近頃、「細胞都市」(山本理顕・INAX)を読んでから、

家族という単位が持つ弾性を、気づくと考えていることが多い。


もう一度、この文を。


「家族というのは寂しいものだと思った。

家族というあまりに小さな関係が、それでもその中に関係と

いうようなものができ上がってしまっていることが、そしてそ

の関係が内側だけで閉じてしまっていることが、その関係が外

に対して何の手がかりも持っていないということが、そういう

ことが寂しいのだと思う。



要するに、今私たちが持っている家族という単位は、

社会的な単位としてはあまりに小さ過ぎるようなのである。

一つの単位としての役割を既に果たせないほどに小さいのだと思う。



それでも、この小さな単位にあらゆる負担がかかるように、

今の社会のシステムはできているように思う。今の社会のシステム

というのは、家族という最小単位が自明であるという前提で

でき上がっている。



そして、この最小単位にあらゆる負担がかかるように、

つまり社会の側のシステムを補強するように、

さらに言えばもしシステムに不備があったとしたら、この不備を

この最小単位のところで調整するようにできているのである。



だから、家族が社会の最小単位としての役割を果たせなくな

っているのだとしたら、それは、社会の側のシステムの不備を

調整することがもはやできないということなのである。」




塾という場は、不自然なほど家庭にコミットするようになった。

一つの時代が、完全に終わりを告げたのだろう。


心理的な側面で、子供が様々な状況下で、耐え切れなく

なっている場面に頻繁に遭遇するようになった。


これは、おそらく家族という単位が持っていた弾性係数が

極度に下がってしまい、ひどく落ち込んだとしても、

戻しきれないことに起因すると思う。


大人も子供も、この最小化してしまった単位のなかでは

個々人が掬い取ってもらえない局面を迎えていることを

意味する。


父親は仕事で手一杯、母親も家計収入を補うため、

子供にかける時間をあまりもてない。


また10年前より、個人の自由時間を大切にする風潮が

蔓延し、女性は自分の嗜好を優先する傾向にある。

それもドライブしすぎている感がある。


つまり誰も彼もが、メンタル面での余裕が持てなくなって

しまった時代の、妙に哲学的な時代の、弾力性のない

形態に巻き込まれていると思う。


私たちはプライベートな快適さを求めすぎたあまり、

家族という単位を、これ以上切り分けることができないほど

細分化してしまった。


もともと寂しいものであるのにもかかわらず・・・・。


だから、家族という単位が弾性力を失い、それを埋めるために

たくさんの箇所をアウトソーシングして補っている。


メンタル面だけでも、友人や家族、親戚などの近い場所に

抱えている困難なことを、一緒に担ってもらう代わりに、

心療内科・精神科といった病院にアウトソーシングして、

個々人が抱えきれないものを、分担し合うという行為を

なくしつつある。


心療内科・精神科という場所を訪れると、

女性が列をなしている。


日本の精神科医なぞ、精神療法をほとんど学んでいないのに

彼女たちは懸命に餌を欲しがる雛鳥のように

話し、彼らの言葉を待ち望んでいる。


ここにも単位をミニマム化してしまったツケを

見てしまうのは、自分だけだろうか。



ぱくった本は、

「細胞都市」(山本理顕・INAX)