に男子も意識している、本能的に。


あまりにややこしいのであまりコミットしたくはないが、

親の側としては、性的なことに動的になられても

困ることであろうから、必然性から関与することも

しばしばあり、いろんな対策を講じてきたことがある。


こうしたケースには、時間が必要であり、

周囲の大人は、気持ちの悪い時間を耐え忍ばないと

いけない。



自己の職業的な経験則から鑑みると、

第二次性長期における子供は、身体性の観点から

見れば、単体のものになってしまうことによるある種の

喪失感に襲われていると思う。


まるで、手をつないでいたのに急に引き剥がされたような、

密着していると体感していたものが、

そうではないと、ハッと気づいてしまったときのような、

なんともいえぬ哀しみを身体のほうが先に受け止めて

しまい、心がそれに引きづられていく。


新たな身体性を獲得すると同時に、いままで、

空気のようにあった相互密着が、相互浸透が

消え去っていることに漠然とした空虚感に

襲われるのだろう。


母親が、全面的にすがられていた幼児に

すがられなくなり、喪失感を抱く様に似ている。




そう、身体の社会性にさらされ、自分の身体が

既に単体であることに、身体、それから遅れて

心が気づいてしまう。


そして単体であることを受け止めきれずにいるのでは

ないだろうか、身体と心の双方が。



そしてこれは、現代に生きる大人にもいえることで

それがまた現代の寂しい背中を醸し出している。





ぱくった本は、

「悲鳴を上げる身体」

(鷲田清一・PHP新書)