就職活動をする若者たちをそばで見て、

妙に哲学的な気持ちになった。


都市の生活は寂しいものである。


身分にも家業にも親戚関係にも階級にも

性にも民族にも囚われない「自由な個人」が

ひりひりするような感覚で、その神経を

「社会」というものに接続させるような社会に

なっていき、中間世界の喪失が「個人」を

漂流させていく。


こんな方向を目指したのではないと

声高に叫ぶかもしれないが、近代化は

このように個人を社会に直接リンクさせてしまった。


社会のなかに自分が意味のある場所を占めるということが

社会にとっての意味であって自分にとっての意味ではない

らしいという感覚のなかでしか確認できない。


そこでひとは「じぶんの存在」を、わたしをわたしとして

名指しする他者とも関係の中に求める。


近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なものの

リアリティがますます親密なものの圏内に収縮していく。


「だれかと絶えずつながっていたい」という切迫した感情は、

都市生活の中でひりひりとした実感をもたらす。


その中でひとが最初に求めるのが、他者に自己を肯定して

ほしいという感情だろう。


近代化が進み、教育課程が長くなる中で、様々に脅迫の

言葉を周囲から浴びながら、時には自分から浴びせながら、

じぶんの存在が認めらたり認められなかったりするという経験を

子供は繰り返していく。


だから、じぶんをありのままのじぶんを肯定してくれる友人や

恋人を、これまでのどの時代より切実に求める。


「つながり」や「ぬくもり」の欠落により深くさらされているのが、

近年の若者というものだろう。


しかし、肯定してもらいたいという感情をどの時代より強く

抱いている若者だが、そのために必要なことを忘れているひとがいる。


みながみな、想われる側にはたてない。認める側にはたてない。


他人に関心をもとうとし、他者への想像力が、

このときこそ大切になってくる。



常に、他者への想像力だけで生活を送っている私などは、

実は、自分が一番肯定されたいとひりひりとした想いを

持っているのかもしれない。




就活で若者に損なわれる危険性が一番高いのは、

この肯定というものかもしれない。


会社からあいてにされなかったなどというのは、

いままで巧くやってきたものには、自己の肯定感情を

破り捨てられ、耐え難い思いに駆られるのかもしれない。

この自己の相克を乗り越えるのは、そんなに容易くない。


ここに現代の都市生活の若者の悲哀をみる。

一種の通過儀礼だといってしまうには、

ことはもっと重大である気がする。



ぱくった本は、

「感覚の幽い風景」(鷲田清一・紀伊国屋書店)