大きなため息とともにのりえは剣を地面に突き刺し、それに寄りかかった。

「うまくいかないー……」

 ずるずると剣を伝って下にへたり込む。

 ――翌日も、のりえは神泉苑へとやってきていた。

 供は譲と藤代の二人。

 しかし彼らは彼女の邪魔をしないように庭園内を散策中。

 のりえ一人で、ひらひら舞う桜の花びらと格闘していた。

「……けほっ、けほっ……」

 見上げて桜に見入ること数分。

 いやな感じの咳が出始めてきた。

 譲から、くれぐれも無理はするなと耳にタコができるくらい言われてきたことだが、多少の無理をしなければ、九郎のような花断ちは身につかないだろう。

 封印の力を持つ者はのりえしかいない。

 のりえが戦わなければ、白龍に力は戻らず、譲を元の世界にも帰せない。

 それに何より、鬼の容姿を恐れず受け入れてくれた九郎たちを守りたかった。

 武士たちの間で神子の話題が出る度、彼らは庇護してくれている。

 その代わりと言ってはなんだが、戦場で怨霊によって傷つかぬよう守り抜くことを決めた。

 男が女に守られるなどと、これほど恥ずかしいものはないだろうが、のりえは白龍の神子。

 女だから、という常識は見当違いになる。

 使える力を使って、守れるものは守る。

 当然の理である。

「……よしっ」

 気合いを入れ、立ち上がって剣を構え直す。

 目標定めて素早く剣を振る。

 びゅっという鋭い音はすれど、花びらは断てていない。

 振るときに生じる風に煽られて、別のところに飛んでいってしまう。

「あーもー!!」

 やけっぱちのように縦、横、斜めと剣を振り回していると、

「――何をしている」

 後ろから聞き慣れない、低い男の声がした。

「ひゃっ!?」

 あまりにも突然だったため、のりえは変な声をあげ、剣を落としてしまった。

(ひ、人が近くにいたなんて……!)

 振り向くことなく、すぐさま近くに置いていた上着をつかんで頭から被る。

「あ、あの、ごめんなさい……」

 顔を隠してから振り返り、落とした剣を拾いながら謝った。

 別に悪いことをしていたわけでもないのに謝ってしまったのは、いまだ京の人に恐れがあるゆえ。

 無条件に謝罪の言葉が口をついて出る。

「なぜ謝る」

 男の声は先ほどよりも近いところで聞こえた。

 よく見ると、一メートルもないところに男のものであろう両足があった。

「いや、あの……。す、すぐに出ていきます」

 後ずさりしてその場から逃げようとしたが、足がもつれ、後ろに倒れそうになる。

「うあ――!?」

 あたふたと手をばたつかせ、必死にバランスをとろうとする。

(――だめだ!!)

 そう思った瞬間、右腕をつかまれ、強く前に引っ張られる感覚があった。

「こんなものを被っているから、まわりが見えないんだ」

 男の声がし、被っている上着に手をかけられる気配がする。

「だめです、取らないで! ……あの、引っ張ってくださってありがとうございました」

 礼を言い、いまだつかまれている腕を引き抜こうとするが、男は手を離さなかった。

(ど、ど、どうしようっ、譲くん! 藤代さん!)

 正体がバレれば、いつぞやの日のように殴られ、罵倒されるのか。

 刹那にして、あのときの恐怖が全身を襲った。

「……恐れることはない。私はおまえに仇なす者ではない」

 男の手が上着を握り、ゆっくりと引き剥がす。

 のりえは最後の足掻きとして、ぎゅっと両のまぶたを閉じた。

「私を見なさい、神子」

「――!」

 神子と呼ばれたことに驚いて、のりえは思わず目を開けてしまった。

 そしてその両目に飛び込んできた相手の姿は――――

「……あ……金髪……」

 飛び抜けて高い身長に、肩まで過ぎて軽くウェーブのかかった髪は、わずかにくすみがかったハニーブロンド。

 顔の半分は暗赤色のマスクで覆っており、両の鋭い瞳はのりえの左眼と同じ、青い色をしていた。

「……同じ……?」

「そうだ。だから恐れることはない」

「ご、ごめんなさいっ、前に……ひどいことされたから……」

 のりえの右手が無意識に左肩に当てられる。

 そのとき、胸元から光る玉が浮かび上がり、それは彼の右目のすぐ下に吸い込まれた。

 淡く光り、薄黄色い宝玉が見える。

「今のは八葉の――」

「そうだ、私は八葉だ。それは変わらない。これから先も――おまえが白龍の神子であるごとく」

「……?」

 呆気にとられていると、彼の大きな手のひらがのりえの額に当てられた。

 黒い手袋越しでもひんやりとした感触がする。

(気持ちい~……)

 ほてった顔には気持ちのいい手だった。

「神子、これを飲みなさい」

 手が離れたと思うと、懐から小瓶を取り出した。

「これは……?」

「咳き込んでいただろう。薬だ」

「でも、弁慶さんの薬を飲んでるから……」

 薬の併用は怖いものだ。

 時として、起こさなくていい発作をも引き起こしてしまう。

「これは大丈夫だ。飲みなさい」

 すすめられるまま、小瓶を受け取り、蓋を開ける。

 中を覗くと、とろっとした液体が入っていた。

 人差し指で少量すくい取り、舐めてみる。

「……甘い……。これ、蜂蜜ですか?」

「蜜は甘いだけの食べ物ではない。かすれた喉をうるおし、免疫を作る。また、疲労を癒す効果もある」

「おいし~♪ この世界に来て、初めてこんなに甘いものを食べました! ――あれ、でもこの時代の蜂蜜って貴重品じゃ……?」

 この時代の甘味料は砂糖がなく、甘葛という植物で甘味をつけていた。

 蜂蜜はめずらしく、高貴な貴族の者たちでも滅多に食べられるものではなかった。

「気にすることはない。おまえのために用意したものだ」

「あたしのため……? でも……」

「今、おまえが気にすることはそれではない」

 再び腕をつかまれ、引っ張られた。

「……手が赤くなっている。剣の柄を強く握りすぎてはいけない」

 男の指が、赤くなったのりえの手のひらをなぞる。

 こそばゆい感覚を我慢し、顔と同じく熱を持った手のひらを、男の冷えた手が冷ましてくれた。

 しばらくして、男が手を離す。

「少しは休まったか?」

「は、はい……」

 今さらながらに、出会ってすぐの男性に手を握られていたことを考えると、胸の鼓動が速くなってくる。

 九郎や譲、弁慶とは違う――〝男性〟。

 そのたくましい長い両腕で抱かれたら、どれほど心地よいぬくもりを与えてくれるか……。

「では神子、花びらを空中でつかんでみなさい」

「花びらを……?」

 小瓶に蓋をし、バッグの中にしまってから、言われたとおりに飛んでいる花びらをつかもうとする。

 しかし、つかもうとする動きのせいで風が起こり、はらりはらりと花びらはのりえの手から逃げてしまう。

「よっ、こら、逃げるなっ。……うー、腕を動かすと、風ができちゃってうまくつかめません」

「では、手のひらを上に向け、花が落ちてくるのを待ってみなさい」

「…………」

 つかもうと意識せず、受け止めようとして腕を動かしていると、花びらはすんなりのりえの手の中に落ちてきた。

「……そうか」

 それを見て、すぐに納得したようにひとり小さい呟いた。

「でも、急に風が吹いたら、花は飛んでいっちゃうかも」

「風を感じ、心を寄り添わせれば、花を受け、つかまえられる」

「心を、風に寄り添わせる……?」

「考えるのではない。風を……花を、おまえを包み繋がる万象を感じるのだ」

 言って彼はのりえから離れ、腰元にあった剣を引き抜いた。

 黒味の剣刃が妖しく光る曲刀。

「――風はおまえの中にあり、星はおまえの上にあり、地はおまえの下にある」

 流れるような所作で剣を振るい、辺りに舞っていた花びらすべてを一刀両断にしていく。

(うわあ、きれい……剣があんなに美しく軌跡を描くなんて……。風を断つのではなく、風そのもの……これが花断ちなの? それが使えるなんて、この人はいったい――――)

「神子、おまえはただ信じたいものを信じ、行いたいことを行いなさい。それがおまえの道を拓く。白は無垢の象徴、そして無の象徴でもある。おまえは何者でもなく、そして世界のすべてだ」

「世界の……すべて?」

 ――世界のすべてを、おまえが支えるんだ。

 誰かの声が、頭の中で響いた。

 この世界に来てから聞こえるようになったいくつかの声。

 ふとしたきっかけで響いてくる。

 これまで聞いたことのない声なのになぜかいつも懐かしく、哀しく、そしてたまらなく愛しい。

 ぽろっと、青い瞳から涙がこぼれた。

「あれ……? 雨が……」

 頬に伝う感触に気づき、空を見上げる。

 だが、空は青く晴れ渡っていた。

「神子、おまえの涙だ」

「えっ!?」

 泣いている自覚はなかった。

 目を拭うと、たまっていた涙があふれる。

「あはは、いやだな~、なんで涙なんか!」

 会ってすぐの人間に涙を見られるなんて。

 恥ずかしさをごまかすために無意味に明るい口調になったが、すぐに咳き込んでしまった。

 急に肺が苦しくなり、心臓が痛み出す。

 立っていることができず、崩れるようにその場に倒れる。

「くっ……ぅっ……!」

 内側から鋭い刃物で何度も突き刺されているような激痛が胸を襲う。

「神子!」

 男が駆け寄り、のりえの身体を抱き上げたときには、彼女の意識はもうなかった。





 次に意識を取り戻し、真っ先に視界に飛び込んできたのは毎度のことながら、見慣れた焦げ茶色の天井だった。

 京邸の、自分の部屋として与えられた一室。

 いつの間にか、神泉苑から京邸に戻っていた。

 痛む胸を押さえながらゆっくりと身を起こし、辺りを見まわすと部屋の隅、壁に背を預けて両足を抱えている譲の姿を見つけた。

「……譲、くん?」

 遠慮がちに名を呼ぶ。

 すると、譲が勢いよく顔を上げた。

「先輩!」

 壁から離れ、転がるようにのりえのそばまで這いつくばってくる。

「よかった……! ――どこか苦しいところはありませんか? 痛むところは!?」

 ほっと安心したのも束の間、すぐに体調を窺う。

「まだ胸が少し……。でも、だい――」

「大丈夫なわけありませんよ! ……お願いですから、すぐにそう大丈夫だなんて言わないでください。先輩の場合はいつ何時、どんなことが起こるか分からないんですから」

 自分でもハチャメチャなことを言っているのは分かっている。

 半分八つ当たりだというのも承知している。

 だけど、言わずにはいられない。

「う、うん……ごめん。このへんが、まだつきつき痛むんだ」

 譲の迫力に負け、素直に具合の良し悪しを報告する。

 左胸、心臓の辺りをさする。

「激しく運動したんですか?」

「ううん、運動して苦しくなったわけじゃないの。人と話してて……」

 そこで、はたと気づいた。

 あの金髪の男はどうしたのだろう。

「ねえ、譲くん。あたし、いったいどうしたの? 胸が苦しくなって、すぐに気を失っちゃったんだけど……それからどうしたの?」

「俺たちが散策から戻ってみたら、先輩はもう倒れていました。……あのときはもう頭が真っ白でしたよ。薬を飲んだようですが、所詮は発作の症状を和らげるだけ。完全に治るものではありません」

 地面に横たわっていたのりえを発見したとき、背筋が一瞬にして凍るほどの激しい恐怖を覚えた。

 慌てて彼女の元へ行き、呼吸の確認をする。

 深刻な状態ではなかったが、すぐにのりえを連れて京邸へと戻ってきた。

 そこへタイミングよく、六条堀川から帰ってきた弁慶にすぐに彼女を診てもらったのだ。

 すぐに薬を飲んでいたようで激しい発作には至らず、ゆっくり休むことで回復すると言われた。

 先ほどまで藤代も部屋の外でのりえを心配して控えていたが、仕事の時間が来たため、後ろ髪を引かれつつ戻っていった。

「え……?」

(薬を飲んだ……? あたし、飲んだ覚えはないんだけど……)

 横にあったバッグをたぐり寄せ、中からピルケースを取り出し、薬の数を確認する。

 前に飲んだときより、一回分の薬がなくなっている。

(どういうこと……?)

「――失礼します、のりえさんは起きていますか?」

 襖の向こうから弁慶の声がした。

「あ、はい」

 返事をすると襖が開き、小さな椀と黒い大きな布を持って弁慶が入ってきた。

「顔色はまだ良くないですね。薬湯を作ってきました。飲んでください」

「う……」

 薬湯と言われて、顔がひきつる。

「ふふっ、正直なお人ですね。大丈夫、今回はそんなに苦くはありませんよ」

 受け取った椀の中を見ると、確かに前回よりかは色が濃くなく、苦そうな印象は受けない。

 香りもかすかで、何やら漢方薬に似た匂いがした。

 ほんの少し口にして、味を確かめる。

 苦味はあったが、前よりひどくなく、苦労なく喉を通っていった。

「ところで、のりえさん。こちらの外套に見覚えはありますか?」

 腕にかけていた黒い布を広げる。

「譲くんがのりえさんを連れてきたときに、身体にかけてあったものなんですが……」

 譲も見慣れぬその外套に疑問を抱いたが、それを気にしている暇もなくのりえを連れ帰っていた。

「あ……」

 曼珠沙華の模様が入った黒い外套。

 神泉苑で出会った金髪の男のものだ。

「それ、あの人のです」

「あの人?」

「実は、鍛練してるときに……」

 のりえは男のことを二人に話す。

「金の髪、青い瞳……花断ちをふるう異形の者……思い当たるのは一人――彼は名乗りませんでしたか?」

「あ、いえ……名前を聞かないまま、気を失っちゃって……。弁慶さんは知ってるんですか?」

「確信はありませんが、多分、その人は九郎の剣の師匠ですよ。僕はよく知りませんが、九郎はたいへん尊敬していますね。九郎に花断ちを教えたのも、彼だと聞いています」

「えっ!? あの人が九郎さんの先生!?」

 そこでようやく合点がいった。

 九郎があれほどまでに鬼を庇うのは、鬼の師匠をもっていたからだったのだ。

 弁慶も初めて会ったとき、驚かなかったのはその存在があったため。

「あの人が……。――もしかして、九郎さんがいろいろ庇ってくれるのは、先生があたしと同じだったから……?」

 己の尊敬している先生が鬼と呼ばれる異形の者で、同じ存在であるのりえを罵られていては我慢ならなかったのかもしれない。

「弁慶さん、あの人はどこに行けば、会えるんでしか?」

「え? ああ……鞍馬山に行けば、会えると思いますよ。彼は、鞍馬山の天狗と言われていますから」

「鞍馬山……」

 京邸のはるか北にそびえる広大な山。

 史実では、幼い頃の九郎義経が天狗に武芸を習うとともに山の中を駆け回り、人間離れした体力をつけた場所。

 のりえに残された時間は短い。

 少しでも早く花断ちを身につけ、軍に所属することを許してもらわねば。

 そのためには、九郎の師匠であり花断ちを教えたという彼に師事するのが一番の近道。

 だが、この京の町中でもう一度、彼と出会うのはもはや難しいかもしれない。

 瞳の色が違うのりえでさえ、外出するときはフードつきの外套を目深に被り、どんなことがあっても外さない徹底ぶり。

 九郎の師匠だという彼は髪の色まで違っていた。

 神泉苑に人気が少ないとはいえ、あそこで会ったのは奇跡の確率かもしれない。

 小さく呟いたのりえの声を聞き逃さなかった譲は、まさかと思いつつ、

「……先輩、その鞍馬山に……」

 おそるおそる訊いてみる。

「うん。行こうと思う。名前も聞きそびれちゃったし、この外套も返さなくちゃ」

 やはり想像通りの答えが返ってきた。

 どうしてこの人はじっとしてはいてくれないのだろう?

 ついさっきだって発作を起こして気を失う事態に陥っていたはずなのに、そんな身体で山登りをすれば……。

「譲くん……ごめんね?」

 無言のまま途方に暮れていると、細い指が譲の右手に触れてきた。

「…………」

「説得力ないかもしれないけど……無理は絶対にしないから……」

 本当に説得力はなかった。

 けれども、切実に訴えかける瞳に逆らえることもできず、譲は仕方ありませんねと承諾するしかできなかった。





 翌日の朝早く、弁慶の案内で、のりえ、譲、朔、白龍は鞍馬山へと向かっていた。

 藤代にも声をかけたのだが、仕事があり、同行できなかった。

 朝早く出たのは彼女の体調を考え、休憩時間を挟むため。

 日が沈む前に戻ってくるには、時間の余裕を見積もっておくことが必要だった。

 昼前に鞍馬寺に着き、境内の片隅で昼食を兼ねて休憩した後、再び山の奥に入っていく。

「うひゃー」

 視線を足元から左に移すと、これまで歩いてきた山や京の町並みが遠くに見える。

「壮観だねえ」

「けっこう歩いてきたわね。九郎殿の師の庵って、いったいどこにあるのかしら」

「僕も、庵を訪ねたことはないんです。九郎から話を聞いたことがあるだけで……。鞍馬山のどこかにあるはずなんですけれど。天狗というくらいだから、きっと人里離れたところに住んでいるんでしょうね」

 九郎に詳しく話を聞くということもできたが、のりえがそれにはうなずかなかった。

 自力でたどり着きたくて、鞍馬山に行くことは伝えず、今日は鍛練のため留守にすると言い残してここまでやってきた。

「ここよりも、もっと山の中なんですか?」

「鞍馬の山は、貴船神社に通じる山道が通っているんです。九郎はその辺りで修行をしていたと言ってましたから」

「庵に行くのもけっこう、大変なんですね」

「先輩、大丈夫ですか? 少し、休みますか?」

「平気だよ」

「神子、無理はしないでね」

「ありがと、白龍。白龍も大丈夫? 疲れてない?」

 小さい身体にもかかわらず、白龍は文句一つ言うことなく、一生懸命山道を歩いてきた。

「うん。神子と一緒だから、大丈夫」

 さらりと大胆なことを言う。

 ただ、本人も言われた当人も鈍いせいか、いまいち甘い雰囲気は流れない。

 ぽえ~んとした空気が漂うだけ。

「……あれ、こっちにも道、あるね」

 さらにしばらく歩いたところで、のりえが別の道を見つけた。

「この道行くと、貴船神社に行っちゃうんだよね。もしかしたら、こっちかも!」

 脇道に入ろうとした途端、

「――待って、神子!!」

 ごづっ。

 白龍の声と鈍い音が同時に響いた。

「っ…………!!」

 声にならない呻きをあげ、のりえは額を押さえてしゃがみこむ。

「先輩っ!?」

「目……目がっ、チカチカ……」

 強い光を当てられたときと似たようなめまいを覚える。

「な、な、なんなの~、いったい~」

 くらくらする頭を支え、右手を前に突き出すと、ごつんと見えない壁にぶつかった。

「ガラス、のようなものがあるみたいですね。指紋がつくわけでもないし、物質があるようには見えませんが」

 譲も触って確かめてみる。

「これは……結界ですね。呪法で行く先をふさいでいるんです」

 弁慶が結界と呼ばれるものを調べ、

「面倒そうな結界ですね。さすがは天狗の住処といったところでしょうか。僕じゃ解くのは無理かな。陰陽師でないと……――そうだ、景時なら解けると思いますよ」

「兄上ですか?」

「ええ。どこに行ったか、ご存知ありませんか? 最近は別行動なので、僕は分からないんですよ」

「ごめんなさい。私も分からないんです。まだ一度も邸には戻ってきていないので……。でも、そろそろ戻ってくるとは思うんです。……洗濯しに」

 最後の言葉を聞いて、弁慶は納得したようにうなずいた。

「え、朔ってお兄さんいたの!?」

 今さらの事実を知って、驚愕の声をあげる。

「あら? 話してなかったかしら?」

「うんうん!」

 驚くのりえとは反対に、譲は表情を強張らせて問いかけた。

「さっき……景時、っておっしゃいましたよね? それはもしかして、梶原景時のことですか?」

「譲くん、景時をご存知なんですか?」

「いえ……あの……名前だけ、ですが……」

 歴史を知っているというのは、便利なのか不便なのか。

 知識として覚えている梶原景時と、ここの世界の梶原景時は違うかもしれない。

「ねえねえ、朔のお兄さんって、陰陽師なの?」

 やたらきらきらした瞳で聞いてくるのりえに、朔は苦笑しながら答える。

 先ほどぶつけた額が真っ赤になっていた。

「ええ、一応」

「すごいすごい! お兄さんが陰陽師だなんてすごいね!」

 テレビの中の話だと思っていたものが、ここでは実在する。

 少なからずテンションが上がった。

「……のりえ、あまり期待しないでちょうだい。そんなにすごいものでもないのよ」

「そう? でも、やっぱりすごいと思うよ。ね、譲くん」

「ええ。陰陽師だなんて、俺たちの世界じゃテレビの中の話ですからね」

 自分の知っていた梶原景時とは違う一面を知り、譲は内心ほっとしていた。

「本当に、本当にたいしたものでもないのよ」

「……? 朔、なんでお兄さんのことをそんなふうに言うの?」

「だって本当のことですもの。それに、のりえを落胆させたくないから」

(朔がそこまで言うお兄さんって、どんな人なんだろう……)

 う~んと考え込んでいると、

「でも、じゃあ今日は先に進めないんですね」

 譲が息を吐き、辺りの景色を見渡した。

「……ごめんね、譲くん。あたしが無理言ってここまで来たのに、先に行けなくて……」

「なに言ってるんですか。先輩が謝ることはなに一つないんですよ。それに、こんな壮大な景色を見られたのは先輩のおかげなんですから」

 ここまでの道のりは決して楽なものではなかったが、のりえに合わせて休み休み登ってきたおかげで、譲にしてみればそんなたいそうな労力でもない。

 それに付け加え、現実の世界では見られない、きれいな緑の山野を一望でき、新鮮な空気を吸える。

 これほど贅沢なものはなかった。

「あ~あ、なんかちょっと拍子抜けしちゃった。だけど、さすが八葉だよね。結界なんてものを使えちゃうんだから」

 八葉の扱う力と鬼の異形の力はまったくの別物なのだが、のりえはまだ区別ができないでいる。

「八葉……? あの人が、八葉なのですか?」

 彼女の言葉を聞きとめて、弁慶が目を丸くする。

「あれ? 言ってませんでしたっけ?」

「初耳ですよ。……意外だな」

「どうして意外なんですか?」

「あ、いえ。悪い意味ではないんです。あの人の力があれば、戦いは有利になりますし。――それならば、絶対に会いに行かなければいけませんね」

「そうですね。とりあえず、今日は邸に帰りましょうか。もしかしたら、兄上も帰っているかもしれないし」

 それから少し休憩を取って、五人は山を降りた。

 夕方前に邸に着き、すぐに朔が兄の景時の姿を探す。

「ごめんなさい、のりえ。兄上はまだ帰っていないようだわ」

 邸中を探し、駐在の武士たちにも聞いてみたが、行方は知れなかった。

「京に怨霊がたくさん現れたから、調伏しに行ってるのね。どこに行っているのか、分かればよいのだけれど」

「怨霊って、そんなにたくさん現れてるんだね。……あたしも――」

 行ったほうがいいのかな、と言う前に朔が言葉を挟んできた。

「そう言って無理をしないでって、何度言えば分かるのかしらね?」

「……ごめん」

「ふふっ、でもあなたのそういうところ、きらいじゃないわ。もちろん、心配はかけてほしくないけど。一応、兄上を見かけたら邸に戻ってくるようにと人に伝えてあるから、近いうちに帰ってくると思うわ」

「うん、分かった」

「じゃあ、私は食事の支度をしてくるわね。のりえはどうする?」

「まだここにいるよ。部屋にいると、どうも沈みがちになっちゃうしね」

「そう……。風邪をぶり返さないように気をつけてね。食事の支度ができたら、呼びに来るわ」

 朔は言い残して、部屋の中に戻っていった。

 ひとり濡れ縁に残ったのりえは、剣を持って庭へ降りる。

 鞘から引き抜き、剣を目の高さ、身体と平行に持つ。

 刀身に自分の顔が映る。

「…………」

 そのまま、まぶたを閉じた。

 視界が消えたことで、聴覚と嗅覚がより研ぎ澄まされる。

 離れたところで人の話し合う声。

 かつーんかつーんと木を打ち合う音。

 さらに遠くからは楽の音まで聞こえてくる。

 鼻には様々な匂いがかすかに届く。

 花、木、鉄、米の炊けるにおい。

(――魔法でも武術でもそうだが、まず集中力が大事だ)

 夢の中で聞いた声が、聞こえてくる。

(――集中力が散漫じゃ、力を正しく扱えないし、状況判断も甘くなる)

「……あなたは誰なの?」

 目を瞑った状態で、聞こえてくる声に向かって問いかける。

 剣を構え直し、横一文字に宙を切り裂く。

(――無理して、俺の構えを真似しなくていいんだ。俺とノリエちゃんでは身体の大きさも違うし、腕や脚の長さも違う。自分が楽だと思う構えでやってごらん)

 すぅっと、意識と肉体が離れていくような感覚があった。

 そこから身体が自然に剣を振るい出す。



 

 

 

 

「…………」

「――何を見ているんです、九郎」

 部屋から庭を眺めていると、弁慶がやってきた。

「……のりえを見ていた」

「ああ、のりえさん……。今日は疲れたはずでしょうに、こんな時間まで鍛練だなんて」

 九郎の隣に立ち、同じく庭を見る。

「あの腕前なのに、花断ちができないとはおかしい」

 庭で剣を振るっているのりえは目を閉じながらも一分の隙もなく、こちらがすくむほどの覇気を発している。

「…………」

「あいつは無意識と言っていたが、無意識どころの話ではない。見れば、基礎はきっちりしているし、一太刀の切れが先生と似ている。女の細腕でできるものではない」

「でしたら軍に加わってもらってもよろしいのでは?」

「弁慶、おまえはあいつの身体をよく知っているのだろう? なのになぜ、戦場に置きたがる?」

「僕だってできることなら、そんなことをしたくはありません。けれど、怨霊を封じることができるのは白龍の神子――のりえさんだけなんです」

「……どうして、あいつが白龍の神子なんだ」

「譲くんも同じことを、白龍に向かって言ってましたよ。なぜ、のりえさんなのか。他の人ではだめなのか、と」

「…………」

「のりえさんが白龍の神子というのは、変えられない運命なのでしょう。少なくとも、のりえさんは白龍の神子ということを受け入れて、ああして頑張っているのではありませんか? ふっ切れていないのは譲くんや九郎、あなたたちのほうです。ただただ彼女の身体を心配するだけで、命を長らえさせることだけを考えている」

「当然だろう」

「それだけで本当にいいんですか? 彼女にとっても自分の命を延命するのは大事なことでしょうけど、その代わり、自由を奪われて何もできないんですよ」

「それは……」

「ここはのりえさんの世界ではありません。慣れないところで不便もあるでしょう。そんな世界で何もしないで過ごすことは、病で苦しむよりも、のりえさんにとって苦痛なことかもしれません」

「…………」

「なんてことを言ってますけどね、本当のところはのりえさんしか分からないことです。それでも彼女が戦う道を選んだのなら、僕は精一杯それを支えたいんです」

 九郎は弁慶を見、そして再び庭を見た。

 一心不乱に剣を振り続けているのりえ。

 流れるような所作は、まるで舞を舞っているかのようだ。

 無言のまま九郎は部屋を出て、庭へ行く。

「のりえ」

 名を呼ぶと、動きが止まった。

 持っていた剣を下げ、目を開けて九郎のほうに振り返る。

 恐ろしいほどの威圧感が一瞬にして消える。

「今日はもうやめておけ。過剰な鍛練は身体を壊すだけだ」

「………………」

 ぞくりとするほどの鋭いまなざしを受けて、九郎は思わず怯む。

 しかしのりえは九郎を見て一回まばたきをすると、いつもの純粋なまなざしに戻った。

「そうですね」

 大きく息を吐き、剣を鞘に戻す。

「ああ……いい匂いがしてきた。もう少ししたら夕ごはんですね」

「そうだな。……この間、倒れたらしいな」

「うっ……。だ、誰から聞いたんですかっ?」

「軍に在籍させる以上、おまえの行動は把握しておかないといけないからな」

「むぅ……」

 大方、診察した弁慶から流れたのだろう。

 九郎からも小言がくるかと思いきや、あまり無理をするなと頭をぽんぽん叩かれただけだった。

「…………」

「なんだ、その顔は」

 ほけーっとした目が九郎を見つめる。

「い、いや、あの……てっきりお説教くらうかと思って……」

「くらいたいのか?」

 ぶんぶんぶんっ。

 すごい勢いで頭を横に振るのりえ。

「俺も、譲と同意見だ。だが、同じことを言われたくはないだろう?」

 今度は頭を縦に振った。

「なら譲の言葉は肝に銘じておけよ。また同じことをやったのなら、今度はみっちり説教してやるからな」

「oui!」

「う……? なんだそれは……?」

 聞き慣れない発音を耳にして、九郎は首を傾げた。

「何かのかけ声か?」

「ja」

「やー……? ということは違うのか?」

「あははっ、違うよ九郎さん。さっきのは二つとも〝はい〟っていう意味の言葉」

「おまえたちの世界の言葉か?」

「そう。それでもって外国の言葉。ouiはフランスっていう国の言葉で、jaはドイツの国」

「大陸の言葉か?」

「う~ん……まあ、あながち間違いじゃありませんね。――興味ありますか? これでも語学は得意なんです」

 地元が国際的な観光名所ゆえ、外国人の観光客も多い。

 道に迷った外国人が、日本人離れしたのりえの姿を見つけて頼ってくることが多々あり、そのおかげで日常的な英会話は小学校低学年の頃には覚えてしまった。

 やはり、語学は学校の授業で習うより、実践で覚えていったほうが早い。

「ああ。おもしろい言い回しだ」

「じゃあ、挨拶から……」

 小さな語学教室が始まった。

 とは言っても、九郎に教え込んでもここの人間には意味が伝わらないので、覚えても仕方ないことかもしれないが、一人だけ通じる者がいる。

「――先輩、九郎さん、夕飯できましたよ」

 しばらくして、夕餉の支度ができた譲が二人を呼びにやってきた。

 その譲に向かって、

「うい、むっしゅうー!」

 覚えたての言葉を、九郎は自信満々の顔で使用した。