スタンダールの「パルムの僧院」
1798年の若きイタリア貴族ファブリス・デル・ドンゴの誕生から死までの冒険。物語はイタリアのパルマをモデルにした架空のパルム公国を舞台にしている。
物語はフランス軍がミラノに進軍し、オーストリアと同盟していたロンバルディアの静かな地域をかき乱すところから始まる。ファブリスはフランス側の陰謀や同盟に囲まれて育つ。父のデル・ドンゴ侯爵は、自分をウィーンのスパイだと滑稽に思い込んでいる。
フランス軍がミラノに駐屯したことで、デル・ドンゴ侯爵は妻を残し遁走した。フランス軍中尉ロベールは、デル・ドンゴ侯爵夫人の館に宿泊することになり、夫人の世話になる。作中で、主人公ファブリスの父親は、このフランス中尉であった可能性が示唆されている。
小説の序盤では、1815年3月(百日天下)にナポレオンがフランスに戻った際、ファブリスがやや気まぐれに同行しようとする試みが描かれる。17歳のファブリスは理想主義的でやや純真、フランス語も下手。
しかし彼は止められず、偽造書類を持ってコモ湖の自宅を離れて北へ向かう。彼はフランスをさまよい、急速に金と馬を失う。そして、フランス軍にスパイと勘違いされ投獄されるが、看守の妻の助けを借りて脱獄する。妻はファブリスに好意を抱き、盗みの罪で処刑されたフランスの軽騎兵の制服を着せ逃がす。
フランス兵役を演じることに興奮した彼は、ワーテルローの戦いの戦場に迷い込む。ナポレオン戦争の複数の戦役に従事したスタンダールは、この有名な戦いを混沌とした出来事として描写している。フランス軍と戦場の描写はリアル。
ファブリスは一時的にネー元帥の護衛に加わり、偶然父親かもしれないロベールに出会う(ロベールはファブリスの馬を奪い取る)。ファブリスは逃走するプロイセン騎兵を射殺したが、フランス軍自体は敗走する。
ファブリスは退却中、負傷したバロン大佐に呼び止められ、騎哨の役に任じられ、その辺を敗走している騎兵たちに大佐の元へ集合するよう伝えよと命じられる。しかし、大佐の命令に反抗するフランス騎兵と切り合いになり、重傷を負いながらも幸運にも生き延びる。
やがて彼は家族の城に戻り、負傷し、金も一文で、まだ「本当に戦いにいたのか?」と考え続けている。彼は、戦争をしているのに、それが戦争だと分からない。砲弾(現代とは違い炸裂しない鉄球)が着弾しても、すぐ気がつかない。自分の父親を見ても分からない。ナポレオンを見ても分からなかった。
それなのに、彼は人生の決定的な場面にちゃんと居合わせている。つまりファブリスは、「世界を理解してから生きる人間」ではなく、「理解しないまま世界に巻き込まれて生きる人間」なのだ。
その意味では、ロベールが実父であるという設定も、ファブリスの出自すら、本人には完全には知られていないという作品全体の「偶然性」の一部になっている。ファブリス自身が、自分が何者なのかを完全には把握できないまま生きている。歴史の中にいるのに、歴史を理解できない人間だ。
ファブリスは一見すると、ナポレオンに憧れて戦場へ行く若い英雄として始まる。しかし、実際の戦争に入ってみると、彼には何が起きているのかほとんど分からない。有名なワーテルローの場面でも、ファブリスは「歴史的な大事件」を客観的に理解している英雄ではない。
彼はただ、「何が起こっているのか分からない」という若者として戦場に放り込まれている。歴史書から見ると英雄的な大事件でも、その中にいる一人の人間にとっては、混乱と偶然の連続でしかない。
「歴史」という巨大な全体から見ると「ワーテルロー」という一つの出来事になる。しかしファブリスの経験からすると、馬、銃声、煙、恐怖、偶然、勘違いという、整理できない個別の出来事でしかない。
物語は彼と叔母のジーナ(父の妹)の間で物語の焦点を分けている。無一文の未亡人であるジーナは、パルムの首相モスカ伯爵と出会い、親しくなる。ジーナは、若い甥のファブリスに恋をしていることに混乱しながら気づくが、それでも彼女は既婚男性であるモスカ伯爵の求愛を受け入れる。
スキャンダルを起こさずにするため、モスカ伯爵は、ジーナに裕福な老人であるサンセヴェリーナ公爵と結婚することを提案する。モスカ伯爵は、サンセヴェリーナ公爵が大使として国外に行き、ジーナとモスカ伯爵が当時の社会的規範のもとで恋人同士になることを望んでいる。
サンセヴェリーナ公爵は財産を持っていることを恥じており、彼は勲章をもらうために病院を建てようともした。モスカはその話を知っているので、「あなたが欲しがっている勲章を私が手配する。その代わり、あなたはジーナと結婚して、すぐ大使として外国へ行ってください」と公爵に持ちかけた。
ジーナは「でも、それずいぶん不道徳だと思いません?」と答える。それにモスカは、「宮廷で行われていることと比べれば、別に不道徳ではない」と答えた。彼女は同意し、数か月後にはジーナがパルマの小さな貴族エリートの中で新たな社会的地位を確立する。
社会的には偽装された関係のほうが、恋愛を守るために必要になる。この小説では、「社会的に演じている自分」と「本当に生きている自分」がよく食い違う。この社会では、道徳と社会的成功がどのようにして奇妙な取引になってしまうのかが描かれる。
ジーナ(現在はサンセヴェリーナ公爵夫人)は、甥がフランスから戻って以来、彼に対して非常に温かい感情を抱いている。ナポレオンに加わることは公式には違法だったため、彼女とモスカ伯爵は若者の更生を計画しようとする。
モスカ伯爵の計画では、ファブリスはナポリの神学校に通い、卒業後にパルムに来て宗教界の高位の人物となり、最終的には大司教にしようと考えている。ファブリスが宗教に興味がないという事実は、この計画には関係ない。ファブリスは軍人になる夢を諦め渋々同意し、ナポリへ向かう。
その後、ジーナとモスカ伯爵がパルム公の宮廷でどのように生活し、活動しているかが描かれる。
北イタリアで数十年にわたる外交官として活躍したスタンダールは、宮廷について生き生きと興味深い描写をしているが、彼が描写するすべては完全にフィクションであり、小説の時代、パルムはナポレオンの二番目の妻であるパルマ公爵夫人マリー・ルイーズによって統治されていた。
ナポリで数年間、神学校に通い、地元の女性と多くの関係を持った後、ファブリスはパルムに戻る。
ファブリスはパルム大公と会うが、お互いに相手が気に入らない。ファブリスは「情熱・自由・ナポレオン的英雄主義」を体現する人物であり、宮廷政治の論理に適応できない。
「人間の魅力を決める価値」と「宮廷で人間を評価する価値」がまったく違う。ナポリの神学校から戻ったファブリスは、聖職者としての教育を受けているが、彼の内面は、宮廷が期待する従順な聖職者とはかなり違う。
彼には、ナポレオンへの憧れ、冒険への欲望、恋愛への情熱、自分の感覚を信じる傾向、他人からどう評価されるかへの無頓着さがある。「宮廷社会で出世するために自分を調整する」という能力がほとんどない。これはパルム大公とは対照的だ。
しかし、大公自身も単純な「宮廷政治の人間」ではない。大公は、自分を絶対的な君主として演出しようとしている。彼はルイ14世のような君主の姿を意識しており、宮廷での身振りや儀礼にも非常に敏感だ。ジーナとの最初の対面でも、そうした「君主らしさ」を演出している。
つまり、ファブリスは自分の情熱に従うのに対し、大公は、君主としての威厳・権力・秩序を維持しようとするという対照がある。二人が生きている価値体系そのものが違う。そして、ファブリスが大公にとって「ナポレオンの価値観の側の人間」に見える。
ファブリスはナポレオンの自由・英雄主義に憧れ、実際にワーテルローに参加している。対して大公は、ナポレオン後の王政・君主制の世界を代表する人物だ。
モスカ伯爵は大公の政治的側近でありながら、ジーナを愛している。そしてファブリスを何とか宮廷社会の中に置こうとする。つまりモスカは、ファブリスの情熱を、宮廷政治の仕組みの中に何とか収めようとする仲介者だ。ところがファブリス本人は、その「宮廷政治のゲーム」に乗ることができない。
ファブリスの情熱は制度の中で必ず試される。ファブリスの情熱が、制度・身分・政治・宗教・法律という現実にぶつかったとき、それでも情熱は生き残れるのか。
モスカ伯爵もファブリスが好きではない。ファブリスは「危険な青年」だからだ。ファブリスには、宮廷の人間が持っているべき計算可能性がない。宮廷社会では、「この人物は、こう言えばこう反応する」という予測可能性が非常に重要だ。
ところがファブリスは、ナポレオンのような英雄に憧れ、衝動的に行動し、恋愛にも突っ走る。宮廷政治の「管理可能な人間」ではない。そのためモスカからすると、ファブリスは魅力的な青年というより、何をするか分からない人物に見える。
ファブリスは情熱に支配されている。恋をすると恋に支配される。英雄に憧れると英雄への憧れに支配される。危険なことがあると、それに飛び込んでしまう。宮廷の規則には従わないが、自分の情熱には非常に強く従っているという人物だ。
だから、モスカ伯爵は社会に支配される人間に対して、ファブリスは情熱に支配される人間だ。ファブリスは魅力的だが、まだ社会を動かす方法を知らない。「純粋」であると同時に「世間知らず」だ。一方、大公は人間的な魅力には乏しくても、社会を動かす仕組みを知っている。
情熱だけでは社会を生きられない。しかし、政治的計算だけで生きても幸福にはなれない。宮廷社会に適応できないことは、社会的にはファブリスの弱点だ。
モスカ伯爵はジーナとファブリスが、こごみあい接吻しているように見え嫉妬する。モスカ伯爵は、ジーナを「人生の中心」として愛している。彼の政治的野心も、宮廷での地位も、実はジーナとの関係が支えになっている。だからこそ、ジーナが他の男と親密に見えることは、彼の存在基盤そのものを揺るがす。
モスカ伯爵は老境に差し掛かっており、ファブリスの若さ・魅力・純粋さは、自分が失ったものの象徴でもある。そのため、ファブリスは「恋敵」として最悪の相手なのだ。この瞬間、モスカ伯爵の「政治的合理性」が崩れた。権力者も情熱の前では脆い。
モスカは「恋愛を政治的に処理できる人」だった。彼は、ジーナがサンセヴェリーナ公爵と結婚し、公爵には栄誉を与える。引き換えに、公爵はパルムから離れ、ジーナはパルムに残る。そしてモスカとジーナの関係が維持されるという具合に、恋愛を社会制度の中に組み込んでしまう。
ところがファブリスは、この「合理的な設計」に入り込めない。ジーナとファブリスの関係は、もっと直接的だ。好きだから会い、会えば親密になる。手に接吻する。そこにはモスカが得意とする政治的媒介がない。だからこそ、モスカにとってファブリスは非常に厄介な存在になった。
ファブリスは、モスカが何年もかけて構築してきた「ジーナとの関係を成立させる仕組み」を、政治的交渉なしに横切ってしまう。合理性によって情熱を管理しようとする人間の中にも、管理できない情熱が存在するという構図。
そして、ファブリスは自分が恋に落ちることは決してないのではないかと恐れていたが、ジーナに恋愛感情を抱くことに驚く。
ファブリスは若い女優マリエッタと関係を持ち、そのマネージャー兼恋人のジレッチの怒りを買う。ジレッチはファブリスを殺そうと思っている。一方で、ファブリスはジーナとも相思相愛だ。モスカ伯爵はファブリスの動向を監視している。
恋愛四角形だが、ファブリスをめぐる恋愛関係を、スタンダールは宮廷政治の構造そのものの縮図として描いている。マリエッタとの関係は恋愛というより、ファブリスの無邪気な生命力の現れだ。
ファブリスはマリエッタに惹かれるが、ファブリスはマリエッタとの関係を人生の重大な選択として考えていない。彼にとっては、「目の前に面白い女性がいるから惹かれる」という直接的な欲望だ。これはファブリスの長所でもあり、弱点でもある。
彼は宮廷の人間のように、「この女性と付き合えば何が得られるか」、「自分の社会的地位にどう影響するか」、「人がどう思うか」などを計算していない。つまりマリエッタは、宮廷の合理性から離れた、若いファブリスの衝動的な生命を表している。
ジレッチはマリエッタの恋人兼保護者だが、彼の愛はかなり所有的だ。彼はマリエッタを支配し、彼女の収入を奪い、暴力を振るう人物として描かれている。したがって、ファブリスの自由な欲望に対して、ジレッチの所有する欲望と対比できる。
ファブリスはマリエッタを「自分のものにする」という政治的・経済的計算をしていない。ところがジレッティは、「彼女は自分の女だ」という所有意識からファブリスを敵と認識する。だからジレッチは、愛が相手の自由を認めなくなったとき、所有と暴力に変わることを体現している。
ジーナは、マリエッタとは全く違う。ジーナはファブリスに対して、単なる性的欲望以上のものを感じている。ファブリスは彼女にとって、若さ、自由、情熱、自分が失いつつあるもの、宮廷社会には存在しない純粋さを象徴している。
だからジーナはファブリスを政治的に守ろうとする。実際、ファブリスの人生は、かなりの部分をジーナとモスカの政治的操作によって決められている。神学校へ行かせることも、宮廷での地位を作ることも、彼を危機から救うことも、二人の策略によるものだった。
ジーナはファブリスを愛しているから、ファブリスを自由にしているわけではない。むしろ、「あなたを守りたい」という愛情によって、ファブリスの人生を動かしてしまう。これはマリエッタ=ジレッチの関係とは別の形で、愛が他者を自分の望む方向へ動かすという問題を含んでいる。
モスカはファブリスの動向を監視しているが、単に恋敵だから監視しているではなく(もちろん嫉妬はある)、それ以上に、ファブリスという予測不能な若者が、宮廷というシステムを壊してしまわないかを監視している。
モスカのような政治家からすると、「この男は何をするか分からない」ということ自体が最大の問題になる。だから「マリエッタ事件」は小さな戦争のようになっている。ファブリス vs ジレッチという小さな対立が、ファブリス vs 宮廷社会の縮図になっている。
ファブリスは「生きる人」なのに対して、モスカは「生き残る人」だ。ファブリスは、今、何が起こっているのか?に反応する。モスカは、この先、何が起こる可能性があるか?を計算する。だからファブリスは何度も危機に陥りそしてモスカは、「だから言っただろう」という立場で後始末をする。
しかし、モスカは政治的には優秀だが、ジーナへの嫉妬によって、その合理性が崩れる瞬間がある。彼自身がファブリスに対して嫉妬することもある。つまり、ファブリスは情熱によって合理性を壊す。モスカは合理性を使って情熱を抑えようとするが、結局自分自身の情熱に敗れる。
ジレッチはファブリスが銃を持って道の真ん中に立っているのは自分に恥をかかせるためだと思い込み、ファブリスに剣で襲い掛かり、ファブリスは応戦しジレッチを刺し殺してしまう。ファブリスはマリエッタと逃げ出した。
ジレッチは、ファブリスが自分を侮辱するために道の真ん中で銃を構えていると思い込んだが、しかし実際には、ファブリスはただの無邪気な若者で、ジレッチを侮辱する意図など全くなかった。この「誤解」が、名誉を重んじる男の暴力を引き起こし、ファブリスの人生を決定的に狂わせる。
ジレッチは典型的な「名誉の男」で、自分が侮辱された、若い男に恥をかかされた、これは許せない、剣で決着をつけるしかないという、19世紀イタリアの「名誉の規範」に従って行動する。つまり、ジレッチは社会的規範に忠実であるがゆえに暴力に走る。
一方のファブリスは、ナポレオン的英雄主義に憧れる情熱的で無邪気な男で、社会的規範に疎い上に、名誉の文化を理解していない。そのため、ジレッチの怒りの意味が分からず、ただ「身を守るため」に応戦する。しかし結果は、ジレッチを刺し殺してしまう。純粋さは制度の中では危険だ。
ファブリスは「制度の敵」になった。殺人は、宮廷政治、名誉の文化、法制度の中で、致命的な罪となる。ファブリスは一気に「危険人物」へと転落する。殺してしまったファブリスは、その場に残って法的に説明するのではなく、逃亡した。
ファブリスの個人的な人生が、国家の制度によって追跡可能なものになる。最初は小さな恋愛上のトラブルだったものが、最後にはファブリスの人生そのものを変える事件になる。重要な転換点と言える。
ファブリスは自由に生きようとしていた。しかし、自由に行動した結果、自由を失う。マリエッタとの恋愛も、「自分の好きなように生きる」という自由の表現だ。ところが、その自由な行動がジレッチの嫉妬を刺激し、殺人事件を生み、逃亡生活につながる。
この事件でファブリスは、以前の「何でも経験してみる青年」と同じではなくなった。「自分の人生は自分の意思だけで決まるのではない」という世界に放り込まれた。
ファブリスは、パルマからボローニアへ逃げた。裁判所で公正に扱われないのではと恐れていた。パルマにこっそり戻った後、ファブリスはボローニアに戻り、魅力的なソプラノ歌手ファウスタとの関係を築こうと多くの時間を費やす。その間に、司法は彼を殺人罪で有罪とした。
ファブリスはファウスタにかなり夢中になる。しかし、ファブリスの関心は、「彼女を本当に理解したい」というより、「この魅力的な女性を自分のものにしたい」という「征服」に近いところがある。ここはジレッチと対照的でもある。
ジレッチはマリエッタを所有していると思い、ファブリスに嫉妬した。ファブリス自身も、ファウスタを「獲得したい」という欲望から動いている。つまりスタンダールは、「所有される女性」だけでなく、「女性を所有しようとするファブリス」も描いている。
しかしファウスタは、ファブリスの思い通りにならない。ファブリスは、戦場でも恋愛でも、「自分が思ったように事態が進む」ことを期待しがちな人物だ。ところがファウスタは、簡単には彼のものにならない。するとファブリスは彼女を追いかけ、時間を費やし苦労する。
ファウスタはファブリスに「他者には他者の意志がある」という事実を突きつける存在になる。ファブリスは自分の情熱を中心に世界を考えている。しかし恋愛では、自分が欲しいと言う感情と相手も自分を欲しいと言う感情は必ずしも一致しない。この単純な事実を、ファブリスは実践的に学んでいく。
ファウスタがソプラノ歌手であることにも意味がある。歌手は舞台で生きる人だ。そして歌は、合理的な言葉による説明ではなく、感情を直接的に伝えるもの。ここにファブリスとの親和性があった。ファブリスもまた、計算して生きる人間ではなく、情熱に動かされる人間だから、惹かれるのは自然だ。
しかし、ここには「演技」の世界もある。同時に、歌手という職業には別の意味がある。舞台では、人間は「役」を演じる。観客が見ているのは、ファウスタ本人なのか、舞台上のファウスタという人物なのか。この境界が曖昧になる。
『パルムの僧院』の世界では、これはかなり重要な問題で、宮廷でも人々は「役」を演じている。モスカは政治家として振る舞う。宮廷人は忠実な臣下を演じる。ジーナも公爵夫人として振る舞う。そしてファブリス自身も、神学校では聖職者として振る舞わなければならない。
つまり、舞台の世界と宮廷の世界は、実はよく似ている。どちらも、「本当の自分」と「他人に見せる自分」の二重性を持っている。ファウスタとの関係は「演技」と「本当の感情」の境界を描く。
ファブリスはファウスタを口説く。しかし、恋愛では、本当に好きなのか?それとも「手に入れたい」という欲望なのか?が分からなくなる。ファウスタの側にも、本当にファブリスを愛しているのか?それとも彼を魅了することを楽しんでいるのか?という問題がある。
ここでは恋愛そのものが、ある種の舞台になる。そしてスタンダールらしいのは、誰もが完全な「本心」を持っているわけではないこと。人間は、欲望しながら演技し、演技しながら本当に恋をする。この曖昧さがファウスタとの関係にはある。
その間にパルマでは、モスカ伯爵の政敵(特に検察長官ラシやラヴェルシ侯爵夫人など)がこの事件を利用し、モスカとジーナを追い落とそうと動く。目撃者を買収して虚偽の証言をさせ、ファブリスは欠席裁判で殺人罪の有罪判決を受け、死刑または重刑を宣告される。
ファブリスは密かにパルマに戻りかけたり、ファウスタを追ったりするが、最終的に政敵の策略でパルマに誘き出され、逮捕される。ファブリスは無礼な態度の憲兵のバルボーネを殴り、その騒動を牢獄長官の娘クレリアが目撃する。ファブリスとクレリアはコモ湖で一度会ったことがあった。
ファブリスは美しく成長したクレリアに魅せられた。情熱が制度の中で覚醒する瞬間だ。彼女は文字通り、ファブリスを閉じ込めている制度の内側にいる女性だ。ファブリスにとって、牢獄は自由を奪う場所なのに、その牢獄の中で、最も強烈な自由への欲望を呼び起こす存在クレリアが現れる。
情熱が制度の中で覚醒する。しかも二人は完全な初対面ではない。コモ湖で一度会っている。クレリアは、ファブリスの人生の「自由な時代」を知っている。そして再会したファブリスは、牢獄の中の男になっている。
ところがファブリスの側から見ると、クレリアは、少女だったクレリアが美しく成長した女性になっている。二人とも、時間によって変化した姿で再会する。二人は「今ここで突然出会った」のではなく、過去の記憶と現在の姿が重なったところで恋が始まる。
そして、クレリアは閉じ込められている側でもある。なので、自由なのはクレリアに見えるが、実際には、クレリアも完全に自由ではない。彼女の父親は牢獄を管理する人物で、彼女自身も、父親の権威や家族の規範、宗教的・道徳的規範、女性として期待される役割の中にいる。
なので、ファブリスは物理的に牢獄に閉じ込められている。クレリアは社会的・家族的な制度の中に閉じ込められているという対称性がある。二人は、実は別々の牢獄にいる。だからこそ惹かれ合う。そして、「牢獄」が恋愛空間になる。
牢獄は自由の反対だ。ところが物語では、牢獄がファブリスとクレリアが出会い、恋が始まる場所になってしまう。つまりスタンダールは、制度が人間を完全に支配することはできないということを描いているとも考えられる。
牢獄はファブリスの身体を拘束できる。しかし、誰を愛するか、誰に惹かれるか、何を望むかまでは完全には管理できない。むしろ逆説的に、自由を奪われたことによって、ファブリスの内面の自由が強烈に意識される。
パルム大公エルネスト4世は、ジーナへの執着と彼女の拒絶への報復もあって、ファブリスを厳しく処遇する。ファブリスはパルマの城砦・ファルネーゼ塔に投獄される。ジーナは大公(エルネスト4世)に直談判し、ファブリスの解放を求める。
ジーナがパルムを去ると宮廷が退屈になることや、彼女の口から大公の悪評が広まることを大公に恐れさせ、釈放の約束を引き出す。しかし大公は誇りを傷つけられたとして、密かに逮捕・長期投獄を命じた。その後も大公は「ファブリス処刑」の噂を流してジーナに圧力をかける。
ジーナはモスカ伯爵に別れを告げる。ファブリスの投獄によって、ジーナの中で「宮廷社会に生きる女」と「ファブリスを救おうとする女」の両立が不可能になった。モスカの慎重さがファブリス救出の障害になるし、我が身の破滅に伯爵を引き入れるわけにはいかない。
モスカは、宮廷を捨てて外へ出るという発想を決してしない。むしろ、腐敗した制度の中に入り、その制度を利用して目的を達成するタイプだ。だからファブリスを救う場合も、「私の政治的影響力を使えばいい」と考える。モスカらしい合理性だが、
ジーナは、ファブリスが牢獄に入った瞬間、その政治ゲームそのものを信用できなくなった。そのゲームのルールそのものが、ファブリスを殺しかねないことが明らかになった。そこでジーナは、「このゲームから降りる」という決断をする。
モスカは、ファブリスを政治によって救おうとする。ジーナは、政治を捨ててもファブリスを救おうとする。そしてジーナは最終的に、モスカの合理性を利用する段階から、自分自身が危険を引き受ける段階へ移っていく。ファブリスの投獄が、周囲の人間の「本当の情念」を露出させる。
塔の高い独房に入れられたファブリスは、窓から見える庭園やコンチ将軍の娘クレリア・コンチの姿に心を奪われる。以前一度会ったことのあるクレリアと、窓越しに目で会話し、アルファベットを使ったやり取りを始め、やがて深い恋に落ちる。ファブリスは獄中で初めて真の幸福を味わう。
ファブリスに殴られた憲兵のバルボーネは、それを根に持っており、密かにファブリスを毒殺しようとしている。ファブリスが毒殺されることを恐れたモスカ伯爵は、パルム公国の要塞(ファルネーゼ塔の監獄)の司令官ファビオ・コンチ将軍(クレリアの父)に会う。
モスカ伯爵は「ファブリスがもし変な死に方をしたら、私が殺させたことになるでしょう。私はやきもち焼きということになります。それはみっともないことなので、黙って承知はしないと決めています。その場合、恥を注ぐために、あなたを殺します」とコンチ将軍に釘を刺す。
叔母ジーナはファブリスの救出に全力を注いでいる。秘密の通信手段(即席の信号など)で連絡を取り、医者で革命家気質のフェランテ・パラ(ジーナに片思いしている)などの協力を得て、長いロープを密かに塔に運び込む計画を立てる。
クレリアも協力するが、彼らの計画では父のコンチ将軍にアヘンチンキ(鎮静剤)を飲ませる必要があり、クレリアはこれを毒殺と受け取って強い罪悪感を抱く。脱獄は成功する。しかしクレリアは聖母マリアに誓いを立て、「二度とファブリスの顔を見ない」「父親の言うことに従う」と誓う。
ジーナは詩人フェランテ・パラに大公エルネスト4世の暗殺を託す(毒殺と強く示唆される)。大公が死去すると、モスカ伯爵がパルマに留まり、地元の革命家による反乱を鎮圧して、大公の息子エルネスト5世を即位させる。新しい大公は若く、ジーナに恋心を抱く。
ファブリスは一旦逃亡先に身を置くが、クレリアはクレセンチ侯爵との結婚が確定した知らせを聞く。クレリアへの想いから自らファルネーゼ塔に戻る。コンチ将軍は復讐のためにラシを使いファブリスを毒殺しようとするが、クレリアが毒入りの食事を阻止して彼を守る。
ジーナは新大公に介入を求め、ファブリスの移送・救済を取り付けるが、その条件として大公に身体を差し出すことを強いられる。彼女はそれを果たした後パルマを去り、モスカ伯爵と正式に結婚して国外に移る。
ジーナは「宮廷を操る女」から「宮廷の暴力を引き受ける女」へ変わった。愛する者を救うためなら、政治秩序そのものを破壊するところまで行く人物になった。そして、モスカは新しい大公のもとでも権力を維持し、ファブリス救出に必要な政治的影響力を確保する。
ジーナの情熱とモスカの政治的合理性が、別々の方向から同じ目的に収束した。ジーナは情熱が政治を動かすことの限界を示している。最後には、政治を動かすために、自分自身を犠牲にするところまで行く。そして最終的に、「もう政治そのものから離れる」というところへ行き着いた。
宮廷は権力、名誉、地位、富、恋愛が渦巻いている。しかし、そこでは人間が常に、誰が誰を利用するか、誰が誰を監視するか、誰が誰を支配するかという関係に置かれている。そのため、本当に幸福になるためには、その世界から距離を置かなければならない。
ジーナが最後にモスカとともに国外へ出ることには、宮廷で勝利することが幸福なのではなく、宮廷そのものから離れることが幸福への条件になる。
クレリアは父の意向で裕福なクレセンチ侯爵と結婚する。ファブリスの罪は最終的に無罪放免となり、彼はカトリック教会の高位(総司教代理など)に就く。説教が評判を呼び、街中の話題となるが、彼が説教をする主な理由は、クレリアが教会に来ることを期待してのことだった。
クレリアは誓いを守り、昼間は顔を合わせないが、暗闘の中で毎晩会うことに同意する。1年後、クレリアはファブリスの子供を産む。二人は子供の病気と死を偽装し、近くの家に密かに住まわせて毎日会いに行くようにする。
しかし数か月後、子供は本当に亡くなり、クレリアもその後まもなく死去する。結末クレリアの死後、ファブリスはパルマのカルトゥジオ会修道院(タイトルの「パルムの僧院」)に隠遁する。そこで1年も経たないうちに彼も亡くなる。
ファブリスを深く愛していたジーナも、彼の死を看取るようにして間もなく亡くなる。物語は政治的陰謀、情熱的な恋愛、宮廷の駆け引きが交錯する中で、ファブリスが真の幸福を求めて放浪し、最終的に喪失の中で終わる姿を描いている。
ファブリスが最後には社会的には成功しているのに、その成功が彼の幸福を意味しない。ファブリスとクレリアの関係は、「情熱と制度」「自由と社会」「生の幸福と宗教」の対立が、最後に愛そのものの内部で極限まで押し進められたものだった。
ファブリスは逃亡すれば安全だった。しかも、罪を赦され、高位の聖職者になり、説教が大評判になった。社会的名声を得た。理想的な「社会的成功」を手に入れている。ところが、彼が説教をする本当の理由は、クレリアが教会に来ることを期待しているからだった。
社会から見ればファブリスは成功者になった。しかしファブリス自身にとって、その成功はクレリアに会うための手段にすぎない。つまり、社会的価値と個人的価値が完全にずれている。これは、若き日のファブリスがナポレオン軍や戦争を「英雄的世界」として追い求めていたことと対照的だ。
最初のファブリスは、世界の大舞台で生きることを求めた。最後のファブリスは、たった一人の女性に会うために生きる。彼の情熱は「世界を変える英雄性」から「一人の他者への愛」へと縮小したように見えるが、スタンダールはむしろ、その小ささの中に最大の幸福を置いている。
昼間のクレリアは、クレセンチ侯爵夫人だが、夜のクレリアは、ファブリスを愛するクレリアだ。社会の時間と、二人の愛の時間が分離されている。制度の中の人格と、愛する主体としての人格に引き裂かれている。そして、社会的役割よりも、二人の個人的な関係のほうが本当の生を与えている。
そして子供が生まれた。二人は、「子供が病気になった、そして死んだ」と偽装した。しかし、本当に子供が死んでしまった。そしてクレリアが死に、生きる理由を失ったファブリスはパルムの修道院に隠遁する。つまり、タイトルの「パルムの僧院」が最後に出てくる。
修道院が最初からファブリスの理想だったわけではない。社会的成功を求めて聖職者になったわけではない。クレリアとの愛を失った結果として、世俗世界から離れていく。そして一年も経たないうちにファブリス自身も死ぬ。
「パルムの僧院」は逃避場所というより、愛の世界の最後の形だった。しかし、「愛が社会に勝った」という単純な結末ではない。二人は社会制度を無視して幸福になることはできなかった。人間には、社会的成功や合理的な人生設計では回収できない幸福がある。そして、その幸福は同時に非常に脆い。
ファブリスは最終的に、世間から見れば、これほど成功した人生はないというところまで行った。しかし、本人が本当に生きたいと思った人生は、クレリアと夜に会い、子供と過ごす、ごく小さな世界だった。
スタンダールは、社会的に価値のある人生と、本人にとって幸福な人生は同じではないということを、ファブリスの人生全体を使って描いている。



