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「すごいな♪ すごいな♪ 朔のお兄さんはすごいな♪」

 先ほどから瞳をキラキラ輝かせ、幼い子どものようにはしゃぐのりえは山道を歩きながら景時を絶賛していた。

 ――鞍馬の奥へ入る山道に張られた結界を、陰陽師である景時に解いてもらったのは一週間も経たない、数日後のことだった。

 景時に撃たれた傷は驚くことに、たったの三日で完治していた。

 以前、怨霊にやられた傷も尋常ではない速さで完治したが、二度目ともなると自己治癒力だけでなく、本当に何かしらの力が働いているとしか思えなかった。

 それでも無事に治ったことは喜ぶべきことなので、誰もそれ以上追求はしなかった。

 そして当初の目的である九郎の師に会いに、再び鞍馬山に登っていた。

 問題の結界を景時に見てもらい、口では手強いね~と言いつつも、彼は持っていた陰陽術式銃――のりえを撃った銃――で、その結界を撃ち破った。

 一連の所作がまるで魔法のようで、それを目の当たりにしたのりえは歓喜の声をあげてはしゃいでいる。

「のりえ、そんなにおだてないでちょうだいな。兄上が調子づいたら、ろくなことはないんだから」

「そんなことないよ! お兄さん、すごいね♪ こんなステキなお兄さんがいるなんて、朔がうらやましいよ~」

「いやいやいや、のりえちゃん……あんまり褒めないでくれる? オレ、たいしたことしてないのに恥ずかしくなっちゃうから……」

 そう言う景時の頬は、ほんのり赤く染まっている。

「ふふっ、のりえさんは景時が気に入りましたか?」

「お兄ちゃんになって欲しいくらいです!」

「のりえ、こんな兄を持っても苦労するだけよ?」

「こんな、兄……」

 朔の言葉がぐさっと景時の胸を貫いた。

「もう、なんでそんなこと言うの? 朔も譲くんももっとお兄ちゃんを大事にしてよ」

「へ? 譲くん? 譲くんも朔みたいなことを言うの?」

「俺の兄は、景時さんのような立派な人じゃないですよ。自分勝手で、いつもまわりを巻き込んではトラブルを起こして……」

 ため息混じりで譲が言う。

「でも将臣くんは頼りがいあるじゃない。いいお兄ちゃんだよ」

「それは先輩にだけ、です」

「もうっ、譲くんそんなこと言ってると、将臣くんはあたしがもらっちゃうからね!」

「えっ!?」

 これには度肝を抜かれた。

「ななな、ななんでっ、せせんぱいがっ!?」

「朔も! お兄さんもらっちゃうから!」

 ………………。

 なんだ、そういうことか。

 ――いや、そういうことでも譲には許せないことだった。

「あ、あのさのりえちゃん……ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」

「なんですか?」

「その、〝お兄さん〟じゃなくて……景時って呼んでくれる?」

「え……」

「あ! も、もちろんのりえちゃんがいやじゃなければー、だけど!! ほ、ほら、名前で呼んでくれたほうが親近感わくっていいか……――あ、オレも気安くのりえちゃんって言っちゃってごめん!」

「……兄上、なに馬鹿なこと言ってるの?」

「い、いえ、あたしのことはいいんですっ。そうやって呼んでもらえるとうれしいし……。でも、お兄さんは朔のお兄さんだし……」

 景時の照れがのりえにもうつってしまい、頬が赤くなる。

「な、まえ……お兄さんの名前……」

 もはや景時のことは〝お兄さん〟と定着しており、今更ながらに名前で呼ぶのは気恥ずかしい感じがする。

「かっ……かげ……」

 途中まで言いかけて顔をそらす。

 耳まで真っ赤になっていた。

「のりえまで……。もう、兄上が馬鹿なことを言い出すからよ」

「ご、ごめん! 無理強いはしないよ、ホントごめんね」

「いえ! 呼びます、呼んでみせます!! おにい――かっ、景時さんっ!!」

 ――景時さんっ……!

 ――時さんっ……!

 ――さんっ……!

 力いっぱい呼んだため、山にこだまして何度も景時の名が連呼される。

「よ、よしっ……呼べた」

 呼べたが、ものすごく恥ずかしい。

「じゃ……景時さん、も……あたしのこと、今まで通り〝のりえちゃん〟って呼んでくださいね?」

「う、うん、分かった……。ありがとう、のりえちゃん」

「…………」

 なんだろう。

 この付き合いたての初々しい恋人のようなやりとりは。

 一連の流れは激しく譲を不愉快にさせた。

「――そうだ! この際、譲くんももう〝先輩〟って言うのやめて、のりえちゃんって呼んでよ」

「えっ……?」

 いきなり話を振られた譲は意表を突かれて目を丸くする。

「この間、お兄さんがのりえちゃんって呼んでくれたとき、譲くんが呼んでくれたのかなってすごくうれしくなったんだよ?」

「いや、俺は……」

「たかが名前くらいって思われちゃうかもしれないけど、呼び方って大事だと思うの。さっきお兄……じゃなかった、景時さんが言ったけど、名前で呼んでもらえると親近感あるし、呼ばれたほうもそれが好きな人だったら、すごくうれしくて幸せになるの」

 ねえ、朔? と同意を求める。

 朔は小さく微笑いながら、そうねとうなずいた。

「だから、先輩はもうやめよう! ……っていうか、あたしたち幼なじみなのに、どうして先輩って言うの?」

「どうしてって……先輩は俺より年上じゃないですか」

「歳とか関係ないよ。……朔のこと、前はさん付けで呼んでたのに、今じゃ呼び捨てじゃない。朔のことは呼べて、どうしてあたしのことは呼んでくれないの?」

「それはっ……」

 朔をまったく意識していないから、抵抗なく呼べるのだ。

 しかし、そんな理由を口にしては一発でのりえに抱いている想いに気づかれてしまう。

 今の関係を壊したくないから、これまで伝えることはしなかったのに……。

 話が何やら悪い方向に流れ出し、不安が心に広がった。

 これにはもう一つの捉え方がある。

 できることなら、のりえが気づかずにいてくれれば助かるのだが。

「――あ」

 ふと、のりえが何かをひらめいてしまった。

 急に立ち止まり、呆然とする。

「先輩?」

 数歩先で止まった譲が振り返る。

 のりえは一瞬、さびしそうな表情を見せたが、すぐに笑顔になり、

「ごめん……あたし、そういうのに鈍くて」

 譲との距離を取って、間に朔を入れさせた。

「さっきの話、なかったことにしよう。ずっと先輩でいいから」

 白龍の手を取り、二人で先を歩き出す。

「えっ?」

 意味が理解できず、すぐにのりえの後を追うことができない。

(〝ずっと先輩でいいから〟? ずっと、ってどういうことだ?)

 名前で呼ぶな、ということだろうか。

 先ほどまで名前で呼んでくれとせがんでいたはずなのに、この変わり身のはやさは――

「――――」

 その考えに至った途端、心の奥底が激しく波打った。

 全身がぞわぞわとして、いてもたってもいられなくなり、駆け出す。

 やはり別の意味でとってしまったらしい。

 朔を名前で呼び始めたのは、意識し始めて自分に注目してほしいがためという理由でとらえてしまった。

 実際のところはただ単に呼びにくかったため、呼び捨てにしたというのが真実だ。

「先輩、待って……待ってください!」

 彼女に追いつき、左腕をつかんで引き止める。

「何を考えたのかはっきり分かりませんが、先輩が思っているようなことはありません!」

「そんなにムキになって隠さなくたっていいよ。というか、これまで気づけなかったことに謝らなくちゃいけないし……。あたし、ものすごく無神経で邪魔ばかりしてたよね……」

 何かある度、譲に頼りっぱなしで、あまつさえ一緒に寝てしまっていた。

「もう二度とあんなことしない」

 視線をそらされ、つかんでいる手を振り払われる。

 たったそれだけの仕草なのに、譲に向かって開かれていたのりえの心がかたく閉ざされていくような思いを抱いた。

「っ………!」

 もう一度譲がのりえの腕を、今度は簡単に振り払われぬよう強くつかんで歩き出した。

 予期せぬことだったので、握っていた白龍の手を離してしまう。

「譲くん!? どこ行くのっ!?」

 追いついてきた景時たちが、細道を外れ森の奥へと入っていく二人に声をかけるも返答は一切なかった。

 普段の譲とは思えないほどの力でつかまれた右腕はすぐに悲鳴をあげる。

「ちょっ、いた……痛いよっ、譲くん!!」

 あいている左手で譲の手を叩く。

 それでも離すことはなく、奥へ奥へと引き連れられていく。

 どれくらい歩いただろうか。

 ようやく譲が立ち止まったと思うと何を思ったのか、のりえの身体を抱き締めた。

「ゆっ、譲くっ……」

 顎に手をかけられ、上を向かされる。

「んっ……!」

 問答無用で唇を塞がれ、声を出すこともできなくなる。

 いきなりキスされたことに驚いて譲を突き飛ばそうとしたが、それはかなわなかった。

 強い力で抱き締められ、そのうえ顔をそらせようにも後頭部にある手が押さえつけてそれもできない。

 圧倒的な男女の力の差を前に、のりえは逆らうことができなかった。

「ぅ……っん……っぅ……」

 静寂に満ちる森の中、二人のキスの音が響き渡る。

 譲は逃げ惑うのりえの舌を必死で追い、深く強く自分の舌と絡め合わせる。

 将臣がしてくれたそれとは正反対のディープ・キス。

 それでも身体は正直に反応して、次第に抵抗する力を失っていく。

「……っ、俺が好きなのはあなただけだ、のりえ……」

 完全に抗う力がなくなってからわずかに顔を離し、囁いた。

「ずっと……それこそ、あなたと初めて会ったときから好きだった」

「ゆ、ず……る、くん……」

「なのに、どうしてあなたは……」

 これまで、心の中に他の女の存在は入ってきたことがなかった。

 いつものりえだけがいて、のりえさえいればそれで充分だった。

 彼女以外の女など、存在すらも感じたくない。

 こんなにも愛しているのに、どうしてのりえは他の女に心を奪われたなどと考えるのだろう。

 どんなに愛おしいでも、そんな考えに至ってしまう思考回路だけは呪ってやりたかった。

「……! ぅん……っ、ん……ゃっ……」

 もう一度唇を合わす。

 自分がどれだけのりえを愛しているかということを、めいっぱいに注ぎ込む。

 ――愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる。

(あなたのことを考えるだけで、俺の心は苦しく締め上げられる)

 楽になる方法は一つだけ。

(あなたが俺を愛してくれたら……)

 この苦しみから解き放たれるのに。

(だけど、あなたの心には……)

「んっ、んっ……」

 のりえを味わうように、感じるように何度も唇を合わせ、深く絡み合う。

(あなたの心には、兄さんがいる)

「――やっ……譲っ、くん……!」

 近くの木の幹に身体を押しつけられ、首筋にくすぐったい感触が走る。

「あなたが欲しい……欲しくてたまらない」

「だめっ、だめ譲くん……!」

 将臣のときは安心と快楽を感じたが、譲のときでは恐怖も感じてしまう。

 狂気にも似た愛。

 そこまで想ってくれる心は純粋にうれしいと思うが、その反面自分を壊されてしまうのではないかという恐れがあった。

「あなたが兄さんを想っているのは知っています。だけど……それでも俺はあきらめることはできない。絶対に、あきらめない」

 襟元をはだけさせ、現れた白い肌に舌を這わせる。

「あっ――」

 震える手に力を込め、譲の身体を押し返す。

「ま……待って、お願いっ……」

「俺を……拒まないでください」

 拒まれると力づくでも奪いたくなる。

 つかんでいる腕に力がこもった。

「ちが、違う……お願い、少し落ち着いて……」

 先ほどから心臓が激しく脈打っており、これが譲によるものなのか発作によるものなのか、どちらにせよ破裂してしまいそうで息苦しい。

「せ、先輩っ?」

 立っていることもできなくなり、譲を巻き込みつつ、幹伝いにその場に座り込む。

「く、くるしい……」

 ありえないくらいに鼓動が速い。

「え……す、すみません! 俺……!」

 我に返った譲が目に見えて慌て出す。

「っ――先輩!?」

 今度はのりえのほうから、譲の身体を抱き締めた。

「……顔、見ないで……」

「え……?」

「どんな顔……したらいいか、分からない」

「それは……俺のこと……」

 きらいなんですか、という言葉は怖くて出せなかった。

「きらいなわけ、ないじゃない……」

 譲の言おうとしたことを読み取って、のりえは答える。

「でも……」

 どうしよう。

 譲の言う通り、のりえの心には将臣がいる。

 幼い頃からずっとそばにいてくれた将臣。

 近所の子供にいじめられたときに庇ってくれたのも、心ない言葉をぶつけられて落ち込んでいたときも、発作を起こして痛みや苦しさに泣いているときにそばにいてくれたのも将臣だった。

 そんな彼を、いつしか特別な存在として見ていた。

 いつか別れてしまうが、将臣がそばにいてくれたのならこれまで生きてきた人生、とても幸せなものだったと満足できる。

 ――そう思っていたつもりだった。

「……先輩の鼓動、すごく速いですね」

「破裂……しそう」

 服越しでも伝わってくる早鐘のような鼓動。

「俺を男として、意識してくれているんですか……?」

 譲に触れられて、尋常ではない胸の高鳴りを感じる。

 のしかかるような強い愛は恐怖を覚えたが、拒むほどきらいではなかった。

 反対に、彼の愛に溺れたらどれほどの快感を得られるのだろうかとさえ思ってしまう。

 譲も将臣同様、何があってものりえのそばにいた。

 そばにいて彼女の面倒を見ている分では譲のほうが将臣より勝っている。

 すすんで世話を焼く姿は度々、献身的な恋人に間違われるほど。

 その場では謙遜しつつ、そういう関係ではないと否定するものの内心では、世間にそう見られていることが譲にはたまらなくうれしかった。

 何かと面倒を見てくれる譲は、当然のようにのりえの中では大切な存在となる。

 それは男としても、幼なじみとしても。

 しかし、比率的にのりえの心を占めているのは将臣のほうだった。

 将臣は人よりも一歩先を歩いており、それに遅れまいとして必死にくっついていこうとする自分を置いていくことは絶対にせず、手を伸ばして引っ張ってくれる。

 彼から感じる絶対安堵が、のりえを惹きつけていた。

 だが、そういう想いを抱いても表に出すことは一切せず、己の気持ちを殺してきた。

 先のない自分が恋をしてはいけない。

 想いを抱いてしまった相手に迷惑をかけるだけ。

 それゆえ、のりえはすべての恋愛事から目を伏せてきた。

 そうしているうちに恋愛の機微に疎くなり、ド直球に言われなければ分からなくなってしまった。

「……あなたの心が知りたい。あなたにとって、俺は迷惑ですか?」

「そんなわけ……ない」

 特異な出生の理由からか、貪欲に人からの愛情を欲しがるのりえ。

 将臣を想う心で将臣に愛されたいと願いながら、譲にも愛されたい。

「でも、よく分からない……。将臣くんも好き。譲くんも好き。もちろん、ちゃんと……そういう男の子として好き……――んっ」

 身体を強く抱き締められた。

「こう……されるの、すごく気持ちいい。キスも……さっきから心臓がドキドキして、落ち着かない……」

 けれど、と言いかけたのりえの言葉を遮って、譲は小さなため息をついた。

「……兄さんを超えるのはまだまだ、か」

 将臣の存在は、弟の譲の中でも偉大なものだ。

 簡単に超えられるものではない。

 それでも完全に超えることのできないものではないので、まだ希望はある。

 譲は名残惜しそうにのりえの身体を離した。

 長年溜め込んでいた想いを吐き出したせいか、表情がすっきりしている。

「さっきも言いましたが、俺はあなたをあきらめるつもりはありません。兄さんが先輩を泣かせたのなら、兄さんを殴って先輩を奪います」

「う……うん……」

「…………」

「……?」

 譲の瞳がのりえを見つめる。

「俺は……少しでもあなたと想い合っていると分かって……うれしかった」

「うん……譲くんのこと、好き……だよ」

 言うと、譲の顔が近づいてくる。

 密着していた身体は離れたが、いまだのりえは譲の腕の中にいて、後ろには木の幹。

 逃げる場所はない。

「もう一度……いいですか?」

 囁くように懇願する。

 問いかけておきながら彼女の返答を待たずに譲はその唇に触れ、

「――愛しています」

 わずかに唇を離し、熱を帯びた吐息とともに甘く囁く。

「ん……」

 今度のキスは一方的な気持ちの押しつけではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 


 二人して顔を赤らめさせながら他の者たちの元に戻ったのは、それから数分後のことだった。

 何も言わずのりえを連れて姿を消してしまった譲に、弁慶が微笑みながら咎める姿は、背後に阿修羅像の幻影が見えるほど。

 ただでさえ山登りで体力を消費している彼女を連れ去っていったい何をしていたのやら。

 彼女の身体のことを誰よりも心配している譲がそれを見失って無理をさせるとは何事ですか、と表情を崩すことなく言い放つ。

 当然のりえは譲を庇い反論するが、次第に弁慶の説教の矛先は彼女のほうへ。

 譲に放った言葉より優しいものだが、彼にしてはめずらしく長いものだった。

 見かねて景時が間に入り、なかば強引に話を終わらせた。

 再び九郎の師の庵を探し求め、歩を進める。

「……叱られちゃったね」

 ぽそりと隣の譲に声をかけるのりえ。

 あれだけ叱られたのに落ち込んだ様子はなく、どこか楽しげである。

「すみません、先輩まで巻き込んでしまって……」

「あたしは大丈夫。譲くんので慣れてるから」

「先輩」

 譲がむくれる。

「でもちょっとめずらしかった。譲くんが叱られるなんて。いつもはあたしと将臣くんが叱られる立場だったのに、なんだか新鮮」

 肩をすくめて無邪気に笑う。

 その笑顔を見て、譲は落ち込んでいた自分が馬鹿らしくなってきた。

「まったく……。先輩らしいですね」

 そんなところがたまらなく愛おしい。

「はー……でも、ずいぶん歩いたのにまだ見つからないねぇ」

 ため息をつき、辺りを見渡す。

「あ――」

 急にのりえが立ち止まった。

「のりえ? どうしたの?」

 後ろにいた朔が突然止まったのりえに驚いて、慌てて白龍と止まり、先を行っていた弁慶と景時も振り返る。

 のりえは進行方向の先ではなく、道を外れた右の先を見ていた。

「ねえ、あれじゃない?」

 つられて全員が視線を向ける。

 二十メートルほど先に拓けた場所があり、中央には古びた庵が建っていた。

「白龍、行ってみよう!」

「うん!」

 白龍と一緒に庵を目指して駆け出す。

「あ、先輩! 走らないでください!」

 遅れて譲も追いかける。

「……元気だね~、のりえちゃん」

「今日ははしゃぎすぎよ。夜が心配だわ」

「少し強めの薬湯を作っておかなくてはなりませんね」

 口々に言い、彼女たちの後を追って庵へと向かう。

「ごめんくださ~いっ」

「ごめんくださ~いっ」

 のりえの言葉を真似して、白龍も庵の中に向かって声をかける。

 しかし返事はなく、しんと静まり返っていた。

「……いないのかな」

 勝手に中に入ることはできないので、まわりをくるりと一周。

 縁側に面したところに小さな物干し台があり、黒い大きな布が一枚干されていた。

 その布に触れてみる。

 わずかに湿っており、生乾きの状態だった。

「洗濯物……干してるってことは、戻ってくるよね」

「だね~。今日は雨が降らないからいいけど、干しっぱなしで出かけるのはまずいよ~」

 洗濯にうるさい景時がしわの寄っている部分を見つけ、丁寧に伸ばしていく。

「のりえさん、縁側をお借りして少し休んでください」

「Yes,sir」

 うなずいて素直に座り、肩にかけていたバッグの中からペットボトルを取り出す。

 出かける前にいっぱい詰めておいた水は半分以下に減っていた。

「I'm tierd from walking……」

 本音を日本語ではなく、英語で呟く。

 最近、聞かれてはまずいことを外国語で喋るくせができてしまった。

 きっかけはあの九郎の語学教室。

 のりえや譲にとって外国語は身近なものだったが、彼らには縁遠いもの。

 挨拶程度の言葉ですら意味が通じない。

 譲も英語は多少なりとできるが、のりえのような流暢な喋りはできず、読解のスピードも遅く、正確に何を言っているか分からないことが多い。

 英語ですら、いくつかの単語を拾うのが精一杯なのに、フランス語やドイツ語などを出されるとお手上げである。

「……? のりえちゃん、今なんて言ったの?」

 景時が不思議そうな表情で問いかけてくる。

 彼も九郎と同じく、外国の言葉に興味があるらしい。

 のりえが何か聞き慣れない言葉を発する度にどういう意味かと聞いてくる。

「たいしたことは言ってませんよ。よっこいしょってな感じで」

 ばか正直に疲れたなどと口にすれば、心配性の譲や景時がすぐに気を遣ってくる。

 余計な手間をかけさせたくはないので嘘をついた。

「ふふっ、景時さんも今度、九郎さんと一緒に語学を習ってみますか?」

「えっ、いいの?」

「通じる相手は譲くんしかいませんけれど。それでいいのなら」

 笑いをこらえながら、ちらっと譲のほうを見る。

「先輩……あまりおかしなことを教えないでくださいね」

「真面目な語学教室だよ?」

「そうは言っても、九郎さんはうろ覚えの状態で俺に話しかけてくるから厄介なんです」

 本人はいたって真面目なつもりなのだろうが、片言の間違った単語で話してくる様は滑稽以外のなにものでもない。

 聞いているほうは吹き出さないように笑いをこらえるので必死なのだ。

「最初はみんなそうでしょ。あたしだってそうだったもん」

 間違った英語で話して、相手の外国人に何度大笑いされたことか。

「でも、九郎さんの勉学意欲はすごいと思う。てっきり分からなくなってやめちゃうと思ってたんだけど、けっこう続くね?」

「それについては僕も驚きですよ。九郎は軍略以外のことは苦手なのですが、のりえさんの教える言葉は熱心に覚えようとしていますね」

「wonderfl」

 のりえは微笑んで続けた。

「If you have the desire to learm,you can learm it quickly.」

 

 


 流暢な彼女の言葉は、その場にいる誰もが理解できず、頭の上には〝?〟マークが飛び交っていた。

 それから十分ほど他愛ない話をしながら庵の主の帰りを待っていたが、一向に帰ってくる気配がない。

「……こんな人里離れたところに住んでる人だから、ひょっとしたら人嫌いだったりするのかな~」

 何気なく景時が呟いた。

「そんなことはないと思いますよ」

 笑顔で否定したのはのりえ。

 たとえ神子を守る八葉だったとしても、人嫌いならわざわざ蜂蜜をくれたり、花断ちを教えてくれたりすることはなかっただろう。

 それに発作を起こしたあのとき、自分で薬を飲んだ記憶はないが、それでも一回分の薬が減っていたことは事実で、もしかしたらあの人が飲ませてくれたのかもしれない。

「俺が待ってましょうか。会えたら、京邸に連れて行きますよ」

「却下」

 譲が出した提案を、のりえは即座に切り捨てた。

「いつ帰ってくるかも分からないんだよ? 譲くんが待っているなら、あたしも残るし。それに、少しこの近くを探してみようよ」

「そうね。みんなで探してみましょう。……でも、用心したほうがいいと思うわ。天狗だなんて言われている、よく分からない人なんですもの」

「心配はいりません。九郎の剣の師匠ですよ」

「牛若丸に武芸を授けた天狗……ですか。違う世界だから仕方ないんでしょうが……俺の常識とは違っていて、正直、俺には判断がつきません。どんな人なのか」

 のりえは悪い人ではないと言う。

 彼女の言葉を疑うわけではないが、以前街で見知らぬ男性に親切にされただけでいい人と判断し、その後しつこく付きまとわれたことがあった。

 男を見る目がないとまでは言わないものの、のりえの場合は危うい。

 苦しんでいるときは相手を見極めることができず、最悪そのままいかがわしい場所に連れて行かれてしまう可能性がある。

 一度そういうことがあり、そのときは寸前のところで将臣と譲が駆けつけ、相手は将臣にぼこぼこにされてから警察に引き渡した。

「まあ、朔や譲くんの不安も分かるよ~。オレも、会ったことのない人だしね」

「じゃああたし、あっちのほう、探してきますね」

 ペットボトルをしまい、立ち上がる。

「先輩、俺も一緒に行きます」

「一緒に探すのは効率悪いでしょ。そんなに遠くには行かないから大丈夫。なんかあったら叫ぶし」

 言ってのりえは一人、庵の裏手の森に入っていく。

 他の者たちも彼女に習って、別々の方向へと探しに行く。

 意気揚々として探しに出たのりえだったが、庵が見えなくなったところで座り込んでしまった。

「……っ……」

 数分前から気分が悪く、意識がぐらついていた。

 身体を起こしていることもつらくて、地面の上にも関わらずのりえは身体を横にする。

 ほんの少し。

 少しの間だけ横になっていればすぐに治る。

(だからそれまで、誰もこっちには来ないで……)

(こんなことでいちいち誰かの手を煩わせたくはない……)

 そう祈りながら、彼女の意識はゆっくりと遠のいていった。

 そのすぐ後、近くに生えていた一本の木が大きく揺れ、地上から数メートル離れた高い枝の上から一人の男が飛び降りてくる。

 金の髪と青い目を持つ、九郎の師と言われているあの男だった。

 男はのりえを抱き上げ、庵に戻る。

 全員が出払っていたため、誰も彼らには気づかない。

 部屋の中へ入り、のりえを寝かせてから男は蜜を溶かした水を用意し、腰につけていた袋の中から摘んできたばかりの野苺を出す。

 顔半分を覆っていたマスクを外し、野苺の一つを口に含む。

 軽く噛み砕いて己の舌で野苺の甘さを確認してから、のりえの上半身を抱き起こし、

「…………」

 口移しで野苺を食べさせる。

 続けて二粒ほど与え、用意していた蜜水を同じ方法で飲ませた。

「――……んっ……」

 三口目の蜜水を飲ませたところで、のりえが意識を取り戻した。

 男は唇を離して口の端に流れた雫を拭い取り、目を開ける前にマスクを戻した。

「神子」

 呼びかけるとまぶたが開き、色違いの瞳が男の姿を映す。

「気分はどうだ?」

「……さい……あく……」

 男の存在より、具合の悪さが勝ってしまった。

 驚く暇もなく、激しいめまいに襲われる。

「低血糖によるものだ。あまり物を食べずにここに来ただろう? 少し無理をしてでも食べなさい。でないと、神子の苦しみが続くばかりだ」

 椀のふちを口元につけ、蜜水を飲ませてからいくつかの野苺を押し込む。

「もう少しすればよくなる。それまで休んでいなさい」

 のりえを横たわらせ、まとっていた外套をかける。

「他の者たちを呼んでこよう。神子は絶対にここから動いてはいけない」

 ぽんぽんと軽く頭を叩いて、男は庵を出ていく。

「…………」

 一人残されたのりえは小さく息を吐き、身体を横に向ける。

 まぶたを閉じ、ただひたすらに調子が良くなるのを待つ。

 うつろう意識の中で複数の足音を聞いたのは、それから間もないことだった。

「――先輩っ!?」

 血相を変えて庵に飛び込んできたのは譲。

 横になっていたのりえを抱き起こし、額に手を当てる。

「いたたっ……だ、大丈夫だよ譲くん」

「大丈夫じゃありませんよ! なんで黙っていたんですか!? あれほど具合が悪くなったら言ってくださいと口をすっぱくして言っていたのに、どうして!?」

「ごめん、ごめんってば。別に発作が起きたわけじゃないし、ただのめまいだけ」

 譲から離れ、乱れた髪をなおす。

 めまいはおさまり、気分も悪くない。

「今回は神子の栄養摂取不足だ。血糖が下がり、めまいと吐き気を引き起こした」

 もっと食えと言わんばかりに男が野苺の入った袋を持たす。

「……っ、無理にでも朝ごはんを食べさせるんだった……!」

 山登りをするのだからきちんと食事を摂らせるべきだったが、無理に食べさせても逆に胃が受け付けず、戻してしまうおそれがあったため、無理強いをさせることはできなかった。

 しかし、こんな状況に陥るのならば、多少の強引さを用いても食べさせればよかった。

「ま、まぁそんなことより! ……九郎さんのお師匠さん、ですよね?」

 姿勢を正し、男に向き直る。

「リズヴァーンだ」

「ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした」

 まずは手を煩わせてしまったことの謝罪。

 そして助けてもらったことの礼を言おうとしたが、

「礼を言う必要はない。八葉とは神子に従い、守るもの。当然のことをしたまでだ」

「そういうわけにはいきません。いくら神子と八葉という間柄でも、お世話になったのならきちんとしないと。……ありがとうございました」

 リズヴァーンと名乗った男に向かって、のりえは丁寧に頭を下げる。

「申し遅れました、のりえと申します。今日、こちらに伺ったのは……」

 持っていたバッグの中から黒い外套を取り出し、

「これをお返ししようと。あと……いきなりですみませんが、花断ちを教えて欲しいんです」

 のりえは簡潔に事のあらましを話した。

 リズヴァーンは表情を一切変えず、彼女の言葉に聞き入っている。

 何の反応を見せない彼に、のりえは少しずつ不安を覚えていく。

 のりえ自身先ほど言った言葉ではないが、神子を守る八葉といえど、そう簡単に剣の指南をしてもらえるものではないかもしれない。

 その上、この虚弱な身体のことを知れば……。

 話せば話すほど、絶望的になってきた。

 他の者たちも、下手に間に入っては彼女の覚悟が伝わらないと考えて、二人の様子を静観している。

「どうか、お願いします」

 精一杯の気持ちを込めて、頭を下げた。

 そして、一呼吸の間もあけずに返ってきたのは――

「いいだろう」

 予想に反して、承諾の返事だった。

「そこをなんとかおねが……え?」

 先入観で断られたとばかり思っていたのりえは、自分の耳に届いた言葉にがばっと顔を上げる。

 今、彼はなんと言っただろう?

「だが、神子はもう知っている。私が教えるまでもない」

「いえ……あの……」

「私が教えられるのは、神子の力を引き出すきっかけだけに過ぎぬ」

「それって……Okayってこと、ですか?」

「神子がそれを望むのなら」

 二人のやりとりを聞いて、景時が小声で隣の譲に「おーけーってなに?」と問いかけていたりする。

「ただし、条件がある」

「な、なんでしょう……?」

 こくりと息を飲む。

 条件とはいったい何事か。

 もしかして、花断ちの一歩手前の、何かの技を身につけてから、というものだろうか。

「私がこれ以上無理と判断したら、すぐに鍛練をやめること。それが聞けぬようなら、いくら神子の願いといえども引き受けかねる」

「それは、素質がなければあきらめろ、ということですか……?」

 九郎や弁慶から戦闘能力については評価されていたが、玄人である立場の人間から素質がないと言われると、少なからずショックを受けた。

 戦いに関してはまったくの無意識ゆえ、第三者から見ればめちゃくちゃな剣術に見えたのかもしれない。

 ずどーんと落ち込んでいると、リズヴァーンはすぐに否定した。

「そうではない。神子の身体のことだ。無理をし続ければ神子の身体はいとも簡単に壊れていく。そうなっては元も子もないだろう。神子は唯一無二の存在。失ってはいけないものだ。……私の言うことが聞けぬのなら無理だ」

「条件って……それだけなんですか?」

「神子にとってはそれだけ、というくくりの問題ではないだろう。最悪、命にも関わる。神子の覚悟次第だ」

「覚悟……」

 呟いて、将臣のことを思い出す。

 決めたはずの覚悟は、あの夢の将臣の前でいったん折れてしまった。

 将臣に会えないまま死ぬのは、死ぬことよりも怖い。

 それでも、将臣は絶対に会えると言ってくれた。

 存在を感じられるように懐中時計も渡してくれた。

 何もしないでただじっと待つだけでは、彼に会うことはできない。

 今ある現実を、目の前に立ちはだかっている壁を乗り越えてからでないと、将臣に会えない。

 そう感じたのりえは真剣なまなざしでリズヴァーンを見つめ、

「約束します。……お願いします、先生」

 もう一度頭を下げた。