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「当たって砕けろは暴力」元TBSアナ宇垣美里〝告白〟への持論が話題「ぶつけられた側もダメージある」「断られたら距離置く覚悟を」

 YouTubeチャンネル「宇垣美里 妖怪 全てエッセイに書いてやるからな女」を更新し、「同性の友達のことが好きで告白したい」という視聴者からの悩みに回答した。

 宇垣は「突然の告白は一種の暴力になり得る」という持論を展開。告白は合意がほぼ取れている状態で行うべき最終確認のようなもので、まずは「ジャブ(好意の小出し)を打って相手の反応を確かめるべき」と、丁寧なコミュニケーションの大切さを説いた。

 また、いわゆる玉砕覚悟の告白に対し「当たって砕けろって暴力的だと思う」「急に言う人とかすごい苦手」「(好意がないと)アピールしたのに告白されるとなんなん…、って思っちゃう」など、自身の経験を交えて語っている。

 

 

こんなの当たり前だろ。知らない人から突然告白されても、OKとはならないし、見込みがないのに告白しても無駄。

まず挨拶する。 挨拶が返ってくるなら世間話をする。日常的に会話を繰り返し、関係性を築く。相手からの返事すらないなら諦めるしかない。返事すらないのに突撃するのは、迷惑行為だろ。ウザがられる以外にどんな展開があるんだ?

 

告白は確認作業でしかない。

突然相手に告白したり、相手が突然告白してくるを期待するのは馬鹿としか思えない。

まずは親しくなるってのが礼儀だ。

仏紙「なぜ日本の左派はここまで衰退したのか?」─左派の現状は「いまや物理法則同然の動かしがたい現実」

左派にとって極めて重要な「人権」という概念も、日本では、どこか誤解されているところがある。個人が国家に対抗するための法的な「武器」というよりも、むしろ守るべき「作法」のようなものとして扱われているのだ。



日本は人権闘争においての成功体験が少ないので、人権は武器という発想が乏しい上に、人と人の関係や秩序を重視するので、「作法」としての人権になり、社会を壊さずに共存するためのマナーになっている。人権は人間関係を壊さないための配慮として理解されやすい。

しかし、人権が「作法」として全体の摩擦を減らす調整原理としてだけ使われるようになると、権力に対する抵抗力が弱まる弊害がある。社会構造的に負けている少数者は抑圧されやすくなる。当事者がいくら配慮や対話をしても、数の力や組織の力、社会的慣習慣習に押し潰される状況を生む。

差別は「穏やかに話す」や日本人が得意とする「空気を読む」では変わらないからだ。人権を武器として使い、「それは権利侵害です」と明確に線を引く必要が出てくる。国家や社会が相手では、「配慮」や「話し合い」という手法では限界がある。

一方で、人権を「武器」として使い過ぎれば、「どちらが正しいか」ばかりが前面に出て、「どう折り合うか」が後退する。対話より対立になり、権利同士のぶつかり合いになり、社会は分断される。相手への信頼よりもルール、自由よりも安心が優先され、息苦しい社会になる。

日本の社会では、武器として使うと強すぎると感じられやすいが、使わないと静かに潰されるだけに終わる。普段は「人権」を摩擦を減らす「作法」として使い、関係性や社会的慣習では解決できない不均衡があるときは「武器」とし使う。すぐに「権利」で殴らない、しかし必要なときはためらわない姿勢が必要だろう。
 

人権を「作法」とするのも、「武器」とするのも間違いではない。人権とは、そういう二重性があるものだ。人権が「武器」だけになると、社会は分断し闘争の場と化す。一方で、人権が「作法」だけになると、権力に対する抵抗力が弱まり、為政者にとって都合がよい状況となる。

「石油の備蓄放出をベトナムなど他国の支援に使う?」再び問われた官房長官の答えは(ABEMA TIMES)

18日の記者会見でも「ベトナムから備蓄石油の提供の要請が来ているのは事実か?どう対応する?」と問われ、この時は「外交上のやり取りであり、詳細を明らかにするということは差し控えます」と答えていた。



これを断れば「日本は助けない国」と看做され、その不信はベトナムだけでなく、東南アジア諸国全体に波及するだろう。日本の地政学的影響力の低下し、一方で中国に付け込まれる。だからといって、石油備蓄を出し過ぎれば、国内安全保障を損なう。安全保障を最優先にしつつ、少量の備蓄を貸与すべき。

総備蓄の数%程度は貸し出してもいいだろう。実務的に意味はあるが、戦略には影響しない量にすべき。「日本は見捨てない」という政治的メッセージを出すべき。断るのは悪手、出し過ぎも悪手だ。

判断力が未熟な未成年の女子高生に対して、自己責任を押し付けるのはかなり無理がある。大人や主催者側が責任をもって安全配慮義務を負うのが基本だ。

 

被害者非難はファシズムの特徴の一つだ。連中は国家に従わない者は自己責任という線引きをする。人権意識が低く、個人の生命よりも政治的立場を優先して評価し、国家に従わない者は死んで当然だと看做し罵倒する。馬鹿で醜い奴らだ。

 

基地問題は政治対立があり、その中で「相手側」に属すると見なされた瞬間に共感ではなく断罪の対象になる。いい年こいた大人が、高校生を被害者ではなく敵対的立場の象徴として見て、排除の論理を適用する。連中は愛国者などと自称しているが、同胞に対し連帯の債務なぞ負ってはいない。

 

保守とリベラルで「責任」の捉え方が違う。

 

保守は短絡的に、責任の単位を個人の選択に帰結させ、物語の単純化する。

リベラルは、人の選択は環境や条件に強く影響されること、不利な構造の中では自由な選択は制限されることを知っており、責任の単位を「個人+社会構造」と看做す。「なぜ防げなかったのか?」と構造を俯瞰し批判的視線と知性を持つ。

 

保守とリベラルで“責任”の捉え方がどう違うのかは、社会の構造は「当たり前」として隠されており、その「見えない構造」を可視化する批判精神の有無による。

我々は実は環境に強く制約されているのでは?と問いが、責任を個人だけに帰さないという思考に行きつくが、保守は社会の制度や慣習は、長い時間をかけて形成されたと思い込んでいるので、社会構造を疑うと言う知性がない。それ故に、責任は個人に集中する。

 

リベラルと保守とで、「個人責任」か「構造責任」か、の重みづけの差として現れる。

 

 

イラン、「非敵対船舶」ホルムズ通過容認も 国連に書簡

 

イランは国連安全保​障理事会と国際海事機関(IMO)‌に対し、同国の当局と調整すれば「非敵対的な船舶」がホルム​ズ海峡を通過でき​る可能性があると伝えた。ロイタ⁠ーが24日、イラン外務省による​書簡を確認した。

 

日本の船だけ通れる状態でも原油高は基本的に続く。原油価格はグローバル市場なので、日本だけが安く仕入れると言うことはできない。

 

日本が通れても、原油の価格は世界価格に引っ張られる。それに、ホラムズ海峡が閉鎖されるという可能性だけでも、「輸出が止まるかもしれない」というリスクだけでも、原油価格が動くので、仮に日本の貨物船がイランにホルムズの通過を容認されても原油高は続くことになる。 原油の価格が下がるのは、全ての国が、みんなが安心できる状態になったときだけだ。原油高は長期化するからな。原油価格が1年以上150ドルの高止まりのままの状態になれば、日本経済にとって脅威になる。

 

150ドルのまま長期間推移すれば、日本にとっても危険。生活水準を落とす必要が出てくる。原油高を価格に転嫁できる企業はまだマシだが、できない企業は潰れるしかなくなる。中小企業の倒産増えるし、実質賃金低下、消費も低迷し、スタグフになる。 エネルギー輸入依存が高く、外貨に弱い貧しい国、南アジアやアフリカの一部の国は、政権が崩壊してもおかしくはない。

 

トランプが何を言おうが、イランは長期戦の構えだろ。イランにとって時間は味方なわけだから、何のメリットもなく、みすみす味方を手放すわけがない。 

 

トランプは騙し討ちの形でイラン攻撃をした。イランにとってトランプの信頼性が低い以上、交渉による短期終結の可能性はなくなった。軍事的短期終結もない。イラン本土は広く、国外にはフーシ派もヒズボラもおり、戦場が広すぎるからだ。一か所で米軍が勝っても、他が終わらない。はっきり言えば、終わらせようとしても終わらないタイプの戦争だ。

高市総理の「平和と繁栄をもたらすのはドナルドだけ」と言う発言を単なる過剰なおべんちゃらの称賛ではなく、「あなたが主導者なのだから収拾もあなたがやってくれ」と言う責任も引き受けさせるための外交的レトリックという意見があるが、では、この発言が日本にとってどんな得があったのか?

 

交渉の空気を良くする短期的なメリットはあっただろう。中長期的にはどうだろうか?

「平和と繁栄をもたらすのはドナルドだけ」と言う発言は、 トランプ政権と距離を取る余地が少なく、成否を共有する同調の度合いが強い。断定的で解釈の余地を残さないので、逃げ道がなく、後から修正不可能な発言と言える。評価を全面的に委ねる表現だ。

中東情勢が悪化すれば、「あれだけ持ち上げた日本の判断も誤りだった」という評価に連動する可能性がある。

 

「トランプだけが平和をもたらす」と言い切ると、日本が独自の判断軸を持たず、米国のそれもトランプ個人に依存しているという印象を外部に与え、特に中国、東南アジア、欧州などに対して、「日本はバランスを取る国ではない」というメッセージになる。
 

短期の利益を取りに行った、ややハイリスクな現実外交と言える。高市政権から、日本の外交は「余裕のある調整型」から「圧力下の最適化型」に変わった。日本は今理想的な多国間バランス外交よりも、不確実な世界で確実に効く相手に合わせる外交に偏っており、思慮に欠ける。

 

対トランプ強同調型のこの路線は短期的には機能するだろうが、そのままでは長期的に持続しにくい外交方針だ。トランプという個人に最適化された戦略であり、前提が不安定すぎ(トランプの突然方針転換など)、国家戦略としてはリスクが高い。

アメリカ自体が一枚岩ではない。トランプに寄せすぎたところで、それがアメリカ全体に寄せているわけではない。

欧州やASEAN、グローバルサウスとの関係で「日本は米国一辺倒」と見られやすくなり、経済連携や国際機関での協調でじわじわ効いてくるだろう。

高市の発言は軽率だったと看做せる。

国民の戦争をコントロールする力が弱まっている。

 

昔の戦争は、国民の怒りが戦争を始め、国民の犠牲が戦争を終わらせた。
今の戦争は、静かなまま戦争が始まり、静かなまま長引く。

 

現代の戦争は「小さく、見えにくく」なった。

昔の戦争は、徴兵、大量動員、都市への爆撃といった形で、国民全体が巻き込まれた。寄れゆえに、世論は強く動き止める力にもなったが、今は違う。

 

戦争は、大統領の権限によって行われる限定的な軍事作戦に変わり、軍隊は志願兵が中心になり、攻撃はミサイルやドローンなど遠隔で行われる。その上、限定的な作戦なので、国民にとって自分事にならない。怒りも起きにくいし、反戦の圧力も弱い。

 

民主主義の前提である多くの国民が関心を持つような、広範な関心が成立しにくくなっている。

かつては、テレビや新聞が共通の現実を作っていたが、今は、SNSで関心が分断され、情報が断片化し、戦争があっても「全員が同じ怒りや問題意識を共有する」ことが難しい状態だ。その結果、大規模な反戦世論が形成されにくい。

 

更には、現代戦争は(少なくとも先進国側にとっては)、自国兵士の死傷が少ないし、経済も即座には破綻しない、表面上、低コストに見える。政治的には続けても甚大な国内コストが出ない。戦争を始めるハードルが低ければ、止める圧力も弱い。

 

民主主義の国民による戦争統制力が弱まっているのは、国民が関与しにくくなり、政府が(テロ対応などを理由に)迅速性を理由に権限を握り、世論がまとまりにくくなったからだ。
 

じゃあ、逆に、どうすれば民主主義は戦争を再びコントロールできるのか?

 

・「見えない戦争」を見えるようにする。軍事作戦の定期的な公開報告(死傷者・費用・目的)を国民に行わせる。

・現状では緩んでいる「始める権限」を縛り、「グレーな戦争」を制度的に不可能にする。
・ 「続けるコスト」を可視化、負担化する。戦費の明示的な税負担(戦争税に近いもの)、戦争が長期化した場合の再承認義務化。戦争をすれば、自分の生活に影響が出る構造に戻す。

・SNSのアルゴリズムを透明化し、世論の「集中」を回復する。

・終わり方が決まっていない現代戦争の「終わらせる仕組み」を考える。

 

現代社会は戦争に鈍感でいられるように設計されてしまっている。鈍感でいられない構造を作ることだ。

 

高学歴は“推し活”しない? 年収「103万以下」が最多? 推し活する人の職業“分布図”

SNSで“高学歴は推し活をしない”という意見が投稿され、賛否両論が巻き起こり、話題となりました。“高学歴の人は自分に投資する”とされ、その一方では“推し活は情報収集力や継続性が求められ、試験勉強のプロセスに似ている”との声もありました。

年収は「103万以下」が最多
「103万円以下」(18.2%)が最多で、「300万円~400万円未満」(17.4%)、「200万円~300万円未満」(16.9%)と続いています。

 

ライブなど、ファンの集まりに行くと、本当に程度が低い人間ばかりでビックリするからな。高学歴もいるが、ごく少数派。大半が高卒で馬鹿。どんなもん馬鹿というと、高市に考えなしで投票するようなのばかり(投票しているだけでも私偉いと思う最弱の下等生物)。人間としても程度が低いのが多く、群れての集団いじめも横行している。それを止める者は当の芸能人含めておらず動物園状態、信用に値しない人間どころか、関わったらダメなカス人間ばかり。

 

もう話が合わない。というか、会話するのも苦痛だし、視界にも入ってきて欲しくない(寄ってくんなカス)。そんな連中と一緒に歌を聴いても楽しいはずもなく、そんなものに4万5万払うのも苦痛なので、もう参加しない。むしろ、その精神的苦痛に対して対価が欲しいぐらいだ。善良な高学歴は少ないね。

 

自分に誇るべきものがない、自分以外に自分の夢を託すような、そういう生き甲斐が必要な底辺層がターゲットで、推し活してる自分は輝いてると錯覚させるのが目的の商売。そりゃ自分が満たされてる人間は推し活なんかしない。底辺なのに承認欲求がある人ほど貢ぐもんだ。それが事実として存在している構造。

 

底辺層にしてみれば、努力して自分の人生で達成感を得るのは難しいが、推しの人生を通して他力的に達成感を得る方が簡単だ。底辺なのに承認欲求がある人ほど貢ぐもんだ。それが一つの側面として、事実として存在している構造。そういう商売をしていると言う罪の自覚は持つべきだ。推し活なんざ、手放しで賞賛するようなことじゃない。

 

 

 

ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」

 

舞台は第一次世界大戦後のロンドン。主人公のクラリッサ・ダロウェイは上流階級の女性で、今夜自宅で開くパーティーの準備のために街へ出かける。その一日のあいだ、彼女は様々なことを思い出す。

若い頃の恋人 ピーター・ウォルシュ、選ばなかった結婚相手との情熱的な人生、今の夫リチャードとの穏やかな結婚、老いと死の予感。クラリッサは、リチャードとの結婚で、社会的地位、経済的安定、平穏な生活を得たが、その代償として、強烈な情熱の人生は失われている。

一方、同じロンドンの別の場所では、戦争で心を壊した若者セプティマス・スミス が苦しんでいる。彼は第一次世界大戦の帰還兵で、戦争で親友を失ったトラウマから幻覚に悩み、医師たちは彼を理解できず、「休めば治る」「自然を見れば良い」などと表面的な治療しかしない。

人は本当の気持ちを伝えられない、伝えても理解されない。精神科医による「矯正」圧力。社会的規範によって定義される「正常」に従うことは、感情や欲望、疑問を殺すことを意味する。

医者によって精神病院へ送られそうになり、追い詰められたセプティマスは窓から身を投げて自殺する。夜、クラリッサの家ではパーティーが開かれる。その最中に彼女は、見知らぬ若者セプティマスの自殺の話を聞く。

彼女はショックを受けながらも、奇妙な共感を覚え。彼は死によって「何かを守った」と感じている。自殺は、完全な絶望ではなく、最後の自由の選択として描かれている。

そして彼女は再びパーティーの場に戻り、生きることを静かに肯定する瞬間で物語は終わる。セプティマスは死を選んだが、クラリッサは生を続ける。セプティマスの死は、クラリッサが生を選び直す瞬間を作った。彼の死は、クラリッサの生を照らす鏡だ。

作者のウルフは最終的には自殺しており、セプティマスとクラリッサはそれぞれ「ウルフの魂の分身」と見ることもできる。ウルフは二人の人物を描いたのではなく、一人の人間の意識を二つの形に分裂させて描いており、社会の中で生きる自我と、破滅へ向かう内面の自我の対話の物語としても読める。

表面的にはクラリッサとセプティマスは全く異なって見えるが、内面は似ている。二人とも死を強く意識しており、人と完全には繋がれない。世界を鋭く感じ取っており、社会の形式に疑問を感じている。違うのはただ一つで、クラリッサは耐えられるが、セプティマスは耐えられない点にある。

クラリッサは、社交、礼儀、パーティー、秩序の世界に生きているが、セプティマスは、幻覚、感情の崩壊、真理への過敏な感覚の世界にいる。クラリッサが社会に適応した意識なら、セプティマスはその抑圧された深層意識と言える。

セプティマスの自殺は、一人の人間の内面の崩壊であり、内面的自己は死ぬが、社会的自己は生き続けるという構図になる。クラリッサは彼の死を聞いたとき、強烈な共感を覚えた。セプティマスは魂の純粋さを守るために死んだとも読め、クラリッサは壊れた世界の中で生き続ける道を選んだ。

クラリッサは最初から「死」を感じていた。若さが終わったこと、人生の残り時間、人間関係の表面性を意識していた。セプティマスの死は、人生の有限性、人間の孤独、社会の冷たさという真実を示している。

クラリッサは、死を理解しているし、人生の空虚を知っている、人間関係の限界も知っている。それでも、人間の存在の瞬間を価値あるものとして感じる。人生は短い、人は孤独、社会は表面的、死は避けられないという虚無の認識をはっきり見たあとで、それでもなお「生きること」を肯定する姿勢。

ロンドンの街全体が一つの巨大な心の内部として描かれている。「ダロウェイ夫人」は語り手が固定されておらず、視点が絶えず人から人へ繋がりながら移動する。多くの意識が同時に存在する空間が描かれ、同じ出来事を多くの人が共有している。

王族の車が通る、飛行機が空に文字を書く、ビッグ・ベンの鐘が鳴る、こうした一つ一つの出来事が多くの心に波紋を広げている。人々は互いに知らなくても、見えない繋がりで結ばれている。そして、それぞれの人物の心に違う意味や記憶が生まれる。

ビッグベンは時間を刻む。鐘が鳴るたびに、人々の意識が現在へ戻る、記憶は止まり、新しい思考が始まる、鐘は都市の心臓の鼓動のように働く。ロンドンは一つの巨大な精神のように描かれる。人間の孤独と繋がりは同時に存在すると言える。

ビッグベンの鐘が鳴るたびに、登場人物の思考が中断され、現在に引き戻される。ビッグベンは社会が共有する時間と言えるが、ウルフはこの時間を、外側の時間として描く。登場人物の心の中では時間は全く違う。

クラリッサが街を歩くとき、少女時代の夏、かつての恋や若さ、結婚の決断が突然よみがえる。数秒の出来事の中に、何十年もの人生が入り込む。この時間は、伸びたり、縮んだりし、過去と現在が混ざったりする。人生は直線の時間ではなく、意識の中で幾重にも時間が重なり合う。

クラリッサは常に、老いや死、有限性がある人生そのものの存在の時間を感じている。一方、セプティマスは、戦争のトラウマの中で、時間そのものが壊れた状態にある。彼にとって、過去の戦争、現在、幻覚は区別がない。

ビッグベンが象徴する外側の社会の時間と、その中間にある意識の時間(記憶)と、深層の存在の時間(生と死)の3つの時間が同時に描かれ、1日の出来事の話でありながら、人生全体が描かれる。

ビッグベンの鐘は客観的時間の象徴で、鐘が鳴ると、登場人物の思考が止まり現実へ戻る。鐘は社会の時間が人間を縛る瞬間。しかし意識はそのたびに過去へ逃げていく。客観的な時計の時間(ビッグ・ベンの音)と、主観的な「心の中の時間」が交錯する。人生は短いが、人間の意識は時間を越えて広がる。

クラリッサは、リチャードとの結婚で、社会的地位、経済的安定、平穏な生活を得たが、その代償として、自分の一部が失われたと感じている。社会的役割の中での自己を制限し、自分の魂の中心を誰にも見せていない、人と完全にはつながれない。

若い頃のクラリッサは、同性のサリー・シートンに強い愛情を感じていた。この関係は、自由や情熱、社会規範の外側を象徴している。社会的規範によって定義される「正常」は、個人の感情や欲望、疑問を殺す。この作品では、女性の人生の可能性がすべて完全には実現しないことが描かれる。

人は、一つの道を選び、同時に、他の可能性を失う。これは男でも同じだが、特に当時の女性は、社会的制約の中にあった。人を「社会的理想の型」に嵌め込めば、可能性を奪うことになる。クラリッサの人生はその現実を象徴している。

だが、クラリッサは、人を集め、人をつなぐ能力を持っている。彼女のパーティーは、人間同士のつながりを生む場でもあり、彼女の価値は、誰かを愛すること、人をつなぐこと、世界を感じることの中にある。結婚した後の社会的役割の中にも意味があると描かれる。

クラリッサは「わたしはただ生きたいだけ。だからパーティを開くの」と言う。彼女は、人は孤独であり、完全には他人からは理解されない、人生は短い、だからこそ、人が同じ空間に集まる瞬間に意味があると考える。

クラリッサにとってパーティーは存在を感じる瞬間そのものだ。人が集まり、声が響き、会話が生まれ、視線が交わる、そのとき人間の存在が現れる。「ただ生きたい」は、人間の存在を感じたいという意味だ。彼女のパーティーは社会イベントではなく存在の儀式である。

ウルフの小説におけるパーティーは珍しい意味を持っており、宗教儀式に近い。近代社会は神や絶対的意味を失った。神が世界を支えているという確信が揺らいだ社会で、人間がどうやって存在を肯定できるのかを描こうとしている。

人間は誕生、愛、死に意味を感じたい存在だ。宗教が弱くなり、別の形の意味の場が必要になった。そこでウルフが描いたのが、パーティー。宗教儀式では、人が集まり、同じ時間を共有することで、共同体を確認する。それはパーティーに似ている。

ダロウェイ夫人は、人を招き、人を紹介し、人をつなぐことで、孤立した人々を一つの空間に結びつける。司祭と同じ役割を担っている。パーティーの最中、クラリッサはセプティマスの死を聞く。彼女はその死に共感するが、同時に生を感じる。死と生が交差する。

多くの宗教では死と再生が中心テーマであり、死を記憶し、生を確認し、共同体を再確認する。「ダロウェイ夫人」の終盤はこれと同じ構造だ。死を理解したあとに生が肯定される。パーティーは、単なる社交ではなく、存在の祝祭という宗教儀式だ。神のいない世界での「人間のための儀式」だ。

ウルフは女性が創造的に生きるために必要なものは、「お金」と「自分の部屋」であると言う。クラリッサは「部屋を持たなかった女性」の象徴でもある。彼女の選択は単なる個人的な問題ではなく、社会構造の問題でもある。社会は「正常」を強要し、壊れた人をさらに壊す。
 

有名実業家、なぜお金を払って「ごちそうさまでした」と言う?「店側が『ありがとうございます』やろ」

「ネクストレベルホールディングス」代表取締役で実業家・河原由次氏が9日に自身のX(旧ツイッター)を更新し、飲食店で「いただきますと言うべき?」問題で私見を展開した。「むしろお店側からしたら『食べに来てくれてありがとうございます』やろ。この感覚、俺がおかしいのか?」と投げかけていた。

 

 

こういう他人を気遣うことができない貧しい人間が増えた。

 

日本が「虚言の国」となった背景には、人々が自分の信念や快適さに固執し、他者の視点や真実を検証する努力を怠った結果と言える。他人のために心から気遣うことは、嘘が蔓延する社会を防ぐ鍵だ。共感や規律が失われると、市民は互いを理解しようとせず、嘘で分断がさらに増幅される。

 

市民が互いに信頼せず、異なる「真実」を信じることで、社会全体が「虚言の国」へと変貌した。これは規律や他人への気遣いの欠如と直結している。自己中心的な思考がデフォルトの設定になり、誰もが主観中心に世界を見がちだが、他人に注意を払ったり、共感したりするには意識的な努力が必要なのだ。それを教養と言うし、大学で身に着ける教養と言える。大学は企業に都合の良い労働者を育てる場などではない。人を為すために学ぶ場である。