一応、塾屋としてはカナリ気になる話である。


今月の文芸春秋でも、教育談義が掲載されていた。

やはり、教育問題はいまやワールドワイドである。


日本の現状とおどろくほど酷似している。

ホームスクリーニングを塾と入れ替えるならば・・・・。


こうした状況に陥った一端を、親に責任をなすりつけ、

学校になすりつけるのは、至極簡単で分かりやすくて

陳腐ですらある。


実際問題、イギリスにおける移民の多さゆえに起きる

レイシズムが学内で生じるのは当たり前の話である。

それから、いじめに発展するのは想像がつく。


藤原正彦先生が、ケンブリッジ大学で教鞭をとっておられる

時期に、ご子息がいじめに遭遇し、家族で様々に苦悩して

おられる様子を思い出した。

著書の「遥かなるケンブリッジ」で詳細に語っておられた。

ものすごく昔の話であるが・・・。


フェアであることを大事にしている国でも、当然、子供は

大人を鏡像として虚像をむすんでしまうため、

こうしたことは人の世の習いで起きてしまうのである。


いじめというのは、現在とてもホットな話題であるが、

あまり語りたくはない。


しかし、一般論で語るならば、誰しもいじめというものを

受ける可能性がある。どんなささいなことでも、他者という

異物を集団内部における通過儀礼を経ずして、受け入れる

ことは人(子供は特に(>_<))には、困難な作業だと思われるからである。


日本においては、例えば、アトピーであるとか、太っているとか

いくらでも、なんでもその対象になるのがよい例である。


当然、学校内だけではないので、職場などでも起きる。

いや学内よりもそうした場所のほうが、厳しい状況だと

思われる。


自分がこの話で一番に感じたのは、困難に遭遇したときの

耐性というか免疫のようなものが、子供の内部で育たない

のではないかということである。


もう一つは、ダブルバインドな心的構造をもってしまわないかと

危惧する。ダブルバインドについてはもう書いたので、

こちらを参照してください。

http://ameblo.jp/crio85461729/entry-10013923207.html



他には、山本理顕が語った次の言葉が、当てはまるような気がする。


「家族というのは寂しいものだと思った。

家族というあまりに小さな関係が、それでもその中に関係と

いうようなものができ上がってしまっていることが、そしてそ

の関係が内側だけで閉じてしまっていることが、その関係が外

に対して何の手がかりも持っていないということが、そういう

ことが寂しいのだと思う。


要するに、今私たちが持っている家族という単位は、

社会的な単位としてはあまりに小さ過ぎるようなのである。

一つの単位としての役割を既に果たせないほどに小さいのだと思う。


それでも、この小さな単位にあらゆる負担がかかるように、

今の社会のシステムはできているように思う。」



つまり、英語圏の言葉で語れば、「銀のさじ」をくわえて

生まれてきたものは例外として、中産階級には、それが

ないのにもかかわらず、閉じよう閉じようとしているとしか

感じられない。


もはや、現在、持ちこたえられないほど私たちの家族という

単位は、ミニマム化しているのである。イギリス社会も

ビクトリア期からカップルが作る子供の数が変容し、

伝統的な社会は、サッチャーリズムにより決定的に

破壊されたにもかかわらず、それを再構築しようとせず

微分し、極小値ではなく、最小値を探っているようにしか

思えない。



とまぁいろいろ考えられるがこの主な原因は、

やはり情報化社会の歪が押し寄せてきて

いることにあるのではないか。


あまりに氾濫する情報に人は、立ち位置を見失う。


ウィルバー・シュラムは、メディアが放つメッセージが

ピストルの弾のように人々の心を直撃するというイメージを

「弾丸効果」と名づけているが、それが、このケースに

そっくりそのまま当てはまると思われる。


人は、より劇的なニュースに引きつけられる。それも、

より惨状化したほうを信じる傾向にある。


つまり、母親や父親を引きつけたのは、教育に関しては

深刻そうなイメージを持つニュースのほうだったのだと思う。


それがひいては、ホームスクリーニングという現象を作り出し、

中産階級をこの陥穽に落とし込んだのではないだろうか。




ぱくったのは、


「遥かなるケンブリッジ」(藤原正彦・新潮文庫)


「細胞都市」(山本理顕・INAX)


「メディア社会」(佐藤卓乙・岩波新書)


2003年度・同志社大・文学部の入試問題