クリムゾンの箱
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レヴィナスを読んで、経済と倫理が相反する理由が分かったわ。「経済」とは、「他者」を「管理可能なもの」へ変える、自分のものにする同化運動であり、「倫理」は他者への応答だからだ。倫理は「他者は、私の秩序へ回収できない」という出来事なんだ。

まずは、他者への責任があり、経済や法や国家は、後からくるものだ。私は孤立した主体ではない。最初から、他者に呼びかけられている。その段階では、契約も法律も国家も出てこない。にもかかわらず、責任が発生している。倫理は選択より前にあるものだ。

そもそもなぜ、他人を殺してはいけないのか?法だけでは、根拠にならない。なぜなら「法律だから」だけなら、法律が変われば正義も変わることになる。しかし実際には、「合法でも間違っている」と感じる。倫理は、法より深いところからきている。

他者の顔は「お前は私に責任がある」と迫る。この根源的責任があるからこそ、後から、法律や国家が必要になるわけだ。つまり法は、倫理の代用品にすぎない。なぜなら、現実には他者は一人ではないからだ。「誰を優先するのか?」という問題が出る。

国家とは、単なる暴力装置ではなく、複数の他者への責任を調整する仕組みなんだよ。だから、国家が必要になる。誰を救うのか?資源の分配はどうするのか?それらを決める必要がある。もし倫理がなければ、法や国家は単なる管理になる。人間は管理対象になってしまう。

だから、レヴィナスは、倫理は国家や経済よりも先行すると言うんだろう。国家は、常に「本当に他者を見ているか?」と倫理から問い直される。倫理は、国家を超えて問い続ける必要がある。

「挨拶」

ツァラトゥストラは、彼の洞窟へ戻って来た。道で出会った「ましな人間」たちが全員控えている。彼らは皆、古い価値の崩壊を経験しニヒリズムに触れ、群衆よりは高い存在。

ツァラトゥストラは「私は浮かれている。あなたがた自身のせいだ。絶望している者を見ると誰でも陽気になってくる」と彼らに挨拶する。「あなたがたは『ましな人間』、高級な人間であるかもしれない。しかし、わたしにとって十分高くもなければ、強くもない」と言う。

ツァラトゥストラは、自分の仲間、未来の創造者を待っていたが、しかし、集まった者たちは違った。それでも「挨拶」する。彼は、人間は未完成で、弱いという事実を、受け入れ始めている。完全性を求めすぎる精神は、必ず人間を憎むからだ。だからツァラトゥストラは笑う。

単なる妥協ではなく、「不完全なものを愛せるか」という問い。人間は「橋」なのだ。ツァラトゥストラは、理想の人類を待つことをやめ、壊れた人間たちを受け入れた。


「晩餐」

ツァラトゥストラと、ましな人間たちは晩餐を始める。イエス・キリストの最後の晩餐を連想させるが、パンと葡萄酒ではない。葡萄酒はあるが、パンがなく、かわりに羊を殺して食べる。脱キリスト教的な最後の晩餐と言える。

キリスト教ではパンは特別な意味を持ち、パンと葡萄酒は聖餐を象徴し「これは私の身体である」とされ霊的糧を意味する。一方、羊は特別な動物だ。イエス・キリスト自身が「神の子羊」と呼ばれる。

羊は従順な群れの象徴だが、それとの決別の意味でもある。「羊として生きる」のではなく、食べる側に回っている。神なき時代における、世界への肯定。しかし、ツァラトゥストラと、ましな人間たちの晩餐は、まだぎこちない。


「『ましな人間』について」

ツァラトゥストラは晩餐で「ましな人間」たちに語り掛ける。「神の前では、人は平等だと言うが、その神は死んだ。我々は平等であることを欲しない。大いなる正午がやってきて、『ましな人間』は主となる」と言う。

「ましな人間」と大衆が対比される。ましな人間たちは神の死を認め、超人を目指す可能性を持っているが、まだ不十分だ。ツァラトゥストラは「人間の本性は悪だ」と言う。「人間はより善く、かつ、より悪くならなければいけない」と言う。

普通の道徳でいう「悪人になる」という意味ではない。伝統道徳は従順や安全であること、平等化と平均化、自己抑制や無害さを「善」としてきた。逆に、強い欲望や支配への意志、危険であること、創造的破壊、自己超克は「悪」とされてきた。

しかし、この「悪」と呼ばれてきた力の中にこそ、人間を超えていくエネルギーがあると言う。「悪」とは、生の力そのものでもある。それは、人間の根底には、危険で、衝動的で、破壊的で、創造的な力があるという意味。「悪」は創造の影だ。

それは、永遠回帰にもつながっていく。もし人生を永遠に繰り返すなら、自分の暗さや欲望、破壊性まで含めて肯定しなければならない。それは、「悪」を切り捨てた純粋な善だけでは、生を肯定できないことにある。彼は自分の中の危険な力を引き受け、それを創造へ変えよと要求する。

ツァラトゥストラは「『隣人のために』は小さな人間の徳に過ぎない。あなた方の愛のすべてが集まるところに、自分の子(価値・創造物) のもとに、あなた方の徳のすべてがある」と言う。

他人のために生きることで、自分自身の課題から目を逸らしていると言う。ツァラトゥストラは、人間は自分を保存する存在ではなく、自分を超えて何かを生み出す存在であると考えている。最高の愛とは、未来へ向かう愛であり、子は自分を超えていく未来。創造とは、常にそういうものと言う。

誰も傷つけないことが最高価値になると、創造が不可能になる。新しい価値を作る者は、必ず既存価値を壊す。だから創造者は、「みんな仲良く」の倫理とは衝突することになる。「未来への愛」の核心は、愛を現在の他人だけに閉じ込めるな、にある。

ただ、「創造」の名で他人を軽視できてしまう危険性がある。他人への共感も切り捨てられてしまう。
ツァラトゥストラは、最大の罪は「笑いを拒むこと」だと言う。「心を高らかにあげよ。軽やかに踊れ」と言う。反キリスト教的、反ニヒリズム的な呼びかけ。


「憂鬱の歌」

ツァラトゥストラが洞窟から出ていくと、魔術師が、ましな人間たちに向かって「ツァラトゥストラとは心底から相容れない宿敵だ」と言い。「憂鬱の歌」を歌う。例の如く、その歌は美しい絶望として演出されている。

魔術師は苦しんでいるが、同時に、自分の苦しみを楽しんでいる。彼は常に悲劇の主人公であることに酔っている。最も危険なニヒリズムは、苦しみを美化するニヒリズムだ。苦悩を神聖化する芸術に対しての批判も込められる。


「学問」

ましな人間たちは知らず知らずのうちに、魔術師がたくらんだ憂鬱な欲望の網にかかってしまったが、良心的な学究だけが掛からなかった。学究は魔術師から琴を取り上げ「この高名な嘘つきめ」と罵倒した。

学究は科学的人間で客観性を信じる者。彼は嘘や曖昧さを嫌い、事実を愛する。そして、感傷的慰めや安易な形而上学を拒絶する。なぜ人は真理を欲するのか?真理への意志もまた、一つの道徳的欲望ではないか?学究は世界を分析できても、方向を与えられない。

学究は、ましな人間たちに「あなたがたが欲しがっているのは、最も危険な生き方で、私などは怖くてならない生き方なのだ。この恐怖感から、あらゆるものが説明できる。学問もこの恐怖感から生まれてきたものだ」と彼の科学観が語られる。

そこへツァラトゥストラが帰ってきて、学究に薔薇の花束を投げつけ学究の「真理」を哄笑する。ツァラトゥストラは「勇気こそ人間の一切の先史学だと、私には思われる。人間は勇気ある動物たちの長所を奪い取り、はじめて人間になった」と言う。

ツァラトゥストラが「この勇気、つには洗練され、精神科され、知性化された。今日、」と言うと、「ツァラトゥストラの名で呼ばれている者だ」とみんなで叫んで大笑いした。笑いは「憂鬱の歌」への対抗であり、苦しみや空虚を知った後でなお踊れるかが試されている。

神を失った後、真理だけを追求しても、人はなお空虚である。ツァラトゥストラは、その先に、笑いと踊りと創造と永遠回帰を置く。


「砂漠の娘たちのもとで」

魔術師の憂鬱な歌の後、ツァラトゥストラが去ろうとすると、影を名乗っていた漂白者が彼を引き止め、代わりに竪琴を手に取り、この歌を歌う。

歌は、ヨーロッパの曇り、湿った憂鬱な雰囲気と対比して、砂漠の澄んで晴れ渡った東洋的な空気 を賛美する。そこにいる「砂漠の娘たち」は、踊らない時は深みはあるが無思想で、謎めいた秘密のような存在として描かれ、軽やかなエロティシズムを帯びたイメージで歌われる。

歌の終わりに「砂漠はひろがる。災いなるかな、心に砂漠を抱く者は」の一節が登場する。近代人の内部には「砂漠」が広がっている。「砂漠」はニヒリズムであり、意味の喪失であり、精神の乾燥である。なので、砂漠の娘たちは、乾いた精神に対する誘惑の象徴になる。

砂漠の娘たちは単なる性的誘惑ではなく、生の感覚的豊かさ。ニーチェの禁欲主義批判が強く現れる。ツァラトゥストラが目指すのは、生を軽やかに肯定できる精神だ。オリエンタリズム(東方趣味)は、キリスト教的罪悪感から、一時的に自由になる幻想空間として使われる。


「覚醒」

漂泊者の歌が終わると、ましな人間たちは、驢馬を崇拝し始めてしまった。ツァラトゥストラは、彼らが陽気になってくれたことには嬉しかったが、いささか失望した。人間は苦しみから逃れると、すぐに新しい偶像を欲することが分かった。

驢馬は、従順で、受動的で、思考停止しており、ただ従うだけの宗教精神の象徴だ。ましな人間たちは、神を失ったはずなのに、結局また新しい神を作ってしまった。彼らは結局のところ、古い価値を乗り越えられなかった。

人間は、単に真理を求める存在ではない。意味なしでは耐えられない存在だと、ツァラトゥストラは、理解し「覚醒」する。


「驢馬祭り」

ましな人間たちはは驢馬を神として崇拝し、祈りを捧げる儀式を始める。驢馬はただ「さよう、さよう(イーアーという驢馬の鳴き声がそう聞こえる)」と鳴くだけで、それに対して彼らは驢馬よりも大きな声で「さよう、さよう」と受け入れ、賛美の言葉を並べ立てる。

ツァラトゥストラが戻ってこれを見て激しく非難するが、彼らは「姿のない神を拝むより、この驢馬を拝む方がましだ」と言い訳する。神が死ぬと、人は自由になるという単純な話ではなかった。人間の崇拝欲求そのものが宗教を作る。人は、自分で考える自由より、従属の安心を選びやすい。


「酔歌」

宴の後、ツァラトゥストラは酔ったような状態になり、ましな人間たちと、真夜中に皆が外に出て歌う。ツァラトゥストラは、深夜の鐘の音を聞きながら、存在そのものへの根源的な肯定へ到達する。

「酔い」は単に酒に酔ったというだけでなく、苦痛と歓喜が結びつき、生の力が溢れ、自我を超える状態を意味する。ツァラトゥストラは「すべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ」と歌う。もし本当に生を肯定するなら、その苦しみごと永遠に繰り返されることを望まねばならない。

「この世は深い、『昼』が考えたよりもさらに深い。この世の嘆きは深い。しかし、喜びは哀しみよりも深い」。なぜ「夜」なのか。昼は理性や意識の表面が現れるが、夜は無意識や秘密が現れる。理性や道徳や社会常識では、存在の深さを捉えきれない。

人は昼間は道徳や目的に沿って役割を生きているが、夜は苦痛や孤独や恍惚が現れる。夜は底が知れない世界だ。歓喜は苦悩よりも深く、苦痛と歓喜は切り離せない。苦しみを消せば幸福になるということではない。歓喜は苦痛を通った者にしか現れない。

本当に生を愛するとは、傷つくことも、失うことも、死ぬことまでも含めて肯定することだから。歓喜は本質的に、「永遠化」を欲する。ここから永遠回帰へ接続する。


「徴」

朝が来て、ツァラトゥストラは洞窟から出た。ましな人間たちは眠り続けている。彼らを置いて、ツァラトゥストラは山を歩いていくと、突然鳥の群れが周りを囲み、獅子の咆哮が起きた。「徴が来た。さあ来い、大いなる正午よ!」と言い、再び人間たちのもとへ向かう。

かつて予言者が言った「あなたの最後の罪に誘惑しようときたのだ」の「最後の罪」とは、「ましな人間たちへの同情」のことだった。彼らは結局、驢馬を崇拝し超人にはなれなかった。普通なら、ここで「人類はダメだな」で終わるはずだが、再び人間のもとへ行く。

ツァラトゥストラは人類を見限らない。創造する精神は、孤独でも創造を続けるからだ。もはや、人から理解されることを条件にしていないのだ。彼は絶望しない。「人間の弱さそのもの」を含めて肯定し始めるからだ。創造とは完成ではなく、永遠の生成にある以上、結論は書かれていない。

第四部

「蜜の供え物」

孤高の思想家として成熟した超人ツァラトゥストラが、再び人間たちのもとへ降りていく決意を固める。高みに達した者は再び人間へ向かわねばならないが、しかし、人間はその贈り物に値しないかもしれない。

蜜は、ツァラトゥストラ自身が長い月日を通して得た成熟した知恵の象徴。知恵は蓄えるだけでは腐ってしまうので、供え物として差し出そうとする。自分を差し出す。自分の成熟そのものを他者に与えると言う事。その蜜を餌にして、人が山上まで登ってくるのか見たいと言う。

人間は真理そのものでは動かない。甘味によって誘われるという。以前のツァラトゥストラは、超人思想を真正面から語れば人々は目覚めると思っていたが、しかし今の彼は、そんなことでは人間は動かないことを知っている。

人間を「蜜で釣る」という発想は、大衆の意識の操作と支配に繋がる。偉大な思想は、純粋な論理だけでは広まらない。そこには、蜜の様に甘い言葉が入り込む。与えることは、誤解や堕落を伴う。ツァラトゥストラは「わたしの健康な悪意よ。ここに立って笑え。人間魚をおびき寄せよ」と言う。


「悲鳴」

ツァラトゥストラのもとに疲れ切った予言者がやってくる。予言者は「ツァラトゥストラよ。わたしはあなたを、あなたの最後の罪に誘惑しようときたのだ」と言う。幾重の谷間から人間たちの悲鳴が聞こえてくる。予言者は「あの悲鳴はあなたに向けられているのだ」と言う。

予言者は「あなたを求めて悲鳴を上げているのは『マシな人間』なのだ」と言う。「マシな人間」とは、既存価値を信じられず、かといって、新しい価値も創造できない存在で、ニヒリズムの中間地帯にいる。

第三部までのツァラトゥストラなら、「弱い者は滅びよ」と言って無視しただろうが、彼は失望しながらも、なお人間へ向かう。高い精神ほど、深い苦痛を抱えることを知っているからだろう。しかしニーチェは同時に、苦しみそのものを崇拝してはならないとも言う。


「王たちとの対話」

ツァラトゥストラは二人の王に出会う。彼らは上流社会から逃げ出した王で、自分の民衆を軽蔑し、自分が王位であることに嫌気が差している。神が死んだ社会において、正当性を失った古い支配階級の精神が崩壊している。近代では、「群衆」が支配的になった。

王たちは、もはや高貴なものを理解しない民衆に疲れている。「高いものが存在できない時代」に絶望している。王たちはその空虚さを感じ、新しい高貴さを求め、ツァラトゥストラを探している。
王たちにはまだ高くなる可能性が残っている。ツァラトゥストラは彼らを拒絶しない。


「蛭」

王たちを自分の洞窟で待たせ、ツァラトゥストラが更に山を下っていくと、沼で蛭を研究している男に出会った。彼は蛭を徹底的に研究しているが、ツァラトゥストラは、その姿にある種の危険を覚える。蛭研究者は、蛭の脳髄について異常なほど詳しいが、「蛭」以外を失っている。

蛭研究者は「知的良心は一つのことだけを知って、他の一切を知らないように要求する」と言う。部分が全体を飲み込んでしまい、俯瞰する大きな視野や創造を犠牲にしている。分析だけが肥大化し目的を失い、価値創造が消え生そのものが見えなくなる。

蛭研究者は極度に客観的だが、ニーチェは完全な客観性は存在しないと考える。人間は常に、解釈を通して世界を見ている、「私はただ事実だけを見ている」という態度そのものが、一種の幻想にすぎない。その幻想に閉じこもると、人は「何のために知るのか」を失う。

人間は現実そのものではなく、脳が生成した現実モデルを生きている。「私」という存在も、一つの神経的物語だ。真理への誠実さだけでは、人間は完成しない。現代社会は、専門分化、データ主義、
定量分析によって動いているが、「どんな価値を創るのか」という問いは空洞化しやすい。


「魔術師」

ツァラトゥストラが道を下っていくとキチガイのように暴れている老人に出会う。ツァラトゥストラは「あそこにいるのが、きっと『ましな人間』に違いない」と思い、力になろうと駆け寄り助け起こそうとするが無駄だった。

老人は、まるでツァラトゥストラが来たことに気が付かないそぶりで、世界に絶望し、苦しみ抜く精神であるかのように振る舞い、嘆きの歌を歌い出す。苦しんでいる自分に酔い、深刻さを演出し、他者を感動させようとしている。

ツァラトゥストラは、もはや我慢できなくなり、「やめろ!俳優め!贋金作りめ!性悪の魔術師め!!」と杖で老人を怒りに任せて打ちのめす。「魔術師」とは、絶望している偉大な人間を演じ、真理を求めているように見えるが、実際には観客を求めている存在。

ニーチェは苦悩の演劇化を批判する。人は苦しみそのものより、苦しむ自分に酔う。魔術師は「絶望している偉大な人間」を演じている。魔術とは、言葉と感情による催眠だ。現代の政治においても、真理よりも、感動させる力が支配する危険性。

創造へ向かう苦悩は肯定されるが、魔術師は、苦悩を創造へ変えない。魔術師は、真理を失っているが、とはいえ、完全な虚無には耐えられない。苦悩そのものに陶酔することで、自分を支えている。そして、神なき時代の偽預言者になった。

魔術師は強烈な言葉で人を魅了するが、それは予言者にも共通する危険な側面だ。真理を語る者は、いつの間にか「人を酔わせること」を目的にしてしまう。ニーチェ自身の自己批判でもある。

本当に創造的な人間は、過剰に悲劇的ではない。軽やかで、ユーモアがあり、自分に酔わず、苦悩さえ素材に変える。


「退職」

魔術師から離れ、ツァラトゥストラは黒衣をまとった長身の男と出会う。彼は引退した老法皇。老法王は「古い神が最期をとげるまで仕えていた」と言う。ツァラトゥストラは「神がどのように死んだかご存じのはずだ。人間への愛が神の息の根を止めたのは本当なのか?」と訊く。

「同情の塊がのどにつかえて死んだ」と老法王は答える。ツァラトゥストラが「そんな神はいないほうがいい」といった感じの事を言うと、老法王は「あなたは自分で思っているよりも敬虔だ。あなたの中にいる何かの神があなたを無神論者に変えたのだ」と言う。

キリスト教の神は次第に、生を裁く神から、苦しむ者を慰める神へ変わっていった。ニーチェは、この無限の同情を人を弱くすると危険視する。古い神は、苦しみを永遠に保存する神でしかない。ニーチェにとって重要なのは、苦しみを消すことではなく、苦しみを変形し創造へ変えることにある。

普通なら神を否定するツァラトゥストラは不敬虔に見えるが、ツァラトゥストラは、軽薄な無神論者ではなく、本気で神という問題を生きている。だから、敬虔と言える。ツァラトゥストラは、非常に宗教的なのだ。本当に誠実な精神は、既存宗教を破壊してしまう。

老法王は、死んだ神をなお愛している。ツァラトゥストラは、その神を拒絶した。しかし両者とも、神の死が巨大な出来事だったことを知っている。ツァラトゥストラは老法王に「わたしはすべての敬虔な人間を愛する」と言い、自分の洞窟への道を示す。


「最も醜い人間」

ツァラトゥストラが再び道を進むと、岩角を曲がったところで死の国に足を踏み入れた。牧人たちはこの谷を「蛇の死」と呼んでいた。蛇はニーチェにおいて、多義的な象徴。知恵や循環、危険、永遠回帰などを意味する。

「蛇の死」とは、生の深い力そのものが死にかけている場所であり、その円環的生命力が止まっている意味になる。ツァラトゥストラは、その「蛇の死」で、道端に何かうずくまった塊を見つける。

その塊は「私の謎を解いてみよ!目撃者への復讐とはなんだ?固い胡桃をわけなく割る者よ。わたしこそ、その胡桃。いったい、私は何者だろう?」とツァラトゥストラに語り掛ける。ツァラトゥストラは「あなたは神の殺害者だ。私を引き留めるな。最も醜い人間よ!」と返す。

「最も醜い人間」とは、見られることに耐えられない存在。自己嫌悪や、恥、劣等感を意味し、自分が存在していることを耐え難く感じている。最も醜い人間は、自分こそ神を殺したと言う。神はすべてを見ていたからだ。男は同情を嫌悪する。

しかし、男は立ち去ろうとするツァラトゥストラの衣服の裾を掴み「待ってくれ!」とすがる。ツァラトゥストラは男を拒絶せず、ある種の理解を示す。男は、虚無を最後まで見抜いた人間だからだ。浅薄な楽天主義者より重要な存在と言える。この男は、偽善者ではない。

もし、自分の最も醜い部分が完全に暴かれたら、耐えられるか?と問う。人間は、「見られたい」「理解されたい」と願う一方で、本当に見抜かれることは恐れる矛盾した存在だ。

現代のSNS社会では、常に見られている。人は、理想化された自己を演じ始める。しかし、内面では「本当の自分を見られたら終わりだ」という恐怖を抱えている。神を殺しても、人間は自分自身から逃げられない。


「求めてなった乞食」

ツァラトゥストラは牝牛の群れに語りかける「求めてなった乞食」に出会う。求めてなった乞食は、元は富裕層だったが、富と上流社会を捨て、自ら乞食になった。文明からの逃走と言える。

彼は金持ちが善良さを演じながら、実際には精神的に腐敗していることに吐き気を覚えた。本物の人間性は庶民の中にあると思ったが、民衆もまた、嫉妬や欲望に支配され、群れ化し小さな幸福に埋没していた。彼は「上を見ても賤民、下を見ても賤民」と失望する。

求めてなった乞食は、理想を追いすぎる。人間はそんなに純粋ではない。理想化された人間愛は、深い人間嫌悪へ変わる。そして、彼の富を捨てた禁欲的方向は、ツァラトゥストラにとっては「世界への否定」に見える。男は自由というより、傷ついた理想主義者でしかない。

乞食は、人間社会より牝牛たちに安らぎを感じて、考えることも創造をすることもやめ、平穏の中に逃げている。これでは、苦悩は減るが、高さも失われる。「おしまいの人間」そのものだ。文明批判の先に何があるのかを問う。


「影」

ツァラトゥストラは一人になった。すると背後から声がかかる。それは「私はあなたの影だ」と言う。ツァラトゥストラは「私の孤独はどこへ行ったのか?」と憤る。ツァラトゥストラは逃げ出すが、影はついてくる。

ツァラトゥストラは「自分の影を恐れる必要があるのか」と思い直す。その影は長い間ツァラトゥストラを追って走ったと言う。影は故郷を捨て、あらゆる信念を捨て、あらゆる価値を疑ったと言う。影は、本体が光を受けた時に生まれるものであり、ツァラトゥストラの否定精神から生まれた。

しかし、影はツァラトゥストラの破壊の力だけを受け継ぎ、創造の力を持たなかった。否定だけを学んだ人間に過ぎず、ニヒリストと言える。知的だが、生命力がない。自由なのに、薄気味悪い幽霊のようだ。ツァラトゥストラは影に「私の洞窟へ行きなさい」と言う。


「正午」

ツァラトゥストラは誰にも会うことなく、葡萄がからみつく老樹の下で横になり、眠りと覚醒のあいだのような状態に入る。ツァラトゥストラは自分の心に向かって「世界はまさに完全になったのではないか?」と言う。

正午には、影が最も短くなる。人間を引き裂くニヒリズムの否定性が、一瞬消える時間。深い苦痛と孤独を通過した後にしか訪れない静けさの中で、ひとつの微風や、たまゆらの影など、ほんのわずかなものが至高の幸福を生む。

「帰郷」

「帰郷」とは、再び孤独な状態に戻ったこと。第一部の頃の孤独と、第三部の孤独は、同じではなく、長い遍歴と失望を経た後に、ツァラトゥストラが自分の運命として孤独を引き受け直す。

第一部のツァラトゥストラは、まだ人間に希望を持っていた。だから山を降りたわけだが、第三部では、人間世界の浅さ、重力の魔、群衆性を経験し、孤独はもはや準備期間ではなくなっている。むしろ、孤独こそが、創造者の本来の場所になった。孤独は、敵ではなくなった。


「三つの悪」

「三つの悪」とは、肉欲(快楽)、支配欲、我欲(利己心)のこと。ツァラトゥストラは、これらを人間的に良いものと秤る。強い欲望や自己主張は悪とされるが、「悪」とは、生命力の高いものへの恐怖から生まれる場合があるという。

ニーチェは「肉欲」は、生が自分自身を肯定する瞬間であるという。単なる享楽ではなく、世界への肯定であり、創造への陶酔でもある。問題なのは快楽そのものではなく、空虚を埋めるための中毒的快楽や麻酔としての享楽にある。ニーチェは「生を強める快楽」と「生を衰弱させる快楽」を区別する。

「支配欲」は、単に他人を束縛する欲望ではなく、形を与えたいという力を指す。芸術家が素材を支配する、思想家が混沌に秩序を与える、創造者が自分自身を鍛え上げる、これらは「支配」だ。生命とは本質的に、力を拡大し、形を作り、世界を解釈しようとする運動と言える。これは力への意志に通じる。

「我欲」は自分の生を真剣に引き受けることを指す。創造する者は、自分の内部にある可能性を育てなければならない。そのためには、孤独や自己形成、自己への忠誠が必要になる。

これを「欲望を肯定しろ」「支配してよい」「利己的であれ」と読めば、単なる弱肉強食に見える。しかし、ニーチェが批判しているのは、欲望そのものではなく、欲望を偽善的に抑圧する道徳にある。ニーチェはそれを奴隷根性と呼ぶ。


「重力の魔」

これまでに何度も登場している「重力の魔」は、人間を重くする価値観のこと。重力は、上昇するものを落下させる。「もっと高くなれるかもしれない自己」を否定する力だ。ツァラトゥストラは、自分の内部にもこの魔がいるという。「重力の魔」との戦いは、新しい価値を創造できるかどうかの戦いでもある。重く正しい人間になるのか、危険でも創造する人間になるのか。

人は自分自身を健康な愛によって愛することを学ばなければならないと言う。自己愛には「病んだ自己愛」と「健康な自己愛」がある。自分の生を引き受ける自己愛は健康的だ。自分の可能性を見捨てず、自分を育てるからだ。本当に自分を愛する者は、自分を創造しようとする。

「病んだ自己愛」は、「自分は特別だ」という陶酔、他人を見下して保つ自尊心、承認欲求や、虚栄心、自己中心的な被害者意識などだ。これらは実際には、自分を本当に愛していない。自分を育てようとしないため、内側に空虚があるので、他人からの賞賛や優越感で埋めようとする。

生を増大させる力は健康的自己愛にある。「重力の魔」は、健康的自己愛を病んだ自己愛に変形させる。
自己愛は、最終的に自分の人生を丸ごと肯定できるかということにつながる。


「古い石の板と新しい石の板」

古い価値体系(宗教・道徳・伝統)とそれに代わる新しい価値が対比される。人々は人間にとって何が善であり、何が悪であるか、とうの昔からわかりきっていると思い込んでいた。ツァラトゥストラは彼らを古い自惚れの上に胡坐をかいているという。

「古い石板」とは、生き方のマニュアルに依存した状態のことだ。問題は、人間が自分で価値を作れなくなっていることにある。「新しい石の板」とは、自分自身で価値を創造することだ。ツァラトゥストラは、創造者を「立法者」のように描く。創造者とは、自分自身に法を与える者なのだ。

ニーチェは古い価値を否定しながら、結局その内部でしか考えられない人を危険だと看做す。例えば、宗教を否定しながら、宗教が生み出した善悪の絶対性は維持するなど、こうした状態は、まだ古い石板の内部にいると言える。ニーチェはまず「破壊者」であれと言う。

何をしてもいいという意味ではなく、絶対的基準がないなら、自分自身で価値を引き受けねばならないということ。自由であると同時に、重い責任が伴う。他人の道徳に寄生せず、群衆に迎合しない。そして、自分自身を素材として作り変える。完成された理想社会ではなく、生成を永遠に続ける運動。


「快癒に向かう者」

ツァラトゥストラは、思想に押しつぶされ倒れた。屍のように横たわった。七日ののち、ようやく身を起こした。蛇と鷲が「ツァラトゥストラよ。新しい知恵があなたのところへやってきたのですね?世界はあなたを待っている。万物はあなたを癒す医者になるでしょう」という。

蛇と鷲は「一切は行き、一切は帰ってくる。存在の車輪は永遠に回る。永遠の道は曲線である。あなたは永遠回帰の教師だ。これがあなたの運命なのです」という。しかしツァラトゥストラ自身は、まだ完全には受け入れられていない。思想を語る者から、思想を生きる者へ変わらなければならない。

永遠回帰とは、𝑓(𝑡+𝑇)=𝑓(𝑡)、𝑓(𝑡)が𝑇の周期をもつ周期関数。「お前は、自分の人生を、永遠に繰り返したいと思えるほど肯定できるか?」という問い。ふつうは、死んだから解放される、来世に期待したり、未来でやり直せると思うが、永遠回帰は、苦しみも喪失も永遠に繰り返されていると考える。

ツァラトゥストラは、この永遠回帰の思想に圧倒され倒れた。「偉大なものだけでなく、くだらないものも永遠に繰り返される」という事実に耐えられなくなった。美しい瞬間だけ永遠なら、誰でも肯定できる。苦痛や愚かさや退屈が永遠に繰り返されることを肯定できるか?

「快癒に向かう者」とは、その肯定に到達した者のこと。世界全体を肯定する能力への回復。自分の人生を、苦しみも過去も偶然も全部含めて愛すること。自分の運命を愛するということ。成功したら、幸せなら運命を肯定するではなく、「苦しみを含めてなお肯定する」ということ。

「すべては無意味に繰り返される」という考えは「重力の魔」に通じる。ツァラトゥストラは、その重力の魔に対決しようとしている。



「大いなるあこがれ」

では、肯定された生とはどのような状態なのか?
「あこがれ」は、生そのものが、さらに高くなろうとする運動のこと。「あこがれ」は欠如ではない。力がさらに自分を超えようとする運動であり、力への意思に通じるものだ。

「あこがれ」は、完成して停止する生命ではなく、豊かな魂からあふれだし、さらに創造しようとする意思だ。どうせ繰り返すなら、この瞬間を最高のものとして創造せよ。ツァラトゥストラは、自分の魂を讃える。


「第二の舞踏の歌」

永遠回帰をどのように感情的に受容するか?「生」が女性的存在として描かれる。魅惑的で謎めいており、捉えきれない。生は論理で完全に支配できる対象ではない。ツァラトゥストラは、その女性的存在である生と一緒に踊り、彼女を愛さずにはいられなという。

ツァラトゥストラは、生を「完全理解」しようとはしていない。理解不能なまま愛そうとしている。残酷さや不安定さを含めて愛そうとする。生と軽やかに踊るツァラトゥストラはついに重力の魔に勝った。ツァラトゥストラが「生」と対話し、最後に「深夜の鐘の歌」へ移行する。

「深夜の鐘の歌」では、「喜びは永遠を欲してやまぬ」と歌われる。「この瞬間を何度でも生きたい」と思えるならば、永劫回帰は恐怖ではなくなる。「この世は深い」、昼の合理性では捉えきれない深みがある。愛と破壊は分離できない。存在そのものが、矛盾と深さを含んでいる。

世界の残酷さを、人間の小ささを、永遠回帰の恐ろしさを知りながら、それでも生を愛する。深淵の上で踊る舞踏。


「七つの封印」(あるいは「然り」と「アーメン」の歌)

この章は世界への全面的な「然り」の歌。ツァラトゥストラは、もはや世界を裁かない。ついに永劫回帰や生の肯定と運命愛を、思想としてだけでなく、祝祭として語る。仕方ないから耐えるではなく、私はそれを望むという境地へ至る。

人生を修正したいのではなく、繰り返したいと思えるか。「苦しみだけ消したい」と思った瞬間、人生全体への否定が始まる。世界を部分的ではなく、全体として肯定しようとする。超人とは、そのような世界を肯定できる存在なのだ。ツァラトゥストラは、最後に、それでも然りと言う。
 

第三部

「旅びと」

「旅びと」は既成の価値や共同体から離れ、まだ存在しない価値へ向かう運動のことであり、「完成された家を持たない者」のこと。彼らはどこにも定住できない。到達した場所は、すぐに古いものになってしまうからだ。

ツァラトゥストラは再び山へ向かう。負けたからと言うよりかは、人々に語った後、再び自己へ帰らねばならないという運動と言える。創造者は他者に与えるだけでは枯渇するので、再び深みに潜らねばならない。

しかし、元の場所には戻るのとは違う。ツァラトゥストラに帰る場所はない。故郷を失うことが、新しい価値を創造する条件だから。創造とは保証なしに進むことにある。後戻りはできないし、目的地もない。それでも歩くしかないのが創造者の運命だ。真に創造的な人間は、永遠に路上にいる。


「幻影と謎」

ツァラトゥストラが魔物の小びとと牧人という二つの象徴的存在に出会う。ツァラトゥストラの肩には小びとが乗り、あらゆる高みを相対化する。ツァラトゥストラが高く登ろうとすると、「投げられた石は全て落ちる」と囁く。この小人は重力の精神の化身であり、自分の影とも言える。

ツァラトゥストラは、「重力の魔」について語る。「無意味だ」と囁き、人間を下へ引きずるもの。創造を妨げ、生を重いものにする存在。「人生なんて結局無意味だ」というニヒリズムの象徴だ。しかしニーチェは、ニヒリズムの論理の強さを認めているので、それとの苦闘になる。

ツァラトゥストラの前に、「瞬間」という名の門が現れる。二本の道が交差しており、一方は過去へ、もう一方は未来へ果てしなく続いている。小びとは「直線をなすものは全て偽りだ」「時間は円環だ」と囁く。

ツァラトゥストラは「およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行われ、この道を走ったことがあるのではないか?すでにすべてのことがあったのなら、小びとよ、おまえはこの『瞬間』そのものをどう思うのか?」と問う。

小びとの「時間は円環だ」は、新しいものはなく、歴史に進歩はない、人間もまた循環する永遠回帰そのものだ。ツァラトゥストラも、小びとの考え自体は否定しない。問題は、「どのような精神で」それを語るかにある。

小びとは永遠回帰を虚無として理解しているニヒリズムだ。永遠回帰では、時間は円環になる。すると、「現在」は単なる通過点ではなくなる。この瞬間は、永遠に繰り返され無限回訪れる永遠そのものになる。この一瞬に、永遠全体が凝縮される。

仮にすべてが回帰するなら、この会話も苦闘も思索も永遠に繰り返される。すると問題は、「お前はこの瞬間を欲するか?」になる。永遠回帰は、「この人生を無限に繰り返してもよいと、本当に言えるか?」という究極の肯定と言える。ツァラトゥストラ自身はまだそれに耐えられない。

ツァラトゥストラと小びとが進むと、突然、苦しみもがく牧人の姿が現れる。牧人の口には、巨大な黒い蛇が入り込んでおり、彼は窒息寸前になっている。ツァラトゥストラは「噛み切れ! 頭を噛み切れ!」と叫ぶ。牧人はその通りに蛇の頭を噛み切り、ついに解放される。

牧人は、恐怖も苦悩も消え、ただ「笑い」だけを放つ存在へと変貌する。永遠回帰という思想を、人間はどうやって耐えるのか?。蛇は永遠回帰の恐怖やニヒリズムを表わしている。重要なのは、蛇は牧人の口の奥に入り込んでいること。ニヒリズムは言葉を奪う内面的虚無だ。自分で咬み切る必要がある。

牧人は深淵を見た後、蛇を噛み切った後はそれ込みで肯定し笑う。超人的笑いであり、ニヒリズム通過後の肯定の象徴。


「来ては困る幸福」

ツァラトゥストラはかつて、希望の子どもたちを探した。彼は自分の子どもたちのために自己自身を完成しなければならないと思った。人が心底から愛するのは、自分の子どもと仕事だ。ツァラトゥストラは自分の子どもへの愛情に拘り、横たわっていた。

ツァラトゥストラは子供たちの捕虜となり、己を失いつつあった。「来ては困る幸福」とは、平穏や安住、「もう十分だ」だという完成感のこと。ニーチェにとって最大の敵は「苦痛」ではなく、「満足」と言う。

永遠回帰を受け入れるとは、「この人生を何度でも生きたい」と言えることにある。単なる快適さではその肯定は成立しない。幸福が、安全であることや、苦痛の回避によって得られた平穏では、壊れやすい。苦難が来れば一瞬で崩れてしまう。なので、ニーチェは苦しみ込みで肯定できる幸福を求める。

ということは、「創造者は完成できない」と言う結論に達する。真の創造者は、完成してはならないということ。ニーチェは幸福そのものを否定しているわけではなく、もっと大きな幸福を求めている。苦しみと創造を含んだ肯定がニーチェ的幸福と言える。ニーチェは「幸福に眠るな」と警告する。


「日の出前」

ツァラトゥストラは「空」に向かって語りかけ讃える。空は世界そのもの。神が死んだ後の世界はただ存在するだけだ。ツァラトゥストラは「万物の上にあるのは、偶然の天だ!」「偶然は、最も古い貴族の称号だ」と言う。目的によって縛られていない世界こそ自由だから。

世界は誰の完成製品ではない。道徳的意味も保証されないし、苦痛に最終的な理由はない。意味が固定されていない。ならば、世界はキリスト教の原罪から解放されているといえる。欲望は罪ではないし、生は堕落などではない。偶然もまた肯定されるべき。神なき宇宙そのものへの賛歌が語られる。


「小さくする美徳」

ツァラトゥストラは人間を安全で小さな存在へ縮小してしまう価値体系を批判する。謙虚さや、協調性、礼儀正しさなどは、一見すると善良に見えるが、「高くなろうとする力」や「創造への意志」まで消されてしまうとツァラトゥストラは警告する。「粗暴なれ」と言っているのではなく、人間を従順化する善を問題視する。

「空気を読む」「和を乱さない」「出る杭にならない」「迷惑をかけない」といった価値体系は一見平和的だが、生の力を弱めるものでもある。協調性を否定しているわけではなく、突出することそのものへの敵意に変わることが問題と言える。

高くなろうとする意志が、感じの悪さとして処理される社会を恐れる。人は、失敗を恐れる以前に、浮くことそのものを恐れるようになる。しかも現代では、露骨な弾圧より、柔らかい同調圧力の方が強力なことがある。

誰かが直接命令するわけではなく、SNS上での炎上を避け、「正しい反応」をしたり、無難な意見に寄せるようになり、人は徐々に安全な人格へ調整されていく。ニーチェのいう「家畜化」という現象だ。ニーチェが本当に問題にしたのは、優しさそのものではなく、安全だけを最高価値にした文明だ。

大きく失敗することも、深く愛することも、本気で創造することも、危険な思想を考えることもできなくなっていく。ニーチェはそこに、静かなニヒリズムを見ていたのだと思う。哲学とは、安全な真理確認ではなく、生き方そのものを揺るがす危険な試みだからだ。「既存の価値を疑え」「道徳の起源を問え」「神聖視されているものを解剖せよ」などは本質的に危険な行為なのだ。


「オリブ山で」

「オリブ山」は、キリスト教ではイエスが苦悩し、祈り、裏切りに向かった場所。ツァラトゥストラがこもる山に冬がやってくる。ツァラトゥストラは冬の訪れを歓喜する。苦しみや孤独を避けず、それを自らの力へ変える精神が描かれる。

「冬」は世間の熱狂からの距離や沈黙を象徴する。冬空は太陽を押し隠し、不屈の太陽の意思を沈黙に押し包む。沈黙が却って内心を暴露することがあるが、ツァラトゥストラの沈黙は、何も語らない域に達した。

普通の人間は、承認や仲間意識を求めるが、それは思考停止や精神の弱化を招く。「波風を立てるな」「平均的でいろ」「誰も傷つけるな」という価値観にも繋がる。山の冬は強い精神だけが味わえる透明な空気だ。

群れなしでも立てる人間、孤独の中でなお喜んでいる者に大衆は不安を覚える。共同体依存の価値観を揺るがすからだ。ニーチェは孤独と寒さを呪うのではなく、それを創造の条件として愛せるかと問う。


「通過」

ツァラトゥストラは、大きな都市を「通過」する。その都市は、快楽と悪徳の巣であり、精神が堕落した場所であり、「大いなるもの」が死ぬ場所として描かれる。重要なのは、彼はそこで戦わずに、「通過」することにある。

都市は、群衆心理やメディア的空間、名声市場、嫉妬と虚栄の象徴。あらゆるものが、見世物化され、商品化され、消費される。高い精神も、深い思想も、すべてが話題に変わり、精神が市場へ堕落する場所と言える。

偉大なものは市場では起こらない。本当に重要な創造は、長い孤独と誤解、沈黙を必要とする。重要な創造が誤解を伴うのは、それが単に「既に共有されている意味」をなぞるものではなく、まだ社会に存在していない感覚や価値を持ち込むから。

誤解とは翻訳不能の状態だ。重要な創造は時代の言語に完全には翻訳できない。言語化は他人と共有可能な部分しかできないからだ。創造は往々にして既存のカテゴリーに収まりきらない。

ツァラトゥストラは戦わない。彼は、そこに留まること自体が腐敗を招くことを知っているから。ニーチェは、常に敵に反応している人間を危険視する。なぜなら、敵に取り憑かれた時点で、すでに精神の主導権を失っているから。

それを続けているうちに、創造そのものが消えていく。都市の腐敗に怒り続ける人間は、実は都市に支配されている。世界への軽蔑だけで生きる人間は、結局「否定」に寄生する存在になる。「通過」とは腐敗したものに呑まれず、しかし執着もしない精神的態度。


「脱落者」

ツァラトゥストラは、昔は大胆だった者たちが疲れ、再び古い神や安楽へ戻っていく様子を見る。若々しい心の持ち主は、皆老いてしまったと嘆く。本当に自分で考えて生きることは、疲れるから。

正解も保証もない。すべて自己責任で孤独で不安だ。大抵の人間は「そこまで極端でなくてもいいだろ」だとか、「現実的になれ」や「やっぱり平穏が一番だ」などと思い始める。それは成熟ではないとニーチェは言う。精神の疲労によって後退したに過ぎない。

ニーチェは、自分の後退を「徳」として正当化することを嫌う。臆病なネズミどもは「疲れたから降りた」のではなく、「中庸こそ賢明」「危険思想は幼稚」「皆と調和すべき」などと語り始める。
 

「自己超克」

ツァラトゥストラは、賢者たちに向かって「あなたがたの意志の欲するところは、ありとあらゆるものが、あなたがたに屈服することなのだ」と言う。ツァラトゥストラは、それを「力の意志」と呼ぶ。

彼らが表向きには「真理」や「客観性」を求めているように見えても、その深層には、「世界を自分の秩序に従わせたい」という欲望がある、と見抜く。なぜ人は真理を欲するのか?単なる好奇心に留まらず、世界を理解したい、混沌を整理したい、自分の解釈を世界に押し広げたいという衝動がある。

「知る」とは、世界を自分のフォーマットに従わせることに通じる。人は混沌を支配可能なものに変えたいと思うものだ。名前をつけ、分類し、定義し、概念化する。概念化は支配に通じる。その背後には、「混沌を支配可能なものに変えたい」という欲望がある。

ニーチェは、「価値を定める者こそが支配者である」と考える。しかしニーチェは「力の意志」を単純に否定しているわけではない。ツァラトゥストラは「生あるところに力への意志がある」と言う。思想とは、生の表現である。

「力への意志」とは、存在が、自分をより高い形へ押し上げようとする根本衝動と言える。ニーチェの思想では、人間は橋であり、到達点ではない。生きるとは、現在の自分を超えていく運動。全ての生あるものは従順なものである。自己に従順でないものは、他者に命令されると言う事である。

支配者もまた奴隷である。命令する者は、自分自身に従わねばならないからだ。「敵」は外ではなく、自分自身だ。ニーチェにとって本当の闘いは、他人との競争ではなく、今の自分を壊せるかにある。「自己超克」の本質は、固定化された自己を壊し続けることにある。


「悲壮な者たち」

ニーチェは「偉大に見える精神」の限界を批判する。「悲壮な者」とは、厳格で、禁欲的で、苦悩に耐え、自己を克服しようとしている一種の高貴な人間のこと。しかしツァラトゥストラは、その姿を「重すぎる」と感じている。

悲壮な者たちは、自分を高めようとしている。しかし、ツァラトゥストラは、「見込みはあるが、それでは不十分だ。なぜなら、お前たちはまだ美しくないからだ」と言う。ニーチェにとって、本当に高い精神とは、重さに耐える者ではなく、重さを超えて舞える者にあるからだ。

厳粛で、自己犠牲的な英雄的精神を、生を肯定する喜びが足りないと批判する。獅子から子供になれと言うのである。「悲壮な者」は、まだ獅子の段階に近い。ツァラトゥストラは、「お前たちが笑うのを見たい」と言う。

ニーチェの「笑い」は、単なる陽気さではなく、それは、深淵を見た後でもなお、生を肯定できる力だ。


「教養の国」

ツァラトゥストラは、「教養ある人々」が住む国へ行く。期待に胸を膨らませ、「教養の国」にやって来たが、「ペンキ桶の故国に戻ってしまった」と笑う。教養人たちは、過去の思想を知り、芸術を論じ、美を語り、哲学を引用するが、模写する者たちであり、何も創造していないと言う。

ツァラトゥストラは、教養人たちを、「墓堀り人がそばで待っている半開きの門」「仮面をつけた人々」のように見ている。なぜなら、彼らは内面から生きているのではなく、教養ある人間らしく振る舞い、演じているからだ。存在より演出が優先されている。知識はあるが自己がない。

彼らは他者の思想で満たされすぎて、自分自身の声を失っているとニーチェは言う。知識は大量にあるが、しかし、何のために生きるのかが空洞化している。

現代のSNSでも、「わかっている感」を出し、アイデンティティを演出しているのをよく見かけるけども。多くを知り語るが、自分自身の価値を創造するという点が難しい。知識と文化だけでは、人間は高くなれない。「教養の国」は、知識はあるが、生が失われた文明と言える。

ニーチェ自身も批評家だったわけだが、批評家の存在を否定しているのではないのだろう。作品を批評し「ここがこうだから素晴らしい」と明確に言ってくれる批評家は創造的だ。作品の価値を言語化する行為には、創造性がある。

ニーチェが嫌ったのは寄生的批評だ。冷笑的評論、マウント型レビュー、粗探し中心の知性など。優れた批評家は、作品の隠れた構造を見抜き、読者の感受性を変え、新しい読み方を生み出す。これは単なる「解説」ではない。「創作者>批評家」という単純な構図ではない。


「汚れなき認識」

ツァラトゥストラは「正直者の歩みは音を立てる。しかし猫は盗み足で歩いて行く。見るがいい。月の歩みは猫の様に不正直だ」と言う。ツァラトゥストラは月を批判的に描く。月は、関わらずに世界を見ていたい知性の象徴。

太陽的存在は、自ら光を放ち与え、世界に働きかける創造的存在。月は太陽の光を反射するだけの、受動的で冷たい存在であり、何も生み出さない。月は純粋に真理だけを求める者を意味する。

「正直者の歩みは音を立てる」。自分の欲望や意志を隠せないからだ。熱を帯び争う者は、音を立てる。一方、月は猫のように歩く。自分の欲望を隠し、気配を消し、音を立てない。「私は何も欲していません」という顔をする不正直者だ。

ニーチェは生から距離を取って“純粋な観察者”であろうとする精神を批判する。真に豊かな認識とは、生に深く関わることからしか生まれないと考えているからだ。正直な者は汚れているものだ。


「学者」

ツァラトゥストラが寝ていると羊がやってきて、ツァラトゥストラの頭に乗っている蔦(きづた)の冠をむしって食べると、「ツァラトゥストラはもう学者ではない」と言い去っていく。しかし、子供たちにとって、ツァラトゥストラはいまだに学者である。

蔦は、詩人や知者の冠の象徴。羊は無邪気さの象徴。理由も言わず、批判もせず、ただ自然に冠を食べる。生そのものが、ツァラトゥストラから学者性を奪う。知識を持つ人から、生そのものを語る人へ変わった。ツァラトゥストラは幸いと喜ぶ。

子供は無邪気だ。ツァラトゥストラは社会的ラベルでは知識人に見える。真の変化は他人には見えにくい。ツァラトゥストラは学者たちの家から出ていく。彼は創造する精神を失い、知識の管理人になった精神を批判する。学者は「なぜ生きるのか」「何を創造するのか」という問いを失っていると言う。


「詩人」

ツァラトゥストラは「詩や神話や象徴を語る者は、どこまで真実を語っているのか?」と自問自答する。「詩人は精神の奥まで、孔雀の中の孔雀だ。虚栄の海だ」と言う。

この「詩人」には、文学者だけでなく、宗教家や哲学者、思想家も含まれる。彼らは大げさな言葉や表現、崇高なイメージを使い、実際以上に真理めいたものを感じさせる演出をする。ニーチェは、美しい言葉は真理を保証しないと警告する。

現代的に言えば、難解な哲学用語や雰囲気的ポエム、崇高な政治スローガンなど。詩人は、人々を陶酔させ、熱狂させ、世界観を与えるので、宗教や政治とも結びつきやすい。詩人の力で人々は雰囲気にのまれていく。詩人は理想を語るが、それは現実の生から逃げているとニーチェは言う。

学者は冷たく、分析し、生を解剖する。詩人は、熱狂的で人々を陶酔させ、生を美化する。ツァラトゥストラは、生を肯定しつつ、幻想にも溺れない精神を求める。


「大いなる事件」

ツァラトゥストラは、火の犬と呼ばれている存在に出会う。この「火の犬」は、政治的扇動や大衆的激情の象徴。火の犬は、よく吠え、騒ぎ立て、歴史的瞬間を演出し、「自分こそ世界を変えている」と思っている存在だ。

ニーチェは人々が「歴史的大事件」だと思っているものと、本当に世界を変えるものは違うと言う。本当に歴史を変えるのは、政治的事件でも、スキャンダルでも、群衆の熱狂でもなく、新しい価値観を創造する者による発明だと言う。哲学的転換や芸術的革命や生き方の変化の方が、長期的には世界を変える。

ニーチェは世間を騒がす「大いなる事件」は本当に大きいのか?と問う。重要なのは火の犬のような地表で起こる噴火ではなく、地下深くの運動にある。それは精神の変化であり、価値観の変化であり、生き方の変化だ。

現代ではSNS上の炎上やバズ、政治ショーと扇動的動画などが大事件として消費されるが、それらは火の犬の吠え声に過ぎない。「神の死」という大事件は、何世紀もかけて科学や批判精神が静かに価値体系を侵食した結果だ。ニーチェは静かな言葉が嵐をもたらすと言う。


「予言者」

予言者は「一切は空しい。一切は同じことだ。一切はすでにあったことだ。全ての労働は無駄であった」と語る。「予言者」は、神が死に、伝統的価値が崩壊し、それに伴って、生の根拠が消えた世界における虚無の声と言える。

「おしまいの人間」は、安全と快適さを求め、高みを拒否し、創造を嫌う存在だった。「予言者」は、その「おしまいの人間」の深化形と言える。おしまいの人間はまだ小さな幸福に満足していたが、予言者は、幸福そのものが無意味だと言う。

ツァラトゥストラは予言者を論破できない。胸を打たれ、彼は動揺する。予言者の言葉には真実が含まれている。神が死んだ後、絶対的価値は崩壊している。ニヒリズムは避けられない運命だと感じている。むしろ「虚無を見抜いた後、それでも創造できるか」を問う。

近代が進めば進むほど、この虚無は拡大する。虚無を完全に見抜いた後、それでも肯定できるか。予言者は、「意味が消えた世界」を語るが、ツァラトゥストラはなお、「ならば人間が意味を創れ」と言おうとしている。意味なき世界を、それでも創造的に生きられるかが、ニーチェの超人思想。


「救済」

身体的、精神的に歪んだ人々が描かれる。ツァラトゥストラは「ある種の人間には、ただ一つのところだけが過度に発達しているのに、他の一切が欠けているものがある」と言う。彼は部分だけが肥大化した人間を問題にする。

知性だけが、道徳感だけが、欲望だけが、記憶だけが肥大化すると人間は全体性を失う。現代人は、何か一部だけが異様に発達した「断片的人間」だという批判する。

神が死んだ時代の「救済」は、キリスト教的救済ではない。キリスト教では、過去の罪から救われ神に赦される。しかしニーチェでは過去を消さないし、世界を超越しない。この世界そのものを肯定せよと言う。

人間は、過去を変えられない事実に苦しんでいる。意志は解放者であるが、その意志は過去を変えることができない。そして、人は変えられないものに対して怒り始める。ツァラトゥストラはそれを「復讐の知能」と呼ぶ。

「復讐の知能」とは、人は、変えられない過去に対して、後悔と自己嫌悪と運命への怒りを抱く。「なぜ、あんなことが起きた?」「なぜ私はこうなのか?」「親ガチャはハズレだった」など。意志は、過去に対して無力であり、その無力感が、世界への怨恨へ変わる。

ツァラトゥストラは、意志が救済されるとは、「こうであった」を「私はそれをこう欲した」に変えることであると言う。単に「過去を肯定しろ」ではなく、自分の人生全体を引き受けよということ。「それでも私はこれを生きたい」と言えるか。これがニーチェが言う救済。

自分の運命を愛せと言う。運命を仕方ないから受け入れるのではなく、喜んで生き受けよと言う。「救済」とは、別世界への逃避ではなく、自分の人生を、自分のものとして創り直すことにある。


「処世の術」

人間社会の中で、創造的な人間はいかに生きるべきか?普通は「処世の術」とは、空気を読んで、うまく立ち回って世渡りをすることを言うが、ニーチェが言う「処世の術」とは、人間を理解するが、他人には迎合しない、しかし、孤立しすぎないという微妙な距離感を言う。

人間社会には、他人の足を引っ張る欲望や、同調圧力、群集心理が渦巻いている。特にニーチェが嫌うのは、高く行こうとする者を引き下ろす力にある。優れた者は、凡庸な者に劣等感を与えるから、人間社会において足を引っ張られる。

ニーチェは、人間を深く知れ。だがその価値観に屈するなと言う。ニーチェは「善意」や「優しさ」を警戒する。無防備な善意には、他人に存分に利用される。そのために、大きく消耗し自分を失う危険がある。キリスト教的な「自分を捨てて他者に尽くせ」という倫理を、生命否定と看做す。

深い人間は仮面を持つ。なぜなら、深い思想や強い感情は、そのまま社会に晒すと、誤解され消費され、攻撃されるからだ。だから創造的人間は、すべてを露出せず、適度に隠し、距離を保つ必要がある。自分の核心を守るための知恵だ。群衆の中で孤独であれ。

ニーチェの「精神的貴族主義」とは、「自分で価値を作る」「群衆に流されない」「自分を律する」「嫉妬で動かない」「他人の承認に依存しない」という精神のあり方。そして「処世の術」とは、この高貴さを守りながら生きる技術と言える。

現代SNS社会は、「群衆精神が常時接続化した世界」と呼べる。常時他人の視線にさらされ、承認を求め、自己を編集、演出し、そして、炎上を恐れ、空気に適応する。それはニーチェが批判する「群集的精神」そのものだ。その中で、創造的であろうとすると、非常に疲弊する。


「最も静かな時」

ツァラトゥストラに、謎めいた声が語りかける。「あなたにはわかっているのだ。しかし、あなたはそれを言わないのだ」とその声は言う。声は、ツァラトゥストラは、まだ真理を生ききれていないと指摘する。

声は「あなたの育てた果実は熟れているのです。熟れていないのは、あなた自身です」と言う。思想そのものは既に生まれている。しかし、それを担う人格が、まだそこまで達していない。思想は頭で理解するものではなく、その思想に耐えられる存在になっているかが問われる。

ツァラトゥストラは、「お前は本当にこれを生きるのか?」「お前自身はどうなのだ」と突き返される。
嵐をもたらすのは最も静かな言葉だ。人は騒音の中では、自分から逃げられる。会話や議論、娯楽によって向き合うべきものを避けられる。しかし、静けさの中では違い、逃げ場がなくなる。

声は「幼子になりなさい。孤独に戻りなさい」と言い去る。ツァラトゥストラは、敗北した。友人たちとの決別に声をあげて泣いた。そして、再び孤独へ向かう。思想家とは、答えを持つ者ではなく、自分自身を変形させ続ける者だ。

 

第二部

「鏡を持った幼な子」

ツァラトゥストラは弟子たちと別れ、再び山に入り人間たちから遠ざかった。山にこもっていたツァラトゥストラのもとに、夢の中で「鏡を持った幼な子」が現れる。幼な子はツァラトゥストラに「鏡の中の自分を見てごらん」と言う。

ツァラトゥストラが鏡をのぞくと、そこには悪魔の顔があった。彼は驚愕して目を覚まし、「自分の教えが歪められている」と悟り、再び人々のもとへ降りていく決意をする。ニーチェの思想では、「幼な子」は価値を新しく生み出す存在であり、容赦なく本質を突きつけるもの。

思想は誤読されたり、弟子や大衆によって単純化される危険性がある。ニーチェ自身の、自分の思想が他者の中で悪魔に変わっていくことの警戒とも読める。


「至福の島々で」

ツァラトゥストラは「神は一つの推測である。私の願うところは、あなたがたの推測が、あなたがたの創造の意志を先走らないことだ」と言う。

かつて、人は「神」を創造した。しかし、今や、その神は死んだ。だから、人間は、自ら価値を創造する存在にならねばならない。最終的に、人間は乗り越えられるべきものである超人へ、と言う思想が語られる。

「人が意志することは、人を解放し、自由にする。もし、神々があるのなら、人は一体何を創造することができるだろう」と言う。

「神は死んだ」とは、絶対的な価値の根拠が消え、「正しさ」を保証する外部がなくなったことを意味する。人間は拠り所を失った。もう従うべき正解はないのだ。正解がないのなら、人が創造する余地が生まれる。価値を自分で作り、自分で意味を与える。そして、生の方向を自分で決めることになる。

ニーチェが言う「超人」は、完成された理想像ではなく、不断に自己を乗り越える運動そのものだ。なぜニーチェは「至福」を問題とするのか?人は、満たされていると、挑戦しなくなるし、創造しなくなるからだ。至福は、人間を終わらせる可能性がある。ニーチェが言うところの「おしまいの人間」だ。


「同情者たち」

ツァラトゥストラは「同情せずにいられないときでも、わたしは自分が同情していると言われたくはない」と言う。ツァラトゥストラは、「同情者たち」に囲まれることを嫌う。彼らは苦しむ人に寄り添い、助けようとする人々だが、ツァラトゥストラはそれを危険視する。

大きな恩恵は感謝を生み出さない。むしろ、相手の心に復讐心を萌させると言う。同情は苦しみを減らすどころか、増やしてしまう。同情する者は、相手を弱さに固定してしまう。真に価値ある人間は、苦しみを力に変える者である。

ニーチェが問題にする同情は、一般的な思いやりとは違う。相手の苦しみに浸る同情や、苦しむこと自体を肯定してしまう態度などのことで、相手を「かわいそうな存在」として固定する視線を指す。「冷酷になれ」と言っているわけではない。

SNSでの共感の連鎖や、被害の共有文化など、「つらいね」と言い合う関係は一見優しいが、そこから抜け出す力を弱める可能性もあるというのがニーチェ的視点。


「聖職者たち」

ツァラトゥストラは聖職者たちを「性悪の敵だ」と言う。彼らは生を否定する教えを広めているが、それは、彼ら自身が深く苦しんでいるからだ。彼らは苦しみから逃れるために、「別の世界(神・来世)」を作ったと言う。

「聖職者」は、実際の宗教者というより、生を否定する価値観の担い手や、苦しみを正当化する思想の発信者や、それで人々を「従わせる」存在の象徴と言える。「なぜ生きるのか」を外部に委ねさせる装置を指す。ニーチェは現実の生を価値の低いものにする思想を憎む。

ニーチェは、聖職者は苦しみに敗れた人間の一形態だと看做す。強くなれず、生を肯定できないから、強さを「悪」と呼び、弱さを「善」と呼ぶんだと言う。力への復讐としての道徳と言える。聖職者たちが発信する「楽になる物語」は人々を従わせる。

現代における、被害者性を過度に強調する思想や、努力より救済を優先する価値観、現実より「理想の世界」に逃げる態度は、ニーチェが言う聖職者的と言える。苦しみに耐えられなかった人間が、生を否定する思想を作るという構造が暴露される。


「有徳者たち」

「有徳者たち」とは、規範を守り道徳的に正しいとされる人。ツァラトゥストラは彼らに「徳に対してその報酬を、地上の生活に対して天国を、あなたがたの今日に対して永遠を受け取りたいのか?」と問う。

ニーチェは、彼らの徳は、安心・秩序・評価のためにあり、それは本当に創造的なものではない。彼らは「善くあること」に満足し、それ以上を求めないと言う。有徳者たちの問題は、徳そのものではなく、その動機にあり、罰を避けたい、承認されたいから徳を持つなら、徳は目的ではなく手段になる。

ニーチェにとって最大の問題は、徳が人の成長も創造も止めてしまうことにある。徳が人を眠らせる。ツァラトゥストラにとっての徳とは、常に自分を超えていこうとする運動であり、他人のためではなく、自分の力から出る行為を言う。

聖職者が価値を押し付け、生を否定する道徳を広める。それが人々の中で内面化し、自ら「善人」になる。外からの支配によって、道徳は内面化し、人々は正しさ」で思考停止する。それは本当に「生きている」と言えるのか?とニーチェは問う。


「賤民」

ツァラトゥストラは、「賤民」を嫌悪すると語る。「賤民」は階級のことではない。「賤民」は、高いものを憎み、創造者を理解せず嘲笑し、平等を口実に卓越を破壊し、何でも低い水準へ引き下げる。嫉妬に支配される精神や、卓越を憎む心、高いものを引きずり下ろしたい欲望を意味する。

「賤民」とは、低さではなく、引き下げようとする精神の持ち主の事だ。ルサンチマンの一形態とも言える。平等が極端になると、卓越そのものが悪とされるようになる。「誰も傷つかない社会」が、「誰も突出できない社会」になっていく。

賤民性が個人としてよりかは、群衆心理や、社会の雰囲気として描かれ、その賤民性は空気として広がる。善人たちが価値創造を止め、群衆そのものが卓越を押し潰す。善良な社会は「平均化」と「卓越への敵意」をもたらすと言う。


「毒ぐもタランテラ」

「タランテラ」は、復讐心を正義として語る人々の象徴。彼らは「平等」「正義」「善」を語る。ツァラトゥストラは、その背後にあるのは復讐心だと言う。ツァラトゥストラは、「人間は平等ではないし、平等になるべきでもない」と言う。

タランテラたちの嫉妬や復讐心が道徳化し、正義として他者を裁くという構造を生み出す。ツァラトゥストラは、生は高みを必要とすると言う。闘争と不平等があるからこそ、優越を求めてやまぬ戦いがある。人間は復讐から解放されねばならないと言う。

しかし、ニーチェのこの議論には危険性がある。例えば、実際の不正義に対する批判まで、「ただの嫉妬」と片づけてしまう危険がある。


「名声高い賢者たち」

ツァラトゥストラは、「名声高い賢者たちは、迷信に奉仕してきたのであり、真理に奉仕してきたのではない」と言う。ツァラトゥストラが批判するのは、知識を集め、既存の価値を整理するだけで、誰にも嫌われない範囲で考えるの知性のこと。創造をしない知性と言える。

名声を求める彼らは真理ではなく、世間の期待や評価など承認に仕えている。有名になるほど、人々に理解されやすくなり、過激さや孤独が削られていく。社会に受け入れられる知性は、すでに飼い慣らされている可能性がある。知識人もまた群衆に従属している。

ツァラトゥストラが求めるのは、学問的知識ではなく、新しい価値を創る知性であり、生を変える力そのもの。安全な知恵に満足するな、生から思想を創り出せと語る。


「夜の歌」

ツァラトゥストラが、自分自身の苦しみについて語る。抒情的に。自分は光を与える存在だが、与えるばかりで、受け取ることができない。自分の豊かさが、逆に孤独を生んでいると言った内容。
深く考えすぎ、多くを見すぎ、強くありすぎる者は、他者と簡単には交われない。

世界の見え方そのものが、他者とズレてしまう。多くの人間関係は、ある程度、暗黙の了解や適度な自己欺瞞によって成立しているが、深く考える者は、「本当にそうか?」「なぜそう振る舞う?」と掘り下げてしまい、他者が自然に受け入れている世界を、そのまま共有できなくなる。

群衆は通常、善悪、愛、国家、社会などを、単純化して生きている。複雑なものを複雑なまま理解できる高い人間は、善意の裏の支配が見え、愛の中の所有欲が見え、正義の中の暴力が見え、理想の中の偽善が見えてしまう。そうなれば、もう無垢に参加することが難しくなる。

ツァラトゥストラの孤独は、単なる「ぼっち」ではない。見えてしまった者の孤独だ。群衆心理や、自己欺瞞を見たままでは、人々と素朴には生きられない。皆と同じようには生きられなくなる。それが、新しい価値を創造する条件とも言える。


「舞踏の歌」

ツァラトゥストラが弟子を連れて森で泉を探していると、互いに踊っている少女たちと出会う。少女たち生命の象徴であり、彼女たちと対話する。ツァラトゥストラは生そのものと踊ることについて語る。

ツァラトゥストラは重力の悪魔を憎む。重力の悪魔とは、教条主義や禁欲主義など、人を地面に縛りつけ固定化する重苦しさのこと。ツァラトゥストラは笑い軽やかに高く踊ることを肯定する。踊る者は、重力から一瞬自由になる。

失敗を恐れ、安定や完璧な人生を求め、常に正解を探す現代社会に対し、ニーチェは「もっと踊れ」と言う。生はコントロールしきれない。それでも生に参加せよと言う。

苦しみも、恥も、喪失も、永遠に繰り返されるものだ。それでも微笑むことは、重力の悪魔への勝利になる。苦しみを知らない軽薄さではなく、苦しみを引き受けた上で肯定し、軽やかに踊れとツァラトゥストラは言う。


「墓の歌」

ツァラトゥストラは、かつて自分が愛したもの、青春、理想、希望が敵たちによって殺されたと語る。創造する者は、深く愛したものを失う運命にある。ニーチェは、凡庸な精神は、強いもの、美しいもの、高貴なもの、創造的なものを破壊しようとすると言う。

ツァラトゥストラは、「葬ることができないものが、私の中にある」と言う。理想も希望も埋葬されたが、創造する力そのものは死んでいないと言う。墓のあるところにだけ復活はある。最も深い悲しみを通過した後でしか、本当の肯定には至れない。より高い肯定へ向かう通過点の章。

「市場の蠅」

ツァラトゥストラは「孤独が終わるところに、市場がはじまる。市場がはじまるところ、そこにまた大俳優たちのまきおこす騒ぎと、毒を盛った蠅どものうなりがはじまる」と言う。騒がしい大衆(市場)に巻き込まれるな。価値を創ろうとする者は、むしろ距離と孤独を選べと言う。

「市場」は、噂や評価が飛び交い、名声や注目が価値になる場所だ。つまり、大衆的な価値が支配する空間と言える。「蠅」とは、小さな刺激でうるさく騒ぐ、浅い関心や嫉妬、噂話などに反応する人々のことだ。

蠅の特徴は、本質ではなく表面に反応する。大きなことより小さなことで騒ぐ。他人を引きずり下ろすなど。その手の連中は、価値創造を邪魔するノイズになる。

市場にいれば、他人の評価が気になるし、承認を求め始め、本来の目的を見失う。自分の基準ではなく、他人の目で生きるようになる。「孤独の中へ逃げよ」は、自分の価値を守るための戦略と言える。他人の評価からの距離を取り、自分と対話し、深く考える時間は、孤独の中にしかない。


「純潔」

「純潔」とは、自分の欲望を偽らず、しかも、それに飲み込まれない状態の意味。欲望を抑圧するな。しかし、欲望に溺れるなと言う。欲望を否定しないことは、生命の肯定に通じる。しかし、欲望に従属しないことは、自己の確立と言える。

認識に生きる者が、真理の水の中にいるのを厭うのは、真理が汚らわしいときではなく、真理が浅い時である。道徳的に整えられた「きれいな真理」は、宗教的、形而上学的な説明であり、常識的で誰からも疑われない答えだ。底が浅い水の様に、綺麗だが深さがない。真の認識者はそれを退屈し拒否する。

真理は単に正しいかどうかではなく、どれだけ深く世界を捉えているか、どれだけ矛盾や混沌を含んでいるかが重要だ。安全な答えでは満足しない。むしろ、危険で不安定な水の深みへ向かう。浅い理解や偽りの真理に満足しないこと自体が、認識の「純潔」だ。


「友」

「友」とは、自分を慰めてくれる存在ではなく、自分を乗り越えさせる存在のこと。共感し支えてくれ安心させてくれる友は、弱さの共犯関係になりうる。お互いに現状に安住させてしまう関係と言える。

友は「他者」である。価値観が違うし、簡単には理解し合えない。だからこそ、刺激になると言う。友の中に敵を見て、この敵を敬わなければいけない。

ツァラトゥストラは「あなたはあなたの友の前で衣服を脱ぎたいと思うのか?あなたがありのままの自分を彼に見せるのは、あなたの友にとって栄誉だと思うのか?だが彼は、そいつはまっぴらごめんだと言うだろう」と言う。

ありのままの自分をさらけ出すことが友情の理想という通俗的な考えを批判する。「裸になる」とは、完全に無防備で、生のままの自己を見せることだ。「本当の友なら何でも話せる」「飾らない自分を受け入れてくれる」「完全な率直さは誠実さ」と普通は考えるが、ニーチェはこれに疑いをかける。

「ありのままの自分」とは、衝動の寄せ集めであり、未整理な欲望であり、混沌だ。それをそのまま見せることは、相手に未加工の素材を押しつけることを意味する。ニーチェ的な友情は、緊張と距離と相互の尊重によって成り立つ。友情にも「距離」と「形式」が必要だとニーチェは言う。

真の友情は「完成された自己」を求める。ニーチェにとって価値があるのは、生の自己ではなく、鍛えられ、形づくられた自己だ。友に見せるべきなのは「ありのまま」ではなく、自分が創り上げた自分に他ならない。

ニーチェ的な友とは、慰め合う存在ではなければ、弱さをさらけ出し合う場でもない。互いにより高い自己を目指す者同士の関係であり、鍛えられた自己同士の緊張関係の中にある。人間は「与えられたもの」ではなく作り上げるべきものであり、「自然体でいい」という発想を疑う。

「透明性の最大化こそが関係の質の最大化」という発想や、「なんでも共有することが親密さ」という価値観は、一見、誠実で理想的に見えるが、そのまま受け入れると関係をむしろ弱くする側面がある。

「共有」は依存になる。何でも話すことは、一見オープンだが、感情の処理を相手に委ねることになるし、不安を常に受け止めてもらうことで、自己の安定を他者に依存するようになる。これは関係を深めるというより、相手を「支え装置」にしてしまう危険がある。

隠し事の全てを共有し、友との境界がなくなると、関係から高さが失われ平板にする。緊張がなくなり、相手が「驚きのない存在」になる。不安を減らすが、関係の深さや強さを必ずしも高めるわけではない。友への同情は、推察でなくてはならない。


「千の目標と一つの目標」

千の目標とは、人類がこれまで作ってきた多様な価値観のことであり、一つの目標とは、まだ存在していない、未来の統一的な方向のこと。ニーチェは、善悪や価値は絶対ではないが、目標は必要だと言う。

「人類にまだ目標がないのなら、人類そのものもまだ成り立っていないというものではなかろうか?」
人類というものは、単に生物として存在しているだけでは成立しているとは言えない。共通の目標がないなら、人類はまだバラバラな集まりにすぎない。

「目標」とは、方向性、意味、自己を超えていく指針の意味。目標は単なるゴールではなく、存在に統一性を与えるもの。しかし、現状で、各民族や文化は、それぞれ別の価値を持っており、「千の目標」がある。

「一つの目標」は、画一的な道徳ではなく、人類が自らを乗り越えていく方向の事。人間は目的によって定義される。何を目指すかが、その存在を決めると言う。

「一つの目標」は、多様性と必ずしも矛盾しない。「何でもありの多様性」ではないが、「方向づけられた多様性」のことで、バラバラな価値を、ある方向へと向ける「軸」を意味する。

多様性があるからこそ、より高い目標が生まれる。異なる価値同士がぶつかり、緊張や競争が生まれる。
そこから新しい価値が創造されるからだ。ただ、ニーチェはすべての多様性を無条件に肯定しているわけではない。上昇させる多様性は肯定するが、停滞させる多様性は否定する。

「どんな価値も等しく尊重されるべき」という現代的相対主義とは違う。完全な自由状態では、目標が分散し、力がバラバラになる。その結果、快楽や安定に流れやすくなり、低いレベルで安定してしまう。それを避けるために、個人を超えたスケールの目標が必要で、そのために共通の目標を必要とした。

「神は死んだ」。伝統的な宗教や道徳が崩れ、「絶対的な善悪」が失われた。これは自由をもたらしたが、同時に何を目指せばいいのか分からない状態(ニヒリズム)を生んだ。ニーチェの問題意識はここから始まっている。

個人が勝手に生きるだけでは低くなるが、しかし、統一されすぎると死んでしまう。分散する個人の創造性を統合するために、方向の共有の必要性をニーチェは主張する。


「隣人への愛」

ツァラトゥストラは、「あなたがたの隣人への愛は、あなたがた自身への愛がうまくいかないからだ」とキリスト教的な「隣人愛」を正面から批判する。「隣人への愛」は往々にして美徳ではなく、自分から逃げるための手段であると言う。隣人よりも遠人を愛せと言う。

隣人への愛よりも、遠くにいる未来への人への愛の方が高い。隣人愛の裏にあるものは、一人でいることに耐えられない、自分と向き合いたくないという孤独からの逃避だ。自分に価値を感じられない場合、他人に必要とされることで安心する。自己不安の埋め合わせに過ぎないと言う。

目の前の安心ではなく、まだ実現していない理想や可能性を愛せ、と言う。「人のために」が自己満足になっていないか?、「優しさ」が依存関係を作っていないか?、「つながり」が逃避になっていないか?とニーチェは問う。

「利他的行為はすべて偽善」というわけではない。しかし、無条件に善とも看做さない。「利他」は、承認されたい、良い人でありたい、罪悪感を打ち消したい、孤独を埋めたいという構造があるのではないか?それは偽善だとニーチェは言う。

ニーチェは利他が全て偽善とは言い切らない。問題は自分の「弱さ」から出たのか、それとも、「力」から出たのかにある。孤独を恐れる弱い人間の隣人愛は多くの場合「偽善」だ。力からの利他は、与える余裕があり、見返りを必要としないので、相手を高め、自由な関係が保たれる。それが真の善だと言う。

ニーチェの判断基準はシンプルで、その行為は、生命力を高めるのか?それとも弱めるのか?が全て。道徳的に善いか悪いかではなく、生命力が強いか弱いか、にある。与えずにはいられない状態は、溢れ出る力や、創造的エネルギーがもたらす結果だ。


「創造者の道」

創造者として生きるなら、孤独、破壊、苦痛を引き受けよと言う。創造者とは、芸術家に限らず、価値や生き方そのものを作る人のこと。創造者はまず社会の価値や常識、他人の承認などから離れなければならない。

孤独な人間は、たまたま出会った人間に、すぐ握手を求めるようになる。そんなことをすれば、自分に背いた異端者になる。あなたはあなた自身の炎で、自分を焼き殺そうと思わなければいけないと言う。自分がまず灰となるのでなければ、どうして新しいものとなることができようか?

今の自分に満足せず、自分を素材として作り替えよ。創造の前に破壊がある。破壊だけで終わるのはニヒリストに過ぎない。「創造」は決して楽しいものではない。苦痛であり、危険である。創造には、それに見合う強さが必要だ。

群れに留まるな。創造者は、人間関係さえも選び直さなければならない。「自分らしく生きる」、「オリジナルである」ことは、簡単なことではなく、代償を伴う。創造者は、誰にでも簡単に到達できる状態ではない。「なれるかどうか」よりも、「そこへ向かう意志を持つかどうか」が問われる。


「老いた女と若い女」

生の力と精神の危機を寓話的に語るために「老女」と「若い女」を象徴として使っている。ツァラトゥストラは、老婆に出会う。老婆は「女性について聞かせておくれ」と彼に問う。

ツァラトゥストラは、女をあまり知らないのに語り出す。「女にとって、男は一つの手段である。目的は常に子供だ。男は戦士であり、女性は戦士の休養のために教育されなければいけない。男は子供なので、女は玩具になれ。女子の希望は『超人を生みたい』ということであるべき」と驚くようなことを言う。

あまりにも男尊女卑的な構図で、ツァラトゥストラの言葉をそのまま肯定的に受け取るのは難しい。人間関係、特に性と愛が、理想ではなく機能と目的と力で動いていると言うテーマが込められる。人は互いを目的ではなく手段として扱いがちだ。

女性の主体性を軽視し、性別役割を固定している点は比喩としても擁護のしようがないが、抽象的に取り出せる部分はある。人間関係は理想だけではない。実際には欲望、目的が絡んでおり、それを直視せよと言う事だろう。

この章は、読み替えによっては、現代のジェンダー観を深める資源にもなる。価値や道徳は作られるもの。同じように、ジェンダーも作られる。価値は中立ではなく、力の産物である。与えられた本質ではなく、人間が作ったものだ。


「蝮の咬み傷」

ツァラトゥストラは蝮に首を咬まれた。蝮は悲しそうに「あなたは毒で死ぬ」と言う。ツァラトゥストラは「お前の毒を取り戻すがよい。お前はそれを贈り物にするほど裕福ではない」と言うと、蝮は再びツァラトゥストラの首にとびつき傷を吸った。

悪に対して善で報いるな。それは敵に恥ずかしい思いをさせるから。恥ずかしい思いをさせるぐらいなら、むしろ怒った方が良い。少しは呪詛を浴びせるがいいとニーチェは言う。道徳的に正しく見える善が、かえって関係を歪めることがある。

善が「隠れた攻撃」になる。表面的には、優しさや道徳だが、しかし内面では「自分は正しい」という優越感が含まれる場合がある。むしろ、怒りは率直であるし、偽善が少ない。小さな復讐は、全然復讐しないよりは、人間的であると言う。

『「自分が正しい」と主張するより、不正を受け取っておくほうが高貴である。それができるのは豊かな人間に限る』と言う。
正しさを証明することに執着するより、それを手放せるほどの余裕(力)こそが高貴であると言う。正しさへの執着は、他人の評価に依存している。

自分の価値を外に求めない。他人に正しさを証明しなくてもよい。自分の中で完結しているからと言う。ただし、これができるのは、奪われてもなお失わないものを持っている人に限る。また、「不正に従え」という意味でもない。恐れからの沈黙や、無力ゆえの我慢は、ニーチェが否定しているものだ。


「子どもと結婚」

ツァラトゥストラは「あなたは子供を欲し、結婚を欲しているが、あなたは子供を望むことが許されている人間だろうか?」と問う。「結婚とは、当の創造者よりもさらに優る一つのものを創造しようとする二人がかりの意志である」と言う。

結婚の目的は「子供」であり、単なる生殖ではない。子供は、未来に生まれる新しい価値であり、自分を乗り越えた存在の象徴であると言う。単に孤独を埋めるためや、社会的義務としての結婚は否定される。

多くの恋愛は、所有欲や依存だったり、欠乏の埋め合わせにすぎない。ニーチェは安心を求める恋愛結婚を否定する。ニーチェは、結婚を共に高みを目指す者「戦士」同士の結びつきであり、ある意味で「闘い」に近い関係、成長の為の圧力として描く。結婚は、逃避の装置にもなるし、創造の装置にもなる。

結婚するなら、より高い人間を創る意志を持て、その意志がないなら、結婚は堕落になると言う。過激すぎる結婚論に見える。現代では多くの場合、一緒にいて楽かどうか、価値観は一致するのかなど、幸福になるための結婚観が主流だ。

ニーチェの思想では、愛は錯覚や依存であり、むしろ危険な動機となる、創造のための結婚を推奨する。「愛があれば結婚できる」と「愛だけでは不十分」の対立。ニーチェは安心は停滞を生むが、緊張は生成を生むと考える。なので、結婚相手は対等なパートナーなどではなく、危険な共闘者となる。

現代では、個人の幸福が最優先され、心理的安全性が重視される。現代社会は不安定だからこそ、人々は安定を求める。しかし、ニーチェの視点では、安定は退廃の兆候になる。それが結婚観のズレとなって現れる。

現代ではよく「ありのままでいい」「無理しなくていい」と言われるが、ニーチェは逆に、「無理しない関係は、あなたをどこにも連れていかない」と疑う。

現代の恋愛市場におけるマッチングアプリでは、プロフィールという商品化された自己が、スワイプで選別され、人が交換可能な存在になる。ニーチェ的に見ると、関係が創造ではなく「消費」になる。

プロフィールは編集された「選ばれるための自分」であり、承認される自分を演じている。ニーチェに言わせれば、これは創造ではなく適応だ。そして、アプリ文化がもたらすものは、「傷つかない関係」への最適化に他ならない。関係が浅くなり、摩擦を避ける癖がつくようになる。

ニーチェに言わせれば、摩擦を避ける関係は、成長を放棄している。ニーチェが重視するものは、年収でも身長でもなく、この関係が何を生むのか、そして、どこまで自分を変えるかにある。



「自由な死」

「相応しい時に、死ね」とツァラトゥストラは言う。相応しい時に生きたことがない者が、どうして相応しい時に死ぬことができようか。それができない人を「余計な人間たち」とツァラトゥストラは呼ぶ。その余計な人間たちは、死ぬことをもったいぶると言う。

「自由な死」とは、単なる死ぬ自由ではなく、生の完成としての死のこと。惰性で生き続け、ただ老いて衰えていくことをニーチェは生の力を使い果たした後の、空虚な延命と看做す。ニーチェにしてみれば、彼らは、最早、創造しておらず、ただ存在しているだけに見えるのだろう。

普通は死を、避けるもの、受け入れるもの、とかが得るが、ニーチェは死を主体化し、自分の行為にせよと言う。死に方も創造の対象とせよということである。なぜここまで過激なのか?ニーチェには生は作品であるべきという考えがあるのだろう。

「死」そのものより、仕事人生や人生のフェーズの締め方などを「どう終わるか」全般の問題として読み替えればいいのだろう。なんとなく生き続けるな、自分なりの区切りや意味を持てと言う事だろう。
ただ、ニーチェ的には、苦痛からの回避としての安楽死には否定的だろう。

ニーチェは「苦しみからの逃避」を批判する。苦痛からの解放としても安楽死には、「それは自由な死ではなく、押し出された死ではないか?」と批判することだろう。ニーチェにしてみれば、本当に自分の意志と言えるのか?それとも状況に追い詰められただけか?という事である。

ニーチェのこの思想を「価値がない生は終わるべき」というのは誤用だろう。そのような誤用は、社会的弱者への圧力や、優生思想へ接続する結果になる。現代の倫理では、個人の尊厳、弱者保護、自由の濫用防止が重視される。

現代の安楽死・尊厳死の議論は、苦しみをどう扱うか、自由をどこまで認めるかに焦点があるが、ニーチェはさらに一歩踏み込み、「そもそも、その生はどのような終わりを目指していたのか?」と問う。


「贈り与える徳」

ニーチェが言う「与える」は、自分の力、価値、創造を外へと放つこと。余っているから与えるのではなく、溢れてしまうから与える。欠乏している者は奪うようになる。承認を求め、愛を要求し、他人に依存するようになる。欠乏は、依存や支配、要求に通じ、充足は贈与と創造を生み出す。

自分を高め、自身を乗り越える先は、与えずにはいられない状態になる。
ツァラトゥストラは、弟子たちに「ツァラトゥストラの面影を忘れなさい。ツァラトゥストラを恥辱と思いなさい。いつまでもただの弟子でいるのは師に報いる道ではない」と言い、別れを告げる。

思想が「信仰」になり、弟子がツァラトゥストラの言葉を繰り返すだけになれば、それは死んだ思想と言える。ニーチェは「誰かの思想の中に留まっている自分を恥じよ」と言う。


 

 

「ツァラトゥストラはこう言った」

 


第一部

ツァラトゥストラは、山奥での長い孤独な修行の後、人間を超えた思考を手に入れた。しかし、高みに留まる存在は何も与えない。「与えない完成」は、死と同じ。太陽は沈むことで、世界を照らす。下降することで初めて与える存在になる。ツァラトゥストラは再び人間に戻るため、山からの没落を開始した。

ツァラトゥストラは山から下り森に入ると、森の聖者と出会う。聖者は人間社会を捨て、森に隠遁し神を愛し、神を讃えて生きている。伝統的な神に留まる者。聖者は世界から退いており、苦悩も乗り越えたように見えるが、それは生からの撤退であり、ニヒリズムの一形態と言える。

一方、ツァラトゥストラは神を捨てた者だ。ツァラトゥストラは聖者と別れた後、「この老いた聖者は、森にいて、まだ聞いていないのだな。神が死んだことを」と思う。聖者は古い世界に生きている。それはすでに終わった世界の遺物だ。

ツァラトゥストラは最初の街に入り民衆に「あなたがたに超人を教えよう」と言う。「人間は橋であって、自己目的ではない」。現在の人間のあり方は完成ではない。それを乗り越えるべきだと言う。自己を超えて価値を創る存在「超人」について語る。

しかし、最初の街は、最も哲学を聞く準備ができていない場所でもある。娯楽に夢中な民衆は超人に関心を示さない。ツァラトゥストラは焦り、「おしまいの人間」について話す。「おしまいの人間」とは、苦しみと危険を避け、安全と快適を最優先し、小さな幸福で満足するような人間のことだ。

ツァラトゥストラは皮肉として「おしまいの人間」について話したが、民衆は歓喜し、「そのおしまいの人間を、我々に与えてくれ」と歓声を上げる。「おしまいの人間」は現代的には成功した人間像と言えるが、成長・超克・創造が消えている。ツァラトゥストラにとっては、終った人間と言える。

安全と快適を求め、高みを恐れる民衆に、ツァラトゥストラの複雑な哲学は理解されなかった。それでもツァラトゥストラは語る。太陽が光るのと同じで、語ることが彼の生き方そのものだから。思想は内面にある完成品ではなく、表現の中で生成されるものだ。語らなければ、彼は彼自身になれない。

ツァラトゥストラが市場で「超人」について語っている最中、民衆は彼の話に興味を示さず、代わりに綱渡り師の曲芸を見物しようとしていた。ツァラトゥストラが「人間は、動物と超人の間に張られた一本の綱なのだ。わたるのも、足を止めるのも危険なのだ」と説いた。

その間、綱渡り師は民衆の頭上にかかった綱を渡っていた。綱渡り師は人間を超えようとする試み(超人への道)の象徴。しかし、綱の中央付近に達したところで、突然、派手な衣装の道化師が塔の扉から飛び出し、綱渡り師を追いかけながら嘲りの言葉を浴びせた。

道化師は綱渡り師を飛び越えたため、綱渡り師は驚愕して平衡を失い、地面に転落して重傷を負う。ツァラトゥストラは倒れた綱渡り師のそばに膝をつき、言葉を交わす。綱渡り師は死を恐れ、「悪魔に地獄に引きずり込まれるのではないか」と不安を口にする。

ツァラトゥストラは「悪魔もいなければ、地獄もない」と彼を慰める。綱渡り師は自分を「鞭と餌で芸を仕込まれた動物以上のものではない」だと自嘲するが、ツァラトゥストラは「あなたは危険を己の職業とした」と綱渡り師の勇気を称え、自分が手ずから埋葬してやると約束する。

「人間は超人へ向かう存在だ」という思想が、現実の世界では嘲笑と誤解と死と言う結果としてしか現れない。そして同時に、それでも危険に賭けた生だけが肯定される、という価値が示される。

道化師は、他者の視線や社会の嘲笑、内面の不安そのもので、外部の圧力によってバランスを崩し、死んでしまった。しかし、失敗して死んでも、危険に賭けたこと自体が価値になるとニーチェは言う。

ツァラトゥストラは綱渡り師の死体を背負って町を去り、山へ帰る道を歩き始める。その途中、道化師がツァラトゥストラに近づいて話しかける。道化師はツァラトゥストラを警告する。「この町の人々はあなたを憎んでいる。善人で義しい人々は、あなたが彼らの敵であり軽蔑する者だと言っている」。

「正しい信仰の持ち主たちは、あなたを民衆にとっての危険人物だと呼んでいる。 しかし、みんながあなたを笑ったことは、あなたにとって幸運だった。なぜなら、あなたは道化師のように話したからだ 」 と道化師は言う。

「あなたは道化師のように話した」は侮辱でもあり、同時に本質でもある。ツァラトゥストラの語りは群衆から見ると哲学ではなく奇妙なパフォーマンスに見えた。真理は、最初は道化としてしか現れない。

既存の価値を否定し、新しい価値を提示する行為は、これは民衆にとって「自分の生き方そのものの否定」に見えるので、新しい価値を提示する者は、秩序を揺るがす存在であり、危険人物となる。

その後、ツァラトゥストラは民衆に語るのではなく、道連れに語るべきなのだと悟る。自分はもう「民衆」に語りかけるべきではない。創造者は、ともに創造してくれる者を求めるものだ。その「超人」を目指す創造者たちに語りかけるべきだ。

多くの創造者を群れから誘い出すこと。また、新しい価値を刻む新しい石版を共に作る仲間を探すことなど、ツァラトゥストラは心の中で決意を新たにする。

ツァラトゥストラは「牧人(民衆のこと)」たちから自分を「盗賊」「破壊者」「犯罪者」と呼ばれるだろうと予見しつつ、それを受け入れる。これまでのように高みから民衆を直接説得するのではなく、選ばれた少数の者を誘い、共に創造する道へ転換する。

ツァラトゥストラは「選ばれた少数」を重視するようになる。既存の価値(宗教・道徳)はすでに空洞化しているが、人間は意味なしでは生きられない。そこで、新しい価値を創る必要がある。しかし、価値をみんなで決めることはできない。

群衆は、安全で快適な安定を求める。むしろ自然だが、それが故に、民衆の合意は衝突を避ける方向に働き、安全なものに収束する。それでは平凡で無難な価値しか残らない。放っておくと人間は「おしまいの人」に向かう。それはツァラトゥストラにとっては、受け入れがたい結果だ。

ツァラトゥストラは最初、民衆に語りかけたが、それを理解させるのは、構造的に不可能だった。民衆は準備ができていないし、価値を創るより、思想を消費する方向へ変形させる。だから、創造は構造的に少数者の行為になる。自分を乗り越えようとする人間は少数派だからだ。

ツァラトゥストラの道を歩くのは、「歩こうとする者」だけだ。しかし、少数による価値創造は危険な思想になりうるのではないか?「創造のためなら何をしてもいい」という飛躍が起きれば、他者への害が正当化されてしまう。本来は「支配」ではなく「生成」の思想だが、誤読されれば危険性が生まれる。

価値は少数から生まれがちだが、それを優越の権利に変えた瞬間に危険になる。超人として「危険を引き受けること」と「他者を危険にさらすこと」は違う。


ツァラトゥストラの教説

「三段の変化」

ツァラトゥストラは「駱駝」「獅子」「幼子」の精神の三段変化について語る。駱駝は「従う精神」の意味で、重荷を引き受ける存在。獅子は「否定する精神」の意味で、権威へ反抗し、既存の価値の破壊し、自由を獲得する存在。

幼子は「創造する精神」を意味する。無垢で、忘却し、遊び、自発性を持つ存在。駱駝が「従い」、獅子が「否定し解放」した後に、幼子は初めて「自分自身の価値を創造」する。「無垢」とは、単に純真という意味ではなく、既存の価値に縛られていない状態を指す。

「忘却」とは、創造のための積極的な力であり、過去を相対化し、不要なものを切り捨て、一旦リセットする力を意味する。その無垢と忘却が揃えば、「遊び」が可能になる。「遊び」とは、試すことであり、作っては壊すこと、ルールを自分で作ることを意味する。

幼稚になれと言う意味ではない。過去を必要なだけ忘れる勇気を持つことを意味する。


「徳の講壇」

ツァラトゥストラは人々が「賢者」とほめそやす人物の講義を聞きに行った。賢者は、よく眠ることが大事、欲望を抑えること、心を乱さないこと、節度ある生活を送ることを説く。穏やかで健康的で、トラブルのない生活こそが徳であるという思想で、現代的な「健全な市民倫理」に近い。

しかし、ツァラトゥストラにとっては、賢者の思想は、「よく眠るために、目覚めていよ」と言うもので、生を弱める徳でしかない。この種の徳は一見「善いもの」に見えるが、実際には強い欲望を抑え込み生の激しさを削ぐ。「小さくまとまる生き方」と言え、それは「高い生」ではない。

賢者が示す生き方は、無難で健康的だが、どこにも向かっていない人生だ。それで何かを創ったのか?と問う。ツァラトゥストラは、賢者を正直ではない者と看做し、眠き者のための阿片の諸徳と呼び、距離を取る。ニーチェは、ちゃんとした生き方は、本当に価値ある生き方なのか?と問う。


「世界の背後を説く者」

世界の背後を説く者とは、この世界の向こう側に真理や、天国などのこの現実世界より上位にあるとされる世界があると信じる人々を指す。ツァラトゥストラは、それらを心理的な逃避の産物だと見ている。苦悩する者にとって、己の苦悩から目を逸らせる陶酔に似た喜びだと言う。

ツァラトゥストラは、身体と大地を軽蔑し、天国や救済のために流す血を考え出したのは、病人と死にかかっている者だと言う。健全な身体は、もっと誠実に、もっと純粋に、大地の意義について語ると言う。
「背後の世界」を信じると、現実の生を軽視する思想になる。

この世界こそが唯一の世界である。背後に真の世界はなく、意味は与えられるものではない。ここで作るしかない。宗教の話ではない。現代に喩えれば、「本当の自分は別にある」、「今は仮の人生」、こうした考え方も、広い意味でこの世界を否定して、別の場所に意味を置く態度問える。

どこか別の場所に意味があると思った瞬間、人はこの世界を生きることをやめている。「背後の世界」を否定しない限り、創造には進めない。


「身体の軽蔑者」

身体の軽蔑者とは、身体を軽んじ、精神や魂を上位に置き「本当の自分は身体ではなく魂である」という考えを持つ人間の事。この発想は、禁欲主義や身体的欲望の否定に繋がる。ツァラトゥストラは、「身体こそが大いなる理性である」と言う。感覚も精神も道具であり、玩具にすぎない。

意識や思考は小さな理性であり、身体が持つ大きな理性の一部にすぎない。つまり「考えている私」ですら、身体の働きの一部だと言う。「私(自我)」が身体を持っていると考えるが、ツァラトゥストラは、身体が「私」を作っていると考える。

身体を軽蔑する人は、自分の身体にうまく生きられていない人だと言う。生の力が弱っている、欲望や衝動に苦しんでいる、現実の生に満足できないだから、人生に背を向け「身体なんて低いものだ」と否定する。自己を超えて創造することができない人々だと言う。

「身体の軽蔑」とは生そのものへの否定だ。身体こそが根本であり、思考はその表現にすぎない。頭では分かっているのに行動できない、理想と現実の自分が乖離している、これらは、身体(大いなる理性)と意識がズレているからに過ぎない。

では、身体を肯定するとは具体的にどういうことか?身体に現れている生の力(衝動や欲望)を、そのまま引き受けること。しかし、それは欲望のままに生きるということではない。「気持ちよさ」ではなく、己の欲望や苦しみ、不安定さも含めて肯定する、という点にある。

ニーチェが言う「強い生」とは、常に安定している生ではない。創造は苦しみを伴うし、成長は破壊を含み、強い欲望は葛藤を生むから。苦しみは、生の強さの副産物と言える。それを排除しようとする生き方は、結果として「小さな生」になってしまう。

欲望を抑え込むのではなく、それがどこから来るかを引き受ける。自分の衝動を敵としない、「これは自分の一部だ」と認める生き方。不安や葛藤を消そうとするのではなく、そこに意味を見出し、苦しみを素材に変える。

頭で作った理想に自分を合わせるのではなく、自分の中の力の流れを見る。「どう生きたいか」を身体から引き出す。自分の性格や欲望、そして限界を別のものに取り替えようとしない。自分の生を引き受ける、それこそが身体を肯定する生き方だ。


「喜びの情熱と苦しみの情熱」

喜びは良いもの、苦しみは悪いものという対立をニーチェは解体する。理性ではなく、人間の情熱が、価値そのものを生み出していると言う。

喜びの情熱とは、愛すること、求めること、創ろうとする力のことであり、生を拡張しようとする力。ここから生まれる価値は、創造的で肯定的なエネルギーを意味する。

一方、苦しみの情熱とは、嫉妬やルサンチマン、無力感など、抑圧された力が歪んだ形で出てくるものだ。ここから生まれる価値は、禁欲や自己否定、他者の否定など。

喜びや苦しみが、善悪を作っている。「善悪」は結果であって原因ではない。なので、禁欲を「善」とする人や、力や成功を「善」とする人は、単なる意見の違いではなく、異なる「生のあり方」の表現ということになる。

あなたの「正しさ」は、あなたの感情の産物ではないか?なぜそれを良いと思うのか、なぜそれを嫌うのか、それは論理ではなく、あなたの「生き方そのもの」から来ているとツァラトゥストラは言う。

「人間は克服されなければならない或る物である。だからあなたはあなたの徳たちを愛さなければならない。なぜなら、あなたは徳によってほろびるであろうから。」

人間は完成形ではなく、乗り越えられるべき過程に過ぎない。ここで言う「徳」は、一般的な道徳ではなく、あなた自身の情熱から生まれた価値のこと。それを徹底的に引き受けろと言う。その結果、徳は、「今のあなたを壊す」と言う。そして、新しい価値が生まれる。


「蒼白の犯罪者」

人を殺した男について語られる。ツァラトゥストラは、殺人そのものではなく、その後の蒼白さに注目する。「犯罪者」というより、自分の衝動に負けた人間として描かれる。思考と行為は別物であり、因果関係に結ばれているのではないと言う。

行為や衝動が先にあり、思考は後からそれを説明することが多い。彼は殺す前は強い衝動に動かされていた。しかし実際に実行すると、自分自身が耐えられなくなった。結果として、罪の重さではなく、自分の行為に見合うだけの強さを持っていなかったことで崩れる。道徳ではなく強さの問題だと言う。

普通は、殺人は悪なので罰せられるべきと考える。ツァラトゥストラは、殺人の衝動は人間に内在する力の一種だが、問題は、それを引き受けるだけの強さがあるかと考える。殺人者は欲望(衝動)は強かった。しかし、それを「自分の意志」として統合できなかった。そして、罪悪感という形で崩壊する。

「蒼白」とは自分の中の衝動と理性が分裂している状態であり、自己分裂そのもの。ツァラトゥストラにとって問題なのは犯罪ではなく、この分裂にある。ツァラトゥストラにとって、良心や罪悪感は絶対的なものではなく、社会や習慣によって作られた後付けの評価だから。

ツァラトゥストラは、「後から自分を裁くくらいなら、最初からその行為に値する人間であれ」と言っている。真に強い人間なら、自分の行為を引き受ける。弱い人間は、行為のあとで「蒼白」になって自分を否定する。人間の問題は悪を行うことではなく、自分の行為を引き受けられない弱さにある。


「読むことと書くこと」

「すべての書かれたものの中で、わたしが愛するのは血で書かれたものだけだ。血をもって書け。血が精神だということを経験するだろう。他人の血を理解するのは容易にはできない。読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む」と言う。

「血をもって書け」は、本当に価値のある言葉は、生き方や経験、苦しみからしか生まれないという意味。ツァラトゥストラにとって、「書くこと」は、知識を並べることではないし、他人の意見を整理することでもない。自分の存在そのものを言葉にすることを意味する。

「読むこと」は、情報を受け取り、受動的に理解することではなく、自分自身を変えるような行為を意味する。軽く読めるものは、軽いが、深く読むには、それに耐える力が必要だ。良い読者とは、共に苦しめる人を言う。ニーチェは誰にでも分かる言葉は、価値が低いのではという可能性を疑っている。

本当に重要なものは、簡単には届かない。読むとは消費ではなく、熟成に近い。
ツァラトゥストラは、「私が私の悪魔を見たとき、悪魔は生真面目で、徹底的で、深く、荘重であった。それが重力の魔であった。彼によって一切の物は落ちる。怒っても殺せない時は、笑えば殺すことができる」と言う。

深刻さや道徳、真面目さなど、人間を押しつぶす精神的な重さ(重力の魔)を、笑いによって乗り越えよと言う。「怒り」は批判、否定、戦うといった態度だが、ニーチェはそれでは重さには勝てないと言う。なぜなら怒りもまた「真面目さ」の一種で、同じ土俵(重さの世界)にいるから。

人間を押しつぶす重さ(道徳・深刻さ)は、戦っても克服できない。それを乗り越えるには、笑いによって相対化するしかない。軽さだけが、人を固定し、従わせ、縮こまらせる力である、人間を縛る「重さ」から自由にする力を持つ。

その「軽さ」は「無責任さ」とどう違うのか?「軽さ」はすべてを引き受けたうえで、それに押し潰されない強さに対して、「無責任さ」はそもそも引き受けることから逃げる態度のことだ。例えば、政治の勉強は難しいからと逃げ出し、何も考えずに高市自民に投票する行為の事だ。

無責任さはシンプルだ。自分の行為の結果を引き受けない、都合が悪くなると他人や状況のせいにする、判断や決断を回避する、そういう「重さ」から逃げだすことだ。

ニーチェの「軽さ」とは何か。「無責任さ」とは、真逆だ。自分の行為を自分で選ぶ、その結果も引き受ける、しかし、それに押し潰されない。「重さ」を経験した上で、それに支配されない状態を意味する。決定的な違いは「重さ」を通過しているかどうか。

軽さは重さを経験し通過した後にしか成立しない。責任を引き受けながらも、なお軽やかに生きられる人のことだ。


「山上の木」

高くなろうとする者ほど、より深く苦しみ、孤独になる。しかしその苦しみこそが成長の条件であるという寓話が描かれる。高貴な者は新しい徳を創造しようとする。善人は古いものを愛し、古いものが保持されることを願う。善人たちにとって高貴な者は邪魔ものなのだ。

高貴な者、自分を高めようとする人間(向上する者)は、平凡にとどまらない。より高い価値を目指し、「超えていこう」とする存在だ。「善人」は、一般的な意味でのいい人ではなく、既存の道徳を信じている人で、社会のルールを守ることを善とする。

善人の立場は、「この価値は正しいので、それを守るべきだ」と安定と序を重視する。高貴な者の立場
「その価値は本当に正しいのか?」と批判精神を持ち、「別の価値はあり得ないか?」と変化や創造を重視する。

高貴な者は、既存の価値を揺るがす存在になるので、愚鈍な善人にとっては「危険な人」「邪魔者」に見える。善人は正しいとは限らない。むしろ変化を止める力になることもある。ただ、誤解すると「自分は高貴だからルールを破っていい」、「他人の価値を無視していい」という方向に行きかねない。

高くなろうとする者ほど、より深く苦しみ、孤独になる。山の上に立ち高く伸びる一本の木は、孤独で、風にさらされて、根を深く暗いところへ伸ばす。成長すれば楽になると思いがちだが、高くなるほど、風は強くなる。

既存の価値から離れ、他人に理解されにくくなり、批判や抵抗を受け、多数派から外れ必然的に孤独になる。そして、自分自身との葛藤が深まる。根は深く、暗いところへ向かう。高く伸びるものは、同時に深く潜る。人が高く成長しようとするとき、孤独、苦しみ、内面の闇は避けられないものだ。

「新しい価値を創ること」は誰にでも可能性としては開かれているが、実際にそれを成し遂げる人は極少数である。多くの人は安心や安定、所属を求めて群れたがる。社会は群れなしには成立しない。しかし、問題は「群れであること」ではなく、「群れの価値を絶対だと思い込むこと」にある。

民衆が「群れの価値を絶対だと思い込むこと」は、自分が少数派になることを恐れ、多数派の暴力が横行する事態を生み出す。排除されたくないから、孤立したくないからと、多数派に合わせるようになる。「正しさ」が多数派にあると信じ、周囲に流され、何も考えずに高市に投票するようになる。

「正しさ」が多数派にあると信じる。多くの人がそう言っているから、正しいに違いないと思い込み、数が真理にすり替わる。皆が従っているから、さらに従う人が増え、空気そのものが規範になり、同調圧力が自己増殖する。

ニーチェが言うところの、高貴な者である、違う意見を持つ者、既存の価値を疑う者は、「危険」「迷惑」「空気を乱す」と見なされ、排除や攻撃、無視など社会的な暴力に繋がる。人々は「正しいことをしている」と思っている、だから自分の暴力性に気づかない、そういう無自覚な同調の危険性。

少なくとも、自分の判断を手放さない範囲までは多数派に抗うべきだ。「みんながそう言っている」ことを疑う。自分の判断を保留せず、どこかで引き受ける。安定を求めて多数派に合わせて従う「百姓」になるのではなく、「それを自分で考えて選んでいるか」が何よりも重要だ。それが「高貴さ」だ。


「死の説教者」

「死の説教者」とは、生を否定し、「死のほうがましだ」と教えるあらゆる思想の事。ツァラトゥストラは、「彼らは快楽か、自虐か、それ以外の選択肢を知らない。まだ人間にすらなっていないわけだ。彼らは死体でありたいのだ」と言う。

ツァラトゥストラが言う「死」は単なる肉体的な死ではなく、生のエネルギーが枯れている状態の意味。欲望せず、挑戦もせず、自分を広げようとしない、生きているが、すでに死んでいるような状態。

ツァラトゥストラは、なぜ人は「生を否定する価値」を信じるのか?を問題にする。苦しいから、不安だから、失敗が怖いから。その結果、「そもそも欲しなければいい」「生きること自体を縮めればいい」という方向に逃げる。苦しみを避ける代わりに、生の強さや創造、喜びも捨てている。

現代で言えば、「無理しない」、「頑張らない」だけが正義になる。傷つかないことが最優先になり、リスクを避けることが優先される。これが過剰になれば、生そのものが縮小していく。苦しみがあっても、生を縮小するな。むしろ引き受けて、より強く生きよとツァラトゥストラは言う。

じゃあ、苦しみが大きすぎる場合はどうするのか?「我慢し続けろ」という単純な話でもないだろう。ニーチェは苦しみを悪とは考えない。元から「完全に苦しみをなくす」方向には否定的。大きすぎる苦しみは意味づけし直せとニーチェは言う。

苦しみに飲み込まれない距離を持つ。苦しみを「これがすべてだ」と思わない。とはいえ、これには限界がある。現実には、意味づけも転化もできないレベルの苦しみがある。ニーチェの思想の限界がここにある。一時的に退くことも選択の一つだろう。


「戦争と戦士」

ここでの「戦争」は、軍事的な戦争の意味も含まれるが、本質は自分の弱さとの戦いや、既存の価値との戦い、惰性・安定・安逸との戦いなど、内面的、存在的な闘争の事。「戦士」は戦う姿勢を持つ人。すなわち、安定や安心に安住せず、自分を高めようとする人を意味する。

成長は対立や緊張からしか生まれない。摩擦がなければ変化は生まれない。挑戦がなければ人は強くならない。だから「戦い」は不可欠なのだ。単なる平和(安定・安全)を最高価値とするなとツァラトゥストラは言う。戦うべき相手は「自分の内側」や「既存の価値」にある。


「新しい偶像」

「新しい偶像」とは、国家のこと。国家を絶対視するなと言う。それは人のためのものなのに、人を支配し始める危険があるからだ。国家は人々が作ったもので、本来は手段であるべきものだが、現実には、それが「目的」や「絶対的存在」のように扱われている。自分たちの産物に支配される構造がある。

国家は、「人民の名において」語り、「共通の善」を掲げる。そして、個人の多様性や力を均質化する。
ツァラトゥストラは、国家は「冷ややかな怪物」であると言う。国家は個人の生を抽象化し、形式的で機械的に人を扱う冷血さがある。

ツァラトゥストラはさらに言う。「国家は善と悪についてあらゆる言葉を駆使し、嘘をつく」。国家は人々の集合ではなく、むしろ人々を管理・統制する装置と言える。国家は群れを組織化したもので、同じ規範で個人を平均化する。

国家は人間が作った道具にすぎないのに、それが絶対化されると人を支配する偶像になる。ニーチェは「国のため」「社会のため」を絶対視するなと言う。「あなたは国家のために生きているのか?それとも自分の生のために生きているのか?」と問う。

個人の自由と社会の安定は、どちらか一方を最大化する問題ではなく、相互に制約し合いながら調整し続ける関係にある。両立が難しい。設計と運用のバランスでしか成り立たない。

最低限のルールがなければ弱者が守られない。強者の権利を制限する必要がある。だから、自由の最大化は理想ではない。一方、安定(国家・群れの価値)は自由を飲み込む。「正しさ」の押し付ける同調圧力によって画一化され、個人の創造性や差異が失われる。

解決するには、権力の分散を図り、批判の自由を保障し、安定が偶像化するのを防ぐ。最低限の秩序で社会を支えつつ、その上で、個人の自由を最大限に広げる。国家や社会は必要だが、それに魂まで預けるな。
 

「接続の時代」と言われる現代で、ニーチェが言う人との距離感を保つのは難しく感じる。現代SNS社会は、群衆精神が常時接続化した世界と呼べる。常時他人の視線にさらされ、承認を求め、自己を編集、演出し、そして、炎上を恐れ、空気に適応する。それはニーチェが批判する「群集的精神」そのものだ。

 

人を理解すれば、幻滅し、軽蔑に変わる。「自分は違う」と思い込む。そうなれば、創造ではなく、批判だけをする存在になる。ニーチェが嫌う「反動的人間」は、まさにこれだ。創造をしなくなり、他人への反応によって生きている状態に陥る。

 

創造には肯定が必要なんだよな。創造は人間と世界にYESと言う力から生まれる。軽蔑だけが強くなり、世界への接触そのものを拒否し始めると、精神は、安全な観客席へ下がってしまう。創造に必要なのは溢れる力だ。ルサンチマンから生まれる創造は、他人からの反応に縛られる。

 

軽蔑だけでは世界を作れない。創造には遊びが必要なんだよ。現代のSNS社会では、人は創る側より、裁く側へ流れやすい。人間の愚かさを知っている。それでもなおYESと言える人間が創造者になれる。