鷲田清一先生の「悲鳴をあげる身体」から、

少し考えて、眠れぬ夜をすごしてみたい。


でも、パニック・ボディとなぜ名づけ、先生が考察しようと

試みたのか。それはこうである。


「     (中略)

身体がその独自のゆるみやゆらぎ、あるいは

(のちに述べるような)独自のコモンセンスを失って、

がちがちになっているということ、言ってみれば加減とか

融通がきかなくなっているということである。


身体はいま、健康とか清潔、衛生、強壮、快感といった

観念に憑かれてがちがちになっている。


パニック・ボディ。そう、身体がいまいろんなところで

悲鳴をあげている。


身体というのは、もともとひとがそれに身をまかせ、

ぷかぷか漂っていられる船のようなものであったはずだ。


あるいは、心がくじけそうになったときにわたしを支えてくれる、

そんなものであったはずだ。


だから、身体が故障したとき、わたしたちはまるで日頃の

お返しをするかのように、ていねいに手当てをすることも

できたのだ。


が、その身体がそういう奥行きを失って、観念にあまりにも

密着し、身体に固有の判断力や想像力を失いだしている

ような気がする。


(中略)


身体のあげる悲鳴に耳を傾けること。そして身体のどんな

軸が揺れているのか、身体はなぜじぶんを支えられなく

なっているのか、   (後略)」



2章から入るつもりだったのだが、パニック・ボディと

命名された理由が、必要な気がしたため、

前置きが長くなってしまった。


自分としては、あまり身体性についての本を読んでいないため

必然的に経験則から、また、現場で見るものからの

推測になってしまう。あまり良い事ではないだろうが・・・。


中高生における身体性をケッコウなスパンで見てきて

感じることが多い。


彼らや彼女らはどうやら鏡で自分を見つめる時間を

わたしのような年齢のものから見れば、カナリ長く必要とする。


その挙句、自由にいじることができ、自分のなかで

良好だと思われることは、実行に移す。


中高の女子に関しては、まず、髪の毛である。

前髪の長さであるとか、くくったり、くくるものを

センスの良いものにしてみたり、果ては髪の色を

学校にばれないように少し変えてみたりする。


次に来るのは、眉毛なのである。

これは、比較的に平易に変えることのできる部位であるようで、

ある時期、整える、いや、剃ったり、抜いたりしてイメージを

ごろっと変えようとして、頑張っている。


やりすぎて、眉毛がなくなり、昔の不良のようになって

しまうことが多々あるけれど、それはそれで見ていて

面白い。


(めちゃ、いじれるからだ。)


そして、化粧を始める。

早い子は、小学生でも化粧をしている時代になっている。

それで学校にいくのだから、唖然とする。


現在、大人の側の倫理性がくずれきってしまっているため、

それに当然、子供は、反映した姿を作り出す。

いや、それもメディアによってよりエキセントリックな形を

見せ付けられたがゆえの社会の変位なのだろうか?

子供の位相は、常に形を変え続ける。最近は異常なスピードで

軸は動いていく。


高校で習う二次関数の軸が、不定な問題が思い浮かぶ。

これは、とっつきが悪く、いつも子供たちは苦戦させられる。

自ら、場合分けをし、見つけなければいけない。

ケッコウ動的に動かなければ、見えぬ問題であるからだ。


同様に、この軸の不定さが社会全体に及んでいるため、

社会を映す鏡たる子供にも波及しているのだろう。


軸が見えない、そんな感じを受ける。



それより、この数年で男子が、顔をいじって少しでも良くしようと

するものが目立って増えてきた。


すこしでも見栄えがよければ、女子にもてるから

当然起きる帰結なのだが、それは社会や家庭の側の共通の

考えとして、いままではありうべからざるものであった。


男のくせに・・・・なんて倫理性が吹き飛んでしまった結果、

中高生から、眉毛を剃りだすのである。


確かに、キリリとした表情が作れるような気もしないではない。

(自分は微塵もやりたいとは思わないが・・・・。)


しかし、なんとも薄気味悪い感じは、いまだ拭えない。


剃って整えていくのが、エスカレートして眉毛がなくなっている

中高生の男子を見て、


「おまえら、やくざ予備軍かよ!」┐( ̄ヘ ̄)┌


と突っ込みたくなる。しかし、それも時代の一つの風潮なので

私たちの側が合わせていかねばならない。


鷲田先生の考えを吸収して考えてみるならば、

どうやら身体性の問題は、子供にまで波及しているように

思われる。


髪、眉毛、匂い、様々な部位に努力を払うのを目の当たりにし

わたしたちは、どうやら第二次性長期から方位喪失を

してしまっているのかもしれないと思ってしまう。



ぱくった本は、


「悲鳴をあげる身体」(鷲田清一・PHP新書)