また、「細胞都市」から抜粋していきますか。


「時間軸上でも、西欧の都市は計画された最終形に向かって

一直線上に進む。だから現在という切断面は常にその方向軸上

の途中経過にしか過ぎないわけである。


一定方向に向かって進むしかないわけだから、変化に対する

適応能力に乏しい。計画に組み込まれない、突発的な出来事に

対しては全体計画を見直さないかぎり対応不能なのである。


この西欧的な都市に対して、イスラム都市には最終形という

ようなものがない。最終的な完成に向かって徐々にでき上がって

いくような都市ではなくて、そのつど完成された都市なのである。


そしてあらゆる方向に進む可能性を内側に秘めている。

多分、突発的な出来事も平気で飲み込んでしまう柔軟さをも

もっているはずなのである。


このイスラム都市の柔軟性は、逆に西欧的な全体優先計画都市

の限界をよく見せてくれているようにも思うのである。」



面白い文章で、建築家としてのみの視線だけでみているところが

とても好感が持てる。


自分は、キリスト教がユダヤ教よりも、寛容で平易なスタイルを

用いることによって、西洋世界に浸透したと思っているが、

そこにあまりキリスト教者以外のものに寛容さは見られない。

また、宗派が違ってもあまりに非寛容である。


キリスト教のローマ帝国内での闘争の歴史が

そうさせたのかもしれないが、

現在、一部のものが先鋭化してしまっているが、

イスラム教のほうが、ずっと宗教的に他者に寛容であったと

思っており、それが都市の様相に現れた観が否めない。


実は、日本の各都市もそうであり、多神教でもあり、

仏教という難解な宗教と共存してきたことが、

日本の各都市を細胞都市のような形態にさせてきたと

思わせる。


細胞都市を読んで、いっそうその思いを強く持った。



やはり、グローバリズム化の後に来るのは、

ローカリズムより、まず他者への寛容の精神ではないか。


異物と同化していく寛容さこそ「key」になるのでは

ないだろうか?



ぱくった本は、

「細胞都市」(山本理顕・INAX)