メディア論からの話だが、このテーマにいれてもいいかと思う。


ウォルター・リップマンによれば


「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、

定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい

混乱状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれの

ために定義してくれているものを拾い上げる。


そしてこうして拾い上げたものを、われわれの文化によって

ステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである。」


リップマンは、ステレオタイプが多数派や偏見に依存しがちであり、

人々が自主的にニュースを解釈する可能性を奪ってしまう危険性を

指摘していたらしい。


先回の9・11の選挙については、見事にこれが当てはまり、

当のメディア自身がやりすぎて、かなり自己反省をしている

ようにも見受けられる。


一連の亀田騒動などをみれば、懲りもせずやっているなぁと

思わされもするが、中身のないものの賞味期限は、

高速で過ぎ去ってしまう。


一連の小泉改革もそうであり、社会の側の不備がそこかしこに

出ていて、家族という最小単位にその被害が直撃していると

いっても過言ではないだろう。


いくらオールドメディアの側がそれを糊塗しようとしても、

自らのルーティンワークにより、ほころびが生じる。


しかし、リップマンは現代社会においてステレオタイプ化は

不可避であることも認めていた。なぜならば、情報の量が

膨大になりすぎてしまっているからである。


「思考の節約」のためにはやむをえないことではある。


しかし、国政選挙でドラマ化してしまうのは、いくら

祝祭的な性格をもつものだといっても、国民統合の政治参加の

儀式だといっても、やりすぎなのは否めない。



テレビ民主主義は、国民の政治的忍耐力を衰弱させ、

同時に政治に対し、冷笑主義も起こる。


しかし、先回の国政選挙は深刻で、政治のみならず

オールドメディアにまで冷笑主義が届いてしまったのである。



それが、いいことなのかは、歴史的な判断を待つより仕方ないが、

即時的なニューメディアとオールドメディアは、人々に対し、

その信憑性を疑わざるをえない方向に突き進んで、

常に「カーニバル」を起こさざるをえないのではないだろうか?



ぱくった本は、


「メディア社会」(佐藤卓己・岩波新書)