ここのところ、よく現代文の解説をしているが、

死を扱うテーマのものを2回見かけた。


一つは、医療の在り方からから論じているもので、

老人ホームを取材したおり、よくホームの老人たちが

淡々とした気持ちで、死の話をしているのに筆者は

驚き、様々に考察していた。


そこで、彼はこう言う、


「人間が、死にたいして持っている感情は、恐怖なのではなくて

むしろ『不安』なのではないだろうか。」と


そこから『不安』について、考察を始めていた。


それは確かにそうだろうと思う。予測のつきかねる現象であり、

かつ、人は絶対のがれることはできない。

夏目漱石が「硝子戸の中」だったっけ、

死を意識しないからこそ、人は生きていけるとかいう文にも

であったことがあった。



もう一つは、人類学者によるものだった。


日本人の再生信仰を考察していた。


キリスト教文化は、個人レベルでの再生信仰が強いのに対し、

日本人の祖霊観にみられる再生信仰は、集団による傾向が強い。

しかし、現代日本では基本的な社会集団が変化したことにより

「生きた証」を確実に保証される手段が失われつつある。


再生の信仰としての祖霊信仰・死者崇拝の観念が失われ、

死者儀礼は形骸化し、人は自分の「生きた証」を自らの

人生の中でのみ完結させねばならなくなった。


というような内容だった。


ちなみによくわからないと言われたので、

エジプトのミイラの例をだしたり、日本におけるお盆の

というものの話をして、人には再生の信仰が必要だった

と納得してもらった、かな?




両者を相加相乗してみれば、


現代に生きる我々は、死に対する不安を絶えず抱えて

生活しており、以前であれば、祖霊信仰における連続した生を

感じとることができ、また、仏教観念からの輪廻転生も

個人の中にすんなりはいってきていたから、一度限りの

不安な生に特化してしまうこともなかったのかもしれない。



社会の不備を補うべき最小の単位である家族という形態の

移り変わりもまた、この不安さを増大させる一要素と思われる。



この不確かで連続性の感じられない現代を私たちは、

いかにして生き抜いていかないといけないのだろうか?



ぱくったのは、

2002年度・関西大・文学部より、

水野肇 「『死』が問う医療の在り方」

(中央公論・昭和五十七年二月号)


2001年度・同志社大・文学部より

波平恵美子 「いのちの文化人類学」(新潮社)