ラドンも「そうだ そうだ」と言っていますにゃฅ( ̳• ·̫ • ̳ฅ)و

 

 

さて、夏にまったくおよびでなかったVAPEを今頃

スイッチオンすることになるとは!

 

「ねぶたしと思ひて 臥たるに蚊のほそ声に わびしげに 名のりて顔のほどに 飛びあるく羽風さへ その身のほどに あるこそいとにくけれ」

                          枕草子より

9月下旬には猛暑続きで疲労が蓄積していく。

もう、眠くて22時半に就寝することも。

昔は帰宅後に1時間から1時間半程眠ってから、

起床してPC版ピグをしていた時期もあったよなぁ。

そのまま、起きることなく、午前3時頃に目覚めたことも。

(遠い目)

 

さらには事情があり、PCが使えずスマホでいいねや

グッピグをする。

眼病があるので、いいねやグッピグがちゃんと

できたのか不安な日々であった。

 

そんなこんなで11月11日。寒い。

そして、11月13日。寒い、寒い。            

ラドンも「そうだ そうだ」と言っていますฅ( ̳• ·̫ • ̳ฅ)و

 

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さて、ここから前の記事に続き、笠置シヅ子のお話し。

※敬称略

昭和9年(1934年)、宝塚少女歌劇団が東京へ進出。

昭和11年(1936年)、東宝傘下となった日本劇場は

日劇ダンシングチーム発足。

 

元々、昭和3年(1928年)に東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇部、松竹少女歌劇団、松竹歌劇団)がありました。

一期生で大スターとなる水の江瀧子が在籍しています。

 

昭和13年(1938年)、松竹は東京帝国劇場に松竹楽劇団を

旗揚げ。

男女混合のレビュー団でジャズの歌や演奏をウリにしようと考えたのです。

東京の松竹少女歌劇団から天草みどりが移籍。

シヅ子はその松竹楽劇団へ誘われる。

当時、彼女の月給は100円。

高給なタイピストの月給が50円の時代。

高給と思われるが亀井家には事情があった。

 

亀井家は元々は米屋。しかし、頻繫に起きる米騒動に

嫌気が差して風呂屋を開業するも経営不振。

そこで、風呂屋を廃業して、弟の八郎が散髪屋を開業。

しかし、これも上手くいかない。

そんな折、八郎は徴兵されることになる。

 

母、ウメは入院していた。

そんな中、放蕩癖となった父がシズ子に金を無心

するようになっていたのですな。

 

東京の松竹楽劇団では月給200円。

家計は助かるが病床の母のうめが心配で東京行きを

迷っていた。

しかし、母のうめは気丈に振舞いシズ子の背中を押す。

シヅ子「これは行くしかおまへんな」と言ったかは

分かりませんが、東京行きを決意。

 

松竹楽劇団には

紙恭輔  総指揮者

     作曲家、指揮者。ジャズプレイヤー、

     軽音楽・映画音楽の草分け的存在

 

服部良一 副指揮者

     和製ポップス史における重要な音楽家。

     紙恭輔が半年で退団した為に総指揮者に。

 

益田貞信 舞台の演出家・脚本家

     父は貴族院議員の益田太郎男爵、

     祖父は三井財閥の創立者益田孝。

     所謂、ええとこのぼん。

父の益田太郎は台湾製糖、千代田火災、森永製菓など、有名企業の重役を歴任。ヨーロッパ留学中にオペレッタ、コントに親しみ、その経験から帰国後、ユーモアに富んだ喜劇脚本を多く執筆。

益田太郎冠者のネームを持っており、今日もコロッケ

明日もコロッケ♪の「コロッケの唄」の作詞や落語「宗論」「堪忍袋」

「かんしゃく」なども創作している。

 

中川三郎 モダンダンスの創始者。

     日本タップダンス界の祖。

     吉本から松竹に移籍してきた。

余談ですが、タップダンスの練習中、それをモールス信号

と疑われ、スパイ容疑をかけられたことがあったと。

     

 

シヅ子はジャズ歌唱を学ぶ為に紙に師事した。

紙が退団後は服部に師事。

二人の出会いは人でごった返す稽古場。

この時の服部の第一印象が・・・(>_<)

どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませたと期待していたが、

薬瓶をぶら下げて、トラホーム病みのように目をショボショボさせた小柄な女性で、とても風評通りのスターとは思えず、ぼくはあらぬ方向へ期待の視線を泳がせていた。ところが、シズ子は臆することなく目の前に来て「笠置シズ子です。よろしゅう頼んまっせ」と目の前にきた。鉢巻で髪を轢き詰めた下がりまゆのショボショボ目が挨拶する。ぼくは驚き、すっかりまごついてしまった。 

んがっ、である・・・(キリッ)

夜遅くの舞台稽古では思わず目を見張った。

オーケストラにぴたりと乗って、「オドッレ、踊ッれ」と掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きと派手さとスイング感は他の少女過激出身の女の子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した。

その日から紙恭輔は秋月恵美子のタップのファン、ぼくは笠置シヅ子のつけまつ毛のファンとはっきり分かれた。

 

さて、服部はシヅ子に「地声で歌え」と繰り返し指示。

その後はどんなに疲れていようと食事も摂っていない時

も服部はレッスンを優先した。

 

さて、「ラッパと娘」を披露したのは

1939年、カレッジスイングともグリーン・シャドウ

とも書かれているんですが。さぁ、どっち?

 

シズ子は評論家達から高い支持を受け、スイングの女王

と称された。

 

 

さて、13日、朝ドラ「ブキウギ」で鈴子と一緒に東京

へ行った伊原六花演じる秋山美月。

憧れの中山史郎に娘役をやれと言われて悩む秋山。

前ふりというか、大阪の音楽部長、林が一人だけでも

いいから大阪へ戻ってきてとお願いしてましたね。

 

※コロムビアレコードを「ブキウギ」では

 コロンコロンレコードにしていたのはどうかと(^-^;

 

秋山美月のモデルといわれるのが秋月恵美子。

実は彼女は松竹楽劇団が軌道に乗るまでの限定的

な参加であり、大阪へ戻ります。

 

朝ドラでは中山史郎の言う通りにするか自分の意志

を通すかで悩み、結局、自分の意志を貫き大阪へ戻る

という展開を予想しています。

 

秋月恵美子は娘役の芦原千津子とコンビで人気を博す。

勝浦千浪、京マチ子らと共に大阪松竹歌劇団の

黄金時代を築き、男役トップスターとなります。

戦後は座長として海外公演を成功させます。

また、松竹のミュージカル映画に出演して活躍。

昭和48年(1973年)に引退。

平成6年(1994年)までOSK日本歌劇学校の講師を勤める。

平成14年(2002年)に逝去。享年は85歳。

 

 

さて、13日の「ブキウギ」。

鈴子が恋心を抱く松永大星から紅茶でも飲みに行こう、

内緒の話しがあるんだと。

どうも、鈴子は告白キターーー!と思っているようです。

多分、移籍しないかという話しでしょう。

「ブキウギ」では二人同時に移籍する展開でしょうか。

 

益田貞信は松竹の大衆路線と意見が合わずに

昭和14年(1939年)東宝へ移籍してしまうのです。

その後、益田はシヅ子を東宝へ誘うのである。

益田に恋心を抱いたいたシズ子。

そして、母うめの治療費のこともあり、なんと東宝と

契約してしまうのである。

東宝の月給は300円とも言われている。

しかし、この事実を知った松竹の団長、大谷博が

激怒したのだ。

その時のイメージはこう!

 

笠置ようやっとるな

 

東宝へ移籍!勝ってなことしくさって~!

 

シヅ子は大谷博の別荘に20日間程、軟禁されることに。

この事態に服部良一が東宝と松竹を東奔西走、

いや、東奔松走?

無事に解決してシヅ子と東宝の契約は白紙となった。

 

ほっとしたのも束の間。

母うめが危篤との電報が・・・。

臨終に立ち会うより舞台に穴を開けずに立ち続けるの

が親孝行だと大阪には戻らないことを決意。

 

昭和14年(1939年)母が他界。

シズ子は公演中にそれを聞いた。

病床で母はシズ子に会いたいと言う。

シズ子は大役を任されて東京を離れることが

できないと聞かされます。

母はあの娘も東京でモノになったようやな。

それを土産にあの世へ行きまっさと言う。

それが最期の言葉だったそうである。

シズ子が大阪へ戻ったのは四十九日の法要でした。

シズ子はそのことを聞き、大号泣したという。

養母でありながら、ここまで育ててくれた感謝の

念と臨終に立ち会えなかったという気持ちで

あろうか。

ちなみに自伝の中で実母のことは あの人 と書いている。

 

太平洋戦争。

シヅ子の音楽は敵性音楽とされ、歌うことを禁じられ

マイクの90cm範囲から動いてはならない。

長いつけまつ毛も禁止じゃあ~となる。

 

さらには松竹楽劇団が解散。

シヅ子は独立して「笠置シヅ子とその楽団」を結成。

地方でほそぼそと興行。

戦時中で聴衆が期待するパフォーマンスもできない、

楽団員も養わないといけない厳しい状況。

昭和19年(1944年)には解散となる。

 

さらには、さらには、弟の八郎が戦死。

 

昭和18年(1943年)吉本興業の創業者、吉本せいの次男

吉本穎右と出会い、恋愛に落ちる。

吉本せいの反対にあい、結婚できずに出産。

妊娠を知った時点で吉本せいは歩み寄ったらしいが。

しかし、吉本穎右は肺結核を患い25歳で死去。

シヅ子の実母と似た運命ですね。

シズ子はシングルマザーとして娘を育てます。

 

同じ朝ドラ「わろてんか」は吉本せいをモデルとした

ドラマであるけれど、この辺りはどんな展開だった

んでしょうか。

 

とまぁ、暗い時代が続きます。

 

戦後はブギの女王として、暗い世相に力強い光を当てた。

 

また、エノケンこと榎本健一と舞台や喜劇映画に出演。

榎本健一が脱疽で足指を切断。榎本健一の要望で

代役にシズ子が出演するというエピソードがある。

 

エノケン笠置のお染久松

 

※「歌うエノケン捕物帖」はYouTubeで全部観ることができますよ。

 

そうそう、「ブキウギ」羽鳥善一の息子のカツオ君。

この子は服部克久がモデルと思われますが、子供の頃

から行儀作法でシズ子によく怒られていたそうです。

厳しいが温かみのある人だったと述懐しています。

 

昭和24年(1949年)映画「銀座カンカン娘」に高峰秀子

と共演。

高峰秀子は昭和22年に発表された東京ブキウギを聴いて

からのシズ子の大ファン。シズ子のステージの追っかけ

であった。

 

昭和26年(1951年)日本の政治学者、東京帝国大学の総長、

東京大学名誉教授、歌人である南原繁がシヅ子を総長室

に招いた。

これには訳があり南原とシズ子の実父の三谷陳平は

小中学時代、南原の友人であったのだ。

戦後、シズ子が自分の亡き友の娘であることを知った

という。
だが、マスコミが伝えるシズ子の生い立ちが間違っている

ことを知り、気がかりに思っていたのだ。

 

陳平の父は漢学者で南原は漢学を学んでいた。

実母の鳴尾は由緒ある家の出で陳平の母の和裁の

生徒であった。

南原が知っていることをすべてをシヅ子に伝えた。

そして、シズ子の後援会長となった。

 

※豪農の家であったが、シヅ子が法要へ行った頃には

 没落しておりました。家の馬小屋に住まわせてもら

 っていた。

 法要の時は特別に座敷を使わせてもらったという。

 

 

長文失礼。