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スタンダールの「パルムの僧院」

 

1798年の若きイタリア貴族ファブリス・デル・ドンゴの誕生から死までの冒険。物語はイタリアのパルマをモデルにした架空のパルム公国を舞台にしている。

物語はフランス軍がミラノに進軍し、オーストリアと同盟していたロンバルディアの静かな地域をかき乱すところから始まる。ファブリスはフランス側の陰謀や同盟に囲まれて育つ。父のデル・ドンゴ侯爵は、自分をウィーンのスパイだと滑稽に思い込んでいる。

フランス軍がミラノに駐屯したことで、デル・ドンゴ侯爵は妻を残し遁走した。フランス軍中尉ロベールは、デル・ドンゴ侯爵夫人の館に宿泊することになり、夫人の世話になる。作中で、主人公ファブリスの父親は、このフランス中尉であった可能性が示唆されている。

小説の序盤では、1815年3月(百日天下)にナポレオンがフランスに戻った際、ファブリスがやや気まぐれに同行しようとする試みが描かれる。17歳のファブリスは理想主義的でやや純真、フランス語も下手。

しかし彼は止められず、偽造書類を持ってコモ湖の自宅を離れて北へ向かう。彼はフランスをさまよい、急速に金と馬を失う。そして、フランス軍にスパイと勘違いされ投獄されるが、看守の妻の助けを借りて脱獄する。妻はファブリスに好意を抱き、盗みの罪で処刑されたフランスの軽騎兵の制服を着せ逃がす。

フランス兵役を演じることに興奮した彼は、ワーテルローの戦いの戦場に迷い込む。ナポレオン戦争の複数の戦役に従事したスタンダールは、この有名な戦いを混沌とした出来事として描写している。フランス軍と戦場の描写はリアル。

ファブリスは一時的にネー元帥の護衛に加わり、偶然父親かもしれないロベールに出会う(ロベールはファブリスの馬を奪い取る)。ファブリスは逃走するプロイセン騎兵を射殺したが、フランス軍自体は敗走する。

ファブリスは退却中、負傷したバロン大佐に呼び止められ、騎哨の役に任じられ、その辺を敗走している騎兵たちに大佐の元へ集合するよう伝えよと命じられる。しかし、大佐の命令に反抗するフランス騎兵と切り合いになり、重傷を負いながらも幸運にも生き延びる。

やがて彼は家族の城に戻り、負傷し、金も一文で、まだ「本当に戦いにいたのか?」と考え続けている。彼は、戦争をしているのに、それが戦争だと分からない。砲弾(現代とは違い炸裂しない鉄球)が着弾しても、すぐ気がつかない。自分の父親を見ても分からない。ナポレオンを見ても分からなかった。

それなのに、彼は人生の決定的な場面にちゃんと居合わせている。つまりファブリスは、「世界を理解してから生きる人間」ではなく、「理解しないまま世界に巻き込まれて生きる人間」なのだ。

その意味では、ロベールが実父であるという設定も、ファブリスの出自すら、本人には完全には知られていないという作品全体の「偶然性」の一部になっている。ファブリス自身が、自分が何者なのかを完全には把握できないまま生きている。歴史の中にいるのに、歴史を理解できない人間だ。

ファブリスは一見すると、ナポレオンに憧れて戦場へ行く若い英雄として始まる。しかし、実際の戦争に入ってみると、彼には何が起きているのかほとんど分からない。有名なワーテルローの場面でも、ファブリスは「歴史的な大事件」を客観的に理解している英雄ではない。

彼はただ、「何が起こっているのか分からない」という若者として戦場に放り込まれている。歴史書から見ると英雄的な大事件でも、その中にいる一人の人間にとっては、混乱と偶然の連続でしかない。

「歴史」という巨大な全体から見ると「ワーテルロー」という一つの出来事になる。しかしファブリスの経験からすると、馬、銃声、煙、恐怖、偶然、勘違いという、整理できない個別の出来事でしかない。

物語は彼と叔母のジーナ(父の妹)の間で物語の焦点を分けている。無一文の未亡人であるジーナは、パルムの首相モスカ伯爵と出会い、親しくなる。ジーナは、若い甥のファブリスに恋をしていることに混乱しながら気づくが、それでも彼女は既婚男性であるモスカ伯爵の求愛を受け入れる。

スキャンダルを起こさずにするため、モスカ伯爵は、ジーナに裕福な老人であるサンセヴェリーナ公爵と結婚することを提案する。モスカ伯爵は、サンセヴェリーナ公爵が大使として国外に行き、ジーナとモスカ伯爵が当時の社会的規範のもとで恋人同士になることを望んでいる。

サンセヴェリーナ公爵は財産を持っていることを恥じており、彼は勲章をもらうために病院を建てようともした。モスカはその話を知っているので、「あなたが欲しがっている勲章を私が手配する。その代わり、あなたはジーナと結婚して、すぐ大使として外国へ行ってください」と公爵に持ちかけた。

ジーナは「でも、それずいぶん不道徳だと思いません?」と答える。それにモスカは、「宮廷で行われていることと比べれば、別に不道徳ではない」と答えた。彼女は同意し、数か月後にはジーナがパルマの小さな貴族エリートの中で新たな社会的地位を確立する。

社会的には偽装された関係のほうが、恋愛を守るために必要になる。この小説では、「社会的に演じている自分」と「本当に生きている自分」がよく食い違う。この社会では、道徳と社会的成功がどのようにして奇妙な取引になってしまうのかが描かれる。

ジーナ(現在はサンセヴェリーナ公爵夫人)は、甥がフランスから戻って以来、彼に対して非常に温かい感情を抱いている。ナポレオンに加わることは公式には違法だったため、彼女とモスカ伯爵は若者の更生を計画しようとする。

モスカ伯爵の計画では、ファブリスはナポリの神学校に通い、卒業後にパルムに来て宗教界の高位の人物となり、最終的には大司教にしようと考えている。ファブリスが宗教に興味がないという事実は、この計画には関係ない。ファブリスは軍人になる夢を諦め渋々同意し、ナポリへ向かう。

その後、ジーナとモスカ伯爵がパルム公の宮廷でどのように生活し、活動しているかが描かれる。

北イタリアで数十年にわたる外交官として活躍したスタンダールは、宮廷について生き生きと興味深い描写をしているが、彼が描写するすべては完全にフィクションであり、小説の時代、パルムはナポレオンの二番目の妻であるパルマ公爵夫人マリー・ルイーズによって統治されていた。

ナポリで数年間、神学校に通い、地元の女性と多くの関係を持った後、ファブリスはパルムに戻る。
ファブリスはパルム大公と会うが、お互いに相手が気に入らない。ファブリスは「情熱・自由・ナポレオン的英雄主義」を体現する人物であり、宮廷政治の論理に適応できない。

「人間の魅力を決める価値」と「宮廷で人間を評価する価値」がまったく違う。ナポリの神学校から戻ったファブリスは、聖職者としての教育を受けているが、彼の内面は、宮廷が期待する従順な聖職者とはかなり違う。

彼には、ナポレオンへの憧れ、冒険への欲望、恋愛への情熱、自分の感覚を信じる傾向、他人からどう評価されるかへの無頓着さがある。「宮廷社会で出世するために自分を調整する」という能力がほとんどない。これはパルム大公とは対照的だ。

しかし、大公自身も単純な「宮廷政治の人間」ではない。大公は、自分を絶対的な君主として演出しようとしている。彼はルイ14世のような君主の姿を意識しており、宮廷での身振りや儀礼にも非常に敏感だ。ジーナとの最初の対面でも、そうした「君主らしさ」を演出している。

つまり、ファブリスは自分の情熱に従うのに対し、大公は、君主としての威厳・権力・秩序を維持しようとするという対照がある。二人が生きている価値体系そのものが違う。そして、ファブリスが大公にとって「ナポレオンの価値観の側の人間」に見える。

ファブリスはナポレオンの自由・英雄主義に憧れ、実際にワーテルローに参加している。対して大公は、ナポレオン後の王政・君主制の世界を代表する人物だ。

モスカ伯爵は大公の政治的側近でありながら、ジーナを愛している。そしてファブリスを何とか宮廷社会の中に置こうとする。つまりモスカは、ファブリスの情熱を、宮廷政治の仕組みの中に何とか収めようとする仲介者だ。ところがファブリス本人は、その「宮廷政治のゲーム」に乗ることができない。

ファブリスの情熱は制度の中で必ず試される。ファブリスの情熱が、制度・身分・政治・宗教・法律という現実にぶつかったとき、それでも情熱は生き残れるのか。

モスカ伯爵もファブリスが好きではない。ファブリスは「危険な青年」だからだ。ファブリスには、宮廷の人間が持っているべき計算可能性がない。宮廷社会では、「この人物は、こう言えばこう反応する」という予測可能性が非常に重要だ。

ところがファブリスは、ナポレオンのような英雄に憧れ、衝動的に行動し、恋愛にも突っ走る。宮廷政治の「管理可能な人間」ではない。そのためモスカからすると、ファブリスは魅力的な青年というより、何をするか分からない人物に見える。

ファブリスは情熱に支配されている。恋をすると恋に支配される。英雄に憧れると英雄への憧れに支配される。危険なことがあると、それに飛び込んでしまう。宮廷の規則には従わないが、自分の情熱には非常に強く従っているという人物だ。

だから、モスカ伯爵は社会に支配される人間に対して、ファブリスは情熱に支配される人間だ。ファブリスは魅力的だが、まだ社会を動かす方法を知らない。「純粋」であると同時に「世間知らず」だ。一方、大公は人間的な魅力には乏しくても、社会を動かす仕組みを知っている。

情熱だけでは社会を生きられない。しかし、政治的計算だけで生きても幸福にはなれない。宮廷社会に適応できないことは、社会的にはファブリスの弱点だ。

モスカ伯爵はジーナとファブリスが、こごみあい接吻しているように見え嫉妬する。モスカ伯爵は、ジーナを「人生の中心」として愛している。彼の政治的野心も、宮廷での地位も、実はジーナとの関係が支えになっている。だからこそ、ジーナが他の男と親密に見えることは、彼の存在基盤そのものを揺るがす。

モスカ伯爵は老境に差し掛かっており、ファブリスの若さ・魅力・純粋さは、自分が失ったものの象徴でもある。そのため、ファブリスは「恋敵」として最悪の相手なのだ。この瞬間、モスカ伯爵の「政治的合理性」が崩れた。権力者も情熱の前では脆い。

モスカは「恋愛を政治的に処理できる人」だった。彼は、ジーナがサンセヴェリーナ公爵と結婚し、公爵には栄誉を与える。引き換えに、公爵はパルムから離れ、ジーナはパルムに残る。そしてモスカとジーナの関係が維持されるという具合に、恋愛を社会制度の中に組み込んでしまう。

ところがファブリスは、この「合理的な設計」に入り込めない。ジーナとファブリスの関係は、もっと直接的だ。好きだから会い、会えば親密になる。手に接吻する。そこにはモスカが得意とする政治的媒介がない。だからこそ、モスカにとってファブリスは非常に厄介な存在になった。

ファブリスは、モスカが何年もかけて構築してきた「ジーナとの関係を成立させる仕組み」を、政治的交渉なしに横切ってしまう。合理性によって情熱を管理しようとする人間の中にも、管理できない情熱が存在するという構図。

そして、ファブリスは自分が恋に落ちることは決してないのではないかと恐れていたが、ジーナに恋愛感情を抱くことに驚く。

ファブリスは若い女優マリエッタと関係を持ち、そのマネージャー兼恋人のジレッチの怒りを買う。ジレッチはファブリスを殺そうと思っている。一方で、ファブリスはジーナとも相思相愛だ。モスカ伯爵はファブリスの動向を監視している。

恋愛四角形だが、ファブリスをめぐる恋愛関係を、スタンダールは宮廷政治の構造そのものの縮図として描いている。マリエッタとの関係は恋愛というより、ファブリスの無邪気な生命力の現れだ。

ファブリスはマリエッタに惹かれるが、ファブリスはマリエッタとの関係を人生の重大な選択として考えていない。彼にとっては、「目の前に面白い女性がいるから惹かれる」という直接的な欲望だ。これはファブリスの長所でもあり、弱点でもある。

彼は宮廷の人間のように、「この女性と付き合えば何が得られるか」、「自分の社会的地位にどう影響するか」、「人がどう思うか」などを計算していない。つまりマリエッタは、宮廷の合理性から離れた、若いファブリスの衝動的な生命を表している。

ジレッチはマリエッタの恋人兼保護者だが、彼の愛はかなり所有的だ。彼はマリエッタを支配し、彼女の収入を奪い、暴力を振るう人物として描かれている。したがって、ファブリスの自由な欲望に対して、ジレッチの所有する欲望と対比できる。

ファブリスはマリエッタを「自分のものにする」という政治的・経済的計算をしていない。ところがジレッティは、「彼女は自分の女だ」という所有意識からファブリスを敵と認識する。だからジレッチは、愛が相手の自由を認めなくなったとき、所有と暴力に変わることを体現している。

ジーナは、マリエッタとは全く違う。ジーナはファブリスに対して、単なる性的欲望以上のものを感じている。ファブリスは彼女にとって、若さ、自由、情熱、自分が失いつつあるもの、宮廷社会には存在しない純粋さを象徴している。

だからジーナはファブリスを政治的に守ろうとする。実際、ファブリスの人生は、かなりの部分をジーナとモスカの政治的操作によって決められている。神学校へ行かせることも、宮廷での地位を作ることも、彼を危機から救うことも、二人の策略によるものだった。

ジーナはファブリスを愛しているから、ファブリスを自由にしているわけではない。むしろ、「あなたを守りたい」という愛情によって、ファブリスの人生を動かしてしまう。これはマリエッタ=ジレッチの関係とは別の形で、愛が他者を自分の望む方向へ動かすという問題を含んでいる。

モスカはファブリスの動向を監視しているが、単に恋敵だから監視しているではなく(もちろん嫉妬はある)、それ以上に、ファブリスという予測不能な若者が、宮廷というシステムを壊してしまわないかを監視している。

モスカのような政治家からすると、「この男は何をするか分からない」ということ自体が最大の問題になる。だから「マリエッタ事件」は小さな戦争のようになっている。ファブリス vs ジレッチという小さな対立が、ファブリス vs 宮廷社会の縮図になっている。

ファブリスは「生きる人」なのに対して、モスカは「生き残る人」だ。ファブリスは、今、何が起こっているのか?に反応する。モスカは、この先、何が起こる可能性があるか?を計算する。だからファブリスは何度も危機に陥りそしてモスカは、「だから言っただろう」という立場で後始末をする。

しかし、モスカは政治的には優秀だが、ジーナへの嫉妬によって、その合理性が崩れる瞬間がある。彼自身がファブリスに対して嫉妬することもある。つまり、ファブリスは情熱によって合理性を壊す。モスカは合理性を使って情熱を抑えようとするが、結局自分自身の情熱に敗れる。

ジレッチはファブリスが銃を持って道の真ん中に立っているのは自分に恥をかかせるためだと思い込み、ファブリスに剣で襲い掛かり、ファブリスは応戦しジレッチを刺し殺してしまう。ファブリスはマリエッタと逃げ出した。

ジレッチは、ファブリスが自分を侮辱するために道の真ん中で銃を構えていると思い込んだが、しかし実際には、ファブリスはただの無邪気な若者で、ジレッチを侮辱する意図など全くなかった。この「誤解」が、名誉を重んじる男の暴力を引き起こし、ファブリスの人生を決定的に狂わせる。

ジレッチは典型的な「名誉の男」で、自分が侮辱された、若い男に恥をかかされた、これは許せない、剣で決着をつけるしかないという、19世紀イタリアの「名誉の規範」に従って行動する。つまり、ジレッチは社会的規範に忠実であるがゆえに暴力に走る。

一方のファブリスは、ナポレオン的英雄主義に憧れる情熱的で無邪気な男で、社会的規範に疎い上に、名誉の文化を理解していない。そのため、ジレッチの怒りの意味が分からず、ただ「身を守るため」に応戦する。しかし結果は、ジレッチを刺し殺してしまう。純粋さは制度の中では危険だ。

ファブリスは「制度の敵」になった。殺人は、宮廷政治、名誉の文化、法制度の中で、致命的な罪となる。ファブリスは一気に「危険人物」へと転落する。殺してしまったファブリスは、その場に残って法的に説明するのではなく、逃亡した。

ファブリスの個人的な人生が、国家の制度によって追跡可能なものになる。最初は小さな恋愛上のトラブルだったものが、最後にはファブリスの人生そのものを変える事件になる。重要な転換点と言える。

ファブリスは自由に生きようとしていた。しかし、自由に行動した結果、自由を失う。マリエッタとの恋愛も、「自分の好きなように生きる」という自由の表現だ。ところが、その自由な行動がジレッチの嫉妬を刺激し、殺人事件を生み、逃亡生活につながる。

この事件でファブリスは、以前の「何でも経験してみる青年」と同じではなくなった。「自分の人生は自分の意思だけで決まるのではない」という世界に放り込まれた。

ファブリスは、パルマからボローニアへ逃げた。裁判所で公正に扱われないのではと恐れていた。パルマにこっそり戻った後、ファブリスはボローニアに戻り、魅力的なソプラノ歌手ファウスタとの関係を築こうと多くの時間を費やす。その間に、司法は彼を殺人罪で有罪とした。

ファブリスはファウスタにかなり夢中になる。しかし、ファブリスの関心は、「彼女を本当に理解したい」というより、「この魅力的な女性を自分のものにしたい」という「征服」に近いところがある。ここはジレッチと対照的でもある。

ジレッチはマリエッタを所有していると思い、ファブリスに嫉妬した。ファブリス自身も、ファウスタを「獲得したい」という欲望から動いている。つまりスタンダールは、「所有される女性」だけでなく、「女性を所有しようとするファブリス」も描いている。

しかしファウスタは、ファブリスの思い通りにならない。ファブリスは、戦場でも恋愛でも、「自分が思ったように事態が進む」ことを期待しがちな人物だ。ところがファウスタは、簡単には彼のものにならない。するとファブリスは彼女を追いかけ、時間を費やし苦労する。

ファウスタはファブリスに「他者には他者の意志がある」という事実を突きつける存在になる。ファブリスは自分の情熱を中心に世界を考えている。しかし恋愛では、自分が欲しいと言う感情と相手も自分を欲しいと言う感情は必ずしも一致しない。この単純な事実を、ファブリスは実践的に学んでいく。

ファウスタがソプラノ歌手であることにも意味がある。歌手は舞台で生きる人だ。そして歌は、合理的な言葉による説明ではなく、感情を直接的に伝えるもの。ここにファブリスとの親和性があった。ファブリスもまた、計算して生きる人間ではなく、情熱に動かされる人間だから、惹かれるのは自然だ。

しかし、ここには「演技」の世界もある。同時に、歌手という職業には別の意味がある。舞台では、人間は「役」を演じる。観客が見ているのは、ファウスタ本人なのか、舞台上のファウスタという人物なのか。この境界が曖昧になる。

『パルムの僧院』の世界では、これはかなり重要な問題で、宮廷でも人々は「役」を演じている。モスカは政治家として振る舞う。宮廷人は忠実な臣下を演じる。ジーナも公爵夫人として振る舞う。そしてファブリス自身も、神学校では聖職者として振る舞わなければならない。

つまり、舞台の世界と宮廷の世界は、実はよく似ている。どちらも、「本当の自分」と「他人に見せる自分」の二重性を持っている。ファウスタとの関係は「演技」と「本当の感情」の境界を描く。

ファブリスはファウスタを口説く。しかし、恋愛では、本当に好きなのか?それとも「手に入れたい」という欲望なのか?が分からなくなる。ファウスタの側にも、本当にファブリスを愛しているのか?それとも彼を魅了することを楽しんでいるのか?という問題がある。

ここでは恋愛そのものが、ある種の舞台になる。そしてスタンダールらしいのは、誰もが完全な「本心」を持っているわけではないこと。人間は、欲望しながら演技し、演技しながら本当に恋をする。この曖昧さがファウスタとの関係にはある。

その間にパルマでは、モスカ伯爵の政敵(特に検察長官ラシやラヴェルシ侯爵夫人など)がこの事件を利用し、モスカとジーナを追い落とそうと動く。目撃者を買収して虚偽の証言をさせ、ファブリスは欠席裁判で殺人罪の有罪判決を受け、死刑または重刑を宣告される。

ファブリスは密かにパルマに戻りかけたり、ファウスタを追ったりするが、最終的に政敵の策略でパルマに誘き出され、逮捕される。ファブリスは無礼な態度の憲兵のバルボーネを殴り、その騒動を牢獄長官の娘クレリアが目撃する。ファブリスとクレリアはコモ湖で一度会ったことがあった。

ファブリスは美しく成長したクレリアに魅せられた。情熱が制度の中で覚醒する瞬間だ。彼女は文字通り、ファブリスを閉じ込めている制度の内側にいる女性だ。ファブリスにとって、牢獄は自由を奪う場所なのに、その牢獄の中で、最も強烈な自由への欲望を呼び起こす存在クレリアが現れる。

情熱が制度の中で覚醒する。しかも二人は完全な初対面ではない。コモ湖で一度会っている。クレリアは、ファブリスの人生の「自由な時代」を知っている。そして再会したファブリスは、牢獄の中の男になっている。

ところがファブリスの側から見ると、クレリアは、少女だったクレリアが美しく成長した女性になっている。二人とも、時間によって変化した姿で再会する。二人は「今ここで突然出会った」のではなく、過去の記憶と現在の姿が重なったところで恋が始まる。

そして、クレリアは閉じ込められている側でもある。なので、自由なのはクレリアに見えるが、実際には、クレリアも完全に自由ではない。彼女の父親は牢獄を管理する人物で、彼女自身も、父親の権威や家族の規範、宗教的・道徳的規範、女性として期待される役割の中にいる。

なので、ファブリスは物理的に牢獄に閉じ込められている。クレリアは社会的・家族的な制度の中に閉じ込められているという対称性がある。二人は、実は別々の牢獄にいる。だからこそ惹かれ合う。そして、「牢獄」が恋愛空間になる。

牢獄は自由の反対だ。ところが物語では、牢獄がファブリスとクレリアが出会い、恋が始まる場所になってしまう。つまりスタンダールは、制度が人間を完全に支配することはできないということを描いているとも考えられる。

牢獄はファブリスの身体を拘束できる。しかし、誰を愛するか、誰に惹かれるか、何を望むかまでは完全には管理できない。むしろ逆説的に、自由を奪われたことによって、ファブリスの内面の自由が強烈に意識される。

パルム大公エルネスト4世は、ジーナへの執着と彼女の拒絶への報復もあって、ファブリスを厳しく処遇する。ファブリスはパルマの城砦・ファルネーゼ塔に投獄される。ジーナは大公(エルネスト4世)に直談判し、ファブリスの解放を求める。

ジーナがパルムを去ると宮廷が退屈になることや、彼女の口から大公の悪評が広まることを大公に恐れさせ、釈放の約束を引き出す。しかし大公は誇りを傷つけられたとして、密かに逮捕・長期投獄を命じた。その後も大公は「ファブリス処刑」の噂を流してジーナに圧力をかける。

ジーナはモスカ伯爵に別れを告げる。ファブリスの投獄によって、ジーナの中で「宮廷社会に生きる女」と「ファブリスを救おうとする女」の両立が不可能になった。モスカの慎重さがファブリス救出の障害になるし、我が身の破滅に伯爵を引き入れるわけにはいかない。

モスカは、宮廷を捨てて外へ出るという発想を決してしない。むしろ、腐敗した制度の中に入り、その制度を利用して目的を達成するタイプだ。だからファブリスを救う場合も、「私の政治的影響力を使えばいい」と考える。モスカらしい合理性だが、

ジーナは、ファブリスが牢獄に入った瞬間、その政治ゲームそのものを信用できなくなった。そのゲームのルールそのものが、ファブリスを殺しかねないことが明らかになった。そこでジーナは、「このゲームから降りる」という決断をする。

モスカは、ファブリスを政治によって救おうとする。ジーナは、政治を捨ててもファブリスを救おうとする。そしてジーナは最終的に、モスカの合理性を利用する段階から、自分自身が危険を引き受ける段階へ移っていく。ファブリスの投獄が、周囲の人間の「本当の情念」を露出させる。

塔の高い独房に入れられたファブリスは、窓から見える庭園やコンチ将軍の娘クレリア・コンチの姿に心を奪われる。以前一度会ったことのあるクレリアと、窓越しに目で会話し、アルファベットを使ったやり取りを始め、やがて深い恋に落ちる。ファブリスは獄中で初めて真の幸福を味わう。

ファブリスに殴られた憲兵のバルボーネは、それを根に持っており、密かにファブリスを毒殺しようとしている。ファブリスが毒殺されることを恐れたモスカ伯爵は、パルム公国の要塞(ファルネーゼ塔の監獄)の司令官ファビオ・コンチ将軍(クレリアの父)に会う。

モスカ伯爵は「ファブリスがもし変な死に方をしたら、私が殺させたことになるでしょう。私はやきもち焼きということになります。それはみっともないことなので、黙って承知はしないと決めています。その場合、恥を注ぐために、あなたを殺します」とコンチ将軍に釘を刺す。

叔母ジーナはファブリスの救出に全力を注いでいる。秘密の通信手段(即席の信号など)で連絡を取り、医者で革命家気質のフェランテ・パラ(ジーナに片思いしている)などの協力を得て、長いロープを密かに塔に運び込む計画を立てる。

クレリアも協力するが、彼らの計画では父のコンチ将軍にアヘンチンキ(鎮静剤)を飲ませる必要があり、クレリアはこれを毒殺と受け取って強い罪悪感を抱く。脱獄は成功する。しかしクレリアは聖母マリアに誓いを立て、「二度とファブリスの顔を見ない」「父親の言うことに従う」と誓う。

ジーナは詩人フェランテ・パラに大公エルネスト4世の暗殺を託す(毒殺と強く示唆される)。大公が死去すると、モスカ伯爵がパルマに留まり、地元の革命家による反乱を鎮圧して、大公の息子エルネスト5世を即位させる。新しい大公は若く、ジーナに恋心を抱く。

ファブリスは一旦逃亡先に身を置くが、クレリアはクレセンチ侯爵との結婚が確定した知らせを聞く。クレリアへの想いから自らファルネーゼ塔に戻る。コンチ将軍は復讐のためにラシを使いファブリスを毒殺しようとするが、クレリアが毒入りの食事を阻止して彼を守る。

ジーナは新大公に介入を求め、ファブリスの移送・救済を取り付けるが、その条件として大公に身体を差し出すことを強いられる。彼女はそれを果たした後パルマを去り、モスカ伯爵と正式に結婚して国外に移る。

ジーナは「宮廷を操る女」から「宮廷の暴力を引き受ける女」へ変わった。愛する者を救うためなら、政治秩序そのものを破壊するところまで行く人物になった。そして、モスカは新しい大公のもとでも権力を維持し、ファブリス救出に必要な政治的影響力を確保する。

ジーナの情熱とモスカの政治的合理性が、別々の方向から同じ目的に収束した。ジーナは情熱が政治を動かすことの限界を示している。最後には、政治を動かすために、自分自身を犠牲にするところまで行く。そして最終的に、「もう政治そのものから離れる」というところへ行き着いた。

宮廷は権力、名誉、地位、富、恋愛が渦巻いている。しかし、そこでは人間が常に、誰が誰を利用するか、誰が誰を監視するか、誰が誰を支配するかという関係に置かれている。そのため、本当に幸福になるためには、その世界から距離を置かなければならない。

ジーナが最後にモスカとともに国外へ出ることには、宮廷で勝利することが幸福なのではなく、宮廷そのものから離れることが幸福への条件になる。

クレリアは父の意向で裕福なクレセンチ侯爵と結婚する。ファブリスの罪は最終的に無罪放免となり、彼はカトリック教会の高位(総司教代理など)に就く。説教が評判を呼び、街中の話題となるが、彼が説教をする主な理由は、クレリアが教会に来ることを期待してのことだった。

クレリアは誓いを守り、昼間は顔を合わせないが、暗闘の中で毎晩会うことに同意する。1年後、クレリアはファブリスの子供を産む。二人は子供の病気と死を偽装し、近くの家に密かに住まわせて毎日会いに行くようにする。

しかし数か月後、子供は本当に亡くなり、クレリアもその後まもなく死去する。結末クレリアの死後、ファブリスはパルマのカルトゥジオ会修道院(タイトルの「パルムの僧院」)に隠遁する。そこで1年も経たないうちに彼も亡くなる。

ファブリスを深く愛していたジーナも、彼の死を看取るようにして間もなく亡くなる。物語は政治的陰謀、情熱的な恋愛、宮廷の駆け引きが交錯する中で、ファブリスが真の幸福を求めて放浪し、最終的に喪失の中で終わる姿を描いている。

ファブリスが最後には社会的には成功しているのに、その成功が彼の幸福を意味しない。ファブリスとクレリアの関係は、「情熱と制度」「自由と社会」「生の幸福と宗教」の対立が、最後に愛そのものの内部で極限まで押し進められたものだった。

ファブリスは逃亡すれば安全だった。しかも、罪を赦され、高位の聖職者になり、説教が大評判になった。社会的名声を得た。理想的な「社会的成功」を手に入れている。ところが、彼が説教をする本当の理由は、クレリアが教会に来ることを期待しているからだった。

社会から見ればファブリスは成功者になった。しかしファブリス自身にとって、その成功はクレリアに会うための手段にすぎない。つまり、社会的価値と個人的価値が完全にずれている。これは、若き日のファブリスがナポレオン軍や戦争を「英雄的世界」として追い求めていたことと対照的だ。

最初のファブリスは、世界の大舞台で生きることを求めた。最後のファブリスは、たった一人の女性に会うために生きる。彼の情熱は「世界を変える英雄性」から「一人の他者への愛」へと縮小したように見えるが、スタンダールはむしろ、その小ささの中に最大の幸福を置いている。

昼間のクレリアは、クレセンチ侯爵夫人だが、夜のクレリアは、ファブリスを愛するクレリアだ。社会の時間と、二人の愛の時間が分離されている。制度の中の人格と、愛する主体としての人格に引き裂かれている。そして、社会的役割よりも、二人の個人的な関係のほうが本当の生を与えている。

そして子供が生まれた。二人は、「子供が病気になった、そして死んだ」と偽装した。しかし、本当に子供が死んでしまった。そしてクレリアが死に、生きる理由を失ったファブリスはパルムの修道院に隠遁する。つまり、タイトルの「パルムの僧院」が最後に出てくる。

修道院が最初からファブリスの理想だったわけではない。社会的成功を求めて聖職者になったわけではない。クレリアとの愛を失った結果として、世俗世界から離れていく。そして一年も経たないうちにファブリス自身も死ぬ。

「パルムの僧院」は逃避場所というより、愛の世界の最後の形だった。しかし、「愛が社会に勝った」という単純な結末ではない。二人は社会制度を無視して幸福になることはできなかった。人間には、社会的成功や合理的な人生設計では回収できない幸福がある。そして、その幸福は同時に非常に脆い。

ファブリスは最終的に、世間から見れば、これほど成功した人生はないというところまで行った。しかし、本人が本当に生きたいと思った人生は、クレリアと夜に会い、子供と過ごす、ごく小さな世界だった。

スタンダールは、社会的に価値のある人生と、本人にとって幸福な人生は同じではないということを、ファブリスの人生全体を使って描いている。
 

 

 

テレビなどで、「AIが暴走して、人類滅亡する」という予測と、それに付随する「AIを止めるか、開発を続けるか」という二択が焦点になっているが、あまりにも現実を単純化し過ぎている。第三の選択がある。

 

「一つのAIが暴走したら、それで人類が滅亡する」という描像は、現在議論されているAIリスクをかなり単純化している。現在のAIには人類を滅ぼせる能力はない。将来についても、能力・行動傾向・配備環境の三つが揃う必要があり、確率や時期には大きな不確実性がある。

一部のAIが暴走したところで、それ以外のAIは人類の防衛側に回る可能性もあり、「AI vs 人類」という単純な構図にはならない。暴走したAIよりも強力なAIが防衛側になれば暴走AIを制圧できる。ただ、突出して優れたAIが暴走した場合、それ以外のAIは手こずることになる。

今、AIを第二の核兵器に喩える意見を見る。核兵器によって人類は滅亡せず、核武装国は多極化した。核武装国の多極化によって核戦争は局地的規模に縮小され人類滅亡の危険性は軽減された。では、AIはどうなるだろうか?多極化した場合、人類滅亡の危険性は軽減されるのだろうか?

AIには核兵器との違いがある。核兵器では「多極化」が抑止につながった。核兵器の場合、米ソだけでなく中国、フランス、英国などへ核戦力が分散したことで、「一国が核兵器を持つ」「相手も核兵器を持つ」「先制攻撃すれば報復される」という相互抑止が成立した。

しかし、核兵器そのものは、自分で勝手に増殖して戦略を変更する主体ではない。最終的には人間が発射を決定する。AIの場合は、ここが決定的に違う。仮に将来、アメリカのAI、EUのAI、日本のAI、その他多数のAIという状態になったとする。一見すると核兵器と同じ「AIの多極化」だ。

そして、一つのAIが危険になった時、他のAIがそれを検出・監視・封じ込める可能性がある。これは実際にかなり重要な安全弁になり得る。制御喪失の可能性はAIの能力だけで決まらず、どこに接続され、どの程度の権限を与えられ、どのような環境で運用されるかに大きく依存する。

特に電力網、金融、クラウドなどの重要インフラへのアクセスが重要だ。つまり、AIが複数あること自体よりも、「一つのAIが社会全体を支配できない構造」が重要なのだ。

ただし「AIの多極化」には恐ろしい逆側もある。核兵器の場合、A国の核兵器 vs B国の核兵器という比較的単純な構造だが、しかしAIでは、AI AからAI Bへ、そして、AI BからAI C、AI Dへというように、AI同士が相互作用する可能性がある。

さらに、人間AからAI Aへの指令、人間BからAI Bへの指令、人間CからAI Cへの指令という形で、それぞれが異なる目的を持つことも考えられる。すると「AIの多極化」が、多元的な安全装置になる場合と、AI軍拡競争になる場合がある。

核兵器では、「相手が核兵器を持っているから、自分も核兵器を持つ」という軍拡競争が起きた。AIでは、「相手が安全性の低いAIを開発しているから、自分も開発速度を上げる」という競争が起こる可能性がある。

すると、A国は「危険だから慎重に開発しよう」。B国は「A国が慎重にしている間に我々が先行すれば戦略的優位を得られる」となり、A国は「B国が開発を急いでいるなら、こちらも急がなければならない」となる。

しかしAIには、核兵器とは別の可能性がある。AIの場合、AI A + AI Bから、AI AがAI Bを監視するという構造を作れる。さらに、AI A → AI Bを監視、AI B → AI Aを監視、AI C → 両者を監視、人間 → AI Cを監視という相互監視ネットワークも理論的には可能だ。これは核兵器にはない特徴だ。

一つのAIが暴走しても、他のAIが人類側につく。しかし、「多極化すれば安全になる」とまでは言えないかもしれない。

むしろ重要なのは、AIの多極化+相互牽制+人間による最終的な権限保持だ。この三つがあれば、多極化は安全性を高める方向に働き得る。反対に、AIの多極化+AI同士の軍拡競争+重要インフラへの接続+人間による監視能力の低下となれば、核兵器以上に複雑な危険になる可能性がある。

核兵器との比較から得られる一番重要な結論は、「AIを一つの巨大な超AIに集中させないこと」だ。

それだけでも足りない。むしろ理想に近いのは、一極集中させることにより、一つのAIの失敗が全体を巻き込むではなく、多極化し、複数のAIが互いを監視する。さらに、分散化し、一つのAIが電力・金融・軍事・通信などすべてを支配できないようにする。

そして、人間による停止権で、AI同士の競争が始まっても、人間が最終的に切断できるという構造だ。これは「AIを止めるか、開発を続けるか」という二択とは違う。「AIが増えても、一つのAIが世界全体を支配できないようにする」という第三の選択だ。

つまり最終的に重要なのは、AIが人類側につくことを期待することではなく、AI同士が互いに牽制し合い、人間もAIも一方的に全体を支配できないような「複数性」を維持することなのだ。

AI社会について考える場合、「最も賢い一つのAIを作る」ことより、「一つの知性に世界を委ねない」ことの方が重要になる。
 

 

「イワンのばか」

人間の価値は、金・知恵・権力・軍事力によって決まるのではない。欲望によって他人を支配するのではなく、自分の手で働き、他人と分かち合って生きることこそ、人間を幸福にする。

ある国の田舎に、裕福な百姓の家があり、三人の息子と一人の娘がいた。長男セミョーンは軍人として王に仕え、出世して領地を得るが、妻の浪費で困窮している。次男タラースは商人となり町で成功するが、やはり金に困っている。

しかし、三男イワンだけは、世間では「馬鹿」と呼ばれるほど素直で欲がなく、家に残って両親や口のきけない妹マラーニャと共に農作業に励んでいる。

都会で困窮した兄二人が実家に戻り、財産を分けてほしいと頼む。父は「おまえに財産をわけたら、イワンとマラーニャが気を悪くするだろう」と断るが、イワンは惜しみなく兄の申し出を了承し、財産を分け与え、両親もそれに従った。

兄弟が争わずに別れたことに腹を立てた老悪魔は、三匹の小悪魔を送り込み、兄弟を陥れようとする。小悪魔はセミョーンに過度の勇猛さを吹き込んで戦争で大敗させ、タラースを金銭欲で破産させた。

一方、イワンには農作業を妨害するが、イワンは動じず働き続け、逆に小悪魔たちを捕まえた。助けを求めた小悪魔たちは、一振りすると兵隊がいくらでも出る魔法の穂、揉むと金貨がいくらでも出る魔法の葉、どんな病気にも効く木の根を渡して逃してもらった。

イワンが「神がおまえについていてくださるように」と言ったため、小悪魔たちは地中に消えて二度と現れなかった。イワンは魔法を軽く使い(兵隊に歌や踊りをさせたり、金貨を女や子供に与えたり)、その後、兄たちに兵隊や金貨を分け与えた。

セミョーンはそれで王国を征服して王に、タラースは大商人・王になる。イワン自身は、病気の王女を根で治し(または近づくだけで治り)、結婚して王になる。しかし大悪魔が自ら人間に化けて再び介入する。

セミョーンは戦争で、タラースは商売で再び没落する。イワンの国では、大悪魔が金や怠惰を持ち込み人々を誘惑しようとするが、イワンの国では「手を使って働く者だけが食事をし、白い手の者は残り物で我慢する」という習慣が守られていたため失敗。

働かない老悪魔は飢え、倒れて地中に消えた。イワンの国は労働を重んじる簡素な生活で平和に栄え、兄たちも最終的にそこへ頼ってくる。

単なる「善人が最後に勝つ」という童話ではなく、「賢さ」「富」「権力」「労働」を人間の価値として追求する社会そのものを、素朴なイワンの生き方によって逆転させる物語だろう。

タイトルの邦題が「ばかのイワン」でなく、「イワンのばか」であることについては、よく考えられたタイトルだなと感心する。「ばかのイワン」と言うと、イワンという人物は、ばかであるという属性の説明に聞こえる。イワン=ばかという固定された人物評価だ。

しかし、「イワンのばか」だと、違ってくる。イワンに付随している「ばか」のようにも聞こえる。「イワン」と「ばか」が完全に同一ではなく、イワンを見ている社会が彼を「ばか」と呼んでいるという感じが出てくる。こっちのほうが物語の構造とよく合っている。

「ばか」はイワンの本質ではなく、他人から貼られたレッテルだ。物語の中でイワンは、自分から「俺はばかだ」と考えているわけではない。「お前はばかだ」と周囲から評価されている。

しかし、その「ばか」と呼ばれる性質は、欲深くないことであり、他人を出し抜かないことであり、権力を求めないこと、戦争を好まないこと、自分で働き、惜しみなく他人と分け合うことだ。それが、物語が進むにつれて、むしろ美徳として見えてくる。

「ばか」という言葉の意味そのものが反転する。だから、「イワンはばかである」というタイトルより、「イワンには『ばか』と呼ばれるところがある」という距離を感じさせる「イワンのばか」の方が、皮肉が効いているとも読める。

社会はイワンを、「ばか」という一つのカテゴリーに入れた。しかし、そのカテゴリーに入れられたイワンが、実際には社会の「賢さ」のほうを問い返してしまう。「ばか」という分類によってイワンを理解したつもりになった社会のほうが、イワンによって理解し直される。

「多様性」と「複数性」の違いにも少し似ている。社会が「この人はこういう人」と分類した瞬間に、その人を理解したつもりになる。しかし、実際の人間はその分類からはみ出してくる。『イワンのばか』では、まさに「ばか」というラベルそのものが物語の最後には揺らいでしまう。

 

 

サン=テグジュペリの「夜間飛行」

 

使命は人間を高める。しかし、使命が人間そのものを手段にした瞬間、それは暴力になる。

当時、危険視されていた郵便飛行に従事する飛行士ファビアンと、航空郵便会社の冷徹な支部支配人であるリヴィエール。リヴィエールは、鉄道や船よりも速く郵便を届けるため、危険な夜間飛行の事業化に挑んでいる。

ある夜、パタゴニアからブエノスアイレスへ向かう郵便機を操縦する飛行士ファビアンが、激しい暴風雨に巻き込まれる。機体は真っ暗な夜空で現在地も見失い、雷鳴と強風に翻弄される極限状態に陥った。無線も頼りにならない中、燃料の限界が迫る中でファビアンは懸命に闘い続ける。

冒頭の夜間飛行をするファビアンと、上空から見下ろす地上の貧しい農夫たちの生活の営みの対比が印象的だ。「文明の進歩」と「名もない生活」が同時に存在する。

ファビアンは上空から地上を見下ろす。彼にとって地上の農夫たちは、小さな家々と、わずかな灯りとしてしか見えない。彼は地上から離れることで、普通の人間の生活からも離れている。

地上の人々は、小さな灯、家族との食事、睡眠、明日の仕事という連続した生活の中にいる。それに対してファビアンは、雲と夜間飛行の危険な世界にいる。「空を飛ぶこと」は自由であると同時に、孤独になることでもある。

そして、全体を見渡せる視点を獲得すると、個々の人間の具体的な生が見えなくなる。昼間なら、地上の世界はもっと細部まで見える。しかし夜になると、ファビアンに見えるのは小さな灯りだけになる。

夜は、人間の生活を隠してしまうと同時に、「人間が生きている」ということだけを浮かび上がらせる。

悪天候に苦戦するファビアンが搭乗する機体の燃料が残り半時間だと知った支配人であるリヴィエールは、ファビアンの死を覚悟する。やってきたロビノーに「ロビノー君、人生には解決方法なんかないのだよ。人生にあるのは前進中の力だけなんだ。その力を創り出さねばならない」と言う。

リヴィエールが直面しているのは、ファビアンを救いたいが、しかし救助できる手段がない。飛行を止めれば航空路の発展そのものを諦めることになるという、どちらを選んでも何かを失う状況だ。だから「正しい解決策」を探しているわけではない。

むしろ、解決できない状況の中でも、それでも次の一歩を生み出す。これがリヴィエールにとっての「前進中の力」だ。サン=テグジュペリが描く「行動する人間」の倫理がある。

その後、リヴィエールは、不安に追い立てられ面会に来たファビアンの妻と対面する。「個人の幸福・家庭の愛」と「大いなる義務・仕事の遂行」という対立する二つの世界が衝突する。

妻の側だけが「人間的」で、リヴィエールの側が「非人間的」という単純な話ではない。リヴィエールにも、人間の命を軽視したいという単純な欲望があるわけではない。彼は彼なりに、「この飛行を成功させることが、これからの人間の世界を切り開く」と信じている。

一方、妻にとっては、「未来の航空文明より、今ここにいる夫の命のほうが大切だ」というのが当然だろう。だから二人の間には、単純な「正解」がない。「大きな目的のために個人を犠牲にすることは許されるのか?」と言う問い。

人間は、互いに両立しない価値の間で、それでも決断して前進しなければならないという現実を描いている。そして「妻に会う」ことによって、リヴィエール自身も変わる。

リヴィエールは、それまでファビアンの死を「運航上の事実」として受け止めようとしていた。しかし妻を目の前にすると、「ファビアンの死が、誰かの人生を破壊する」ということが具体的になった。つまり、ファビアンの死が単なる数字や事故ではなくなる。

この瞬間、「仕事の論理」と「人間の論理」が同じ場所に現れる。リヴィエールは自分の決断の人間的な代償を直視させられた。これは冒頭の「地上の灯り」ともつながっている。

ファビアンが空から見る地上には、小さな灯りがある。その灯りの一つ一つには、誰かの家があり、家族がいて、生活がある。ところが航空機の運航という「大きなシステム」の視点から見ると、それらは小さな点になってしまう。そして今度はリヴィエールの前に、ファビアンの妻が現れる。

冒頭では「空から地上を見る」ことによって消えていた一人の人間が、ここでは妻の姿によってリヴィエールの前に戻ってくる。

『夜間飛行』の「前進」は、単純な進歩主義ではない。未来は保証されていないし、犠牲も避けられない。その上、完全な解決策もない。それでも人間は、何らかの方向へ進むしかない。そして妻との対面によって、その「前進」の代償が可視化される。

リヴィエールは「未来を創るためには前進しなければならない」と考える。しかしファビアンの妻は、その未来よりも先に、いま失われようとしている一人の人間を愛している。サン=テグジュペリは、この二つの両方を真実である場所に置いている。

この小説は、「他者を犠牲にしてでも前進することの悲劇」と「それでも前進せざるをえない人間の悲劇」を同時に描いている。
 

 

サン=テグジュペリの「星の王子さま」

 

 

「かんじんなことは目には見えない」

飛行士の「ぼく」は、子供の頃、描いた絵を大人たちに理解してもらえなかった。飛行士は、子どもの頃に「ゾウを飲み込んだウワバミ」を描いて大人に見せたが、大人はそれを、「帽子」だと思ってしまう。

そこで飛行士は、ウワバミの内部まで描いた「説明図」を描き直したが、しかし大人たちは、地理や歴史、算数について話すことを勧めた。大人は、目に見え、説明できる既知のカテゴリーにしか関心を持っていなかった。

それで、絵描きになる夢を諦め、飛行士になった「ぼく」は、砂漠に不時着した。エンジンを修理しているところに、突然、星の王子様が現れ、「羊を描いてよ」と言う。飛行士は最初、普通の羊の絵を描いて王子様に見せた。

しかし王子さまは、「この羊は病気で今にも死んじゃいそうじゃないか。描き直してよ」と言う。そこで、飛行士はただの箱を描いて「羊はその中にいるよ」と言い渡した。王子さまは、その箱を見て、「この中に自分の羊がいる」と想像し喜んで絵を受け取った。

王子さまにとって重要なのは、完成された「羊の姿」ではなく。まだ見えていない可能性だ。さらに重要なのは、飛行士と王子さまが同じものを見ているわけではないことにある。飛行士は「箱」として見ているが、王子さまは「その中にいる羊」として見る。

「絵」がコミュニケーションになっているが、他者とのコミュニケーションでは、相手が自分と同じものを見ているとは限らない。それでも、絵を媒介にして意味を共有できる。

飛行士が最初に描いた羊は、ある意味で完成しすぎていた。「これが羊です」と対象を確定してしまう。王子さまはそれを拒否した。そして「箱」を受け取る。箱の中身は決定されていない。そこには、「あなたが必要とする羊」という余白がある。

だから王子さまは、自分の羊をそこに見いだせる。他者をこちら側の完成したカテゴリーに押し込めないという点では、レヴィナスの『全体性と無限』における「他者の還元不可能性」と響き合う。

以前、王子様が住んでいた小さな星には、ワガママだけど愛おしい一輪のバラが咲いていた。その薔薇は美しく、香りもある。しかし同時に、言葉を話し、虚栄心が強く、わがままで、気難しく、王子さまを困らせるかなり面倒な存在だった。

王子さまは薔薇の言葉を文字通り受け取ってしまい、「この薔薇は僕を愛していないのではないか」と悩む。彼はまだ、相手の言葉の背後にあるものを理解できていなかった。そして、星を出た。

王子さまは、この宇宙に「薔薇は一輪しかない」と思っていた。しかし、王子さまが旅に出て地球に来ると、薔薇園を発見する。そこには自分の星の薔薇とそっくりな薔薇が、何千本も咲いている。王子さまはショックを受ける。

「自分の薔薇は、世界に一つだけだと思っていた。でも、同じものがこんなにある」ここで彼は初めて、「美しいから特別なのではない」ということに直面する。

そこへ、キツネが来て、「きみが、きみの薔薇のために費やした時間こそが、きみの薔薇をかけがえのないものにしたんだ」という趣旨のことを言う。特別だから愛するのではなく、愛するから、その薔薇が特別になる。しんぼうが大事なことと、王子さまは薔薇に対して責任があることを教わる。

薔薇は私のものだから大切ではなく、大切にしたから、責任が生じる。最初に王子さまが理解できなかったことがある。薔薇は「寒い」「風が怖い」「夜は覆いをかけてほしい」などと言う。王子さまはそれを「わがまま」と受け取る。

ところが後になって、「あの薔薇は、言葉ではなく、その弱さや不器用さによって何かを伝えようとしていたのではないか」と分かってくる。愛することとは、相手の言葉を一つ一つ文字通り判断することではなく、その人の背後にある脆さを理解しようとすることでもある。

薔薇は強そうに振る舞うが、実際には弱い。「四本の棘」で自分を守ろうとする薔薇。弱いからこそ、強がる。王子さまはそれを旅に出てから理解し始める。王子さまは「帰りたい」と思った。

飛行士が砂漠に不時着して八日目になり、水が無くなった。王子さまは、砂漠の真ん中で、「井戸を探そう」と言う。いきあたりばったりで砂漠で井戸を探すのは無謀だと飛行士は思うが、一緒に探すことにする。

王子さまは、井戸の場所を知っているわけではない。二人は、分からないまま、一緒に探し始める。飛行士は、砂漠には何もないと思っている。しかし王子さまは、「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」という。「羊の箱」と同じだ。夜が明ける頃、井戸を見つけた。

外から見ると、砂漠には何もない。しかし王子さまは、まだ見えていない井戸を秘めている場所として見る。見えないものが、見えている世界の意味を変える。世界は単なる物体の集合ではなく、関係によって意味を持つ世界になる。そこに「大切な誰か」がいることによって、世界の意味が変わる。

飛行士にとって、砂漠は意味を失った世界だ。砂漠は文字通り何もない場所だが、象徴的には、目的・効率・文明的な意味が失われた場所とも読める。ここでは人間が普段当たり前だと思っているものの価値が、根本的なところから問い直される。

そして「井戸」は単なる水源ではない。「薔薇」と「井戸」は同じテーマを持っている。物の価値は、その物だけの性質によって決まるのではなく、人間との関係によって生まれる。同じ水でも、蛇口から出てくる水と、砂漠で王子さまと一緒に探し当てた水では、意味が全く違う。

「効率」の反対側にある。二人は、砂漠を歩きながら話をする。そして、その無駄に見える時間が、最終的に水を特別なものにする。効率化すると消えてしまうものの中に、人間にとって重要な価値がある。

大人は「いくら?」と数量化する。しかし王子さまは、「どれだけ時間をかけたか」を大切にする。探すことによって初めて発見されるものがある。そして、見つけたものの価値は、それだけではなく、「誰と一緒に探したのか」によっても変わる。

飛行士と王子さまに、お別れの時がやってくる。王子は飛行士に描いてもらった箱の中の羊の「口輪」を描いて欲しがる。羊が自分の星にいる薔薇を食べるかもしれないからだ。

最初は「箱の中の想像上の羊」だったものが、次第に、「自分は羊に対してどんな責任を負うのか」という倫理的な問題に変わっていく。想像する。関係を結ぶ。相手が唯一の存在になる。そして、責任が生まれる。

しかしその後、王子さまは帰る直前になって毒蛇に咬まれる。体は消えるが、死んだのか、星に帰ったのかは分からない。その上、飛行士は羊の口輪のひもを描き忘れたことに気が付く。最後に飛行士は、夜空を見上げる。もう星々は、単なる天体ではなくなった。

どこかの星には王子さまがいる。別の星では王子さまが笑っている。だから、飛行士にとって星空は、王子さまとの記憶そのものになった。井戸は砂漠の中に隠れていた。薔薇は王子さまの星にある。王子さま自身は、今やどこにいるのか分からない。

しかし、見えないから存在しないのではない。むしろ、見えなくなったことで、王子さまは飛行士の世界全体に意味を与えるようになる。

最後に飛行士は、読者に向かって、「羊の口輪のひもを描くのを忘れてしまった」と告白する。一見すると小さなミスだが、作品の結末を決定的に曖昧にする。羊が口輪をしていなければ、羊が王子さまの薔薇を食べてしまう可能性があるからだ。

つまり、王子さまは星に帰った。そこには薔薇があるが、しかし羊の口輪のひもがないので、羊が薔薇を食べてしまったかもしれない可能性が残る。

薔薇は無事なのか?羊は薔薇を食べたのか?王子さまは本当に星に帰ったのか?死んだのか?分からない。最後に、読者から「確実な答え」を奪う。これは最初の「箱の中の羊」と対応している。

最初は「箱の中に羊がいる」だったものが、最後は「その羊が何をしたのかは分からない」。最初から最後まで、読者には見えないものが残される。読者が物語の続きを想像しなければならなくなる。最初は大人に想像力を理解してもらえなかった飛行士が、最後には読者自身に想像する余地を残す。

 

D「エロスにおける主体性」

「他者」だけでなく「私」が変わる。子を可能にするエロス的関係によって、主体である私はどのような存在になるのか。

「主体性=自己同一性」ではない。第二部では、享受する身体→ 住居→ 労働→ 所有→ 自立した〈私〉という形で、主体が形成された。第三部では、〈私〉→ 顔→ 他者→ 責任となり、「私」は他者に対する責任によって主体になるという方向へ進んだ。

Dではさらに一歩進み、エロスと繁殖性においては、私が「自分と同一の私」であることそのものが揺さぶられる。なぜなら子どもによって、「私から出てきた、私ではない者」が現れるからだ。

Cで出てきた、「私は私の子である」。これは、「子=私」ということではなく、私は子において自分を超えるが、その子は私ではないという二重性のこと。したがってエロスにおける主体性は、「自分を完全に保持する主体性」ではない。むしろ、自分自身を超えることのできる主体性。

レヴィナスの繁殖性は、自己を捨てる→ 他者になる、ではない。私→ 子→ 私ではないという関係。私は私のまま。しかし、私の生が私自身の内部に閉じなくなる。したがって、エロスにおける主体性とは、自己同一性を維持しながら、自己同一性を超えていく主体性と言える。

ここで「父性」が重要になる。レヴィナスが問題にしているのは、自分から生まれた者が、自分から独立して生きるという構造。だから父性とは、自己の外部に、自分自身とは異なる主体を産出することと考えられる。しかもその主体は、私が所有する作品ではない。

だから「主体性」は支配ではなく「生成」に近づく。第二部の主体性は、自分で生きることだった。第三部では、他者に責任を負うことになり、そして第四部Dでは、自分とは異なる主体を未来へ開くことになる。

したがって、自立→ 責任→ 繁殖性→ 未来という形で、主体性の意味が変化していく。

エロスは「自己を失わせる」のではない。ここでBのエロス論とつながる。エロスには、他者に近づきたい、他者を愛したい、他者の喜びを自分の喜びにしたいという強い自己超越がある。しかし同時に、エロスには享受がある。

つまり、「私はあなたとの関係を楽しんでいる」という自己への帰還もある。だからエロスは、自己喪失ではなく、自己への帰還と自己超越が同時に起きる。これがA・Bで言われた「両義性」。Dでは、この両義性が主体性そのものにまで及ぶ。

「私」と「他者」の関係が、単純な二項対立ではなくなる。第三部の顔の倫理では、基本的に、私 ― 他者という構造だった。第四部ではエロスと繁殖性によって、その構造が別の形になる。

私⇔愛する他者
  ↓
 子

この子は、私でもない。愛する相手(恋人、配偶者など)でもない。しかし二人の関係から生まれる存在。したがってエロスは、「私と他者」という二者関係の内部から、新しい他者を生み出す。

ここから「複数性」が生まれる。二人のエロスだけなら、二人だけの世界になり得る。レヴィナス自身、エロスをある意味で「二人の利己主義」として捉えている。しかし子が生まれると、私、他者、子となる。

さらに、子→ 子の他者→ 兄弟→ 第三者と関係が増えていく。つまり、エロスによって閉じられた二者関係が、繁殖性によって複数性へ開かれる。

そして「主体性の刷新」とは何か。子どもの誕生は単に「新しい生命が増える」ことではない。親である私は、「私はこの子に対してどういう存在なのか」という新しい仕方で自分自身を経験することになる。つまり、新しい他者の出現が、新しい私を生む。これが主体性の刷新だ。

ここでレヴィナスの「主体性」は矛盾を抱える。第三部では、他者への責任が主体性を成立させた。ところが第四部では、エロス・繁殖性によって主体性が未来へ開かれる。

すると、主体は他者に対して責任を負う存在なのか?それとも子を通じて未来へ自己を延長する存在なのか?という緊張が出てくる。レヴィナスはこれを単純にどちらかに決めない。むしろ、責任・エロス・繁殖性・未来という異なる超越の仕方を重ね合わせている。

だから第四部は、第三部の倫理を捨てるのではなく、倫理的主体が、愛・身体・世代・時間の中でどのように生きるのかを探っている、と考えるとよい。

エロスにおける主体性とは、自分を失うことなく、自分とは異なる者を未来へ送り出すことで、自らの主体性を自己の現在から解放することである。

1. エロスの基本構造:融合と区別の同時性
レヴィナスはまず、エロスを「官能」として捉える。官能とは、愛する者と愛される者が一致する経験ですが、同時に両者の二重性に荷電されている、とされる。

つまり、融合(一体感)が生じる一方で、区別(他性・距離)が完全に解消されることはない。この維持された二重性は、愛する側の利己主義が「愛されることによる承認」を意図的に求める、といったものではない。

「愛されることを愛する」ことは、主体が自分の官能を外側から思考するような意図ではなく、むしろ主体そのものを変容させる経験だ。

「融合」と「区別」が同時に成立する。エロスでは、愛する者と愛される者が非常に近づく。しかし、近づくこと=一つになることではない。レヴィナスにとって、完全な融合はむしろ他者性の消滅だからだ。

したがってエロスには、一体化するほど近づくが、一体化してしまわないという奇妙な構造がある。これが「二重性」。たとえば、私は相手の喜びを喜ぶ。というとき、私は相手の喜びを「自分の喜び」として経験する。

しかし、相手が喜んでいることと私が喜んでいることは完全には同じではない。この「同じではないのに、極端に近い」という関係がエロス。

「愛されることを愛する」は自己愛ではない。レヴィナスがいう「愛されることを愛する」は、「私は相手から愛されている。だから私は自分の価値を確認できて嬉しい」という心理的な自己承認とは少し違い。

つまり、「相手からの愛を、自分についての情報として認識する」という構造ではない。そうではなく、愛されることそのものの中で、主体のあり方が変わってしまう。これがDの核心。

つまり、私は「愛されている」と認識するではなく、

愛される
↓
そのことによって〈私〉そのものが変容する

ということ。だから、主体が自分の官能を外側から思考するような意図ではない。

2. 主体の変容:能動から受動へ、イニシアチブからイニシエーションへ
官能は主体を変容させる。主体はもはや、自らの力のイニシアチブによって同一性を得るのではなく、受け取られた愛の受動性によって同一性を得る。

主体は「情熱と動揺」となり、「神秘への絶えざるイニシエーション」であって、能動的なイニシアチブではない。エロスは、すでに完成した個体を基盤とする「上部構造」として解釈されるべきものではないのだ。

官能の中で主体は、「自分自身の自己」であるだけでなく、「他者の自己」として自らを見出すようになる。肉的で優しいものとの関係が、この「他者の自己」としての自己を絶えず生じさせる。

主体の動揺は、主体としての支配・掌握によって引き受けられるものではなく、「心を動かされること」であり、ある種の「自己の消去」です。英雄的・男性的な「私」が、匿名的な「ある(il y a)」を終わらせて光を開いた主体性のあり方は、ここで逆転する。

通常の主体は、私は自分から始めるという構造を持っている。これはレヴィナスがこれまで描いてきた「位置」「意志」「自由」とも関係する。私は、立つ、行動する、選択する、企てる、作ることによって「私」を確立する。つまり、主体=イニシアチブを取る者。

ところがエロスでは、この構造が逆転する。私は、自分から始めるのではなく、何かによって始めさせられる。イニシアチブからイニシエーションへ変化する。「自発的な開始」から「何かへの加入・導入」へという変化だ。

「心を動かされる」とは何か。しかしエロスでは主体は、他者との接近→ 私が動かされる→ 私自身の主体性が揺らぐとなる。だからこれは、「私が他者を動かす」という関係ではなく、むしろ、他者との関係によって、私自身が動かされてしまう。この「しまう」が大切。

自分の意志で選択したというより、いつの間にか自分の主体性そのものが変化している。「自己の消去」は、自己の消滅ではない。「自分を自分だけで規定できる」という自己主権が消える。つまり、私=自分自身によって完全に決定される存在というモデルが崩れる。

しかし、私そのものが消えるわけではない。むしろ、「他者によって動かされる私」として、新しい主体性が現れる。

レヴィナスはこれまで、il y a(ある)という匿名的な存在から、位置する私が出現することを論じてきた。

つまり、

il y a
↓
位置
↓
身体
↓
享受
↓
私
↓
意志
↓
自由

という流れ。ここでは、「私が立ち上がる」ことが主体性の成立だった。

ところがDでは、

確立された私
↓
エロス
↓
動揺
↓
受動性
↓
他者によって動かされる私

となる。

つまり、一度成立した主体が、再び主体性の内部から揺さぶられる。

英雄的・男性的な『私』が、匿名的な『ある(il y a)』を終わらせて光を開いた主体性のあり方は、ここで逆転する。「ある」から「光」を開いた主体が、再び光だけではない場所へ行く。

ただし「逆転」は、主体が再びil y aに戻るという意味ではない。そうではなく、主体が、自分自身を成立させた「能動性・光・自己同一性」だけでは説明できない場所へ入るということ。だから、il y aへの回帰ではない。むしろ、主体性そのものの内部に、受動性・動揺・他者性が入り込む。

3. 主体性の逆転と「他者の自己」としての私
エロス的関係では、位置から生じる主体性の特徴的な逆転が起こる。私は回帰することなく湧き上がり、「他者の自己」として自らを見出す。私の快楽や痛みは、他者の快楽や痛みに対する快楽・痛みとなる(ただし同情や憐れみを通じてではなく)。

この主体性は、表象を担ったり権力を行使したりする構造ではなく、繁殖性において絶対的に超越するものだ。未来は、過去に回帰して運命を描くものではなく、絶対的な未来として残る。

「他者の自己として自らを見出す」は、この節を読むうえで重要。一見すると矛盾している。私が「他者の自己」に?しかし、これは、「私は他者そのものになる」という意味ではなく。私は、他者との関係なしには成立しない私として自分を発見するということ。

つまり、「私は私である」という自己同一性が、「私は他者との関係の中で、他者によって動かされる私である」という形に変わる。

私の快楽や痛みは、他者の快楽や痛みに対する快楽・痛みとなる。レヴィナスは、これを単なる同情・共感として扱っていない。同情なら、「相手が苦しんでいる。だから私はかわいそうだと思う」という構造になる。つまり、私は相手の状態を認識して、それに反応する。

しかしエロスではもっと直接的だ。相手の喜びが私を喜ばせる。ここでは、私 → 相手を認識 → 私が反応という表象構造ではなく、他者の喜び ⇔ 私の喜びという密接な絡み合いが生じる。それでも両者は完全に同一にはならない。これが最初の「融合と区別」の問題に戻っていく。

したがってDでも、自己への回帰と超越が同時に起こっている。自己への回帰私は快楽を経験する。つまり、「私」が消えるわけではない。超越しかし、その快楽は、他者の快楽によって生じている。したがって、「私の快楽」なのに、「他者の快楽についての快楽」でもある。

だから、私の中に他者が入り込んでいる。しかし他者は私になっていない。この二重性こそエロス。

4. 繁殖性への移行:同一性を保ちつつ他なるものとなる
エロスは、論理的な意味での「自己同一的な主体」に結びついている(必要と同じように)。しかし、エロスが必然的に未来(繁殖性)を参照するとき、まったく異なる構造が明らかになる。

主体は、自分がこれからなすすべてのことだけではない。他性との関係を「思考」や「主題としての所有」や「呼びかけとしての発話」の構造では維持しない。主体は、自分自身でありながら他なるものとなる。しかも、以前の自分と新しい自分を結ぶ共通の残滓を通じてではなく。

この変容と同一化の同時性が、繁殖性における父性を構成する。ここで欲望は、満たされることなく維持された欲望として(すなわち善さとして)成就される。欲望の成就は、満足ではなく、「善い存在を産み出すこと」に等しいとされる。

エロスだけなら、私 ⇔ 他者という二者関係だが、しかしレヴィナスは、この関係が未来を指し示すことを問題にする。すると、私と他者の関係から、私たちとは異なる新しい主体が現れる。これがCで扱った繁殖性。

そしてDでは、そのことを、主体そのものが「自分自身でありながら、自分とは異なるものになる」という観点から捉え直す。

「以前の自分と新しい自分を結ぶ共通の残滓を通じてではなく」。普通なら、昔の私 → 今の私という自己同一性を考える。例えば、「昔の自分にも今の自分にも同じ本質がある」という説明。しかし、繁殖性では、そういう共通の本質によって連続するのではない。

むしろ、私とは異なる者が、私から出てくる。だから、同一性による連続ではなく、他性を含んだ連続なのだ。

レヴィナスは、「主体とは、自分自身を支配する者である」という考えを、段階的に解体している。最初は、主体=自分自身を所有する私だった。第三部では、主体=他者に責任を負う私になる。そして第四部Dではさらに、主体=他者によって動かされ、自分自身を超えることのできる私へ進む。

ただし、ここにはレヴィナス特有の危うさもある。この節では「女性的なもの」「父性」「繁殖性」がかなり密接に結びついている。そのため現代的には、なぜ「主体の自己超越」が、エロス・女性・繁殖・父性という構造で語られなければならないのか?という批判が生じる。

特に、女性=受動性・秘密・柔らかさという構図には、性別役割の固定化という問題がある。したがって、哲学的構造としての「受動性」と、現実の女性に「受動的であること」を要求することは分けて読む必要がある。


E「超越と繁殖性」

私は自分を超えて、しかも私であり続けられるか。まずレヴィナスが問題にするのは、超越とは何かにある。普通、「超越する」と言うと、私が現在の自分を超えて、別の段階へ進むという意味になる。しかし、これでは問題が残る。

たとえば、私 → より高い私となっただけなら、結局「同じ私」が変化しただけだが、逆に、本当に「私ではないもの」になるなら、私 → 私ではないものとなり、もはや「私が超越した」とは言えない。

つまり、「自分を超えながら、自分自身を失わない」という超越は、普通の存在論では非常に難しい。レヴィナスはここで、西洋哲学が基本的に一者=存在という方向に傾いてきたと考える。複数性も、結局は「複数の一者」として数えられる。つまり、私+あなた+彼=3人という形。

しかしレヴィナスが求めているのは、単に「一者が複数存在する」という複数性ではなく、存在することそのものの中に、すでに複数性・外部性・超越が入り込んでいること。

「未来」は、私の可能性ではない。ここでハイデガーとの違いが重要になる。ハイデガーなら、未来とは基本的に、私がこれから可能性を引き受けていくことだった。つまり、未来=私の可能性という構造がある。レヴィナスはこれだけでは不十分だと考える。

なぜなら、「未来に向かう私」があくまで「私自身」であるなら、未来さえも私の所有物になってしまうからだ。「私は将来こうなる」「私はこの可能性を実現する」「私はこの人生を完成させる」という形だ。これは、ある意味では未来まで〈同〉の中に回収することになる。

そこでレヴィナスは、別の未来を考える。それが繁殖性。繁殖性とは「子どもを作ること」だけではない。レヴィナスは生物学的な意味で、「子どもを作れば人間は超越できる」と言っているわけではない。重要なのは、生物学ではなく、私から出てきたのに、私ではないものという構造。

レヴィナスは、「私は私の子である」という、一見矛盾した言い方をする。しかし同時に、子どもは私ではない。私の作品でもない。私が詩を書けば、その詩は私の作品だ。したがって、私 → 作品という関係では、作品は結局「私のもの」にできる。しかし、子どもは違う。

私は子どもを所有できない。子どもは私から生まれながら、私から絶対的に離れている他者だ。「私は子どもを持つ」のではなく、「私は子どもである」。ここがこの節の核心。

普通なら、「私は子どもを持っている」だろう。しかし「持つ」なら、子どもは私の所有物になってしまう。そこでレヴィナスは、私は子どもを「持つ」のではない。私は子ども「である」と言う。しかし、もちろん、子ども=私ではない。ここにレヴィナス特有の逆説がある。

子どもは私であり、しかも私ではない。つまり、同一性を保ちながら、同一性を超えている。ここで「他者」が、未来になる。

第三部までのレヴィナスでは、他者=顔を持って私の前に現れる者だった。私は他者に呼びかけられ、「汝殺すなかれ」という命令を受ける。つまり、他者は私の現在に侵入してくる超越だ。ところが第四部では、さらに一歩進み。他者は単に「今ここにいる他者」ではない。

他者との関係は、私の時間を超えて続いていく未来を開く。だから繁殖性は、単なる生物学的な「子孫を残す」という話ではなく、私の生存期間を超えてなお、私とは異なる者が未来を開くという時間論なのだ。

「死」と「繁殖性」は対になっている。レヴィナスにとって死は、私が支配できない未来だ。私は自分の死を経験して、「これが私の最後だ」と確認することはできない。死は私の可能性を超えている。ところが、繁殖性もまた私の支配を超えた未来を開く。

つまり、死は、私の存在を超える未来。繁殖性は、私の存在を超えて続く未来。死では、私の未来が閉じられる。繁殖性では、私の未来が、私ではない者によって開かれる。

だからレヴィナスにとって、繁殖性は単なる「生命の継続」ではなく、有限な私が、有限性を超える時間に参与する仕方になる。私でありながら私ではない者によって、私の未来が私を超えて続いていく。



F「子であることと兄弟関係」

父と子の関係によって、単なる「同じ種・同じ集団」の一員ではない、絶対的に異なる者たちの共同性が可能になる。

ここでレヴィナスは、父子関係 → 子であること → 兄弟関係 → 人間の共同体という流れを作ru
。重要なのは、兄弟とは「似ている人」ではない。ということ。普通、「兄弟」という言葉を考えると、同じ親、同じ血、同じ家族、似た者同士というイメージになるが、

しかしレヴィナスは、共通の起源があるから同じなのではなく、共通の父との関係を持ちながら、それぞれが絶対的に異なっているという方向へ進む。E節で見たように、子どもは「作品」ではない。父から生まれることと、父と同一であることは別で、ここから「子であること」が重要になる。

では、なぜ「兄弟」が出てくるのか。父と子だけなら、私 → 私の子という一対一の関係だが、しかし、父 → 子A子B子C……となれば、子どもたちは互いに兄弟になる。ここで重要なのは、AとBは同じではないということ。AとBはそれぞれ唯一の存在だ。それなのに、AとBは兄弟である。

つまり、「異なった者同士が共同性を持つ」という構造が成立する。これが極めて重要。「共通性」と「同一性」は違う。普通の共同体は、共通の民族、共通の血、共通の文化、共通の言語、共通の価値観、共通の利益などによって、「私たちは同じ仲間だ」と考える。

しかし、この場合、共同体=同一性になりやすい。つまり、同じだから仲間、違うから外部となる。レヴィナスはこれを問題にする。兄弟関係の場合は、私たちは同じではない。しかし兄弟である。という構造になる。したがって、共同性は同一性を必要としない。これがF節の非常に重要なポイント。

「多様性」と「複数性」は違うのではないかという問題に、まさに関係する。「多様性」は場合によっては、男性/女性、日本人/外国人、若者/高齢者、障害者/健常者、○○派/△△派というように、カテゴリーの多様性として整理できる。

すると、「あなたはどのカテゴリーですか?」と分類できる。しかしレヴィナスの「複数性」はもっと根本的で、そもそも他者は、私が作った分類によって完全には把握できない。それでも、他者と共に存在する。これが複数性。

だから兄弟関係は、「同じカテゴリーに属するから一緒」ではなく、「絶対に異なる者同士が、それでも関係を持つ」という共同性のモデルになる。

「人類」という概念だけでは兄弟愛にならない。たとえば、「人類はみな同じ人間だ」と言うことがある。これは一見すると普遍主義だ。しかし、人間という同じ「種」に属する。だからみんな兄弟とすると、兄弟性を「同類性」に還元してしまう。レヴィナスはこれを拒否する。

なぜなら、AとBが同じ人類というカテゴリーに入ることと、AがBに対して責任を負うことは別だから。「人類」という抽象概念から倫理的な関係が自動的に出てくるわけではない。むしろ先に、目の前の唯一の他者との関係がある。その関係から「兄弟性」が生じる。

「兄弟」は血統ではない。レヴィナスは、兄弟性を血統・人種・民族的同一性から切り離す方向へ持っていく。だから、「同じ民族だから兄弟」ではない。むしろ、異なる者同士が、それぞれ唯一の者として存在しながら、兄弟として関係する。

さらに、「父」は、生物学的な父親だけではない。むしろ、「父」は、複数の唯一者を、同一化せずに関係づけるものとして働いている。だから「共通の父」がいるということは、みんな同じものから作られたという意味ではない。

むしろ、共通の関係を持ちながら、それぞれが別々の者であるということ。この意味で、レヴィナスが「一神教」を人間の兄弟性と結びつけるのも理解できる。一つの神の下にいるから人間が同一になる、という意味ではない。

むしろ、一つの超越者との関係を持つ複数の唯一者として人間が並び立つ。

さらに重要なのは、兄弟性が「顔」と無関係ではないということ。第三部でレヴィナスは、他者の顔に出会うことは、私を人間の兄弟性へ置くという方向の議論をすでにしている。つまり、私 → 他者の顔という一対一の倫理関係が、私 → 他者 → 他の他者という複数性へ広がる。

ここで「第三者」の問題が出てくる。私が一人の他者に責任を負っているところへ、もう一人の他者が現れる。すると、「私はこの一人だけを無条件に優先すればよいのか?」という問題が出てくる。ここから、正義・比較・制度・社会が必要になる。だから「兄弟性」は政治の入口になる。

顔の倫理は、私 ⇔ 他者という非対称な関係だ。しかし現実には、私、他者A、他者B、他者C……と複数の他者が存在する。そこで、Aにも責任がある。Bにも責任がある。Cにも責任があるとなる。すると、誰に何を与えるのか?という問題が発生する。これが正義。

つまり、顔 → 第三者 → 兄弟性 → 正義 → 社会という流れが見えてくる。だからレヴィナスにおいて、正義は倫理の反対物ではない。むしろ、倫理が複数性の世界に入ったときに必要になるものなのだ。

これは以前感じた、「正義には暴力的な面があるから正義そのものを否定する」ことへの違和感ともつながる。レヴィナスなら、正義は比較する。比較する以上、ある意味では暴力を含む。しかし、複数の他者に責任を負う以上、正義を避けることもできないという方向になる。

ただし「兄弟=対称的な仲間」ではない。普通、兄弟なら対等、互いに助け合うと考える。しかしレヴィナスの倫理は、単純な「お互い様」ではない。私の責任は、「相手も私に責任を負ってくれるから」生じるのではない。相手が私に何か返してくれるかどうかに先立って、私は責任を負う。

したがって、兄弟性も単純な相互扶助ではない。これは、レヴィナスの非対称性とつながっている。兄弟性は一般的な「同類性」ではなく、他者との倫理的関係から生じるものだ。「兄弟だから平等」ではなく、「唯一者だから平等」。

平等とは「みんな同じだから平等」なのではなく、「誰も代替可能な単なる一個体ではないから平等」だ。人間の価値を有用性や分類可能性によって測ってはいけない。




G「時間の無限」

「時間とは何か」への最終回答の節。レヴィナスがここで問うているのは、どうすれば時間は本当に「未来」になりうるのか?という問題。

普通、時間は、過去 → 現在 → 未来という一本の線として考える。現在の次に未来が来て、未来はやがて現在になり、その現在は過去になる。しかし、レヴィナスからすると、これは本当の意味での「未来」ではない。なぜなら、未来が結局、現在になるからだ。

つまり、未来をどれほど先まで延ばしても、現在 → 未来 → さらに未来 → ……というだけなら、すべてを一つの連続した時間として把握できる。すると未来は、結局、「まだ現在になっていない現在」にすぎない。

レヴィナスが問題にする「連続した時間」。

もし時間が完全な連続体なら、

現在A
↓
現在B
↓
現在C
↓
現在D

というふうに、すべての瞬間が一本の線でつながる。

すると、未来には本当の意味での新しさがない。未来は、現在の延長だから。つまり、連続性だけでは「絶対的な新しさ」を説明できない。これがレヴィナスの問題。レヴィナスの「時間の無限」は単なる無限に長い連続時間ではなく、断絶を含む時間だ。

まず「無限」とは「ものすごく長い時間」のことではない。レヴィナスの「時間の無限」は、100年→ 1000年→ 100万年→ 永遠という意味ではない。レヴィナスのいう無限とは、未来が、現在の延長として完全には回収できないことだ。したがって、無限=時間の長さではなく、未来の超越性なのだ。

だから「死」が重要になる。レヴィナスにとって死は、私が完全に把握できない未来だった。私は、「自分が死ぬ」という出来事を、自分の現在の経験として完全には所有できない。死は、私の可能性を超えている。だから死は、私の時間を断ち切る。しかし、ここで問題が生じる。

もし死によって、私の時間 → 完全な終了となるなら、未来は私にとって存在しない。そこでレヴィナスは、死によって閉じられる有限な時間に対して、それでも未来が開かれる可能性を探す。それが、前節までの繁殖性。繁殖性が「時間の無限」を可能にする。

E・F節で、私は、子どもを持つ。しかし子どもは、私ではない。ところが、私から生まれた。私から出てきたが、私とは別の者。ここに「時間の断絶」がある。私 → 子、という関係は、私の代わりに、私ではない者が未来へ入っていく。

だから未来は、私の連続的な延長ではなく、私からの断絶によって生まれる新しい時間になる。要約すると、繁殖性は「無限で不連続な時間」を開き、主体をその事実性から解放して、「別の者であること」を可能にするもの。

父は、子どもの中に自分を残すのではない。自分とは別の者を未来へ送り出す。つまり、普通の自己保存は、私 → 私 → 私 → 私……なのに対して、繁殖性は、私 → 他者 → 他者 → 他者……となる。しかも、「他者」は単なる私のコピーではない。だから、時間も単なる反復ではない。

子どもは、私から生まれる。だから何らかの意味では、私の「反復」だ。しかし、私ではない。したがって、同一性の反復ではなく、差異の反復なのだ。これによって、過去 → 現在 → 未来という単純な連続ではなく、一つの世代 → 新しい世代という「断絶を含んだ時間」が生まれる。

だから「時間=新しい始まり」になる。レヴィナスにとって主体は、一度成立したものが、そのまま存在し続けるものではなく、常に新しく始まることができる。G節では、この「始まり」が時間そのものの構造として考えられる。

つまり、未来とは、現在から予測されたものではなく、現在にはなかった新しい始まりが生じること。ここで「時間」と「超越」がほとんど同じ意味になってくる。

ハイデガーでは、現存在は、死への存在として自分自身の可能性を引き受ける。未来は、私自身が自分の可能性へ先駆することと深く結びついている。つまり、未来=私自身の可能性という構造がある。しかしレヴィナスは、それでは未来がまだ「私のもの」すぎると考える。

だからレヴィナスは、私の可能性ではない未来を考える。それが、他者、子、第三者によって開かれる未来だ。この意味で、レヴィナスの時間は、「死へ向かう私の未来」ではなく、「私を超えて他者へ開かれる未来」になる。

第三部Cの4節「意志と時間―忍耐」でレヴィナスは、私は自分の行為の結果を、自分の生の中ですべて回収できるわけではないということを考えていた。

これは近代的な生産性の論理への批判に通じる。普通なら、「努力する。結果を得る。自分が確認する」という構造を求める。しかしレヴィナスにとって、本当の時間は、自分が結果を完全に所有できないことを含んでいる。その意味で、忍耐=未来を所有しないことでもある。

そして繁殖性では、未来そのものを他者に委ねるところまで進む。

最近の若者が「時間対効果(タイムパフォーマンス)」 を重視するが、タイパの発想は「未来を現在に回収する」。同じ時間なら、より多くの成果を得たい。同じ成果なら、より短い時間で達成したいという発想がある。

これは仕事だけでなく、映画を倍速で見る、長い動画を要約で済ませる、結論を先に知る、本を「必要なところだけ」読む、待ち時間をなくす、学習を最短ルートで終わらせるといった行動にも現れる。

無論、必ずしも悪いことではない。時間や体力には限界があり、効率化によって自由な時間を増やせる場合もある。しかしレヴィナスから見ると、ここには一つの危険がある。「まだ分からないもの」「まだ到来していないもの」を、現在の自分の目的に従って先取りしてしまうことだ。

「時間」が「成果を回収するための容器」になってしまう。映画を2時間見たが、何を得たんだ?人と1時間話したが、何か役に立った?というふうになる。時間が、「何かを生産して回収するための資源」になる。

レヴィナスにとっては、私の行為の意味や結果が、必ず私の生存期間の中で、私自身によって確認されなければならないという必要はない。むしろ、私の行為が私の手を離れ、私には回収できない未来へ委ねられることが重要になる。

レヴィナスのいう忍耐は、「我慢して待ちましょう」という精神論ではない。もっと根本的に、未来を自分の現在の支配下に置かないということ。たとえば、本を読むとき「この本から何を得られるか?」だけを考えて読むなら、本を自分の目的に従属させている。

しかし本当に重要な読書では、読んでいる途中では何の意味があるのか分からない。しかし、数年後に突然理解できる。そのとき初めて、あの読書が自分を変えていたことに気づくということがある。これはタイパ的には評価しにくいことだ。成果がいつ現れるのか分からないから。しかし、レヴィナス的には、まさにそこに「未来」がある。

この節の核心部分・繁殖性の非連続的時間と「赦し」

個人の時間は、自己への回帰によって「取り返しのつかないもの」を生み、老いと死の切迫を招く。記憶は過去を保存するが、現在を過去の重荷で制限する。これに対し、繁殖性の非連続的時間が決定的な役割を果たす。

それは絶対的な若さと再開を可能にする。再開は過去との関係を保ちつつ(記憶とは異なる自由な回帰・解釈・選択として)、全面的に赦された存在として行われる。「この瞬間の再開、死すべき老いていく存在の生成に対する繁殖性の時間の勝利とは、時間の働きそのものとしての赦しである」。

赦しはここで重要な概念。赦しは過去の瞬間に遡及的に作用し、過去を「なかったかのように」しつつも、浄化された形で保持する(忘却とは異なり、過去との関係を断たない)。赦された存在は無垢な存在ではなく、和解の奇妙な幸福を含む。

この赦しのパラドクスは、時間そのものを構成するものだ。瞬間は無関心に連続するのではなく、他者から私へと伸びていく。未来は、絶対的な間隔を隔てて、絶対的に他なる他者(たとえ息子であっても)によってのみマークされ、過去と結ばれる。

レヴィナスにとって「赦し」は、時間の中で過去を消すことではなく、過去によって現在が完全に決定されることを破る働きだと理解すると、とても分かりやすくなる。

まず「取り返しのつかなさ」が問題になる。レヴィナスは、通常の時間を単純な「過去→現在→未来」という流れとして考えない。私が生きていると、「行為する。その行為が過去になる。その過去はもう変更できない」という構造が生じる。

あの時あのことを言った。あの選択をしてしまったという出来事は、現在から見れば「もう起きてしまったこと」だ。過去は私の外に固定されてしまう。そして記憶によってその過去を保存すると、「私はあの時こういうことをした人間だ」という形で、過去が現在の私を規定するようになる。

したがって、記憶は過去を保存する一方で、過去の重さを現在に持ち込む。ここに「取り返しのつかなさ」の問題がある。

では「赦し」は何をするのか。重要なのは、赦し=忘却ではないということ。忘却なら、過去を消してしまうことになる。しかし、それでは過去との関係そのものが失われる。レヴィナスの「赦し」はむしろ、過去を過去として残しながら、その過去が現在を最終的に拘束する力を解除するもの。

つまり、忘却では、過去は消える。赦しでは、過去は残る、しかし、その過去によって現在が完全には決定されないという違いがある。

だから「赦された人」は無垢な人ではない。「赦された存在は無垢な存在ではなく、和解の奇妙な幸福を含む」。赦された人は、「私は何も悪いことをしなかった」人ではない。私は確かに間違えた。しかし、その間違いだけによって私の未来が決定されるわけではないという状態。

だから赦しは、過去を否定することではなく、過去から新しく始められることなのだ。

ここで「絶対的な若さ」が出てくる。レヴィナスのいう「若さ」は、単なる年齢ではなく、「若い」とは、もう一度始めることができるということ。だから老人でも「若く」あり得るし、若者でも「老いて」いることがある。

ここでの「老い」は、過去が現在を完全に規定してしまい、もう新しく始められない状態に近い。逆に「若さ」とは、過去を持ちながら、そこから新しく始める可能性のことだ。したがって、赦し=若さ=再開というつながりができる。

そして、この「再開」は記憶とは違う。記憶も過去を現在へ戻す。しかし、記憶=過去の再現だ。それに対して赦しは、過去を現在へ呼び戻しながら、別の仕方で現在を始め直す。

つまり、記憶は、過去 → 現在「私はあの時こうだった」。赦しは、過去 → 現在「私はあの時こうだった。しかし、そこからもう一度始められる」となる。だから赦しには、記憶+自由がある。

赦しは、過去を消すのではなく、過去との関係を変える自由だ。そして、「繁殖性」と「赦し」がつながる。繁殖性では、私→子という断絶があった。私の連続的な自己延長ではない。私から断絶して、新しい者が始める。赦しも同じ構造を持っている。

過去の私 → 断絶 → 新しく始める私。つまり、繁殖性が世代間に「新しい始まり」を作るのに対して、赦しは一人の人間の人生の内部に「新しい始まり」を作ると考えると、分かりやすい。

そして、「時間そのものが赦し」とはどういうことか。レヴィナスが言っているのは、「時間が経てば自然に赦される」という意味ではない。むしろ、本当の時間とは、過去と現在が単純に連続しているだけではないということ。

もし時間が完全な連続なら、過去A → 現在Bは必然的につながっている。すると、「過去の私=現在の私」となる。過去が現在を完全に拘束する。しかし本当の時間には、過去から現在への絶対的な断絶がある。その断絶によって、「それでも、もう一度始める」ことが可能になる。これが「赦し」。

だから、赦しは時間の中で起きる一つの出来事ではなく、時間が時間であるための構造そのものとまで言える。そして「未来」も同じ構造を持つ。過去について、「過去が現在を完全に決定しない」という断絶があるなら、未来については、「現在が未来を完全に決定しない」という断絶がある。

つまり、過去は、「過去 → 現在」であり、完全には拘束できない。未来は、「現在 → 未来」であり、完全には予測・所有できない。この二つが対応している。だから、赦し=過去に対する非連続性と、繁殖性=未来に対する非連続性は、実は同じ時間構造の表と裏なのだ。

子どもは、私から生まれた。したがって、私との連続性がある。しかし、私ではない。したがって、私との非連続性もある。つまり、連続性+非連続性。これが時間そのものの構造。だから子どもは単なる「子孫」ではなく、時間が未来として成立することのモデルになる。

だから「未来」は私の計画ではない。未来を、現在の努力 → 未来の成果として考えるなら、未来は現在の計画によって所有されている。

しかしレヴィナスの時間では、

現在
↓
絶対的な間隔
↓
他者
↓
予測できない未来

したがって、未来とは、現在の計画がまだ実現していない状態ではない。未来とは、現在の私には回収できないものが到来すること。だから、タイパ的な「未来への投資」と、レヴィナス的な「未来」はかなり違う。

レヴィナスの「幸いなる罪」という表現。
罪がなかった方がよいなら、罪 → 悪。無罪 → 善で終わる。しかし赦しがあると、罪→赦し→新しい関係が生じる。つまり、赦しによって、罪を犯してしまったという過去そのものが、新しい倫理的関係を生む契機になる。

悪かった過去を、なかったことにせず、それでもそこから新しく始められるということ。これが「幸い」の意味。

第四部「顔の彼方へ」

A「愛の曖昧さ」

「愛」はなぜ「曖昧」なのか。レヴィナスにとって愛は、単純に「他者を尊重すること」ではない。むしろ愛には、互いに逆方向へ向かう二つの動きがある。

一方では「欲求」。愛する相手を自分の近くに置きたい。触れたい。抱きしめたい。自分の喜びとして相手を享受したい。これは第二部で扱われた享受・欲求に近い。つまり、「あなたを私のものにしたい」という方向。

しかし他方で、愛する相手は単なる所有物ではない。相手は私の手から逃れ続ける。完全には把握できない。完全には所有できない。だから愛には、所有したいという欲望と、所有できない他者への超越的な関係が同時に含まれる。これが「愛の曖昧さ」。

レヴィナスには、欲求と欲望の区別がある。欲求は、「自分に不足しているものを満たしたい」という運動だ。食べたい。暖かい家が欲しい。休みたい。性的な欲求も、ここに近い側面を持っている。

ところが欲望は、単なる不足の充足ではない。満たされてもなお、他者へ向かう。だからエロスには、この二つが重なる。愛は「満たすこと」なのに「満たしきれない」。普通なら、愛する→相手と一つになる→孤独が解消されると考えたくなる。

しかしレヴィナスは、愛は「一体化」ではないと言う。なぜなら、完全に一体化してしまえば、他者はもはや他者ではなくなるからだ。したがって、愛は他者を近づけるが、他者を同一化することはできない。この意味で愛は「曖昧」。近さと距離、欲求と欲望、自己と他者が同時に存在する。

節題の「顔の彼方へ」とは何か。第三部では、レヴィナスの中心は顔だった。他者の顔が私に「汝殺すなかれ」と語りかける。他者は私の欲望を満たす対象ではない。むしろ、私の自由を問い、私に責任を負わせる存在として現れる。ところが、ここで一つ問題が出てくる。

もし倫理的関係をつねに、私 ― 他者、という「顔と顔の対面」だけで考えるなら、そこにはまだ「二人だけの閉じた関係」が残っている。そこで第四部では、二人の関係が、どのように未来や第三者へ開かれていくのかが問題になる。その入口がエロスとなる。

第三部では、顔=他者が倫理的に私へ語りかける場所だった。ところがエロスでは、その顔が少し違った仕方で現れる。愛する相手は、第三部で出てきた「他者一般」のように、単純に倫理的命令を発する存在としてだけ現れるのではない。

愛には、優しさ、官能、愛撫、裸身、美、恥じらい、脆さ、無責任性、沈黙などが入り込む。そのため、顔の明瞭な倫理的意味が一度揺らぐ。エロスにおいて顔の公共性・表現性が曖昧化することとも言える。つまり「顔の彼方」とは、倫理を捨てて顔の外へ行くという意味ではない。

むしろ、顔だけでは捉えきれない他者との関係を通って、別の仕方で超越へ向かうということ。

愛は内在と超越の境界に位置する出来事。一方で、愛は他者との関係でありながら、欲求・享受・肉欲の側面を持つ。愛される者は欲求の対象となり、享受の対象となる。

ここには「自己への回帰」の契機があり、プラトン『饗宴』のアリストファネスの神話(半身同士の再結合)のように、「自己への帰還」として解釈されうる側面があります。享受はこの解釈を正当化する。

他方で、愛は愛される者を超え出る。愛される者の顔を通して、「未だないもの」「決して十分に未来ではない未来」からの「暗く不明瞭な光」が濾されてくる。つまり、純粋な欲求や融合を超えた、他性の保持が残る。

この同時性が重要で、「他者が他性を保持しつつ欲求の対象として現れる可能性」「他者を享受しつつ、言説の下にも上にも位置する可能性」「欲求と欲望、肉欲と超越、公言可能なものと公言不可能なものの接触」。これらがエロスの独自性をなし、エロスは「曖昧さそのもの」。

愛は他者との関係であり続けながら欲求へと転じ、この欲求はなお他者(愛される者)の全体的・超越的外部性を前提とする。しかし愛はまた愛される者を超えていく。愛される者の顔を通して、顔の彼方から、未だないものから、決して十分に未来ではない未来から来る暗い光が濾される。

愛は言語(言説・顔の対面)ほど純粋に超越的ではなく(より「近く」、内在的・享受的)、同時に言語を超えて未来や繁殖性へと向かう。

顔の関係は非対称的な責任・「汝殺すなかれ」の命令・言語的歓迎を特徴とする。それに対して愛(エロス)は、より私的で、謎めいたもの、美しさや柔らかさ、感動を伴い、他者を「対象」化する傾向をはらむ。倫理的な聖なる秩序が、親密な享受へと転じる。

「愛=他者への欲望」ではない。レヴィナスは、愛の中に明らかに欲求・享受・肉欲を認めている。愛される者は、私にとって単なる「倫理的に尊重すべき他者」ではなく、触れたい、抱きたい、近づきたいという身体的欲求の対象になる。

したがって、愛にはどうしても、他者を私の側へ引き寄せる運動がある。これは第三部の顔の倫理とはかなり異なる。顔の関係では、他者は私の所有や享受から逃れている。ところがエロスでは、私はあえて他者へ接近し、触れようとする。

だから愛には、ある意味で他者を「私のもの」にしようとする危険が含まれている。しかし、それでも他者は「私のもの」にはならない。もし愛が完全な融合なら、私 + あなた → 私たちとなってしまう。これはレヴィナスが最も警戒する全体性に近づく。

しかしエロスでは、どれほど接近しても、相手は完全には私にならない。むしろ、最も近づいたところで、なお相手は他者である。だから「愛撫」は、所有の完成ではなく、むしろ所有できないものへの接近になる。他者が他性を保持しつつ欲求の対象として現れる可能性だ。

「暗く不明瞭な光」は未来の超越だ。レヴィナスにとって未来とは、私が予測・計画・所有できるものではない。第三部の「意志と時間―忍耐」で出てきた「まだないもの」ともつながっている。私の意志は、「これをやれば、私の生きている間に結果を回収できる」という範囲を超えてしまう。

そしてエロスでは、その構造がさらに極端になる。私は愛することによって、自分が所有できない未来に関係する。その先に「生殖性」「子ども」「子孫」が出てくる。したがって、エロス → 生殖性 → 子ども → 私を超えた未来、ということ。だから「顔の彼方」なのだ。

ここで第三部との違いを一言で整理すると、

顔の倫理

他者が私に向かって語る
↓
「汝殺すなかれ」
↓
私は責任を負う

なのに対して、

エロス

私が他者へ接近する
↓
触れ、愛撫し、享受する
↓
しかし他者はなお私を超えている
↓
私を超えた未来へ開かれる

となる。

つまり、顔の倫理が言説による超越だとすれば、エロスは身体を介した超越ということ。だからレヴィナスは、顔の倫理とは別の仕方で、他者性と超越が成立する場所としてエロスを探っている。

顔は倫理的な意味を持っており、私に対して「殺すな」と命じる。ところが愛では、その聖なる顔に対して、私は触れようとする。つまり、倫理的な他者を、身体的な親密性の中へ引き入れる。ここには、ある意味で「聖なるものを世俗化する」ような動きがある。

しかしレヴィナスにとって、これは単純な堕落ではない。なぜなら、そこではなお他者性が消滅していないからだ。したがって、冒涜しているのに、完全な所有にはならない。この奇妙な中間領域こそが「曖昧さ」。


B「エロスの現象学」

Aでは、愛は他者を欲求の対象にする。しかし、他者はなお他者であり続けるという逆説が示された。Bでは、この逆説を「エロスにおいて、実際に他者はどのように現れるのか」という現象学的な問いになる。

つまり、エロスにおいて、他者は「顔」として現れるのか、それとも「身体」として現れるのか?という問題。第三部では他者の「顔」が中心だった。顔は、私の所有から逃れる。私に「汝殺すなかれ」と命じる。言葉を語る。私を責任へと召喚するというものだった。

ところがエロスでは、他者はまず愛撫される身体として現れる。ここで、顔と身体の関係が奇妙になる。

レヴィナスの「愛撫」は、単なる性的接触の説明ではなく、愛撫には、触れようとするが、決して完全には触れられないという構造がある。例えば、相手の手に触れる。普通なら、「私は相手の手を触った」と考える。これは対象認識だが、しかし愛撫は違う。

愛撫は相手の身体を把握するための接触ではない。むしろ触れることによって、「まだ触れていないもの」を探し続ける。だから愛撫には、対象を獲得する「把握」とは違う性質がある。これはAで出てきた、「未来から来る暗い光」ともつながる。

愛撫が求めるものは、現在そこにある対象ではなく、まだ現れていないものだから。ここはレヴィナスを理解するうえで非常に重要で、レヴィナスは第二部で、私は世界を享受し、所有し、労働によって事物を自分のものにするという構造を分析した。しかし愛撫は、それとは違う。

物なら、触る → 掴む → 所有することができる。ところが他者の場合、触る → 掴む → 所有するとはならない。なぜなら、相手は逃れてしまうからだ。だから愛撫は、所有しようとする接触でありながら、所有に成功しない接触。ここにエロスの超越性がある。

「愛撫」は未来へ向かう。愛撫が求めているものは、現在そこにある身体ではない。愛撫は、まだ存在しないものへ向かう。だから愛撫は「未来的」と言える。しかし、この未来は普通の意味での未来ではない。「明日の予定」のように、現在から予測できる未来ではない。

むしろ、何が来るのか分からない未来だ。そのためレヴィナスは、エロスを単なる現在の快楽ではなく、未来への超越の契機として捉える。

レヴィナスはエロスの相手を、「女性的なもの」として論じる。エロスにおいて他者がどのような仕方で現れるのかを、「女性的なもの」という現象学的カテゴリーによって記述しようとしている。そこで出てくるのが、優しさ、弱さ、裸、恥じらい、秘密、隠れ、脆さなど。

今日から見ると、ここには明らかなジェンダー固定化の問題がある。この「女性的なもの」をそのまま現代的な「女性の本質」として読むのは危険。

その「女性的なもの」は「顔」と違う仕方で現れる。顔は隠れていない。むしろ、「私はここにいる」と他者自身が自分を表現する。そして、「汝殺すなかれ」と私に語りかける。ところがエロスでは、相手は完全には露出しない。むしろ、隠れていることそのものが、相手の現れ方になる。

顔では、他者は語る。エロスでは、他者は隠れながら現れる。これが「顔の彼方」。したがってエロスの他者は、明確に把握できる対象でも、完全に言語化できる顔でもない。

「謎」としての他者だ。ここで「秘密」というテーマが出てくる。第三部では、他者は「表現」によって私に語りかけた。つまり、他者 → 言葉 → 私という関係。しかしエロスでは、他者 → 沈黙・身体・秘密 → 私という関係になる。

これは「相手について何も分からない」という単純な話ではなく。分かりきらないことそのものが、他者との関係を成立させているということ。相手を完全に理解してしまえば、それは「他者」ではなく、私の知識の対象になってしまう。エロスは、その完全な透明化を拒む関係だ。

「愛撫」と「言語」には決定的な違いがある。それは、言語では、「あなたは何と言ったのですか?」と問い返すことができる。言葉は意味を持ち、説明できる。ところが愛撫には、「これは何を意味するのか?」という問いがそのまま適用できない。愛撫は何かを表象する記号ではない。

だからエロスは、言語以前の関係でもあり、言語の彼方にある関係でもある。言語を超えて未来や繁殖性へ向かう。

1.内容愛される者の現れ方
脆弱性と女性的なもの 愛は他者をその「脆弱さ」において目指す。この脆弱さは属性の不足ではなく、他性そのものを質づけるもの。愛される者のエピファニーは「優しさ」の体制と一体であり、存在と非存在の限界に現れる脆さ・傷つきやすさとして記述される。

まず注意したいのは、レヴィナスのいう「脆弱性」は、他者が弱い人間だから愛するという意味ではない。第三部の「顔」では、他者はむしろ高さにおいて私に現れた。他者は私より上位に立って、「汝殺すなかれ」と私に命じる。私は他者に対して責任を負う。

ところがエロスでは、この関係が奇妙に反転する。他者は「命令する者」として正面から立つのではなく、裸で、傷つきやすく、逃げ去るような存在として現れる。だからレヴィナスは、エロスにおける他者を「女性的なもの」という言葉で記述する。

ここで重要なのは、顔=露出・表現・言語に対して、女性的なもの=隠れ・秘密・脆弱性という対比。ただし、これは現代的にはかなり問題を含む記述と言える。「女性的なもの」を女性の本質として固定してしまう危険があるから。

哲学的な構造として読むなら、「他者が私に向かって正面から現れる」のとは別に、「他者が隠れながら私を惹きつける」という現れ方があるという点が重要。

2.愛撫の構造
愛撫は、何かを「掴む」行為ではない。それは絶えず形を逃れるもの、まだ到来していない未来を求め続ける動きだ。「もはやないもの」(無)ではなく、「まだないもの」を勧誘し、その「まだないもの」によって欲望が養われる。

愛撫は開示の志向性ではなく、不可視なものへの探求であり、感覚的でありながら感覚を超え、対象を所有せず、むしろ対象の不可触性・神秘を際立たせる。

ここがBの核心だと思う。通常の知覚では、見る → 対象を確認する → 知るという構造がある。そして労働・所有では、触る → 掴む → 使用する → 所有するという方向がある。しかし愛撫は違う。愛撫は相手を確認するための接触ではない。また、相手を所有するための接触でもない。

むしろ、触れれば触れるほど、なお触れられないものが残る。これが愛撫。だから愛撫は「対象への意向性」として理解しにくい。普通の意向性なら、「私は○○を目指している」と言える。しかし愛撫が目指しているものは、現在そこに存在する確定した対象ではない。「まだないもの」だ。

したがって、愛撫する→相手を掴もうとする→しかし掴めない→なお触れようとする→「まだないもの」へ向かうという構造になる。ここでAの「暗く不明瞭な光」が具体化される。

「もはやないもの」は、過去だ。かつて存在したが、現在は存在しない。一方、まだないものは未来。しかし、レヴィナスが言う未来は、予測可能な未来ではない。それは、私が現在の知識や意志によって先取りできない未来。

したがって愛撫は、過去を回収する行為ではなく、未来を先取りすることもできないまま、未来へ向かう行為になる。

3.悦楽の両義性
悦楽は他者そのものを目指すのではなく、他者の悦楽を目指す。これにより、愛は自己への回帰を含みつつ、同時に超越を含む。必要(同化・享受)と形而上学的欲望(無限の他性への志向)が同時に働く点が、エロスを「両義性そのもの」とする。

他者を享受の対象としながらもその他性を保持する可能性、言説の下方と彼方に同時に位置する関係が、エロティックなものの独自性。

なぜ「他者の悦楽」を求めるのか。たとえば、「私はあなたと一緒にいて気持ちいい」だけなら、これは自分自身の享受だ。しかし愛には、「あなたが喜ぶことが、私の喜びになる」という構造が出てくる。つまり、悦楽の悦楽。

他者の悦楽を愛することは、一見すると他者へ向かっている。しかし同時に、「あなたが喜ぶことによって、私も喜ぶ」ので、結局は私自身の享受でもある。つまり、自己への回帰と他者への超越が同時に起こる。これが、Aから続く「両義性」。

ここで『全体性と無限』全体の概念配置を考える。欲求は、他者を自分の側へ引き寄せる。形而上学的欲望は、他者を他者として、その外部性へ向かう。しかしエロスでは、他者を欲求しながら、他者の他性も失われない。だからエロスは、欲求 × 欲望という交差点になる。

必要(同化・享受)と形而上学的欲望(無限の他性への志向)が同時に働く。第三部では、言説=他者との倫理的関係だった。他者が私に語りかける。私は応答する。そこに正義が成立する。

しかしエロスは、この言語的関係の外側に出る。愛撫は、「私はあなたにこういう意味を伝えています」という行為ではない。それは言葉になる以前の身体的な接触だ。だからエロスは、言説の下方にある。ところが同時に、愛撫は「まだないもの」へ向かうので、言説の彼方にもある。

つまりエロスは、言語以前の身体性でありながら、言語では捉えきれない未来への超越でもある。

4.顔との関係と「穢れ」
エロス的関係では、顔の純粋な表現が「不適切さ」や「非意味的なもの」へと転倒する。愛される者は人格的責任の次元を離れ、ある種の子どもっぽさや動物的な親密さ、秘密の領域に入り込む。

これは倫理的な顔を「冒瀆」する動きでもあり、親密さの中で他性が保持される独特の近接を生む。

顔は、本来、「私はここにいる」という他者自身による自己表現だ。そして、「汝殺すなかれ」という倫理的意味を持つ。公的で、正直で、意味に満ちた現れそのもの。ところがエロスでは、相手はそのような「正面性」を失う。

愛する人は、無防備になる、恥じらう、隠れる、眠る、逃げる、身体的な親密性に入るなどして、顔の「意味する力」が一時的に曖昧になる。だからレヴィナスはこれを、ある意味で顔の冒瀆として記述する。つまり、倫理的に聖なる顔が、親密な身体性の中へ引き込まれる。これが「穢れ」の契機。

しかし、ここで重要なのは、穢れ=悪ではないこと。むしろ、倫理的な顔を完全に透明な「意味」にしてしまわないために、エロスはそこへ曖昧さ・身体性・秘密を持ち込む。

ここには、実は「透明性への抵抗」がある。これは「秘密」「不透明性」の問題ともかなり近いところがある。管理社会では、「あなたは何者ですか?」「属性を明らかにしてください」「行動をデータ化してください」という方向へ進む。つまり、人間を完全に可視化することが目指される。

ところがレヴィナスでは、他者は完全には透明にならない。顔でさえ、単なる「見える情報」ではない。そしてエロスではさらに、他者は秘密として、隠れながら現れる。したがってエロスは、極端に言えば、「他者を完全に知り尽くさない関係」の一つと言える。

ただし、エロスは倫理ではない。レヴィナスが、「愛することは倫理的に正しい」と言っているわけではなく、エロスには、他者を自分の快楽の対象にしてしまう危険がある。つまり、他者を尊重するという倫理から見ると、エロスはむしろ危うい。だからこそ「曖昧」なのだ。

対象化する危険を持ちながら、完全な対象化には至らない。享受でありながら、超越でもある。身体的接触でありながら、所有ではない。自己満足でありながら、他者の悦楽を求める。顔を冒瀆しながら、他者性を消去しない。これらが全部同時に存在している。

『顔は隠れていない。むしろ、「私はここにいる」と他者自身が自分を表現する。ところがエロスでは、相手は完全には露出しない。むしろ、隠れていることそのものが、相手の現れ方になる』と書いたけども、ちょっと単純化しすぎかも。じゃあ、裸族はどうなるんだという話になる。

顔の裸性とは、他者が、自分を私の把握や支配に委ねずに、私に向かって自分自身を表現しているということで、服を着ているかどうかではない。身体的な裸性と倫理的な裸性は別の次元だ。

例えば、裸で生活することが社会的に普通になっているとする。裸体=性的対象という意味は弱くなる。それでも、他者は他者だ。私はその人の身体を見ることができる。しかし、身体を全部見たからと言って、その人を全部知ったとはならない。全裸であってもなお、レヴィナスのいう他者性が残っている。

身体は完全に可視化されても、他者そのものは可視化され尽くさない。だから「顔」と「エロス」の違いは、可視性ではない。服そのものがエロスを作っているわけではない。エロスの「隠れ」は、「服で隠れている」という意味ではなく、相手が完全に対象として現れないという意味だからだ。

だから、エロスの「秘密」や「隠れ」は、物理的に見えないことではなく、他者が対象として完全に現前しないことだ。「裸族」でも顔は顔であり続ける。裸であっても、「この人を殺してはいけない」という倫理的な関係は成立し、裸体を見ていることは、顔の倫理を消せない。


C「繁殖性」

私は、自分とは異なる「私」を未来に生み出すことで、自分自身の生を越えて未来へ開かれる。「私の延長でありながら、私ではない者」という存在として子どもが現れる。このためレヴィナスは繁殖性を、「私と、なお私ではない自己との関係」として捉える。

Bでは、愛撫について、「まだないもの」に向かって手を伸ばすという構造が出てきた。触れる → しかし掴めない → さらに近づく → それでも「まだない」という構造。つまりエロスは、現在に完全には回収できない未来を含んでいる。

ここからCで、では、この「まだないもの」は何なのか?という問題が出てくる。その一つの形としてレヴィナスが提示するのが、子ども。つまり、愛撫 → 「まだないもの」 → 子 → 未来という流れ。

子どもは私から生まれる。だから、私との連続性がある。しかし、私ではない。したがって、私との連続性と、私からの断絶が同時に存在する。だから「繁殖性」は自己保存ではない。

ここで「繁殖性」を、「自分が死んでも子どもが生きているから、自分が永遠に残る」と理解すると、レヴィナスから少しずれることになる。それでは結局、未来を自分の所有物にしているからだ。

レヴィナスが言う未来は、むしろ、私が所有できない未来。子どもは私から生まれながら、私の予測を超えて生きる。だから、子どもによって、未来が私の現在の外へ開かれる。これが「繁殖性」の超越。

子どもが私に似ているとき、「この子の中に自分がいる」と感じる。しかし同時に、「この子は自分ではない」とも分かる。つまり、自己同一性の内部に「他者」が生じる。私の外にいる私だ。繁殖性とは、「私が私の外部に存在する」という構造。

しかしこれは、「自分のコピーが外にある」という意味ではなく、私から生まれた存在が、私から独立して未来を生きていく。だから、私の生は私だけで閉じない。この意味で繁殖性は、主体の閉鎖性を破る。

ただし「血統主義」ではない。レヴィナスの哲学的ポイントはむしろ、自分から生まれたものが、自分の所有物ではなくなるところにある。したがって、「私の血を未来へ残す」より、「私から出発した他者が、私とは異なる未来を生きる」という方が重要。

1. エロスから繁殖性へ
第四部はまずA「愛の両義性」、B「エロスの現象学」で、女性的他者との官能的・愛撫的な関係を描く。この関係は「顔」の厳格な倫理(他者の命令・責任)とは異なり、両義的である。

エロスは享受と超越が混在し、愛される者の「神秘」「秘密」を冒瀆的に探る。しかし愛撫が目指すのは、単に相手の顔や存在者を「発見」することではない。冒瀆は「顔の彼方」に「より深い自我」を見つけるのではなく、子供(子)を発見する。

ここからC「繁殖性」が始まる。繁殖性はエロスの帰結であり、死を超えた時間性・主体性の刷新を可能にする。

愛撫は、相手の身体の奥に隠された「何か」を発見しようとするが、それを対象として発見することはできないという運動だ。そしてCで、この「まだないもの」が子として現れてくる。

したがって、愛撫は「相手の中に隠れている本当の相手」を発見するのではなく、相手との関係から「まだ存在していない者」への未来を開くという理解が重要。これは、前に話した「愛撫=『まだないもの』への接近」というBの議論を、そのままCへ引き継いでいる。

2. 繁殖性の基本構造:父性と「私は私の子である」
レヴィナスは繁殖性を、生物学的生殖を超えつつもそれをモデルにした存在論的・時間論的な関係として捉える。

超実体化の超越:父は子において「他なるもの」となる。子は父の「作品」や「所有物」ではなく、形式論理では予測できない構造を持つ。子は「私のものでありながら私のものでない」。「私は私の息子である」。子は他者でありながら、同時に私自身の延長である。

これはヘーゲルやシェリングが指摘したような「子は親である」という同一性の構造を、倫理的・時間的に再解釈したもの。父性は自己同一化であると同時に、その中での区別を含む。

子との関係は「権力」や「認識」のカテゴリーでは記述できない。「私は子を持つのではなく、私は子である」。

「私は私の子である」は、単純な自己同一性ではない。「私は私の子である」を、「息子は私と同じ存在である」と読むとレヴィナスの意図から離れてしまう。むしろ逆で、子どもは、私であるようで、私ではない。ここに繁殖性の不思議がある。

例えば作品なら、私 → 作品という関係だ。作品は私の意志によって作られたものですから、ある意味では「私のもの」。しかし、私 → 子、ではそうはいかない。子は私から生じながら、私の意志を超えていく。だから繁殖性は、同一性の中に差異を生じさせる構造なのだ。

ここで「超実体化」が重要になる。普通の変化なら、A → Bとなれば、AがBになってしまう。しかし繁殖性ではそうではない。父は父のままだ。子も子のまま。それなのに、父は子において自分自身とは異なるものになる。つまり、自己の外部に自己が現れる。これが超実体化的な構造。

したがって、繁殖性=自己を失って他者になることでも、繁殖性=他者を自己に同化することでもない。その中間にある、「自己であり続けながら、自分ではない者として自己を超える」という構造。
これはレヴィナスが他の「超越」を考える場合にはない、かなり特殊な超越。

そして「子」は作品ではない。ここは第三部との接続が面白い。第三部Cで扱った、意志 → 作品では、意志は未来へ自分を延長できた。私は作品を作る。作品は私の意志を世界に残す。だから、作品=意志の時間的延長と言える。しかし、子は違う。所有できないし、私の意志を超えていく。

だから繁殖性は、「作品によって自分を未来へ保存すること」とは根本的に違う。むしろ、「自分の未来を、自分ではない者に委ねること」なのだ。

3. 時間性:無限の時間と「未だ無いもの」
繁殖性の核心は、死を超えた未来の導入にある。通常の主体の未来は、自分の可能事の延長である。
繁殖性における未来は、自分の可能事に還元されない「未だ無いもの」。子の未来は、父の企投や権力を超えた絶対的な未来である。

これにより「無限の時間」が生まれる。存在は「絶えず再開する存在」となり、老いを伴わずに歴史を継続する。「繁殖性は、老いを生じさせることなしに歴史を引き継ぐ」。死という断絶を含みつつも、子において「復活」し、絶対的な若さが保たれる。

これは単なる生物学的継承ではなく、主体の同一性から解放されつつも、主体性が維持される仕方である。無限存在は主体性なしには再開しえない。

「未だないもの」は、単なる可能性ではない。「未来=自分の可能性」と、「未来=繁殖性による未来」を区別する必要がある。例えば、「明日この本を読み終える」という未来は、私の可能性だ。私はそれを企図できる。しかし子どもの未来は違う。

私は、「この子が30歳になったらこういう人間になる」と完全に決定することはできない。子は私の可能性ではない。子自身の可能性を持った他者だ。だから繁殖性によって現れる未来は、私の可能性の未来ではなく、他者の可能性としての未来なのだ。

「無限の時間」は、単なる長寿ではない。「子どもによって歴史が続く」だけではレヴィナスの「無限」にはまだ届かない。なぜなら、単なる世代交代なら、父 → 子 → 孫 → 曾孫という生物学的連続性にすぎないからだ。

レヴィナスが問題にしているのは、主体が死によって閉じられないこと。私の人生は有限だ。しかし私から生まれた他者は、私とは別の主体として新しい時間を開始する。さらにその主体が未来を開く。

したがって、時間が「私の時間」の延長ではなく、「新しい主体によって何度も始まる時間」になる。ここが「無限の時間」。絶えず再開する存在。

「復活」は、私が生き返ることではない。私は死ぬ。しかし私とは異なる者が生まれる。その者は新しい現在を開始するという意味。繁殖性=私が死んでも、未来が私の死によって閉じないことなのだ。

4. 倫理・善性との関係:顔の超越の条件付け
顔によって開かれた倫理的超越が、エロス・繁殖性によって時間的な広がりを獲得する。顔によって開かれた超越が、繁殖性によって世代と未来へ展開される。

「繁殖性を産出する繁殖性が善さを達成する」。すなわち、子を生むこと自体が、贈与の力を贈与することであり、善性の成就である。子はさらに子を生むことで、主体の無限化(責任の担い手の無限化)が可能になる。これにより、顔の超越(他者への無限責任)が時間的に支えられる。

繁殖性は、善さそのものが未来へ自己を超えていく構造として理解できる。これは「責任の無限化」とも関係する。責任を担う主体そのものが未来に増えていくということ。私が他者に責任を負う。そして私とは異なる主体が生まれる。その主体もまた他者に関係する。

つまり、倫理そのものが世代を超えて再開される。ここに「無限」の時間的な意味がある。

5. 両義性と批判的ポイント
両義性1:子は他者でありながら私である(連続性と断絶の両立)。歴史への抵抗(死後も意志が継承される)と、過誤の赦し(新たな生の始まり)の両側面を持つ。

両義性2:生物学的な父子関係をモデルにしつつ、抽象的・非生物学的な「父性」(教師と弟子、善行の継承など)にも開かれている。

抽象的・非生物学的な父性にも開かれている。例えば、教師 → 弟子、思想家 → 後継者、善行 → 次の善行のように、自分から生じたものが、自分を超えていくという構造は、確かに繁殖性の比喩的・哲学的な射程に入ってくる。しかし、これは広げすぎかもしれない。

批判的に見ると、この議論は父性中心的であり、母性や女性的他者の位置づけに偏りがあるとの指摘もある。また、エロスと繁殖性が「顔の彼方」に置かれることで、倫理の自己完結性が崩れる循環の問題も指摘される。

なぜ「未来への超越」が父性によって語られなければならないのか?という批判は当然成立する。さらに、母親はどうなるのか?女性自身も主体ではないのか?子どもは父の未来として扱われてしまわないか?という問題も生じる。

これは単なる「現代では言葉遣いが古い」という問題ではなく、レヴィナスが他者の非還元性を論じながら、女性や母性を特定の役割に固定してしまうとも読める。

C「繁殖性」は、B「エロス」における「まだないもの」への接近を、子という新しい主体と未来の問題へ展開する節である。

子は私から生じながら私ではなく、私の作品でも所有物でもない。この「私との連続性」と「私からの断絶」が同時に成立する関係をレヴィナスは父性・繁殖性として捉える。

したがって繁殖性は、自己を単純に未来へ保存することではない。むしろ、私自身が予測・企図・支配できない未来を、私とは異なる主体に開くことである。

その結果、時間は私一人の有限な生涯に閉じず、新しい主体によって絶えず再開される時間となる。繁殖性における「無限」は、私が不死になることではなく、私の死によって未来が閉じないことである。

そしてこの未来の開放は、エロスという二者関係を超えて、子・兄弟・第三者へと関係を拡張し、最終的に複数性と無限の時間へつながっていく。

繁殖性とは、自己を保存することではなく、自己ではない者に未来を委ねることで、時間そのものを再開させる超越である。
 

第三部「顔と外部性」

 

C「倫理的関係と時間」

第一節「多元的様態と主観性」

他者と私は、同じ全体の中の二つの部分なのではない。互いに独立したまま関係する。この「独立した複数性」を可能にするものが倫理であり、時間である。

まず、この節が何を問題にしているのか。レヴィナスはこれまで、私=〈同〉、他者=〈他〉、私と他者のあいだには分離がある。しかし分離しているからこそ、他者との言語的・倫理的関係が可能になるということを論じてきた。

ここで一つの問題が出てくる。「私と他者が本当に別々なら、どうして関係できるのか?」、そして、「関係しているなら、最終的には一つの全体になってしまうのではないか?」という問題。

普通に考えると、私 + 他者 = 社会という一つの全体となりそうだが、しかしレヴィナスは、これを拒否する。本当の複数性とは、「一つの全体を構成する複数の部分」ではない。ここがこの節の核心。

「数的な多様性」と「根源的な多元性」。レヴィナスはここで、重要な区別をする。「数的な多様性」は、例えば、Aさん、Bさん、Cさんがいる。これは「3人」という一つの集合にできる。A、B、Cを一つの外側から眺めれば、「3人の人間」として把握できる。

つまり、個々人の違いを残したまま、全体として数えることができる。これが通常の「複数性」。しかしレヴィナスが求めているのは、それではない。

レヴィナスの「根源的な複数性」とは。レヴィナスはこれを、「数的な多様性とは異なる根源的な多元性」として考える。ここでは、私と他者を、上から眺めて「二人」と数えることができないということが重要。なぜなら、他者は私が完全に把握できる対象ではないから。

例えば、「私はこの人についてこれだけ知っている。だから、この人とはこういう人間である」と定義した瞬間、他者は私の知識の中に取り込まれてしまう。すると「他者」はもはや本当の意味での他者ではない。

だから、私と他者は関係している。しかし、その関係によって一つの全体にはならないという関係が必要になる。ここで「顔」が重要になる。この関係を可能にするのが、「顔」。顔とは、私が完全には把握できないまま、私に語りかけてくる他者。

したがって、顔との関係には奇妙な構造がある。私は他者に、「あなたはこういう人ですね」と完全に決めつけることができない。しかし同時に、「あなたは私とは無関係です」とも言えない。なぜなら他者は私に語りかけ、私に応答を要求するから。

つまり、他者は私に関係してくるが、私の所有物にはならない。これが倫理的関係だ。「関係しているのに、関係に吸収されない。

レヴィナスは、関係には二つの可能性があると考えている。

1. 関係によって一体化する。
例えば、「私たちは同じ社会の一員だ」「私たちは同じ国家の国民だ」「私たちは同じ人類だ」というように、個々人を一つの全体の中に位置づける。これは政治的・社会的には必要なこともあるが、しかし哲学的には、「他者を全体の一部分にしてしまう」危険がある。

2. 関係しながら、独立性を維持する。
レヴィナスが求めるのはこちらで、私はあなたに応答する。しかし、あなたを私の中に取り込まない。つまり、「関係」と「分離」を同時に成立させる。これがレヴィナスのいう「多元的様態」。

関係している二つの存在が、その関係の中で「全体の一部」に消えてしまわないことを重視する。ここで「主観性」が出てくる。なぜ「主観性」が必要なのか。レヴィナスは、他者との関係を成立させるためには、まず「私」が独立した存在でなければならないと考える。

これは以前読んだ第二部の「享受」「住居」「分離」とつながっている。私には、私の身体、家、食事、仕事、生活、時間がある。つまり私は、最初から「社会という全体の一部分」として存在しているのではない。私はまず「私」として生きている。

この独立性があるからこそ、「私はあなたに応答する」ことが可能になる。

他者は、「これがあなたのすべてです」と私が言える存在ではない。私が他者を理解するたびに、「それでもまだこの人は私の理解を超えている」という余剰が残る。これが「無限」。だから、他者との関係は、私が他者を完全に理解して終了する関係ではない。

むしろ、理解する → それでも残る → さらに応答するという構造になる。ここに「時間」が入り込んでくる。もし私と他者が完全に一つの全体の中に収まるなら、すべては「現在」において把握できてしまう。しかし倫理的関係ではそうならない。他者は常に、まだ私のところに来ていないものを持っている。

だから他者との関係は、「今ここで完全に理解して終わる」ことができない。ここから、他者 → 超越 → 未来 → 時間、という連結が生じる。

この節でレヴィナスは次のように始める。分離は具体的には「住居」と「経済」として実現される。これにより、切り離された絶対的な外部性との関係が可能になる。この関係(形而上学)は、まずもって他者の顔における顕現によってもたらされる。

分離は、絶対的でありながら関係を結ぶ諸項のあいだに開かれる。それらの項は関係を保ちつつも関係から自らを絶対化し、関係が描き出すであろう全体性のために身を譲らない。

結果として、形而上学的関係は「多元的な存在」=多元性を実現する。ただし、関係の形式的構造だけでは多元性は実現しない。関係に置かれた存在者たちが関係から自らを絶対化する力を持っていること、そしてその絶対化の意味が各項で異なることを明示しなければならない。

形而上学を求める者と形而上学的なものは、同じ意味で絶対的ではない。「高さ」の次元(他者が形而上学を求める者のところへ到来する次元)が示すのは、空間の一種の非等質性である。これにより、数値的な多元性とは異なる根源的な多元性が生じうる。数値的多元性は全体化に対して無防備である。

認識の主観性は全体性を断ち切れない。客観的全体性は、たとえ他者に現れるとしても、他者を排除したままである。観照は「存在が一つであり続けるままに明らかにされる過程」として定義でき、それが命じる哲学は多元性の抑圧である。

多元性が維持されるためには、そこにおいて自分が生み出される存在と一致を求めることのない主観性が生み出されなければならない。多元性は、全体的な反省の不可能性、すなわち「私」と「非私」を一つの全体に結合することの不可能性の中に措定された客観性を含意する。

倫理的関係=真の多元性の条件:顔対顔の非対称的な関係(高さの次元を伴う)こそが、全体性に回収されない根源的多元性を可能にする。形式的・数値的な「多」ではなく、各存在者が関係を保ちつつも関係から絶対化し、独自の時間・内面性を持つような多元性である。

この多元性が成立してこそ、後続の節(商業・歴史的関係と顔、意志と死、時間と意志=忍耐など)で論じられる政治・歴史・死・時間の問題が、全体性の暴力ではなく倫理的関係の延長として扱えるようになる。

主観性は、分離した内面性を保ちつつ外部性に開かれるものとして再定義される。全体性に吸収されない主観性こそが、多元的存在の条件となる。

この節をさらに明確にするなら、3つの論理を区別するとよい。まず、1. 「関係」と「絶対性」は両立する。レヴィナスにとって一見すると矛盾しているのが、他者と関係しているのに、他者によって全体化されないという事態。

普通なら、AとBが関係する → AとBを含む「A+B」という全体ができると考えるが、顔と顔の倫理的関係ではそうならない。私は他者に語りかけ、他者から語りかけられる。しかし、その関係そのものが私と他者を一つの体系に統合するわけではない。

むしろ、関係するからこそ、それぞれが「関係される側」ではなく、独立した存在者であり続ける。ここが「多元性」の核心。

2. 「高さ」は単なる上下関係ではない。これは「他者のほうが社会的に偉い」という意味ではなく、「高さ」とは、私が他者を私と同じ水平面に置いて、完全に比較・把握できないということ。

例えば、私が他者を観察して、「この人はこういう性格で、こういう属性を持ち、こういう欲望を持つ人間だ」と理解したとする。この場合、私は他者を私の認識の地平の中に置いている。しかし顔は、そこから逃れる。他者は私の認識対象である以前に、私に向かって語りかけてくる者だから。

したがって「高さ」とは、空間的な上下ではなく、私と他者との関係が対称的な認識関係ではないことを表している。この非対称性によって、二人を外側から眺めて「二つの項」として処理することができなくなる。

3. だから「数的多元性」と「根源的多元性」が違う。ここがこの節の最も重要な区別。例えば、「この部屋には10人いる」と言えば、10人は一つの集合として完全に数えられる。これは数的多元性。ところがレヴィナスが言う多元性は、「10人いる」という事実とは別のところに成立する。

なぜなら、それぞれの人が単なる「10個のうちの1個」ではなく、それ自身の内面性と外部性を持った絶対的な存在者だから。したがって、10人の人間がいるということと、10の絶対的な主体が存在しているということは同じではない。後者を成立させるためには、各主体が全体に回収されないことが必要になる。

「認識」がなぜ多元性を破壊しうるのか。問題は、認識が究極的には、「私」と「非私」を一つの知の全体の中に置くことができるという発想。私が対象を認識するとき、対象は私にとって「知られたもの」になる。すると、対象は私の意識の地平の中に現れる。

極端に言えば、「私」と「他者」を含む一つの完全な知識体系を想定することができてしまう。これが全体性。ところが倫理では、それができない。私は他者に対して責任を負うけれど、他者を完全に知り尽くすことはできない。ここに「無限」がある。

そして非常に重要なのが「主観性」の再定義で、ここは、これまで第二部で読んできた内容との接続点になる。レヴィナスにとって主観性は、「世界を認識する意識」だけではない。もっと根本的には、他者から切り離された「私」でありながら、他者に対して開かれている存在。

つまり、分離しているから他者と関係できる。完全に一体化してしまえば、倫理そのものが消えてしまう。もし私と他者が一つの全体にならないなら、私の現在が他者の存在を完全に包摂することはできない。他者はつねに私の現在からはみ出している。

だから他者との関係には、「まだ来ていないもの」「私がまだ知らないもの」「私がまだ経験していないもの」が残る。これが時間の問題につながる。つまり、全体性に回収されない他者が存在することと、未来が私の現在に回収されないことは、構造的に似ている。

戦争は「複数の人間」が存在することを否定する。戦争では、相手が、「この人は、この人自身として存在している」という個別的な他者ではなく、敵国人、敵兵、敵集団、敵民族として扱われる。

つまり、具体的な「あなた」から「敵」というカテゴリーへの変換が起こる。ここで、第一節の「多元性」が重要になる。本当の多元性とは、私と他者が、それぞれ絶対的な存在として存在しながら関係することだった。

ところが戦争では、その関係が、「我々」対「彼ら」という一つの全体的な構図に置き換えられる。すると、目の前の他者は「彼」という個人ではなく、「敵側の一人」になる。戦争は「他者を全体の一部分にする」。

例えば、「敵国の兵士を100万人倒した」という言い方では、100万人の一人一人の顔は消えている。そこには、名前、家族、希望、未来、その人自身の判断といったものがない。あるのは、「敵軍」という全体だけになる。

つまり戦争は、人間を、全体の中の一項へと変換する。第一節が守ろうとしている「多元性」は、まさにこの逆で、人間は全体の一部分ではなく、それぞれが全体に回収されない絶対的な存在である。

だから「敵」という概念そのものが危険になる。現実の戦争では「敵」という区別が必要になる場合がある。しかしレヴィナスが警戒しているのは、「敵」というカテゴリーが、その人の個別性を完全に消してしまうこと。

例えば、「敵国人だから殺してよい」となった瞬間、「この人は誰なのか?」という問いが消える。これは顔の倫理の正反対にある。顔は私に、「この人を単なるカテゴリーとして扱うな」と迫ってくるから。
だから顔との出会いは、戦争が作り出す匿名的な集団化に対する抵抗になる。

「多元性」は戦争に対する存在論的な抵抗になる。レヴィナスは、「人間はみんな仲良くしましょう」と言っているだけではない。もっと根本的に、人間存在そのものが「一つの全体」ではないと考えている。
私は私。他者は他者。しかも、私と他者は関係できるが、一つの全体にはならない。

この「全体にならない」という構造が、多元性。すると戦争に対する批判も、「戦争は人を殺すから悪い」だけではなく、「戦争は、人間を全体性の中に配置し、個々の他者をその全体の一部分へと還元する」というところまで深くなる。

国家もまた「全体性」になりうる。危険なのは、国家が個人より上位の絶対的な全体になってしまうことになる。例えば、「国家のために個人がある」「国民は国家の一部である」「国家の敵は国民の敵である」という論理が極端化すると、個人の顔が国家という全体の中に吸収される。

すると、「この人をどう扱うべきか」ではなく、「国家にとって、この人は敵か味方か」が判断基準になる。これはまさにレヴィナスが警戒する「全体性」そのものだ。しかし、レヴィナスは「国家をなくせ」と言っているわけではない。

以前話した「第三者」と「正義」の問題につながる。目の前の他者だけでなく、別の他者もいる。すると、「この人には責任がある。しかし、あの人にも責任がある」となる。ここから比較が必要になり、正義・法律・政治・国家が必要になる。

したがってレヴィナスの思想は、国家=悪という単純なものではない。むしろ、国家や政治は必要だが、それを「他者より上位の全体」として絶対化してはならないという非常に繊細な立場だ。

戦争は「顔」を消す。「顔」と「多元性」がつながる。顔とは、「私はあなたの分類の中には収まりきらない」という他者の現前。しかし、戦争は、「敵兵」「敵国人」「テロリスト」「反逆者」というカテゴリーを前面に出す。つまり、顔 → 類型という変換が起こる。

そして類型化された人間は、数えられる。100人、1万人、10万人。しかし顔は数ではない。だから第一節の、「数値的多元性は全体化に対して無防備である」という議論は、戦争を考えると具体的になる。

「敵兵10万人」は数えられる。しかし、「10万人のそれぞれが絶対的な他者である」ということは、単純な数では表現できない。そして「時間」が重要になる。戦争は人間を現在の一つの目的に従属させる。
例えば、「今、この戦争に勝つために、この人を犠牲にする。」となる。

未来も、「勝利」という一つの未来に統合される。しかし、顔の倫理ではそうならない。他者には、私が予測できない未来がある。この人には、明日がある。家族との未来がある。自分自身の計画がある。私には知られない人生がある。つまり、他者は私の現在の目的に完全には回収できない。これが時間。

だから「戦争」と「時間」は反対方向に進む。

整理すると、

戦争・全体性

すべてを現在の目的に従属させる
↓
個人を全体の一部分にする
↓
他者をカテゴリー化する
↓
他者の未来を奪う

これに対して、

倫理・多元性

他者は私を超えている
↓
他者は全体に回収できない
↓
他者には私の知らない未来がある
↓
私はその未来に対して責任を負う

となる。

だから、戦争=全体性への回収に対して、倫理=他者の外部性と未来を守ることという対比。これは「敵にも人権がある」というだけではない。レヴィナスの議論は単なる人権論を超えている。

「敵にも人権がある」という命題は、人間には普遍的な権利があるという普遍的な概念によって敵を救う。これはもちろん重要なことだが、しかしレヴィナスは、そのさらに手前を問題にする。

なぜなら、「人権を持つ人間」という一般概念に相手を入れることさえ、ある意味では相手を概念化しているから。レヴィナスが言いたいのは、「この人は、人間というカテゴリーに属するから尊重する」のではない。

むしろ、「この人が私の前にいる。この人が私に語りかけている。だから私はこの人に応答しなければならない。」という順序だ。

戦争とは、複数の絶対的な存在者を「敵」と「味方」という全体的なカテゴリーに包摂し、それぞれの顔と外部性を消去することで、根源的な多元性を破壊する。これに対して倫理的関係は、私と他者が関係しながらも一つの全体にはならないことを認める。

したがって、他者を全体の一部分として扱わず、その顔と未来を保持することが、戦争の全体化に対する最も根本的な抵抗となる。倫理は戦争に先行する。

つまり、戦争をどうやって止めるかという政治的・軍事的問題よりさらに手前に、そもそも他者を「全体の一部分」として扱ってよいのか?という倫理的問題がある。

第一節「多元的様態と主観性」は、この問いに対して、「否。私と他者は、関係していても、一つの全体にはならない。人間の複数性そのものが、全体化に抵抗する構造を持っている」と答えている。戦争もまた、人間を分類し、数え、集団化し、全体の目的に従属させることで成立するからだ。

戦争は、敵対者が互いに全体性への帰属を拒絶し、相手の超越を前提とする関係と言える。したがって、戦争は顔の顕現を前提としたものとして位置づけられ、単なる力の衝突や全体性の内部的な対立とは区別される。

平和は戦争の単なる不在や休止ではなく、全体性に回収されない多元的な諸存在が、倫理的関係を通じて実現する根源的なあり方だ。戦争が可能であるような(分離された)存在構造こそが、真の平和の可能性を開く。

戦争そのものが「超越」を認めるわけではない。レヴィナスにとって、戦争が可能になるためには、まず分離された複数の存在者が必要だ。完全に一体化した存在の内部には「戦争」はない。だから、分離された私⇔分離された他者という構造が、戦争の可能性を開く。

しかし、戦争が実際に始まると、その相手は「絶対的な他者」として尊重されるのではなく、むしろ敵という全体的カテゴリーへと組み込まれる。したがって、分離 → 戦争が可能になると同時に、戦争 → 他者を全体化・敵化するという二重の動きがある。ここは重要だろう。

だから「戦争の可能性」と「平和の可能性」が同じ根から出てくる。「戦争が可能であるような(分離された)存在構造こそが、真の平和の可能性を開く」。なぜなら、分離がなければ、平和もないからだ。

もし私と他者が最初から一つの存在だったなら、私と他者が平和的に共存するという問題自体が存在しない。それは単なる「一体性」に過ぎない。レヴィナスの平和は、違いが消えた状態ではない。むしろ、違いが消えないまま、関係すること。

戦争と平和は、どちらも「分離された存在者」を前提にする。しかし、その分離をどう扱うかが違うことにある。

「平和=戦争がない状態」ではない。普通、戦争が終わり平和になると考える。つまり平和を、戦争という状態の否定として考える。しかしレヴィナスは、それでは不十分だと考える。なぜなら、戦争が終わっただけで、相手を「敵」というカテゴリーで捉え続けることができるからだ。

停戦していても、「あいつらは敵だ」という構造が残っていれば、倫理的な平和はまだ成立していない。したがって平和とは、敵がいなくなった状態ではなく、他者を「敵」という全体性へ回収することなく、他者として受け入れる関係だ。

そして「顔」が平和の条件になる。例えば、「敵兵」という言葉になった瞬間、その人の顔が消える。しかし顔が現れると、「この人は私が勝手に処理できる対象ではない」という倫理的な裂け目が生まれる。したがって、顔 → 倫理 → 多元性 → 平和という流れが生じる。

しかし、平和を、「みんな仲良く、一つになりましょう」と考えてしまうと、レヴィナスからすると危険だ。なぜなら、一つになること=全体性になってしまうから。レヴィナス的平和はむしろ、「あなたはあなたのままでよい。私は私のままである。しかし、私はあなたに応答する」という関係だ。

だから、平和=差異の消滅ではなく、平和=差異を保持したまま成立する関係なのだ。

ここに「複数性」の本当の意味がある。したがって、「世界にはいろいろな人がいます」という意味ではない。もっと強い意味で、世界には、どのような全体性によっても完全には回収できない複数の主体が存在している。

だから、「人類」という全体、「国家」という全体、「民族」という全体、「社会」という全体、「歴史」という全体に個人を完全に従属させることができない。この意味で、複数性そのものが全体性に対する抵抗になる。

他者が本当に他者であるなら、私は他者を現在において完全には把握できない。他者には、私がまだ知らない未来がある。だから他者との関係は、「今ここで相手を完全に理解して終了する」ものではない。常に、これから応答するという未来を含む。

そのため、複数性は時間性を含むと言える。そして戦争は、この時間を暴力的に閉じようとする。「この人間の未来は、今ここで終わらせる」という極端な形で。だからレヴィナスにとって、他者の未来を開いたままにすることと平和は深く結びつく。


第二節「交易、歴史的関係、顔」

第一節が主に、分離された主体どうしの倫理的関係が、根源的な多元性を可能にすることを論じたのに対して、第二節では、その多元性は、抽象的な二者関係にとどまらず、「交易」「社会」「歴史」という現実の関係へ展開する。

歴史や社会が倫理に先行するのではなく、顔と倫理的関係を基礎として社会・歴史を考え直す。まず「交易」とは何か。単なる商売のことではなく、交流、交渉、社会的な関係、他者との関わりという広い意味を持つ。

したがって、ここで問題になっているのは、分離された私と他者が、どのように一つの共同世界を形成するのかということ。第一節では、私と他者は一つの全体にならないということが確認された。しかし、それだけでは社会は成立しない。

私と他者が完全に独立して、「あなたはあなた、私は私」と閉じてしまえば、社会的関係はなくなる。そこで「交易」が登場する。

何度も繰り返すけども、レヴィナスは、分離しているからこそ関係できると考える。倫理的社会は、分離+関係という一見矛盾した構造を持っている。しかも、関係することによって分離が消滅するのではない。むしろ、分離されたまま関係することが重要。これがレヴィナスの「多元性」。

では「歴史」とは何なのか。普通の歴史観では、人間は歴史の中に存在する。歴史には一定の法則や方向がある。個人はその歴史的過程の一部であるという形になりがち。

特にヘーゲル的な歴史哲学では、個々人の出来事 → 歴史全体 → 世界史的な意味という形で、個別的な出来事がより大きな全体の中に位置づけられる。

しかしレヴィナスはここに警戒する。なぜなら、歴史という「全体」を理解することによって、そこで生きている個々の人間の苦痛や責任が消えてしまう危険があるから。

「歴史の全体」と「顔」は緊張関係にある。例えば戦争。歴史家は、「この戦争はA国とB国の対立によって起こった」と説明できる。さらに、「経済的要因」「政治的要因」「民族的要因」「国際関係」などを分析できる。

これは歴史理解として必要だが、しかし、その説明によって、「その戦争で実際に苦しんだこの人」が消えてしまう。レヴィナスはここを警戒する。歴史は出来事を、「全体の中の一つの出来事」として理解できる。しかし顔は、「この人が私に対している」という一点から始まる。

したがって、歴史的理解と顔の倫理は緊張関係にある。だから「歴史」は倫理を超越してはいけない。問題は、歴史が人間に対して最終的な裁判官になってしまうこと。例えば、「歴史の必然のためには、この人々の犠牲は仕方なかった」という言い方がある。これは危険だ。

なぜなら、目の前の他者の苦痛を、「歴史」という大きな物語によって正当化してしまうからだ。「歴史の進歩」「国家の発展」「革命の必然」「文明の発展」「民族の生存」などを理由に、「この人たちは犠牲にならなければならなかった」と言えてしまう。レヴィナスは、このような論理に顔を突きつける。

ここで「顔」と「外部性」がつながる。顔とは、歴史の中に存在する一人の人間であると同時に、歴史という全体的な説明によって完全には回収できない一人の人間だ。例えば、「戦争による民間人犠牲者10万人」という数字がある。歴史的には重要な数字だ。

しかしレヴィナス的には、「10万人」という数字になった瞬間に、その人たち一人一人の顔が消えてしまう。だから、歴史は顔を説明できても、顔を完全には消去できない。それでは「歴史」と「倫理」は対立するのか?むしろ、倫理が歴史を裁くという関係になる。

歴史は、「何が起こったか」を説明する。しかし倫理は、「それを誰が引き受けるのか」を問う。例えば、「この虐殺にはこういう歴史的原因があった」という説明があったとしても、「だから被害者の苦痛は仕方なかった」とはならない。原因を説明することと、正当化することは別だ。

では、なぜ「交易」がここに来るのか。人間は単独で生きてはいけない。私たちは、物を交換する、言葉を交わす、労働する、法を作る、商業を行う、契約する、政治的に交渉するという関係の中にいる。つまり社会とは、分離された主体同士が関係する場だ。

社会関係の根底には、「私は他者に対して責任を負っている」という倫理的関係がある。経済も「顔」から切り離せない。第二部では、住居→労働→所有→経済という「分離された主体」の世界が作られていた。第三部では、それが他者との関係へ開かれる。

つまり、私の経済活動も、最終的には他者との関係の中にある。だから経済は、単なる物と物の交換ではない。そこには必ず、他者との関係がある。ここで「正義」が必要になる。目の前の他者が一人だけなら、「私はこの人に責任を負う」という関係で済む。

しかし現実には、他者のほかにも、別の他者がいる。すると、「私はAさんに責任がある。しかしBさんにも責任がある」という問題が出てくる。そこで、比較、判断、法律、制度、正義が必要になる。したがって、レヴィナスは「政治」を否定しない。

レヴィナスの倫理は、「目の前の他者だけを無条件に愛しましょう」という思想ではない。むしろ第三者がいるからこそ、正義の制度が必要になる。政治は倫理の代替物ではない。政治は、倫理的責任を複数の他者のあいだで調整するために必要になる。

しかし政治・歴史が倫理を飲み込んではいけない。政治は必要。歴史も必要。法律も必要。経済も必要。しかし、それらを「全体」として絶対化してはいけない。

「国家の利益だから」「経済成長のためだから」「歴史の必然だから」「安全保障のためだから」という理由によって、目の前の具体的な他者への責任が消されてはならない。この意味で、顔は常に、国家・市場・歴史・社会という全体に対する倫理的な歯止めになる。

レヴィナスは、この第二節で、意志が「作品」を通じて歴史や経済的交換の領域に入っていく過程を批判的に分析し、顔がそれらを超える次元を保持することを明らかにする。

レヴィナスはここで、意志を「作品」に還元する歴史的・経済的関係を、暴力的な全体化の一形態として描き出し、顔との対面がもたらす倫理的超越が、それに対する抵抗の源であることを示す。

意志は、身体化された独立性と依存性の統一として、自由な自己享受であると同時に、操作・腐敗・道具化に晒されるもの。意志は「作品」(行為、テクスト、記念碑、産物など)を通じて外化され、歴史の中に参入する。 

作品は意志の「機能」や「役割」を果たし、名前や運命を与えるが、その過程で意志の一意性・特異性を失わせる。解釈学的アプローチや実用的な操作(操作・腐敗・奴隷化)は、意志を作品に還元することで、その超越性を殺す。これは暴力の一形態と言える。 

「作品」は意志を歴史に残すが、同時に意志を殺す。まず「作品」が重要で、人間の意志は、そのままでは歴史の中に残らない。人は、行為する。建物を建てる。本を書く。制度を作る。商品を作るなどして、自分の意志を作品として外部化する。

すると、その作品は作者から離れて、「これは何を意味するのか」「誰が作ったのか」「歴史上どのような役割を果たしたのか」と解釈されるようになる。ここにレヴィナスの問題がある。作品は意志を「保存」しているように見える。しかし実際には、生きている意志を、解釈可能な対象へ変えてしまう。

つまり、意志 → 作品 → 解釈可能なものという変換が起こる。そして、この変換によって、「この人が、この時、このように生き、選択した」という一回的な主体性が薄れていく。

作品は「誰か」を「何か」に変える。これは顔との対比で考えると分かりやすい。顔の前では、「あなたは誰なのか」という問いが生じるが、しかし作品の世界では、「これは何なのか」という問いになる。

例えば、「彼は国家のためにこの行為をした」と歴史的に記述することができる。その人の生きた経験は、「国家形成における一つの役割」として説明される。しかし顔の前では、「この人自身が私に何を語りかけているのか」が問題になる。

したがって、作品=何かとして把握する世界に対して、顔=誰かとして出会う関係が対置される。だから歴史は「ネクロロジー(死者の記録)」になる。歴史は、死者をその「作品」から理解する。「彼はこういう人物だった」と語ることはできるが、「彼自身が今ここで私に語りかける」ことはできない。

歴史は、人々がドラマの中で果たした役割や作品の連鎖を語る物語だ。それは「作品が伝統と遺産を構成する仕方」を示すが、作品と完全に一致しない一意的な意志の時間を露わにすることはない。 レヴィナスにとって、歴史は本質的に「ネクロロジー」だ。

歴史的時間は可視的なものに基づき、個人の特異性を非人格的な作品の交換に還元する。この経済的交換の中では、他者の一意性は失われ、歴史は必然的に戦争へと傾く。「金が彼を買い、鋼鉄が彼を殺すとき、他者は顔と対面して近づかれることはない」という趣旨の指摘がなされる。

交易と顔の優先性。「交易」とは、ここでは経済的・歴史的な交換関係を指す。作品や産物を介した関係は、他者を「興味深いもの」「有用なもの」として扱い、相互の利益に基づく対称的な関係を築くが、これは他者の絶対的他性を尊重しない。

しかし、重要なのは、戦争と交易は顔と、顔に現れる存在の超越性を前提とするという点だ。顔との対面は、交易や歴史に先行する原初的な平和の関係であり、全体化を破るもの。顔は「システムを破る」ものであり、歴史の外から正義を流入させる。

正義は「経済的平等」を対象とするが、全体性を消滅させるのではなく、それを正すものだ。

交易や歴史は顔を消してしまうだけではなく、そもそも交易や歴史が成立するためには、顔と顔の関係が先行していなければならないということ。つまり、顔 → 交易・社会・歴史であって、交易・歴史 → 顔ではない。

例えば契約には、「この人が約束している」ということが必要だ。約束する人間がいなければ、契約は単なる文字列にすぎない。商業も、「誰かが誰かに何かを与える」という関係だ。したがって、経済的・歴史的なシステムは、最初から完全に匿名的なものとして存在しているわけではない。

生きた主体間の関係から生じる。しかし一度システムが成立すると、逆に、その主体をシステムの一要素として扱い始める。

「顔はシステムを破る」。例えば、「この人は労働者だから」という制度的カテゴリーに対して、「いや、この人は一人の人間だ」と顔が現れる。あるいは、「これは敵兵だから」という軍事的カテゴリーに対して、「この人には家族がいる。この人にも未来がある」と顔が現れる。

つまり顔は、システムの中で完結している意味を中断する。これが倫理の力だ。倫理的関係による時間と歴史の再定位。歴史的時間が他者を作品の非人格性に還元するのに対し、顔との倫理的関係は、主体に「まだ死んでいない」という時間的猶予を与える。

他者の顔は、私の自発性を問い直し、責任を課すことで、私に時間を開く。無限は、死の即時的暴力から私を解放し、時間の次元を開く。

歴史は基本的に、すでに起こったことを扱う。ところが顔は、まだ来ていないものを開く。なぜなら、他者が私に語りかけると、「私はこれからどう応答するのか」という未来が生まれるから。ここで時間が出てくる。

他者の顔は私に、「今すぐすべてを決定してしまうな」と迫る。むしろ、「まだ応答する時間がある」という猶予を与える。


第三節「意志と死」

死とは、私が自由に引き受けることのできる「私の可能性」ではなく、私の意志を超えて私に到来する「絶対的な他性」である。

ここがハイデガーとの大きな違い。ハイデガーでは『存在と時間』において、死は「私自身の最も固有な可能性」とされる。私は自分の死を先取りすることで、自分自身の有限性を引き受け、自己の存在を本来的に生きることができる。レヴィナスは、この発想を疑う。

なぜなら、「自分の死を可能性として先取りする」と言った瞬間、死はすでに私の意識・理解・企ての中に取り込まれてしまうから。レヴィナスにとって死は、むしろ、「私が決して所有できないもの」だ。

死は通常、無になること、あるいは別の存在へ移行することという二つの方向で考えられてきた。つまり、生 → 死 → 無、あるいは、生 → 死 → 別の生、という図式。

しかしレヴィナスが問題にするのは、もっと根本的なところで、そもそも私は「死後に何があるのか」を知ることができない。死という出来事そのものが、私の経験・理解・意識の外側にあるから。「自分の死」を経験することはできない。

私は、自分の誕生、昨日の出来事、明日の予定などについては、ある程度、記憶したり、予想したり、想像したりできる。ところが死だけは違う。私は、「死ぬ瞬間」を経験したあと、その経験について考えることができない。したがって、死の最後の瞬間は、私の意識が決して横断できない時間になる。

レヴィナスはここで、「最後の部分は私なしに通過される」という非常に印象的な考え方を提示する。死は私の前にあるが、その最後の一歩を「私が歩いていく」ことはできない。だから死は「私の可能性」ではない。ここでハイデガーとの差が明確になる。

ハイデガー的に言えば、「私はいつか死ぬ」という可能性を先取りすることができる。しかしレヴィナスは、本当に死を「可能性」と呼べるのか?と問う。「可能性」とは普通、私ができることだから。「死ぬことをする」という意味で死を「私の可能性」と呼ぶことはできない。

死は私の「できること」ではない。だからレヴィナスは、「私はできない」という極限を死に見る。つまり、意志の限界。

レヴィナスはこの節で、人間の意志が死との関係で持つ構造を分析し、ハイデガー的な「死への存在」や伝統的な「有と無」の枠組みを批判しながら、死を倫理的・対他的な次元で捉え直す。

死は単なる「私の終わり」ではなく、他者の暴力(殺人)として現れるものとして記述され、そこから意志が「他者のために」意味を取り戻す可能性が示される。

レヴィナスは、哲学・宗教の伝統全体が死を「無への移行」か「別の実存への移行」という二者択一で捉えてきたと指摘する。これは「有と無」のオルタナティブに基づいており、身近な人の死(経験的世界からの消失)によって裏付けられるもの。

しかし、レヴィナスにとって死はこの枠組みでは捉えきれない。死は「私の可能性の最果て」ではなく、私の意志を絶対的に超えた出来事として到来する。意志は自分自身を保持しきれず、死によってその権能が完全に逃れ去る。

死の本質としての「殺人」と他者の暴力核心的な主張は、死が「夜の殺人」のような絶対的暴力として経験されるという点にある。死は決定論的な必然の法則(全体性を支配する法則)のようにではなく、見知らぬ他者の意志による私の意志の疎外・異化として脅威を感じさせる。

死の暴力は「専制」として到来し、まるで外国の意志から発しているかのように感じられる。私は「無」だけでなく、私の意志の中で他者の意志に脅かされる受動性にさらされる。行動の中、意志の「自分のため」の中で、すでに見知らぬ意志に曝されている。

死は「まだ到来していないが、常に未来から迫ってくるもの」として経験される。それは予見不可能で、歓迎されることも、所有されることもできない。

死は私の最固有の可能性ではなく、他者からの襲撃であり、私を無力化するものだ。殺人の不可能性(顔が「汝殺すなかれ」と命じること)と、死の脅威としての殺人の可能性が、同じ他者の次元から来るという逆説的な構造が描かれる。

一方で、あらゆる外的攻撃に対して免疫を持ち、創造されず不死であるかのように自己を立て、量的な力を超えた力を主張する(「永遠に私は揺らがない」という自己意識の避難所)。他方で、この主権は常に危うく、誘惑・宣伝・拷問などの技術に身を委ね、死によって裏切られる。

この脆弱性の中で、時間が現れる。意志は死を延期し続け、「まだ死んでいない」という状態にある。時間とはまさに、死を免れない存在(暴力に差し出された存在)の実存そのものであり、死の到来を先延ばしにする「まだ」の構造だ。

意志はすでに自己への裏切りと疎外を内包しているが、死を常に未来のものとして延期し、それに即座に曝されないことで、「他者のために存在する時間」を持つことができる。この時間のおかげで、死にもかかわらず意味を取り戻せる。

死の脅威の中で、自我中心的な意志は破綻するが、そこで欲望と善が開かれる。欲望の重心はもはや自己になく、他者にある。死は自我的な力を奪い取ることができるが、他者のための欲望・善から意味を奪い取ることはできない。意志は「他者のために」方向転換することで、死を超えた意味を獲得する。

「死=他者の暴力」は、単純に「他人に殺される」という意味ではない。レヴィナスが死を「殺人」と結びつけるのは、単に、人間は他人に殺されるから死は暴力であると言っているのではない。

むしろ重要なのは、死が「私の可能性」ではなく、私の意志に対して外部から到来するものだという構造だ。私が何かを企てるとき、「私はこうする」という意志がある。ところが死は、「私は死ぬことを選択する」という仕方では成立しない。

死は私の企てを中断し、私の「できる」を奪う。したがって死は、私の意志から見ると、まるで別の意志による暴力のように経験される。ここでいう「他者」は、必ずしも具体的な殺人者を指しているのではなく、まず、私の主体性を外部から破るものとしての他性のこと。

レヴィナスの主体は、「私はできる」という能力によって世界を生きている。食べる、働く、移動する、話す、作る、抵抗する。しかし死において、「私はできない」が現れる。原理的に私の意志の支配から逃れている。ここに死の「絶対的な他性」がある。

死は、「今すぐ私を無にするもの」としてだけではなく、「まだ来ていないもの」として経験される。死は未来にある。しかし、未来だからこそ、私はまだ死んでいない。ここに「まだ(not yet)」がある。したがって時間とは、死がまだ到来していないという延期として現れる。

時間は単なる、現在 → 未来 → さらに未来という時計的な流れではない。むしろ、死によって中断されうるにもかかわらず、まだ中断されていないという「猶予」だ。

意志は、「私は私自身である」という強い自己同一性を持っている。つまり、私は私を維持できる。ところが実際には、死、拷問、宣伝、誘惑、暴力などによって、意志は容易に揺さぶられる。したがって、意志は主権的でありながら、同時に脆弱である。

この矛盾が重要で、レヴィナスは人間を、「完全に自由な主体」とも、「外部の力に完全に決定される存在」とも考えない。自由と脆弱性が同時にある存在として捉えている。

そして、この脆弱性が「倫理」を可能にする。もし私が完全に主権的で、「何ものも私を傷つけることはできない」という存在なら、他者から何かを受け取る必要がない。しかし私は傷つく。私は死ぬ。私は誘惑される。私は他者によって影響される。つまり私は、他者に対して開かれている。

この「開かれていること」は、もちろん危険だが、しかし同時に、倫理の条件でもある。なぜなら、完全に閉じた主体には「他者への責任」が入り込む余地がないからだ。

レヴィナスがここで「欲望」へ向かう。「必要」なら、欠けているものを獲得して、自分を満たすという構造。したがって中心は常に自己だ。しかし欲望は違う。「欲望」は、満たすためではなく、他者へ向かう。だから他者は私の欲求を満たす「対象」ではない。

むしろ他者との関係によって、私の自己中心的な意志そのものが問い直される。ここで「善」が出てくる。

しかし、「他者のために」は、死を克服することではない。レヴィナスが、他者のために生きれば死を超えられるという素朴な宗教的・道徳的教説を述べているわけではなく、死によって私の存在が無意味になるわけではないということ。

なぜなら私の生の意味は、「私がどれだけ長く存在できるか」だけによって決まらないから。私が有限で、いつか死ぬ存在であっても、他者のために何かをすることには意味がある。この意味は、私の自己保存能力を超えている。

したがって「意味」は「生存」より広い。

普通、

生きる
↓
自己を維持する
↓
目的を達成する
↓
成功する

という方向で意味を考えるが

しかしレヴィナスでは、

生きる
↓
死すべき存在である
↓
それでも他者に応答する
↓
他者のために行為する
↓
そこに意味が生じる

となる。

つまり、意味は自己保存の成功から生まれるのではない。むしろ、自己保存を超えて他者へ向かうことによって意味が生まれる。


第四節「意志と時間―忍耐」

前節では、死=私の意志では支配できないものということが明らかにされた。第四節では、そこから、それでも私には「まだ時間がある」という構造が取り出され、そして、この「まだ」が忍耐として現れる。

時間とは、意志が未来を完全に支配することができないにもかかわらず、それでも未来へ向かって行為するための「延期」であり、この延期を引き受ける意志のあり方が忍耐である。

したがって、レヴィナスの「忍耐」は、「つらいことを我慢する」という日常的な意味とはかなり違い、むしろ、「結果を今すぐ自分のものにしようとせず、未来を未来のまま受け入れること」を意味する。

前節では、死によって意志の主権が破られることが論じられた。意志は、「私はできる」という主体性を持っている。しかし死に対しては、「私はできない」となる。死は私の可能性として完全に所有できない。ところが、私は今すぐ死ぬわけではない。死は必ず来る。しかし、まだ来ていない。

この「まだ」が時間を生む。したがって、死 → 「まだ」 → 時間という構造が成立する。

しかし、時間は「死までの残り時間」ではない。普通なら、「私は死ぬまであと○年ある」と考える。すると時間は、私が所有する「資源」になる。たとえば、「残り時間を有効活用しよう」という発想。しかしレヴィナスの時間論は、これとは違う。

時間は、私が所有しているものではない。なぜなら未来は、私の意志によって完全に現在化できないからだ。私は、「明日こうする」と計画できる。しかし明日そのものを、今日の私の所有物にすることはできない。未来は必ず、私の予想・計画・意志から逃れる部分を持つ。

したがって、時間とは、意志の支配が及ばない「延期」の構造なのだ。ここで「忍耐」が登場する。「忍耐」は、未来を支配しない意志だ。意志は本来、「私はこれを実現する」と未来を現在へ引き寄せようとする。しかし未来は完全には引き寄せられない。

そこで意志は、待つことになる。これが忍耐。つまり忍耐とは、自分の力では完全に決定できない未来に対して、それでも意志を持ち続けること。「結果は完全には支配できない。しかし、それでも私は行為する」という態度。だから、不確実性を引き受けた能動性と言える。

ここで「意志の未来」が問題になる。意志は未来に向かうが、しかし未来を完全に支配すると、未来はもはや未来ではなくなる。たとえば、「明日のことを今日完全に決定してしまった」なら、明日は単なる現在の延長になってしまう。本当の未来には、私が知らないものが含まれている。

だから、未来が未来であるためには、意志による完全な支配から逃れていなければならない。そして未来の「他性」が現れる。ここで、これまで読んできた「他者」の議論と時間が接続する。他者とは、私の理解や意志によって完全には把握できないものだった。

未来もまた、私の意志によって完全には把握できないものだ。したがって、他者と未来には「外部性」という共通構造がある。私は未来を所有できない。私は他者も所有できない。だから未来も他者も、私の前に現れるのではなく、私に到来する。この「到来」という構造が重要だ。

しかし「未来」と「他者」は同じではない。未来は、まだ存在していないものだが、他者は、すでに存在しているが、私に完全には還元できないもの。したがって、未来=他者ではない。しかし両者は、「私の意志による現在化を拒むもの」という点で深く結びつく。

そして、他者との倫理的関係によって、時間は単なる物理的な流れではなくなる。「他者のために時間を使う」ということ。意志は「他者のために」方向転換することで意味を持つという論点が、第四節でさらに展開される。

自己中心的な意志なら、「私が何を達成するか」が問題になる。しかし他者への責任が入ると、「他者のために何をするか」になる。すると未来は、私自身の未来だけではなくなる。たとえば、誰かを教育することを考えてみると分かりやすい。

教師が生徒に何かを教えるとき、その成果が完全に教師の現在に回収されるわけではない。その成果は、生徒が将来何をするかに委ねられている。つまり、私は自分の行為の未来を所有できない。それでも私は行為する。これが「忍耐」だ。

善とは、私の行為が私自身の利益や現在を超えて、他者の未来へ向かうことでもある。だから善には時間性がある。私が他者のために何かをするとき、その結果が必ず私に返ってくる必要はない。むしろ、私の行為が私の手を離れて未来へ行くことが重要。

ここでは、善=自己を超えて未来へ委ねることという構造が現れる。だから「忍耐」は倫理的な概念になる。忍耐とは、私の意志が未来を所有できないことを受け入れながら、それでも他者に対する責任を果たし続けること。つまり、「結果を所有できなくても行為する」こと。

この考え方は、現代社会にもかなり鋭く適用できる。たとえば、「努力したなら、その成果を自分の人生のうちに回収しなければならない」という発想がある。あるいは、「時間を無駄にするな」「生産性を最大化せよ」「未来のために今を最適化せよ」という考え方。

これは未来を、現在の自己が管理する対象として扱っている。しかしレヴィナスの「時間」はむしろ、未来を完全に管理できないからこそ、未来であるという方向にある。だから「忍耐」は、時間を生産性に変換することへの抵抗として読むこともできる。

死が、「いつか来る」という未来を作る。しかし、「まだ死んでいない」という時間がある。そして、「まだできる」という可能性がある。しかし、その可能性は完全に私の所有物ではない。
だから、まだ → 待つ → 行為する → 他者へ向かうという構造になる。

レヴィナスは第四節で、「死の先送り」としての時間を、意志の核心に据える。人間の意志は本質的に英雄的ではなく、常に自らの失敗の淵にある。それは不死性や絶対的な免疫を装いつつも、誘惑・プロパガンダ・拷問といった外的技術に容易に屈する脆さを持っている。

この矛盾こそが、時間の「驚異」を明らかにする。時間とは、未来性と、死の到来の延期だ。意志の自由は、現在から距離を取る能力に根ざしている。時間がある限り、何も確定的ではなく、意志は過去の自分に対して常に立場を変更できる。

未来は現在の単なる延長ではなく、現在からの「距離を取る可能性」そのものだ。しかし苦しみは、この距離を極限まで縮小させる。現在と未来の差、事実と可能性の差、固定と自由の差がほとんど消滅する。主体は自分が「あるもの」に貼りつけられ、逃れられなくなる。

恐れられた未来がすでに捉え、撤退の能力を奪い、意識をほぼ完全な受動性に服させる。それでも死そのものはまだ許されず、主体は苦しみの中に留め置かれる。

ここでレヴィナスは、「自由の至高の試練は死ではなく苦しみである」と述べる。死が有限な自由の曖昧さを終わらせるのに対し、苦しみは有限性の中の不協和を極端に体験させるからだ。

忍耐とは、強制された関与の内部での離脱である。究極の受動性でありながら、同時に「主権そのもの」である。意識が一切の運動の自由を奪われながらも、現在から最小限の距離を保ち続け、絶望の中で行動と希望へと転じる事態。

私はすでに状況の中に捕らえられている。しかし、「私はこの状況そのものだ」とはならない。そこにほんのわずかな距離が残る。この最小限の距離が、意志の最後の自由だ。

たとえば暴力によって拘束されている人間は、身体的には、「私はもう自由に動けない」という状態に置かれる。これは極端な受動性だが、しかし、それでも、「私はこの状況に対してどういう意味を与えるか」という最低限の内面性が残る。

だから、身体的自由が奪われても、意志そのものが完全には消滅しない。ここに「主権」がある。ただし、この主権は、「私は何でもできる」という主権ではない。むしろ、「私は完全には他者の力の所有物にはならない」という、もっと小さく、しかし根源的な主権だ。

歴史を超えて眺めるような無関心な観照でもなく、可視的な客観性への取り返しのつかない関与でもない。両者が融合したあり方。

暴力を振るう者が私を捕らえようとしても、「まだ私の上にない」。それは未来から脅威し続け、意識的なものにすぎない。時間はまさにこの「まだない」の持続です。死の切迫は脅威であると同時に延期であり、有限な存在が死に臨みつつも「まだ時間を有し、抵抗している」というあり方。

暴力や死が私に迫っている。しかし、まだ起こっていない。この「まだ」が、重要。たとえば、「死ぬことは確実だ」ということと、「今、死んでいる」ということは違う。未来の死は私を脅かしている。しかし、まだ私を完全には支配していない。だから、脅威=延期という構造が生じる。

死は私に迫っている。だから怖い。しかし、まだ到来していない。だから私は抵抗できる。時間とは、この「まだ」である。そして「延期」は希望になる。絶望とは、「もう何もできない」という状態だ。ところが、「まだ」がある限り、「まだ何かできる」と言える。

つまり、「まだ」は希望の最小単位なのだ。希望とは、未来が必ず自分の望み通りになるという確信ではない。むしろ、未来がまだ決定されていないということだ。だから希望は、未来を所有することではなく、未来が開いていることへの信頼になる。

忍耐の中で意志は、自らのエゴイズムの殻を突き破り、重心を外側へ移す。意志は、何ものにも制限されない欲望と善性として意欲するようになる。死はここにおいて新たな文脈に置かれ、概念が変容する。死から「私の死」という悲愴さが取り除かれる。

最初の意志は、「私は私を守る」という自己保存の意志だ。つまり、「自分のため」だ。ところが死によって、その自己保存の意志が限界に直面する。「私」を永遠に維持することはできない。そこで意志は、奇妙にも、「自分を守ること」だけを目的としなくなる。

そして、「他者のために」へ向かう。これが欲求から欲望への転換。忍耐は苦しみの意味そのものであり、主体が「他人のために」という方向へ目覚める転換点だ。欲求から欲望への上昇への転換がここで起こる。

欲求から欲望へ。欲求は、私に欠けているものを満たしたい。重心は、私にある。だから、他者 → 私を満たすためのものとなりやすい。一方で欲望は、私を超えている他者へ向かう。他者を所有することによって満たされるのではない。むしろ、満たされることなく、それでも他者へ向かい続ける。

だから欲望は、自己中心性を超える運動になる。しかし、「善性」は自己犠牲そのものではない。「私は自分を犠牲にして他人を救う」という英雄的モデルでは、まだ、「私はこれだけ自己犠牲した」という自己意識が残っている。

レヴィナスが言う善はもっと根源的で、それは、自分の存在の重心そのものが他者へ移ってしまうことだ。つまり、「私は善いことをするぞ」と決意する以前に、他者への責任によって、私自身の存在のあり方が変えられてしまう。

だから「死」の意味そのものが変わる。最初、死は、「私が死ぬ」という出来事として現れる。だから、私の存在が消える、可能性が閉じる、未来がなくなるという悲劇になる。しかし意志が他者へ向かうと、死はもはや、「私という存在が消えること」だけではなくなる。

なぜなら私の行為は、私の死を越えて、

他者
↓
未来
↓
別の人々

へと続いていく可能性があるからだ。

死が私の意味を完全に決定するわけではない。私は死すべき存在だ。しかし、私の生の意味=私自身の生存ではない。他者のために何かをすることによって、私の生は私自身の生存を超える方向へ開かれる。だから、死の克服ではなく、死による意味の独占を拒む。

私は歴史の中にいる。暴力にも晒される。しかし、その歴史と完全に同一化することはない。ここに「距離」がある。この距離が、責任・判断・希望を可能にする。


第五節「意欲の真理」

意志の真理とは、「自分の意志を最後まで実現して勝つこと」ではなく、他者からの審判・呼びかけに自分を開き、その責任において自分の意志を意味あるものにすること。

第三節「意志と死」では、意志は、「私はできる」という能力・主体性を持っている。しかし死は、「それでも、あなたにはできない」という絶対的な外部性として到来する。つまり、意志「私はできる」が、死によって「私はできない」という亀裂が生じることが語られた。

第四節「意志と時間―忍耐」では、ところが死は、必ずしも今この瞬間に私を消滅させるわけではない。そこに、「まだ」がある。死は迫っている。しかし、まだ死んでいない。だから私は時間を持つ。この「まだ」が、単なる遅延ではなく、忍耐・行為・希望の可能性になることが語られた。

さらに意志は、自分自身のためだけに生きることから、「誰かに対して、誰かのために生きる」方向へ重心を移していく。

そして、第五節「意欲の真理」で、レヴィナスは、では、そのようにして他者へ向かって開かれた意志は、どこで「真」であることを確認されるのか?と問う。ここで出てくるのが、「審判」。

意志は、自分自身だけでは自分の真理を証明できない。普通、意志は「私はこうしたい」「私はこういう人間だ」という自己意識によって、自分自身を確認できるように思える。

しかしレヴィナスによれば、それは不十分で、なぜなら意志は死によって、自分の存在を完全には支配できないことが明らかになるから。意志は死によって「自分の存在すべてを掌握できない」とされ、死は意志にとって「最高の暴力・疎外」として現れる。

つまり、「私は自分の人生を完全に所有している」という自己理解は成立しない。そこで「弁明」が出てくる。ここは少し分かりにくい。

レヴィナスのいう弁明は、単純な「言い訳」ではなく、むしろ、「私はこういう人間です」「私はこう生きました」と、自分自身について語り、自分の行為の意味を示すこと。つまり主体には、「私は私の人生について語ることができる」という内面性がある。

内面性は単なる幻想ではない。内面世界は、存在における本当の出来事であり、無限が生じるために不可欠な次元だ、と考える。

しかし「私はこう生きた」と言うだけでは終わらない。ここで、「私の人生にはどんな意味があったのか?」という問いが生まれる。たとえば、私は他人を助けた。私は子どもを育てた。私はある仕事をした。私はある社会を少しだけ良くしようとしたとする。

しかし、それを自分自身だけで評価することはできない。なぜなら、「私は良いことをしたと思う」という自己評価だけでは、単なる自己満足にもなってしまうからだ。そこで必要になるのが、審判だ。では、その審判はどこから来るのか。レヴィナスの答えは、他者から。

ただし、ここでいう「他者からの評価」は、他者は私に、「あなたは私に対してどうしたのか?」と問いかける。つまり他者は、私を業績として評価するのではなく、責任を問う。ここに、レヴィナスの「正義」の考え方がつながる。

「意志の真理」とは、成果ではなく責任によって明らかになる。

普通の「意志」のモデルは、

意志する
↓
実行する
↓
成果を得る
↓
成果によって自分の意志を証明する


しかしレヴィナスでは、

意志する
↓
他者に出会う
↓
他者から呼びかけられる
↓
私の自由が問われる
↓
責任を引き受ける
↓
その責任の中で、私の意志の意味が明らかになる

となる。

だから、意志の真理=意志の自己実現ではない。むしろ、意志が自己中心性を超えて責任へ向かうことに、その真理がある。

レヴィナスはこの議論の中で、「神の審判」という表現を使う。歴史の判断は可視的なものだ。歴史的出来事は可視性そのものであり、全体性を形成し、弁明を排除する。弁明は全体性に還元不可能な主体性の現在を挿入して全体性を解体する。

歴史の「男らしい」判断(純粋理性の判断)は残酷で、特異性を沈黙させる。全体性の中に特異性の場はない。これに対し、神の判断という限界観念が導入される。

それは、一方で、可視的な歴史の判断(たとえ合理的・普遍的であっても)が特異性に与える不可視の本質的な侵害を考慮し、他方で、根本的に控えめであり、その威厳によって弁明の声と反抗を沈黙させない、ような判断だ。神は不可視を見、見られることなく見る。

具体的にこの「神の判断」の状況はどう成立するのか? 歴史の判断から生じる不可視の侵害は、他者の顔において私を見つめ、私を告発するとき、判断そのものとして産出される。他者の顕現は、異邦人・寡婦・孤児という地位によってもたらされる。

意志が神の判断の下にあるのは、死への恐れが、殺人を犯すことへの恐れへと反転するとき。このように判断されることは、普遍的原理から非人格的に宣告される評決を聞くことではない。むしろ、内面的生の新たな方向づけ、すなわち無限の責任への呼びかけだ。

レヴィナスにとって重要なのは、歴史の外部から、私の存在そのものを問い返す審判。歴史は、「何を成し遂げたか」を見る。しかし「神の審判」は、「あなたは他者に対してどう生きたのか」を問う。

歴史が、「あなたはこういう人物だった」と私を規定するとき、私は、「いや、私はそうではない。私にはこういう事情があった」と答えることができる。この「私はこう言う」という現在は、歴史的に確定された私の像には還元できない。

したがって、歴史=私について語られたものに対して、弁明=私自身が今ここで語ることが対抗する。レヴィナスにとって言語は、単に情報を伝える手段ではない。対象化されたものが、もう一度「語る者」によって中断されることでもある。

だから弁明には、全体性を内部から中断する力がある。

「個別的な事情はどうでもいい。原則は原則だ」という判断は一見すると非常に公正だが、しかしレヴィナスが恐れるのは、普遍性が個別性を黙らせること。「国家のためだった」「合理的には正しい」という説明は、実際に傷つけられた人の声を消してしまう。「男らしい判断」の暴力性がある。

だからレヴィナスは「神の判断」を持ち込む。「客観的・普遍的な判断は暴力的だから、個人の主観だけを尊重しよう」という主観主義をレヴィナスは退け、歴史の可視性では捉えられないものをも考慮する、究極の審判の理念(神の審判)を持ち出す。

神は不可視を見、見られることなく見る。人間の歴史的判断には「見えるもの」の限界がある。歴史が記録できるのは、行為、結果、数字、発言などだが、しかし、その背後には、恐怖や苦痛、屈辱、責任がある。これらは完全には「可視化」できない。

だから、見えるものだけを基準にして判断すると、必ず何かを取りこぼす。「神の判断」は、その取りこぼしを考慮する限界点だ。しかし、この「神」はどこに現れるのか。答えは、他者の顔からだ。つまり、神の判断は、他者の顔を通して現在化する。

そして「異邦人・寡婦・孤児」が重要になる。社会の中で十分な力を持たない者だから。国家・多数派・市場・歴史・制度などから見れば、「弱い存在」「周縁的存在」になりやすい。しかし、顔はそこで、「それでも私はここにいる」と私に迫ってくる。

つまり、社会的には「見えにくい者」が、倫理的にはむしろ最も強く私を見つめる。ここに、可視性と倫理的な顕現の逆転がある。「歴史によって不可視化された侵害」が、顔によって戻ってくる。

歴史の判断から生じる不可視の侵害は、他者の顔において私を見つめ、私を告発するとき、判断そのものとして産出される。

歴史

「これは合理的だった」
↓
「この人の苦しみは歴史的事実の一部にすぎない」
↓
不可視化

となる。

ところが、

顔

「あなたは私に対して何をしたのか?」
↓
告発
↓
「私」が責任を問われる。

ここで歴史の全体性が破られる。そして「死への恐れ」が反転する。「私が死ぬのが怖い」という恐れが、「私がこの人を殺してしまうのが怖い」という恐れへ反転する。つまり、以前死への恐怖 → 自己保存だったものが、他者との出会いによって死への恐怖 → 他者を殺すことへの恐怖になる。

ここで意志の方向そのものが変わる。だから、この審判は主体を消滅させるのではない。むしろ逆に、主体を唯一無二の「私」として確認する。「神の判断」は、私を消すのではなく、むしろ私を唯一化する。

普遍的な法則だけなら、「人を殺してはいけない」という一般命題になるが、しかし顔の倫理では、「あなたが、この人に対して、どうするのか」と問われる。つまり責任は、「人間一般」に対するものではなく、「この私が、この他者に対して」という形で発生する。

だから神の判断は、主体を匿名的な「人間一般」に溶かすのではなく、「あなたが答えなさい」という形で主体を唯一のものにする。これはレヴィナスのいう主体性の成立そのものだ。

正義は、主体の唯一性なしには成立しない。なぜなら、「誰が責任を負ったのか?」という問いには、「この私です」と答える人間が必要だから。例えば、「社会全体が悪かった」「制度がそうさせた」「みんながやっていた」「歴史の必然だった」だけでは、責任を負う「私」が消えてしまう。

だからレヴィナスにとって倫理は、個人を集団の一員へ溶かすことではない。むしろ、「あなた自身が答えなさい」と唯一性を要求する。

レヴィナスは、歴史の審判を超えて、真理の審判の下に自分を置くという方向を示す。歴史が正しいとは限らないからだ。

例えば歴史上、「その時代では当然だった」「社会的には成功だった」「国家のためだった」「法律上は合法だった」としても、それだけで倫理的に正しいことにはならない。
なぜなら、歴史そのものが裁かれる可能性があるから。

これは「現在の倫理で過去を裁く」問題にもつながる。昔の出来事を現代の倫理で裁く現在主義を、レヴィナスならどう考えるか。レヴィナスは単純に、「現代の価値観で過去を裁けばよい」とは言わない。むしろ重要なのは、「歴史が最終審級ではない」ということ。

つまり、過去において合法だった。社会的に承認されていた。歴史的には成功だったとしても、それによって倫理的問いが消えるわけではない。逆に、現代人が過去を裁くこと自体も、「私たちは他者に対して何をしているのか?」という倫理的問いに晒される。

したがって、レヴィナス的には「歴史を現在の尺度で裁くか/裁かないか」という二択より、歴史そのものを、倫理的責任によって問い直すという方向が重要だ。

レヴィナスでは、むしろ「自分では回収できない」ことが重要だ。意志は、「まだ」の中で生きている。私は、何かを始める。しかし、その結果がどうなるかは完全には分からない。さらに、自分が死んだ後に初めて意味を持つかもしれない。それでも私は行う。これが、未来を所有しない行為だ。

 

第三部「顔と外部性」

 

 B「顔と倫理」

 

第五節「言語と客観性」

客観性は、主体が自分の主観を取り除くことで成立するのではない。他者に語りかけ、他者に対して物を提示することによって成立する。

まず「客観性」とは、普通、「客観的」とは、私の主観を取り除くことだと考える。例えば、「私はこのリンゴが好きだ」は主観的。一方、「このリンゴの重さは200gである」は客観的という具合。つまり、主観を排除する → 客観性が成立すると考える。

レヴィナスは、この説明では不十分だと考える。なぜなら、「私の主観を排除しただけで、なぜそれが客観的になるのか?」という問題が残るからだ。

意味のある世界とは、私の享受の世界が他者を通じて主題となり、意味作用を持つ世界。事物は単なる使用の対象ではなく、理性的な意味を獲得する。それは、他者が私の事物との関係に関与するからだ。

「意味のある世界」は、単なる「存在する世界」ではない。私は世界の中で、食べ、飲み、呼吸し、眠り、働くという仕方で生きている。この段階では、事物はまず、私にとって何かをしてくれるものとして現れる。水は「飲むもの」、パンは「食べるもの」、家は「住むもの」だ。

レヴィナスがこれを人間の生の原初的なあり方として認めている。しかし、ここにはまだ「客観的な世界」は十分には成立していない。なぜなら、事物が私との関係の中に取り込まれているからだ。

そこへ、他者が現れると、事物が「私だけのもの」ではなくなる。他者が現れ、私がパンを食べているところに、他者がいる。すると、「これはパンだ」と他者に言うことができる。さらに、「あなたも食べますか?」と差し出すこともできる。

この瞬間、パンは単なる、私が食べるものではなくなり、それは、私と他者の間に置かれるものになる。享受では、私 → パンだが、言語・客観性では、私 → パン ← 他者になる。パンが「私の享受」の内部から出て、私と他者の間にあるものになる。

私が事物を指し示す行為は、その事物を他者に対して指し示すこと。これにより、事物との私の享受・所有の関係が変容し、事物が他者の視座に置かれる。記号の使用は、事物との直接的関係を間接的関係に置き換えるだけではない。

レヴィナスが「指示」を重視するのは、このためだ。私が、「あれを見てください」と言って指を指す。すると、私は単に「あれ」を認識しているのではない。私は、「私が見ているものを、あなたにも見えるものとして差し出している」。

したがって、「これは木です」という発言には、私 → 木だけではなく、私 → あなた:「これを見てください」という構造がある。これが「対象」の成立に関わる。「対象」は、単に私から距離を取った物ではない。

「客観性」というと、私の感情を取り除く → 物を冷静に見るというイメージがある。しかしレヴィナスでは、それだけでは足りない。例えば、私が机を眺めて、「これは客観的な机だ」と言っても、それだけではまだ、私と机の一対一の関係にすぎない。

本当の意味で客観的になるには、「これは机です」と他者に提示できることが重要で、つまり、対象=私から距離を取ったものというより、対象=私と他者の間に置くことのできるものなのだ。だから「客観性」と「公共性」は近いと言える。

この点から、客観性=公共性という非常に興味深い関係が出てくる。構造として、私だけのものから、他者にも提示できるものへの移行がある。例えば、「私はこの景色が好きだ」なら、かなり私的です。しかし、「この山の高さは○○メートルです」と言えば、それは他者にも検証可能な形で提示される。

そして、「本当に?」と他者が問い返せる。この問い返し可能性が客観性を支える。

対象の客観性は、使用や享受の単なる停止から生じるものではない。客観性は言語から生じ、言語が所有を問い直すことを可能にするからだ。この離脱は積極的な意味を持つ。すなわち、事物が他者の領域に入ることを意味する。客観性は「贈与」や「譲渡不可能な所有の廃止」によって定義される。 

「客観性は贈与や譲渡不可能な所有の廃止によって定義される」。なぜ、客観性の話をしていたのに、所有や贈与が出てくるのか。理由は簡単で、私が何かを「私だけのもの」として完全に囲い込んでいる限り、それを他者に提示することができないからだ。

「言うこと」は、ある意味で「所有を手放すこと」だ。例えば私が、「これは私だけが知っていることだ」とすれば、それは私の内部に閉じている。しかし、「これについてあなたに話します」と言った瞬間、私は自分が持っていたものを他者に開く。

情報であれ、物であれ、私の側から他者の側へ差し出すという構造が生じる。だからレヴィナスでは、言語と贈与が非常に近い。言語とは、私が持っている意味を他者に「与える」ことだから。

レヴィナスはフッサールを引用する。フッサールはすでに、思考の客観性が「万人にとって有効であること」にあると主張していた。つまり、客観的に認識するとは、他者の思考への準拠をすでに含んだ仕方で私の思考を構成すること。

しかしレヴィナスは、フッサールの他我構成論を批判的に捉える。フッサールでは、伝達を可能にする他者がまずモナド的思考に対して構成される。客観性の基礎が純粋に主観的なプロセスのうちで構成される、という転倒がある、と指摘する。

レヴィナスから見れば、他人の他性それ自体は構成されざるものであり、その構成されざる他性が言語を条件付けている。客観的なものは、コミュニケーションによってのみ客観的になる。 

フッサールも、客観性=万人にとって妥当することという方向を持っている。つまり、「客観的である」ということには、自分一人だけでなく、他者にも妥当するという意味がある。ところが問題は、その「他者」はどこから来るのか?ということにある。

フッサールでは「他者」が私の意識の問題になる。フッサールの超越論的現象学では、私の意識を出発点として、他者の意識の存在をどのように経験するかが問題になる。

つまり、

私
↓
他者を経験する
↓
他者の存在を構成する
↓
他者との共同性
↓
客観性

という構造。

しかしレヴィナスはここに疑問を持つ。それでは、他者を客観性の条件にしているのに、その「他者」を私の意識の中で構成してしまっているのではないかという問題だ。

レヴィナスはここで、私 → 他者ではなく、他者 → 私を出発点にする。つまり、他者は、私が構成する対象ではない。むしろ、他者が私に到来し、私を問い質す。その結果、私は他者に向かって語る。そして、物を他者に提示する。そこから、客観性が成立する。

「他人の他性それ自体は構成されざるものであり、その構成されざる他性が言語を条件付けている」。他者が私によって完全に構成されるなら、私は他者についてすべて知っていることになる。すると、わざわざ話しかける必要がない。しかし他者は、私が知らないものとして存在する。

だから、「あなたはどう思いますか?」と尋ねる。ここに言語が始まる。つまり、他者の不可知性 → 問いかけ → 言語。なので、客観性とは、私の考えが他者によって否定される可能性を受け入れることだと言える。

私が、「この物はこういうものだ」と言う。すると他者が、「本当にそうですか?」と言える。私は、「なるほど。では調べてみよう」となる。ここで初めて、私の意見を超えた「物」が出てくる。したがって、他者は私の主観から物を解放する存在だ。

言語は対象の客観性と主題化を可能にする。私は他者に語りかけることで、事物を私のエゴイスティックな享受から解放し、共有可能なもの(公共的なもの)にする。これは倫理的な関係(顔との対面、所有の問い直し)を前提とする。言語は、私が他者に世界を「贈与」する行為として、客観性の条件となる。

理論は本質的に、他の人間に宛てた言説における存在者の指示だろ言える。他者が私の前にいなければ、私は周囲の享受への没入から自由になることができない。事物は、他者の視座に置かれることで「対象」として生まれる。

「理論は本質的に、他の人間に宛てた言説における存在者の指示」は第五節の核心と言える。私たちは普通、理論化=物を冷静に分析することと考えるが、レヴィナスでは、理論化する=他者に向かって物を提示するという意味が含まれている。

つまり、「これは○○です」という最も単純な命題でさえ、実は、「あなたにもそう見えるものとして、これを提示します」という社会的・倫理的構造を持っている。だから「科学」も最終的には言語的・社会的なのだ。

他者に提示するということは、多数派が正しいという意味ではない。多数派も他者から問い直されるということだ。例えば、99人が「これは正しい」と言っている。それでも、1人が「私はそう思わない」と言える。この1人の異議申し立てが可能であること自体が、言説による客観性の構造に含まれている。

したがって、客観性=全員が同じ意見ではない。むしろ、異なる人々が同じ対象について異議を申し立て、応答し、検証できることだ。ここで「複数性」がつながる。「共有世界」は「同じ人間になること」によって成立するのではない。むしろ、異なる他者が存在するからこそ成立する。

客観性とは、他者を排除して得られる中立性ではなく、他者に対して事物を差し出すことによって成立する。私が見ているものを、他者の前に差し出し、他者がそれを受け取り、問い返し、否定することができるようにすること。


第六節「〈他人〉と〈他者たち〉」

まず問題は「私と他者」の二人だけならどうなるのか。ここまでのレヴィナスでは、私 ― 他者という顔と顔の関係が倫理の原点だった。他者の顔は私に、「私を殺すな」と語りかける。

そして私は、他者を理解し尽くしてから責任を引き受けるのではなく、他者に先立って責任を負わされている。したがって、倫理的関係は本質的に非対称だ。私が、「私はあなたを尊重するから、あなたも私を尊重してください」という交換条件で他者に関わるのではない。

むしろ、私はまず他者に対して責任を負ってしまっている。ここがレヴィナス倫理の出発点。ところが、ここで問題が発生する。それは、他者は一人ではないことにある。

私の前には、他者A、他者B、他者C、…という多くの他者が存在する。すると、「私はAに対して無限の責任を負う」だけでは済まなくなる。ここで登場するのが、「第三者」。

たとえば私は、目の前でAという人が苦しんでいるのを見る。Aの顔が私に、「助けて」と訴えている。このとき私はAに責任を負う。しかし、そのすぐ隣にはBもいる。しかもBも苦しんでいる。すると私は、「Aを助けることだけが正しいのか?」と問わざるを得なくなる。

さらにCもいる。CはBよりもっと深刻な状況かもしれない。すると、AとBとCの誰を優先するのか?という問題が生じる。これが正義の問題。

ここで「比較」が必要になる。倫理そのものは「比較するな」と私に迫る。Aの顔を前にしたとき、「Aは100点の人間だから助けよう」とは考えない。Aが誰であるか、どんな属性を持つか、社会的価値がどれくらいあるかを計算してから責任を負うのではない。顔そのものが私に責任を要求する。

ところが第三者が現れると、AとB、どちらを助けるべきか?という比較が必要になる。ここで、倫理から正義という転換が起こる。つまり、顔は「この人を無視するな」。第三者は「しかし、あの人もいる」。比較は「では、誰に何をすべきか?」。正義は「すべての人を公正に扱うにはどうするか?」となる。

ただし、「第三者=全人類」と単純化しない方がよい。「第三者」を「全人類」と言い換えると分かりやすいが、少し危険だからだ。第三者とは、単に、「目の前のA以外に、世界にはB、C、D……もいますよ」という意味ではなく、Aへの責任そのものが、A以外の人間への責任をすでに要求しているという構造だ。

私がAに対して「あなたを見捨てない」と応答するとき、その瞬間にBを見捨ててよい理由はない。つまり、Aへの責任が、Bへの責任によって相対化されるのではなく、Aへの責任そのものが、Bへの責任を開いてしまう。

だから「倫理 → 正義」という順序は、単なる段階論ではない。単純に、まず二人の倫理がある。次に第三者が登場する。だから正義が必要になるという時間的な順序ではない。むしろ、一人の他者への責任を真剣に引き受けた瞬間、その責任はすでに複数の他者への責任になっている。

だから倫理と正義は、完全に別の二つの領域ではない。倫理の内部から正義が発生する。この複数性は、生物学的な血縁や「人類」という共通の類に基づくものではない。レヴィナスはむしろ、類的共通性に先行する「兄弟関係」を語る。

顔との関係そのものが、私を人類の兄弟関係のなかに参加させる。「そもそも初めから、他者たちは一挙に私に関わる。この場合、兄弟関係の方が類の共通性に先立っている」。

私と〈他人〉は交換可能な「同類」ではない。私は責任を負う唯一者として、〈他人〉は絶対的に他なるものとして、分離したまま関係する。その非対称的な責任関係が、同時に他のすべての他者たちとの兄弟関係を成立させる。

兄弟関係は、全体性(共通の本質や種による統一)に回収されない多数性を可能にするものと言える。
普通なら、人間はみな同じ人間だから、平等に扱われるべきだと考える。これは「類」による平等だ。つまり、人間という同じ種に属している。だから平等であるという論理。

しかしレヴィナスは、これを逆転させる。平等だから兄弟なのではなく、他者への責任という関係の中ですでに兄弟関係に置かれているから、平等という問題が生じる。したがって、兄弟関係が類の共通性に繋がるのであって、類の共通性が兄弟関係になるのではない。

これは「全体性」批判とつながっている。人間を「人類」という一つの集合に入れてから倫理を作るのではない。唯一的な他者への倫理的関係から、「人類」という複数性そのものが開かれる。

顔は「語る」ものであり、言語はすでに正義。なぜなら、言語は第三者の現前を前提とするから。顔の現前は、貧しさ、第三者の現前、「命令することを命じる命令」を意味する。〈他人〉は私に命令するが、その命令は、私自身が「主人」である(自己を支配する自由を持つ)限りでしか私に関わらない。

したがって、非対称的な責任(私は〈他人〉に無限に責任を負う)と、平等性(私と〈他人〉が第三者の前で平等である)が同時に成立する。ここから、比較・秤量・制度・法といった正義の次元が必然的に生じる。

他者は私に、「私を殺すな」と命令する。しかし、私は他者から命令されるだけの奴隷ではない。自由な主体だ。他者は私の自由を完全に破壊するのではない。むしろ、私が自由な主体だからこそ、他者の命令を受け取り、それに応答することができる。

だから、自由と責任は単純な対立ではない。自由があるから責任を負える。しかし、他者への責任を引き受けることで、私の自由は「好き勝手にする自由」ではなくなる。そして第三者が入ると、「Aの命令に応答するだけではなく、Bに対しても責任を負わなければならない」となる。

ここで、責任 → 比較 → 判断 → 正義が出てくる。倫理的な顔の関係では、他者は比較できない。AはAでしかありません。ところが第三者が現れると、AとBのどちらを優先するのか?という比較が必要になる。すると、比較できない他者と比較しなければならない他者たちという二つの要求が衝突する。

これがレヴィナスの「正義」の根本的な緊張。したがって正義とは単に、「倫理を社会規模に拡大したもの」ではなく、比較不可能な他者たちを、どうしても比較しなければならなくなるという倫理的矛盾を引き受けることなのだ。


第七節「相互人格的なものが持つ非対称性」

普通、人間関係は「相互性」で考えられている。私があなたを尊重する。あなたも私を尊重するという関係。これは自然だ。しかしレヴィナスは、倫理の最も根源的なところでは、この相互性を否定する。

他者の顔が私の前に現れたとき、「私はあなたに責任を負う」ということがまず起こる。それに対して、「では、あなたも私に責任を負ってください」とは要求できない。つまり、責任は交換されるものではない。これが「非対称性」。

「互いに責任を負う」では、倫理が契約になってしまう。もし倫理を完全な相互性として考えると、私はあなたに親切にする。あなたも私に親切にする。だから私はあなたに親切にする。という構造になる。これは一見すると素晴らしい倫理に見える。しかしレヴィナスからすると、これはまだ交換だ。

つまり、「あなたが私に何かをしてくれるから、私もあなたに何かをする」という経済的な構造を残している。これは「正義」や「契約」には必要かもしれないが、倫理の起源ではない。倫理はもっと先にある。相手が何も返してくれなくても、私はすでに責任を負っている。

「非対称性」は単なる「私が他者より弱い/強い」という関係ではなく、私と他者を同じ尺度で測ることそのものができない、ということ。

顔において自らを提示する存在は、「高さの次元」「超越の次元」から到来する。他者は「見知らぬ者」として現れ、私に対して障害物や敵として対立するのではなく、私を問い質し、命令する。他者の窮乏が正義を叫ぶのを聴くことは、自分自身を「責任ある者」として措定することである。

そのとき私は、顔において自らを提示する存在よりも「より多く」であり、かつ「より少なく」である。 ここで「より多く」とは、私が無限の責任を負う自由な主体として立つこと、「より少なく」とは、他者の呼びかけの前で常に負債を負い、欠如している者として立つことを指す。

レヴィナスは、この非対称性を「間主観的空間の湾曲」と表現する。普通の空間的距離が、倫理的には「高さ=優位性」へと曲げられるのだ。他者は私と同じ平面上にいるのではなく、私の「上」から到来し、私を裁く者として立つ。

同時に、その他者は貧しい者・寡婦・孤児・異邦人として「裸」で脆弱でもある。高さ(主人性)と低さ(窮乏)が同時に現れる、この逆説的な「輝かしい卑下」が顔の本質。この非対称性は、日常の道徳経験そのものに根ざしている。

「私が自分自身に要求することを許すことと、他者に対して要求する権利を持つことは比較不可能である」。この常識的な経験が、形而上学的な非対称性を指し示している。

すなわち、私は自分自身を他者を見るのと同じ仕方で「外から」見ることはできず、したがって私と他者を一つの全体性の中に総計することは不可能だ、ということ。

「非対称性」とは、まず「同じ平面にいない」ということ。普通の間主観性では、私 ⇄ 他者という構図を考える。私は主体であり、他者も主体である。私が他者を認めるなら、他者も私を認める。つまり、主体Aと主体Bを原理的には交換可能な位置に置くことができる。

しかしレヴィナスは、この「同じ平面」を拒否する。顔において他者が現れるとき、私と他者は、同じ高さに並んでいる二つの存在ではない。他者は私に対して「高さ」から到来する。つまり、私が他者を見るというだけではなく、他者が私を見て、私を問い質している。

したがって、主体―客体の関係とも、主体―主体の対称的関係とも違う。私は「見ている側」であると同時に、「見られ、裁かれ、呼び出される側」になる。

「高さ」と「貧しさ」が同時に現れる。他者は、高いと同時に、低い。「高さ」とは、他者が私を裁き、命令するという意味。他者は私に、「殺すな」と命じる。私はその命令を受ける側だ。ところが、同じ他者は、貧しい者、寡婦、孤児、異邦人として現れる。

つまり、私より上位にいるのに、私より弱い。これは通常の権力関係とは全く違い。王が臣民より「高い」のは、王が権力を持っているからだが、しかしレヴィナスの「高さ」には、武力も権力もない。むしろ、最も無力な者が、私に対して最も強い倫理的要求をする。ここに「顔」の逆説がある。

だから「輝かしい卑下」という表現が重要になる。他者は、「私はあなたより高い」という主人として現れるのではない。むしろ、「私はあなたの助けを必要としている」という無防備な姿で現れる。しかし、その弱さこそが私を拘束する。

つまり、弱いから私に従うのではなく、弱いからこそ、私の自由を問い質す。ここにレヴィナスの倫理の独特さがある。普通なら、強い者 → 弱い者を支配すると考える。レヴィナスでは、弱い者 → 強い私に「殺すな」と命じるという逆転が起こる。

だから「顔」は、力によって私を支配するのではなく、無力さによって私の自由を拘束する。

「私より多く、しかも私より少ない」とは、私が「多い」は、私は責任を引き受ける主体という意味。つまり、「この人を助けるのは誰か?」と問われたとき、「私だ」と言える。私は他者に応答する自由を持っている。だから私は、単なる物ではない。責任ある主体として「私」である。

しかし私が「少ない」ところが、他者の前に立つと、「私は十分に責任を果たした」と言うことができない。なぜなら、他者への責任には、「これで十分」という最終地点がないからだ。私はいつも、「まだ何かできたのではないか」という負債を抱える。

だから私は、責任を負う者としては「より多く」であり、責任を果たし終えることのできない者としては「より少ない」。ここにレヴィナスの「責任」の無限性がある。

「私が自分自身に要求することを許すことと、他者に対して要求する権利を持つことは比較不可能である」。例えば、「私はもっと他人に親切であるべきだ」と自分に要求することと、「あなたはもっと他人に親切であるべきだ」と他者に要求することは、同じではない。

自分に対しては、私はもっと責任を負うべきだと言える。しかし他者に対して、「あなたも私と同じだけ責任を負え」と単純には言えない。なぜなら、倫理の出発点は、「他者が私に何をしてくれるか」ではなく、「私が他者に何をするのか」だからだ。

ここで責任の非対称性が、日常的な道徳経験の中にも現れている。この非対称性が「私」を唯一者にする。なぜ「私」は「私」なのだろうか。レヴィナスなら、私が他人とは違った身体を持っているからだけではなく、むしろ、この責任を私の代わりに誰かが引き受けることはできないからだ。

例えば、「あなたの代わりに、私があなたの責任を負います」ということはできる。しかし、「私がAに対して負っている責任を、別の誰かが代わってください」とはできない。責任が私を名指しするからだ。したがって、責任を負わされることが、私の唯一性を作る。

そして「間主観的空間の湾曲」が意味を持つ。

通常の空間なら、

A ――― B

AとBの間の距離は、どちらから測っても同じ。

しかし倫理的空間ではそうならない。

   他者
    ↓
 「殺すな」
    │
    │ 高さ
    ↓
    私

他者は倫理的な高さを持っている。そしてその高さは、幾何学的な位置ではない。私に対して責任を要求する位置。だから「空間が湾曲する」。

全体性とは、私と他者を同じ体系の中に置き、相互関係として理解し、比較し、総計すること。それに対して、無限とは、他者が私の理解・比較・総計を超えていること。非対称性は、この「無限」を守る。

なぜなら、私と他者が完全に対称なら、私は他者を私と同じ尺度で測ることができるが、しかし、私と他者の責任が非対称なら、他者は私と完全に同じ位置に回収できない。だから、非対称性=他者の絶対的外部性を守る仕組みになる。

他者との倫理的関係は「互いに同じだけ責任を負う」という相互性から始まらない。私は他者に対して、他者が私に対する以上に責任を負う。この非対称性によって、他者は私と同じものへ還元されず、私自身もまた、誰にも代替できない唯一の責任主体として成立する。


第八節「意志と理性」

理性によって世界全体を一つの体系として理解できるなら、他者もその体系の中の一項として理解できるのではないかというという問いに対して、レヴィナスは、理性の最初のものは「概念」ではなく、「私に語りかけてくる他者」であると考える。

理性とは何か?。ここまでレヴィナスは、顔、言語、他者、第三者、正義、非対称性について論じてきた。すると、当然、では、私たちはどうやって他者と「話が通じる」のか?という疑問が出てくる。正義や社会を成立させる共通の理性はどこから来るのか?

通常なら、理性があるから、私と他者は共通の世界を理解できると答える。しかしレヴィナスは、理性が先にあって、その理性によって他者と関係するのではない。むしろ、他者との言語的・倫理的関係こそが、理性を成立させる。これが第八節の出発点。

最初の「可知的なもの」は概念ではなく、知性そのものである。ここでいう「知性」とは、単なる頭脳能力ではなく、他者が私に語りかけてくるという出来事のこと。たとえば他者の顔が、「殺すな」と語る。私はここで初めて、「これは何を意味しているのか?」という意味の世界に入る。

つまり、意味は最初から私の頭の中にある概念ではない。他者が私に語りかけることで、意味が開かれる。言説は思考を条件づけ、その最初の可知的なものは概念ではなく、顔が「殺すな」という言葉によって示す「侵すことのできない外部性」だ。

レヴィナスはすでに、言語の本質は倫理的であると論じていた。なぜなら、言語とは単に情報を伝達することではなく、他者が私に語りかけることだから。たとえば、「これは机です」という命題だけを考えれば、言語は単なる情報伝達に見える。

しかしレヴィナスが問題にしているのは、「あなた」と私が向き合い、「あなた」が私に語りかけること。ここでは、私は他者の外部性を尊重しなければならない。だから、言語は他者を私の概念の中に吸収することではなく、他者が外部にとどまったまま私に意味を与えることなのだ。

これにより、理性を主体の内的な総合や普遍的概念に還元する理想主義が拒否される。スピノザやヘーゲル的な立場では、意志は明晰な観念に従うもの、または普遍への敬意を通じてのみ「善意志」となり、最終的に理性に吸収される。

形式的に意志と理性を区別しても、普遍に従う意志だけを「真の意志」とすれば、存在の多元性や人格の唯一性が失われる。理性が普遍国家のような全体性に至るとき、対話者がいなくなり、語り自体が終わってしまう。

レヴィナスは、この同一化を「人類の悲壮な経験」に反するものとして退ける。理想主義はそうした経験を主観的・想像的なものに押しやりる。

私がまず「殺人はいけない」という普遍的道徳命題を知っているから他者を尊重するのではないこと。むしろ、他者が私に語りかけてくることによって、初めて「意味する」という出来事そのものが成立する。

したがって、「意味」は私の内部で完成された観念ではない。意味は、外部から私に到来する。これが「外部性」の意味でもある。だから「理性=自己の内部での総合」ではなくなる。

もし理性とは、私が世界を自分の意識の中で統合し、体系化する能力だとすれば、理性は最終的に全体性へ向かう。すべてを理解する。すべてを体系化する。すべてを同一の原理から説明する。すると、他者もまた、その体系の中の一項になる。これでは他者は本当に「他者」ではない。

だからレヴィナスは、理性の条件そのものを「他者との対話」に置く。「理性が普遍国家のような全体性に至るとき、対話者がいなくなり、語り自体が終わる」。なぜなら、言語は独白ではないから。

私が完全な体系を構築して、「これですべて説明できた」と言った瞬間、そこにはもう「私に語りかけてくる外部」がいない。つまり、完全な全体性=対話の終わりなのだ。もし社会も、「人間についての完全な理論」によって設計できると思えば、人間はその理論の中の要素になる。

そのとき、人間が語るのではなく、体系が人間について語ることになってしまう。ここに全体性の危険がある。

主体性が「絶対的に他なる他者」との関係において分離した存在として固定される場合、顔が最初の意味(理性の湧出そのもの)をもたらす。このとき、意志は可知的なものから根本的に区別される。意志はそれを「理解」したり、そこに消滅したりしてはならない。

可知的なものの可知性はまさに倫理的振る舞い、すなわち意志を招く責任のうちにあるからだ。意志は、この責任を「どのような意味でも」引き受ける自由をもつ。しかし、責任自体を拒否する自由、顔が導入した意味のある世界を無視する自由はない。顔の歓迎において、意志は理性に開かれる。

「意志と理性の区別」はなぜ必要なのか。理性によって、「これは善である」と完全に理解できたとする。では、意志はどうなるのだろうか。もし、善を完全に理解すること=善を意志することなら、意志には独自の意味がなくなる。意志は単に、理性によって認識された善を実行する装置になってしまう。

レヴィナスはこれを拒否する。それでは、唯一的な主体としての「私」が消えてしまうからだ。「理性が正しいから従う」と「私が応答する」は違う。

ここを具体的にすると

理想主義的な構図

普遍的な善を理性が認識する
↓
意志がその善に従う
↓
善い意志になる

ここでは、意志の正しさは理性への一致によって決まる。


それに対してレヴィナスでは、

他者が私に語りかける
↓
私は呼び出される
↓
私は応答する
↓
その応答をどうするかを意志する

つまり、意志は理性の「下請け」ではない。

しかし「自由=何でもできる」でもない。責任をどのような仕方で引き受けるかについては自由である。しかし、責任そのものを無かったことにする自由はない。たとえば他者が困っている。私は、お金を渡す、助けを呼ぶ、話を聞く、制度的な支援につなぐなど、さまざまな応答の仕方を選べる。

しかし、「この人が苦しんでいるという事実は私とは完全に無関係だ」と、顔が私に与えた責任そのものを消すことはできない。したがって、自由の範囲内に責任があるのではなく、責任を負ってしまっていることが、自由のあり方を規定する。これがレヴィナスの自由論。

だから「自由を奪う」のではなく、「自由を倫理化する」。レヴィナスは、「何でもしていい」という自由を、責任ある自由へと変える。他者の顔によって、「私は自由だから、あなたを好きなように扱える」という自己中心的自由が中断される。

しかしその後、「では私はどう応答するのか?」を選ぶことになる。だから、倫理は自由の否定ではなく、自由に「応答」という意味を与える。

「顔の歓迎において、意志は理性に開かれる」。普通なら、理性 → 意志と考えるが、しかしレヴィナスでは、顔 → 意志 → 理性という方向になる。理性は、他者への責任に応答するために開かれる。だから理性は単なる「認識能力」ではなく、倫理的判断能力になる。

 

第三部「顔と外部性」

 

B「顔と倫理」

第一節「顔と無限」

顔は私の感覚に与えられる「内容」ではなく、私の把握・所有・支配を超えて私に向かってくる「無限」だからである。

レヴィナスは冒頭、「諸存在と接することは、視覚に準拠している以上、これらの存在を支配し、それらに権能を行使することである」と言う。

最初に「視覚は支配する」という問題。前のA節で、顔が視覚的に現れながら視覚を超えることを見た。B-1では、その理由がさらに掘り下げられる。普通の対象を見る場合、私 → 対象という関係がある。

たとえば机を見る。私は、形を見る、大きさを測る、材質を調べる、用途を考える、所有することができる。つまり対象は、私の視野・理解・能力の内部に置かれる。だからレヴィナスは、視覚を単なる「見る能力」としてではなく、対象を自分の側に取り込む力として捉える。ずっと続いている「同」の論理。

ところが顔は「包摂されること」を拒む。レヴィナスは顔について、顔は「包含されること」を拒んで現前すると述べる。私が何かを理解するとは、「これはこういうものだ」という形で、それを私の知識の中に位置づけること。

例えば、この人は教師だ。この人は日本人だ。この人は優しい人だ。こうして相手を「何者か」として把握できる。しかし、「この人とは何者か」という説明をいくら積み重ねても、他者そのものを完全には包摂できない。これが顔の「無限」。

無限とは、私が相手について持つ観念を、相手自身がつねに超えていること。『全体性と無限』の冒頭から続いてきた、「他者は、私のうちにある他者の観念を超えている」という構造が、ここで顔として具体化される。顔とは「私の中にある他者の観念を超えて他者が自らを提示すること」だ。

したがって、私の他者についての理解と他者自身の間には、絶対に埋められない差がある。「他者は未知だから無限」なのではない。無限を、「私はこの人についてあまり知らない」という意味にしてはいけない。

例えば初対面の人について、「この人の趣味を知らない」というのは単なる情報不足だ。情報を増やせば解決できる。しかしレヴィナスの無限は違う。たとえ、その人の経歴を全部知っていても、性格をかなり理解していても、長年一緒に暮らしていても、なお、その人自身は私の理解を超える。これが無限。

だから、親密さは他者性を消さない。むしろ、よく知っている相手なのに、なお分からないというところに、レヴィナス的な他者性がある。

では、なぜ「顔」が無限なのか。顔は、その形に閉じない。私が顔を見て、「この人はこういう人だ」と把握した瞬間にも、本人自身がその把握を超えている。だから、顔は形の中に現れながら、形を破る。

顔は私の力能に抵抗する。「抵抗」とは、壁のような抵抗ではない。顔の表現は「私の力の弱さ」ではなく、むしろ「力を行使する能力」そのものに抵抗する。顔は、「私を所有するな」という意味を持つ。したがって、顔の抵抗は倫理的抵抗だ。私の自由や力能が、他者の前で自分自身を問い直される。

そして「顔は私に語りかける」。ここでA節の「表出」が再び出てくる。顔は私に話しかける。顔は私に語りかけ、享受や知識のような「力の行使」とは異なる関係へ私を招く。ここで「経験」という言葉も変わる。

普通の経験なら、私 → 世界。私は世界を経験する。しかし顔との出会いでは、私 ← 他者という方向が出てくる。私は他者を見ている。ところが同時に、他者が私に語りかけている。つまり、私が経験を「構成する」だけではない。私自身が他者から呼びかけられている。

この意味で、顔は通常の「感性的経験」を超える。「無限」は顔の巨大さではなく、関係の非対称性だ。私は、「他者について何かを知る」ことができる。しかし他者は、私の知識の対象に尽きない。だから、私 → 他者という認識関係だけでは説明できない。

他者はむしろ、私に向かって語りかける。そのため関係が、私 → 他者から、私 ⇔ 他者へ変わる。ただし、完全な対称関係ではない。むしろ、他者の方が先に私を問いただす。顔との出会いでは、私自身が問いただされる。

つまり、「あなたは私をどう扱うのか?」という問いが、顔の現前そのものに含まれている。だからレヴィナスでは、他者を認識することより先に、他者によって私が問われている。ここで「殺すな」が出てくる。

顔は無防備だ。だからこそ、私には他者を傷つける力がある。しかし同時に、その力を行使してはいけない。この二つが同時に成立する。ここに非常にレヴィナス的な逆説がある。顔は最も弱いからこそ、私に対して最も強い。物理的には弱い。しかし倫理的には、私の自由を拘束するほど強い。

第一部以来ずっと出てきた、「無限の観念」が、ここで具体的な経験になる。第一部では、私のうちに、私自身からは引き出せない「無限」の観念があるという議論だった。第三部では、その無限が「顔」として現れる。

つまり、

無限の観念
↓
私の能力を超えるもの
↓
他者の顔
↓
私の力能への抵抗
↓
「殺すな」
↓
責任

となる。
これは『全体性と無限』全体を貫く一本の線だ。

第一部、無限:私の内部に、自分では生み出せないものがある。
↓
第二部、分離・享受・家政:私は独立した「私」として成立する。
↓
第三部A、顔と感性:私は他者を対象として見ることができるが、顔はその対象化を突破する。
↓
第三部B-1、顔と無限:他者は私の理解・所有・支配を超える。
↓
次の倫理、だから私は他者に責任を負う。

ここで、「同」と「他」の関係が決定的に変わる。最初の第一部では、同と他の関係が問題だった。「同」は、世界を理解する、所有する、分類する、自分の中に意味づけるという能力を持っている。しかし「他」は、同の能力によって完全には回収されない。これが「外部性」。

そして顔は、その外部性が最も具体的に現れる場所だ。だから「顔」は「他者の身体の一部」ではない。「顔」という言葉を身体器官として理解してはいけないことがはっきりする。顔とは、他者の外部性が私の前に現れる出来事だ。

だから、極端に言えば、顔そのものが見えなくても、他者の「表出」が成立する場合がある。したがって、顔=目鼻口ではない。そして「無限」は「絶対的な距離」でもない。レヴィナスの無限とは、絶対に回収できないからこそ、関係できるという構造。

これは第一部以来の「分離」の問題と同じ。もし他者を完全に理解してしまえば、他者は「私が知っているもの」になってしまう。しかし、理解できないまま関係できる。これがレヴィナスの「無限との関係」。「無限との関係」は、無関係ではなく「倫理的関係」。

レヴィナスは、他者を完全には理解できない。だからこそ倫理的に関係すると考える。他者を対象として完全に理解できないからこそ、私は他者に語りかけ、他者の語りを受け、応答しなければならない。これが言語・倫理の起点になる。

他者の顔は、私の理解・所有・支配の能力に対して抵抗し、その能力そのものを問い直す。そして、その「抵抗」は、「私に語りかけ、私を倫理的関係へ招く」という積極的な出来事だ。したがって、顔=無限=表出=言語=倫理への入口という連関が成立する。


第二節「顔と倫理」

他者の顔は、私の力に対して「より強い力」として抵抗するのではなく、私が力を行使するという構造そのものを無効にする。

例えば、私が岩を殴ったとする。岩は硬いので、私の拳を傷つける。しかし、それは単なる物理的抵抗にすぎない。ところが他者の顔は、これとは違う。他者は私に対して、「あなたは私を殺すことができる」という意味では、むしろ極端に無防備だ。

しかし同時に、「私を殺してはならない」という倫理的命令を発している。したがって、他者は「私より強い存在」ではない。むしろ、私の暴力に対して無防備であるにもかかわらず、私の暴力そのものを倫理的に問題にする存在なのだ。これが「顔」の核心だ。

顔が私の諸々の力能を拒むという点にある。顔は感覚的に把握可能なもの(目鼻口などの形)でありながら、その「顕現」において、所有や対象化、支配の対象となることを徹底的に拒否する。感覚的なものが、掴み取ろうとする私の手をすり抜け、全体的な抵抗に転化する。

この抵抗は、物理的な力の抵抗ではなく、むしろ「抵抗なきものの抵抗」すなわち倫理的抵抗だ。他者の顔は、無防備で裸形であり、弱さや窮乏(異邦人・寡婦・孤児の姿)を示しつつ、そこから「汝殺すなかれ」という原初的な表現・最初の言葉が響いてくる。

無限は殺害よりも強く、すでに他者の顔のなかで私たちに抵抗している。それが顔そのものであり、原初的な表現であり、初めの語なのだ。無限は、殺害に対する無限の抵抗によって私の力能を麻痺させる。この抵抗は、無防備な眼差しの深みから、絶対的な裸形と窮乏のうちに堅固に立ち上がる。

この窮乏と飢えの理解こそが、他者との近さを確立する。

「顔は私の力能を拒む」とは何か。まず重要なのは、顔が単に「所有できないもの」なのではないという点にある。私たちは通常、世界の事物に対して、見る → 把握する → 理解する → 使用する → 所有するという関係を結べる。

たとえば机なら、「これは机だ」と対象化し、材質や大きさを調べ、移動させ、使用することができる。しかし他者の顔は、目や鼻や口という感覚的に見えるものでありながら、その感覚的な現前を超えてしまう。つまり、見えているのに、見えているものとして尽くすことができない。

だから顔は「不可視のもの」ではなく、むしろ逆で、あまりにも露わに現れているからこそ、対象として閉じることができない。

「抵抗なきものの抵抗」がなぜ重要なのか。他者は私に対して無防備だ。だからレヴィナスは、顔の抵抗を、「抵抗なきものの抵抗」として捉える。これは、私を物理的に阻止するものではないのに、私の自由な力の行使そのものを倫理的に不可能にするもの。

例えば、赤ん坊には大人を物理的に制圧する力はない。しかし、泣いている赤ん坊を前にした時、「この存在を放っておいてよいのか?」という問いが発生する。ここでは、赤ん坊の「力」に屈服しているわけではない。むしろ、弱さそのものが私を拘束する。

だから「弱さ」と「高さ」が同時にある。「無防備で裸形であり、弱さや窮乏を示しつつ、そこから『汝殺すなかれ』が響いてくる」には、一見すると矛盾がある。他者は、私より弱い。しかし同時に、私より高い。この二つが同時に成立する。

弱さとは、他者は私の暴力に対して無防備だということ。だから他者は、私を殺すことができるという意味で、私より弱い。高さとは、しかし他者は、その無防備さそのものによって、「私を殺してはならない」と私を裁く。したがって倫理的には、他者は私より高い。この「低さと高さの同時性」が顔の特徴。

この「汝殺すなかれ」を、普通の道徳規則と区別する必要がある。レヴィナスにとって、「殺すなかれ」は、誰かが後から制定した法律ではない。「人を殺してはいけません」という社会規範を学習したから顔を見ると禁止を感じる、という話でもない。

むしろ、顔そのものがすでに「語っている」。だからレヴィナスは顔を表現と呼ぶ。ここで「表現」は、「顔に感情が表れている」という意味よりはるかに深い。顔は、私に対して自分自身を語り、私が意味を与える以前に、私に意味を差し出している。

つまり、私は他者の顔を解釈して「殺してはいけない」という意味を作るのではない。むしろ、他者の顔が私に「殺すな」と語りかけることによって、私の理解そのものが始まる。

顔は「原初的な表現であり、初めの語」。ここでいう「言葉」は、まだ「助けてください」といった具体的な発話ではなく、もっと根源的な意味で、他者が私に向かって「私はここにいる」と現れることそのものが、すでに言語的なのだ。だから、顔 → 表現 → 言語という連続性がある。

顔は殺害の可能性を開く(他者を完全に消滅させ、私の全体性に吸収しようとする誘惑)と同時に、その純粋に倫理的な不可能性を示す。物理的には殺せても、倫理的には「殺せない」という絶対的な禁止が顔から発せられる。これは力対力の関係ではなく、力を超えたものとの関係。

レヴィナスは、物理的には殺せるが、倫理的には殺せないと言う。殺すことはできる。むしろ、顔は殺害に対して無防備だから、殺害そのものは可能だ。しかし殺害しても、他者を完全に支配したことにはならない。

なぜなら殺害とは、他者を「私の全体性の内部に取り込むこと」ではなく、他者との関係そのものを破壊することだから。したがって、殺害は他者を克服するのではなく、他者を消してしまう。ここに殺害の根本的な無意味さがある。

「無限は殺害よりも強い」とは、仮に「無限のほうが強い」と言うと、他者が超能力のような巨大な力を持っているように聞こえてしまう。そうではない。無限が殺害より強いというのは、殺害によって他者を完全に自分のものにすることができないという意味だ。

つまり、私の力の側から見ると、他者を殺すことは可能。しかし、存在論的・倫理的に見ると、殺害は他者の他性を支配することに失敗する。だから「無限」は私の力能を超えている。

顔との関係は対称的な相互性ではない。他者は高みから到来し、私の自発性・自由・エゴイズムを問いただす。私は他者に対して責任を負う立場に置かれ、この責任が倫理の始まりとなる。

レヴィナスの倫理は、「あなたが私に親切にしてくれたから、私もあなたに親切にする」という相互性ではない。これは、あなた → 私、私 → あなた、という対称的関係。しかしレヴィナスでは、他者 → 私の方向が先にある。他者が私に呼びかける。私はそれに対して責任を負う。

だから倫理は、「お互いに尊重しましょう」という契約ではない。むしろ、「私は相手から何も返してもらえなくても、まず相手に対して責任を負ってしまっている」という非対称性。ここにはかなり厳しい倫理がある。

私は自由だったのに、他者に責任を負わされる。レヴィナス的には、その通り、という部分がある。顔は私の「何をしてもよい」という自発性を停止させる。だから倫理は、私の自由をそのまま放置するものではない。

しかし同時に、レヴィナスはもっと深いことを言っている。それは、他者によって呼び止められる以前の「完全に自由な私」など、本当に存在するのか?という問いだ。

顔との出会いによって初めて、「私は誰かに対して応答しなければならない私である」という主体性が現れる。だから、自由 → 倫理ではなく、他者への責任 → 主体性としての私という方向がレヴィナスにはある。

そして「窮乏」と「飢え」は単なる社会的弱者の描写ではない。異邦人・寡婦・孤児とは、単に、「弱い人には優しくしましょう」という倫理教育ではない。「異邦人・寡婦・孤児」というのは、私の世界の外側にいる人の典型だ。

つまり、私の共同体に属していない、私の所有関係に入っていない、私のカテゴリーに完全には収まらない、私の保護を当然には受けられない存在だ。だから「顔」は、まさに私の世界の外部から到来する他者なのだ。そして、その人の「飢え」が私に迫る。ここで「近さ」が成立する。

「近さ」は距離ではない。遠くにいる人でも、その人の苦しみが私に届くなら、私はその人に「近い」。つまり、近さとは、他者の窮乏が私に関係してしまうこと。だから、他者が飢えている→私には関係ないということができなくなる。この「関係ないと言い切れない」というところに、倫理が発生する。

顔は「表現」であり、言語の根源だ。顔は私に語りかけ、私の対象化の働きから逃れ続ける。対象として固定されず、常に「外部」に留まることで、無限を現前させる。

ここで「全体性」と「無限」の対立が完成する。全体性とは、私は他者を、見る → 理解する → 分類する → 対象化する → 所有することで、自分の世界の内部に取り込もうとする。

無限とは、しかし顔は、「私はあなたの理解の中に収まりきらない」と現れる。しかも単に逃げるだけではない。他者は、「だからこそ、あなたは私に責任を負う」と私に迫る。つまり、無限=理解不能だけではなく。むしろ、理解によって回収できないのに、私に対して意味を持つもの。


第三節「顔と理性」

他者は私に「新しいもの」を教える。そして、この「教えられる」という出来事こそが理性の起源である。

理性とは、私の中にすでに存在しているものを整理する能力ではなく、私の中にはなかったものを、他者から受け取る能力である。理性の起源を「他者」に置いている。

普通、理性を、論理的に考える。推論する。物事を理解する。矛盾を避ける。客観的に判断すると考える。しかしレヴィナスは、その「理性的に考える」という能力そのものが、実はもっと根源的な出来事、「他者が私に語りかけ、私がそれを受け取る」という出来事から始まっている、と考える。

顔は、表現として現れる。それは現象でも、象徴・記号でも、テクストでもない。顔の誠実さ・一義性は、可能的な偽善や、あらゆる行為・言葉に先立っている。顔は、文化的事実や歴史的作品のように、文脈や全体性の中で意味を得るものではない。

そのため、顔は解釈学的アプローチ(解釈の循環)を要求しない。顔は、すでに成立した意味の体系の中で解読される対象ではなく、むしろ意味そのものを創設する源泉と言える。

顔は、声による発話や視覚の能力にさえ還元されず、盲目や唖の人であっても、私を「見る」「顧みる」「語りかける」ことができる。顔は、感覚的な器官を超えた「表出」の原初的な様式だ。

顔は解釈されるものではない。ここでの「顔は表現である」という言葉は重要で、普通、私たちは他者を理解するとき、顔つき・服装・言葉・行動から、背景や文化・心理・歴史を推測し、「この人はこういう人だ」と解釈するということをする。つまり他者を、ある意味の体系の中に位置づける。

しかしレヴィナスにとって、顔はそのような「解読される対象」ではない。顔はむしろ、「私についてこう解釈してください」と何かを表しているのではなく、「私自身がここにいる」という仕方で自分自身を表現している。

したがって、顔には「表象された意味」と「それを表象するもの」の距離がない。ここが記号・象徴との決定的な違い。

顔は「意味を持つ」のではなく「意味を始める」。文化的な作品なら、作品 → 歴史的背景 → 作者 → 文化 → 他の作品という解釈の連鎖の中で意味を理解する。しかし顔の場合、「この顔は何を意味しているのか?」と問い続けても、顔そのものには到達しない。

なぜなら顔は、すでに存在する意味を私に伝達しているのではなく、私と他者との間に意味が生じることそのものを開始するからだ。だから、顔は「意味されるもの」ではなく、「意味することを開始するもの」なのだ。ここで「表出」と「表現」が重要になる。

盲目や唖の人であっても、私を「見る」「顧みる」「語りかける」ことができる。「顔を見る」は視覚的な行為ではないからだ。もっと根源的に、他者が私に向かっているという関係そのもの。だから「見る」「語る」という言葉も、通常の感覚器官の働きを超えている。

これはレヴィナスが「顔」を倫理的な現前として考えているということ。では、なぜ顔が「理性」を開くのか。一見、他者=理解できない、他者=私を超えている、なら、「だったら理性的に考えることとは反対ではないか?」と思える。

しかしレヴィナスは、他者が私の理解を超えているからこそ、私は他者から教えられることができる。もし、理性を、自分の中にあるものを整理し、全体を把握する能力と考えるなら、他者は理性の「外部」にある。

しかし理性を、自分の外部から来るものを受け取る能力として考えるなら、他者こそ理性の条件になる。したがって、理性=包摂する能力ではなく、理性=包摂できないものを受け入れる能力となる。

顔を迎え入れることが、意志を理性に開く。「他人を迎え入れる能力」として理性を捉え直す。この〈他人〉との「理性的」関係が、日常的な意味での合理性(論理、客観性、共通の世界の成立)を可能にする。

理性は、同が他を包摂・支配する力ではなく、絶対的に他なるものを受け取る受動的な能力だ。無限の観念を思惟すること、すなわち「思惟が思惟しうる以上のものを思惟する」ことこそが、理性の働きの本質と言える。

「顔を迎え入れることが、意志を理性に開く」。ここは、以前の「自由」の話ともつながる。意志が、「私はこうしたい」「私はこう考える」「私はこうする」だけで閉じているなら、意志は容易に自己中心的な力になる。

ところが顔が私に現れると、「あなたの意志だけで世界を決めてよいわけではない」というものが私の前に現れる。しかも、それは外から物理的に私を強制するのではない。顔は私に、「あなたの自由には、私という他者がいる」ことを露呈させる。

その瞬間、意志は自分自身だけを根拠にすることをやめ、他者に対して理由を求めることができる状態になる。これが「意志を理性に開く」ということだと考えると分かりやすい。

そして、「汝殺すなかれ」は単なる道徳規則ではなく、顔との対面 → 「この人を殺してはならない」 → 私の自由が問いただされる → 他者について考える → 理性が開かれるという順序で、倫理が理性の出発点になっている。

そして「無限の観念」と理性がつながる。「思惟が思惟しうる以上のものを思惟する」。通常、思考とは、思考するもの=思考されるものを自分の中で把握することだと考える。しかし「無限」は違う。私は無限を思惟する。しかし、思惟された無限は、私の思惟能力を超えている。

つまり、

私はXを思考する
↓
Xは私の思考内容になる
↓
しかしXは私の思考内容を超えている

という奇妙な構造だ。これがレヴィナスのいう無限。だから、理性とは、思考によってすべてを自分の内部に回収する能力ではなく、自分を超えるものを思考できる能力になる。

ここに「受動性」という逆説がある。普通、理性的である=主体が能動的に考えると思う。しかしレヴィナスは、本当に理性的になることは、まず他者から何かを受け取ることと考える。つまり、理性の能動性の根底には、受動性がある。

私は自分で「他者を創造」していない。他者が私のところに来る。他者が私に語りかける。私はそれを受ける。その受動性によって初めて、「自分の考えを疑う」「別の視点を受け入れる」「自分の判断を修正する」という理性的な活動が可能になる。

「この経験は倫理的であり、自我をその唯一性(代替不可能性)に至らせる」。一見すると、他者を尊重する→私が個性的になるという話には見えない。しかしレヴィナスでは、まさにそうなる。なぜなら他者への責任は、「誰かがやればいい」という一般的な責任ではないからだ。

他者が私の前に現れた瞬間、「あなたがどうするのか」が問われる。その責任を他人に完全に代替させることはできない。だから、他者が私を唯一の「私」にする。これ重要。「他者を理解する」より「他者に応答する」。そして、これは次の「第三者」の問題につながる。


第四節「言説が意義を創設する」

意義は、主体が世界に意味を付与して作り出すものではない。他者との言説=対話の関係そのものが、意義の源泉である。意味することは倫理的関係から始まる。

まず「意義」とは何か。ここでいう「意義」は、単に、「この単語はこういう意味です」という辞書的な意味ではない。もっと根本的な、「そもそも世界が私にとって意味を持つとはどういうことなのか」という問題。

例えば、「これは机だ」という判断ができるためには、すでに、「これ」が何か。「机」という概念が何を意味するか。私と他者が同じものについて語れること。私の判断が正しいか間違っているかを問えることなどが成立していなければならない。

つまりレヴィナスが問うのは、「意味のある世界そのものは、どこから来るのか?」なのだ。

意義は「主体の内部」から始まらない。

近代哲学・現象学的な考え方では

主体
↓
意識
↓
対象を表象する
↓
対象に意味を与える

というモデルがある。この場合、意味の中心は「私」だ。世界は、私にとって意味を持つ世界として現れる。

しかしレヴィナスは、それでは他者の他性を本当に説明できないと考える。なぜなら、私がすべての意味を構成するなら、他者も最終的には、「私の意識に現れた他者」になってしまうから。つまり他者が「私の意味体系の一部」に回収されてしまう。これは、レヴィナスが一貫して批判してきた全体性。

そこで「言説」が出てくる。では、意味はどこから来るのか。レヴィナスの答えは、「他者との言説」。ここで「言説」は、単なる情報交換ではない。「私はAについてこう思う」「いや、あなたの考えは違う」というような、二つの主体が向かい合っている関係そのもの。

重要なのは、私が他者について語ることではなく、私が他者に語りかけることにある。「語ること」と「語られた内容」は違う。例えば私が、「彼は外国人だ」と言ったとする。この場合、「外国人」という概念によって、その人を分類している。これは他者について語ること。

しかし、「あなたはどう思いますか?」と本人に問いかけるなら、これは他者に語りかけることだ。後者では、私は相手を単なる対象として扱っていない。相手が、「私はこう思う」と答える可能性を残している。つまり、言説とは、他者の応答可能性を開いたまま語ること。他者は「情報」ではなく「話者」だ。

言語は単なる「コード」ではない。現代では、言語を、発信者 → 情報 → 受信者という通信モデルで考える。例えば、Aさんが「雨が降っている」と言う → 情報がBさんに伝わるというもの。しかし、これでは言語の本質を捉えられない。言語の根源は、「誰かが誰かに語りかけている」ことだから。

つまり、言語の本質は情報ではなく関係なのだ。だから言語には「倫理」がある。ここで、言語= 倫理というレヴィナスの議論が出てくる。他者に話しかけるということは、「あなたは私の言葉を受け取ることができる」と相手を認めることだ。

そして同時に、「あなたには私に返答する権利がある」ということでもある。つまり言語には最初から、他者を他者として承認する構造がある。だから、言語は他者を同一化せずに、他者と関係するための形式なのだ。

ここで前節の「教え」が戻ってくる。第三節では、他者は私の中になかったものを教えるということが理性の起源として論じられた。第四節では、他者から教えられることが、意味の成立を可能にするという方向へ進む。

私が完全に自分自身の中だけで閉じているなら、私の考え、私の表象、私の意味しかない。しかし他者が、「いや、それは違う」と言う。すると私は、「なぜ違うのか?」と考え始める。ここに、真偽・正当性・客観性が生まれる。

しかし、「客観性」は、主体が冷静になることではない。普通、客観性=私の主観を排除することと考えるが、レヴィナスは、もっと根本的に考える。客観性が可能なのは、私の判断に対して、他者が「違う」と言えるから。

例えば、私「この建物は赤い」他者「いや、茶色だ」私「では確認しましょう」となる。ここで初めて、「私の見方とは独立した何か」というものが問題になる。つまり客観性とは、主体が他者の異議申し立てを受け入れることから始まる。

「他者に反論されること」が理性を作る。理性とは、自分が正しいと確信する能力ではない。むしろ、自分が間違っている可能性を、他者によって突きつけられることを受け入れる能力だ。したがって、

他者
↓
異議申し立て
↓
私の判断が揺らぐ
↓
理由を求める
↓
説明する
↓
他者の説明を聞く
↓
理性

という構造になる。

だから「言説」は暴力と反対方向にある。「レトリックと不正」の議論ともつながる。暴力とは、他者に対して私の意志を押しつけ、他者が応答する余地を奪うことだ。

それに対して言説は、私が話す → 他者が聞く → 他者が返答する → 私もまた聞くという構造。だから言説は、他者を消去せずに関係する方法だ。もちろん現実の言葉は、嘘やプロパガンダにもなる。しかしレヴィナスが問題にしているのは、言語が本来持っている構造。

言語が成立するためには、少なくとも原初的には、「私はあなたに語りかけている」という関係が必要なのだ。

意義の原初的出来事は顔と顔の対面であり、それが言説を可能にし、言説が意義を創設する。「それは記号の媒介が意義を形成するのではなく、意義(その原初的出来事は顔と顔の対面である)が記号の機能を可能にするのである」。

「意味は他者の顔であり、言葉へのすべての訴えは、すでに言語の原初的な顔と顔の対面のうちで起こる」。顔は「それ自体で意義を持つ」。それは何かについて語るのではなく、自らを表現し、私を問い質し、義務を課す。この表現がすでに言説であり、「義務」という最初の言葉を開く。

言説は、私(同一者)が他者に意味を表現する関係だ。他者は意味の第一条件。言語は意識の内部で起こるのではなく、他者から到来し、意識を問い質すことで響き渡る。これにより、内在性の概念が破壊され、意識は「溢れ出る」ものとなる(無限の観念)。

他者によって理性に開かれた私は、なぜ他者と「意味のある言葉」を交わすことができるのか?
レヴィナスの答えは、言語が先にあって人間がそれを使うのではない。他者との対面という倫理的関係が、そもそも言語と意味を可能にするというもの。

「記号が意義を作る」のではなく「意義が記号を可能にする」。

通常、言語については、

記号
↓
意味
↓
意義

と考える。例えば「犬」という音声や文字があり、「犬」=dogという意味が成立する。しかしレヴィナスは、もっと根源的なところを問題にする。そもそも、なぜ「何かを誰かに意味させる」ということが可能なのか?という問い。

そして答えが、顔と顔の対面。つまり、

顔と顔の対面
↓
他者への呼びかけ
↓
言説
↓
記号
↓
個々の意味

という順序。

したがって、記号体系が意味を作るのではなく、他者との関係としての「意義」が記号体系を可能にする。

顔はそれ自体で意義を持つ。その意義は意味づけに先立つ。意味は意識が対象に意味を与えるという構造のこと。物体を「机」として認識する。「机」という意味が成立するという具合。ところが顔については、私が意味を与える → 「この人はこういう人だ」という順序ではない。

むしろ、顔が先に私に意味を要求する。つまり、「私はここにいる」「私を無視するな」「私を傷つけるな」という意味が、私の意味づけに先立って到来する。だから、顔は「意味を持つ対象」ではなく、「意味を開始する存在」なのだ。

「顔は何かを意味する」のではなく「自らを意味する」。道路標識などは、標識 → 「止まれ」という何か別のものを意味しているが、しかし顔は違う。顔は、顔 → 「別の何か」ではない。顔は、顔 → 私自身という仕方で自らを表現する。

他者は、「私についてこういう意味を読み取ってください」という記号を提示しているのではない。自分自身を私の前に差し出している。だから顔は自己を意味する。そして「自己を意味する」ことが、すでに言説である。

顔の表現そのものが、すでに言説の原型である。なぜなら顔は、私に向かっているからだ。「向かっている」ということには、私に対して、私を相手として、私に応答を要求するという構造がある。

だから、実際に口から声が出るより前に、「あなたに対して私はここにいる」という言語的・倫理的関係が成立している。だから「最初の言葉」は「汝殺すなかれ」。顔は私に、「汝殺すなかれ」と語りかける。顔の存在そのものが、「私を殺してはならない」という倫理的な意味を持っている。

したがって、レヴィナスにおける最初の言葉は、「こんにちは」でも、「これは机です」でもなく、「私を殺すな」なのだ。つまり言語の最深部には、情報ではなく倫理的要求がある。

ここで「言語=情報伝達」という考えが崩れる。現代的な言語観では、発信者 → 情報 → 受信者というモデルを考えがちだ。しかしレヴィナスにとっては、話者 → 他者 → 応答が先にある。「水があります」という情報を伝える以前に、「あなたに話しかける」という関係が成立していなければならない。

したがって、言語の本質は情報の移送ではなく、他者への呼びかけだ。この意味でレヴィナスの言語論は、単なる「コミュニケーション論」ではない。

意義は「誰かから誰かへ」宛てられたものとして、対面なしには始まり得ない。ここでレヴィナスは、言語を「匿名の体系」に還元する考え方と距離を取る。例えば、「日本語という言語体系が存在する」ということだけでは、まだ「言説」はない。

言語体系は、文法、語彙、音韻、構文などから分析できる。しかし、「私はあなたに話している」という出来事は、それとは別だ。言語が実際に「言説」になるには、誰かが誰かに向かって話すことが必要だ。

言語は理性的思考の機能を条件づける。それは思考の物理的材料性ではなく、「同一者が他者に対して取る態度」としての言語だ。他者は表象や意識の志向に還元できない。理性は、ヘーゲルのように他性を克服するのではなく、社会的な複数性と分離を必要とする。

レヴィナスは意義の起源を、身体的・内的な前言語的総合や、非人称的な言語体系(「言語が語る」)に求める見方を退ける。意義は「誰かから誰かへ」宛てられたものとして、対面なしには始まり得ない。顔なしには言語に始まりがなく、意義もない。

メルロ=ポンティへの批判的距離も、この文脈で理解できる。メルロ=ポンティには、「言語が語る」という方向の表現がある。これは、言語を個人の意識による単純な操作に還元しないという意味では非常に重要だ。しかしレヴィナスからすると、まだ問題がある。

「言語が語る」と言ってしまうと、誰が誰に語っているのかが消えてしまう危険がある。レヴィナスにとって重要なのは、言語には必ず「宛先」があるということ。言語は匿名的な体系ではなく、「あなた」への言語なのだ。

フッサール的な意識による意味構成に対し、レヴィナスは「顔は私の意味づけに先立つ」意義を導入する。「顔はそれ自体で意義を持つ。その意義は意味づけに先立つ」。意義は無限であり、他者のうちに現前する。

他者が私を問い質し、義務づけることで、構成的自由そのものが倫理的関係において問い直される。
フッサール的には、意識 → 意味を構成する → 対象が意味を持つという方向がある。ところがレヴィナスは、他者 → 私に語りかける → 私の意味づけを問い質すと考える。

つまり、意味を与える主体より先に、意味を要求する他者がいる。だから顔は、私の意味づけによって意味を与えられるものではない。むしろ、顔が私の意味づけそのものを問い質す。

意識における無限の観念は、もはや麻痺した魂ではない意識の溢れ。通常の意識は、私 → 世界という方向に働く。私は、見る、考える、分類する、表象することで世界を自分の意識の中に取り込む。しかし他者は、それを超える。私 → 他者と向かっても、他者を完全には包摂できない。

それでも他者は私の中に到来する。つまり、私の意識の中に、私が包摂できないものが入ってくる。これが「無限」だ。だから意識は閉じた容器ではなく、外部に向かって「溢れ出す」ものになる。

顔の顕現はすでに言説だ。その本質は情報伝達ではなく、存在が自らを提示し、私に訴えかけることにある。この倫理的条件が、言語を先行する思考の単なる翻訳から解放し、真の理性の普遍性を基礎づける(「聞きたくない人々」さえ説得する力)。

意識における無限の観念は、もはや麻痺した魂ではない意識の溢れであり、その受肉が歓迎・贈与・満手・もてなしの新たな力を与える。

他者を迎え入れるとは、自分の中に他者を同化することではない。むしろ、他者を他者のまま迎え入れることだ。これが、歓迎、贈与、もてなし、受容という概念につながる。つまり、理性=他者を理解して所有する能力ではなく、理性=自分の中に収まりきらない他者を、それでも迎え入れる能力になる。

顔は私に、「汝殺すなかれ」と命じる。それは、確かに私の自由を制限する。しかし、自由を制限すること=自由を破壊することではない。むしろ、自由を他者から問い質される。そして、「私は本当にこれをしてよいのか?」理由を考える。それが理性となる。

つまり他者は自由を単純に奪うのではなく、自由を自己正当化から解放する。

「普遍性」も他者から始まる。普遍的な理性とは、「誰にでも当てはまること」だ。しかし、私だけの世界では「普遍性」は成立しない。他者が、「あなたの考えは私には通用しない」と言うからこそ、「では、誰に対しても通用する理由とは何か?」という問いが出てくる。

だから、普遍性は同一性から生まれるのではなく、複数性から生まれる。聞きたくない人々さえ説得する。もし理性が、「私たちは同じ前提を共有している」ことに依存するなら、異なる人には通用しない。しかし言説は、異なる他者に対して語りかけるところから始まっている。

だから理性には、「あなたとは違う」という相手にもなお語りかける力がある。つまり、普遍性とは「全員を同じにすること」ではなく、「異なる者同士がなお語り合えること」なのだ。以前考えていた「多様性」と「複数性」の違いともつながる。

「多様性」は、すでに存在する一つの枠組みの中に「違い」を配置することができる。「複数性」は、そもそもその枠組みでは捉えきれない他者と、それでも関係しなければならないことを意味するという違い。まず「多様性」は、必ずしも「他者性」ではない。

レヴィナスの「他者」は、カテゴリーから逃れるものだ。「多様性」は他者をカテゴリーに当てはめてしまう。一方、「複数性」は、違いを認識しきれないまま、他者と関係することだ。

もし「多様性」を、「いろいろな人が、それぞれ自分の意見を持っていていい」という意味だけで理解すると、極端には、「あなたはあなたの意見を持っていればいい。私は私の意見を持つ」で終わってしまう。すると、対話しなくてもいいということになる。

これは一見、多様性を尊重しているように見えるが、しかしレヴィナス的には、ここに大きな問題がある。なぜなら、他者が私に語りかけているのに、私は「あなたはそういう人だから」と分類して、聞かないことができてしまうからだ。

「あなたはそういう人だから」で終わらせること。例えば政治的な意見が対立しているとする。A:「外国人の権利も保障すべきだ」。B:「外国人を優遇するのはおかしい」。ここで、「Aは左派だから」「Bは右派だから」と分類すると、相手の言葉を聞く必要がなくなる。

私は、「あなたはそういうカテゴリーの人間だ」と決めてしまう。すると相手の発言は、「左派の発言」「右派の発言」として処理される。これはまさに、他者を「同」の内部に回収することだ。

「複数性」は、カテゴリー化された多様性より厳しい。レヴィナス的な複数性は、「みんな違っていていい」というだけではない。それは、「あなたが私には理解できない存在であるにもかかわらず、私はあなたに応答しなければならない」ということ。

ここでは、「あなたは○○だから」という説明では終われない。なぜなら、その人はつねに、自分が付けられたカテゴリーを超えて語り返すからだ。だから「言説」が重要になる。言説とは、他者について話すことではなく、他者に話しかけ、他者から語り返されることだった。

したがって、A「私はこう考えます」。B「いや、私はそうは思いません」。A「なぜですか?」。B「こういう経験があったからです」という関係では、AもBも、自分のカテゴリーを超えて語っている。つまり、他者は「属性」ではなく「話者」になる。

厳しく言うなら、多様性は、制度によって管理可能な概念になりやすい。「多様な属性を配置した」ことと、「他者の言葉を聞いた」ことは同じではない。「複数性」は統計では測れない。

「聞きたくない人々さえ説得する」とは、「相手を論破して、自分の思想に改宗させる」という意味ではない。むしろ、「相手を、私のカテゴリーに押し込めず、なお対話可能な相手として扱う」ということ。たとえ、「この人とは絶対に意見が合わない」と思っても、「だから話す必要はない」とはならない。

むしろ、「あなたとは違う。しかし、だからこそあなたに語りかける」という関係を維持する。ここに複数性がある。「複数性」は「同意」を必要としないのだ。対話の目的を、全員を同じ意見にすることと考えると、複数性は消えてしまう。

レヴィナス的な言説は、他者を私と同じにするためのものではない。むしろ、違ったまま関係するためのものだ。したがって、対話 ≠ 同意だ。もっと正確に言えば、対話とは、同意できない他者とも関係を断ち切らないことだ。

ここに「普遍性」の本当の意味がある。これが先ほどの「理性の普遍性」にもつながる。普遍性を、「全員が同じ考えを持つこと」と理解すると、普遍性=同一性になってしまう。しかしレヴィナスでは、異なる者同士が、それでも互いに語りかけることができることが普遍性の基礎になる。

つまり、A ≠ BでもA ⇔ Bが成立する。この、「違いを消さずに共有する」という構造が重要だ。

「あなたはあなた」で終わることの危険。「あなたはあなた、私は私」という言葉は、一見すると寛容だ。しかしレヴィナス的には、それは他者から逃げるための言葉にもなり得る。なぜなら、「あなたはあなたの価値観を持っていていい。私は関わらない」という意味にもなるからだ。

これは、他者の自由を尊重しているように見えて、実は他者との責任関係を拒否している可能性がある。レヴィナスにとって倫理は、「あなたを好きになる」ことではない。まして、「あなたに同意する」ことでもない。

むしろ、「あなたが私とは違うにもかかわらず、あなたの存在によって私は問い質されている」こと。「多様性」は、多様な人々が仲良く共存しましょうという形にすると、とてもきれいだが、しかし「複数性」は、もっと面倒だ。なぜなら、他者が私の予定調和を壊すからだ。

私が、「この問題についてはこう考えるのが当然だ」と思っていたところに、「私はそう思わない」という人が現れる。しかも、その人を単純に、「無知だから」「愚かだから」「○○思想だから」と処理できない。なぜなら、その人自身が語っているからだ。

「聞きたくない人」を聞くことは、自己変革を意味する。本当に他者の話を聞くということは、「自分の意見を持ったまま、他人の意見を聞く」だけではなく。他者の言葉によって、自分の考えそのものが変更される可能性を引き受けることだ。

つまり、私 → 他者ではなく、他者 → 私という方向を許す。ここに「無限」がある。これはSNSの構造を考えると、かなり興味深い。

SNSでは、

自分と似た人
↓
自分と似た意見
↓
自分と似た情報
↓
「自分たちは正しい」

という環境が形成されやすい。すると「多様性」があっても、自分のタイムラインの外にいる他者が見えなくなる。

しかも相手を、「右派」「左派」「外国人」「老人」「若者」などのカテゴリーで処理すれば、相手の言葉を聞く必要がなくなる。レヴィナス的に言えば、他者の顔を、カテゴリーという「仮面」に置き換えているとも言える。

「複数性」は、民主主義とも深く関係する。民主主義を、「多数派が勝つ制度」だけと考えると、51%が49%を支配するだけになってしまう。しかし複数性を重視すると、49%の人々も、単なる「敗者」ではなく、私たちが応答しなければならない他者になる。

だから民主主義に必要なのは、「多数決」だけではない。少数者の権利、表現の自由、議論、異議申し立て、少数意見の保護、法の下の平等などが必要になる。

これは、「他者を完全に同一化できない」というレヴィナスの複数性が、政治制度の側では「正義」を要求するということ。だから「共生」と「複数性」は同じではない。「共生」という言葉は、一緒に暮らすという意味だ。

しかしレヴィナス的には、一緒に暮らしている=他者と倫理的に関係しているとは限らない。例えば、「外国人は日本に住んでもいい。ただし日本人の価値観に完全に合わせろ」なら、これは共生というより同化だ。

反対に、「外国人は外国人、日本人は日本人。互いに関わらなければいい」なら、これは隔離に近い。レヴィナス的な関係は、そのどちらでもない。違ったまま、語り合う。違ったまま、責任を負う。違ったまま、共通の世界について判断する。これが複数性だ。

「他者を同じにする」のではなく「異なる者同士で世界を作る」。だから、レヴィナスから見た理想的な社会は、全員が同じ価値観を持つ社会ではない。また、互いに干渉しない社会でもない。むしろ、互いに異なる者たちが、その異なりを失わずに言葉を交わし、正義について問い続けられる社会だ。

意味は、世界を眺める孤独な意識の中で作られるのではなく、他者の顔が私に向かって現れ、私を問い質し、私がその他者に応答するという「対面」の出来事から始まる。