治療が終わったと声をかけられて九郎がのりえの部屋に入ると、真っ先に彼女の枕元に赤くて小さな丸いものがたわわに実った枝が飾られていることに気づいた。

「具合はどうだ?」

「はい、なんとか」

 九郎の問いに答えたのりえの声は、明らかにおかしかった。

 数日前に聞いた声と比べて、はっきり違和感を覚える。

 自分の声を聞いて、わずかに面食らっている九郎に気づいたのりえは恥ずかしそうに微笑った。

「風邪がまだ治らなくて……」

 のりえのひく風邪はたちが悪い。

 ひどいときには秋から春にかけて、ずっとひきっぱなしということもあったほど。

「そうか……。――その枝は?」

 敷かれている床の脇に腰を下ろしながら問う。

「これですか? 白龍が持ってきてくれたんです」

 枕元の枝を見て、のりえは顔をほころばせた。

 あの日、弁慶に促された白龍が神子を喜ばせるには何をしたらいいかの結果が、この南天の枝だった。

 最初に風邪で寝込んでいたとき、部屋にずっといるのは退屈だともらしていた彼女の言葉を思い出し、わずかでも外の景色のものが見られたら気分転換になるかもしれないと考えた白龍は、朔と共に外へ出て、花を探した。

 だが、季節が冬のため、咲いている花はなく、あったとしても梅や桃のつぼみだけ。

 これらはもう少ししたら咲くものだが、白龍には今すぐ開花しているものが欲しかった。

 せっかく思いついた名案だと思ったのに、こんなところでつまずくとは。

 しかし、あきらめきれなかった白龍は夕暮れになっても帰ろうとはせず、陽が完全に落ちかけた頃、この南天の木を見つけたのだ。

 色鮮やかな赤い実が目を惹きつけ、こもっているのりえには新鮮に見えるだろう。

 さっそく、敷地の主に事情を話し、一枝分けてもらったのだ。

「かわいいですよね、この赤い実。しかもいっぱいついているから、鈴のようで見ていて不思議と楽しくなってきちゃうんです。……あたし、白龍にひどいこと言ってしまったのに、それでも白龍はこんなあたしのために見つけてきてくれて」

 色違いの目を細めて、愛おしそうに南天の枝を見つめた。

「……自分のことしか考えていなかった自分が、本当に愚かだと思いました。いくら、あんなことがあったとはいえ、白龍は何も悪くないのに当たって、傷つけてしまった」

「いや……」

 それが当然の反応だろう、と言いかけて、九郎はすぐに口を閉ざした。

 よく見れば、落ち込んでいる様子はもはやなく、無理にあの話題を掘り下げることもない。

 九郎は無言のまま、のりえの頭を叩いた。

「…………」

 きょとんとした表情で九郎を見上げる。

 見開かれた両の瞳には、驚きの色が見えた。

「すまん、不快だったか?」

 頭を叩いてしまう行動は、九郎自身も無意識のうちに出てしまう行為だった。

 なぐさめるときや愛おしいと思ったときに自然と手が伸びて、相手を慈しむ。

 もっとも、そのような行動をする相手はのりえが初めてだった。

 彼女に対してだけ、そのように接したいと思っている自分が内にいた。

「いえ、むしろ安心します。頭に触れられるのは、きらいじゃありません」

 そう言って、のりえは子供のような笑顔を見せる。

 初めて見る彼女の笑顔に、九郎も心があたたかくなるのを感じた。

「のりえさん、起きているのなら、もう一枚上に羽織りましょうか」

 医療道具を片付け終えた弁慶が薄衣を持ってきて、のりえの肩にかけてやった。

「すみません」

「――おや? 九郎、その包みはなんですか?」

 脇に置いてあった包みを見つける。

「ん? ああ、これか。譲が、風邪をひいたときには、〝びたみし〟というものがいいと言っていたので、買ってきたのだ」

「びたみし……?」

 包みを開くと、中には握りこぶし大ほどのみかんが六つ入っていた。

「みかん、ですね。のりえさんたちの世界では、みかんのことを〝びたみし〟と言うのですか?」

 弁慶が不思議そうにのりえを見る。

「いいえ。同じくみかんですよ。……ふふっ、九郎さん、それって〝びたみし〟じゃなくて、〝ビタミンC〟のことじゃないですか?」

「ああ、そうだ。確かそう言っていたな。みかんにはそれが多く含まれているから、風邪をひいたときには食べたほうがいいと」

 別に譲に見つけてきてほしいと頼まれたわけじゃなく、市を見回っていたら偶然見つけて、購入したのだ。

 自然とのりえのためにと持ってきたものだが、何かが九郎の中で変化している。

 知り合ってそれほど時間が経った間柄でもないはずなのに、彼女に何かあってはいけないと必然に考えるようになってきた。

 これは八葉に選ばれた者の宿命なのか、それとも一個人の男として彼女に惹かれているせいなのか。

 しかし、九郎本人はあまり深く考えることはしなかった。

 ただ彼女が喜ぶ顔を見られれば、それで満足なのだ。

 考える必要など、なかった。

「ビタミンというのは、特に果物や野菜に多く含まれている栄養素で、あたしたち人間の身体の中では合成することのできないものなんです。食べることでしか補えなくて、抗体の弱っているときに摂取すると、薬とまでには及びませんが、よく効くんです」

「……よくは分からないが、食べたほうがいいのだろう?」

 譲にも同じことを言われたが、九郎には理解できなかった。

「だったら食え。足りなかったら、また持ってくる」

「え、でも……」

「遠慮なんかするな。おまえも慣れぬ世界で大変だろう。こんなことぐらいしかできないが、希望があれば、他のものも持ってくるぞ」

 みかんを一つ取って、のりえの手に持たせる。

「あの……――ありがとうございます」

 何かを言おうとして、ふいに口をつぐみ、はにかみながら礼を述べた。

「ああ」

 九郎も彼女の表情を見て、満足そうにうなずいた。

 自分が見たかったものはこれだ。

 細くしなやかな指でみかんの皮をむき、半分に割って一かけらを取り、口にほうる。

「……甘くておいしいです」

 懐かしい味が口の中いっぱいに広がった。

 強い酸味がありながらもとろけるような甘さがあり、果肉も水を多く含んでいて、喉が渇いていたのりえにはちょうどよかった。

 あっという間に一つを食べ終えると、九郎がさらにもう一つを渡してきた。

 それを受け取りながら、ふとのりえは微笑った。

「どうした?」

「いえ、あの……正直言って、あたしと九郎さんの初対面って、決していいものじゃなかったじゃないですか」

「あ? ……ああ。あのときは見も知らぬ女に意見されて、なんなんだと思っていた」

「あたしも、頑固そうで怖い人って思っていたけど……。こうして普段に接していると、優しい人なんだなって思って」

「なっ……!?」

 生まれてこのかた、面と向かって人から優しいと言われたのは初めてだ。

「みかん、ごちそうさまです。ありがとうございます」

 もう一度礼を述べたところで、戸の向こうから譲の声がして、部屋の中に入ってきた。

「九郎さん、朔さんにお茶を淹れてもらったので、どうぞ」

「あ、ああ……すまない」


 動揺を必死に隠し、平静を取り戻そうとして、すぐに譲の出した茶をすする。

「譲くん、九郎さんがわざわざみかんを持ってきてくれたの」

「え、それはどうもすみません」

「いや、たいしたことはしていない。……譲、他にも必要なものがあれば言ってくれ。可能な限り、用意しよう」

「ありがとうございます」

「みかん、おいしいよ。譲くんも食べる?」

「いえ、俺はいいですよ。せっかく九郎さんが先輩のために持ってきてくれたんです。でも、おいしいからと言って食べ過ぎないでくださいよ」

「うん。……ねえ、今の時期ならさ、夜に外に置いとけば、明け方には凍ってるかな?」

「先輩、おなかこわしますよ」

「冷凍みかん、おいしそう音符

「凍ったものを食べるのか? まずくはないのか?」

「しゃくしゃくしておいしいんですよ。アップルパイを凍らしたのもおいしいんです」

 特に市販で売られているアップルパイを冷凍庫で凍らせ、とける前に食べると、りんごがしゃりしゃりしておいしい。

 味というよりも、のりえの場合は食感を楽しんで食べているのが強い。

「あぷる……? おまえたちの世界の食べ物か?」

「パイ生地がさくさくして、甘く煮込んだりんごはほっぺが落ちるくらいで……――あ~、譲くぅん」

 甘い声で譲の名を呼び、そばに座った彼の着物の袖を引っ張った。

「わがまま言わないから、元の世界に帰ったら作って?」

 上目遣いでねだるように譲を見る。

「はいはい。先輩の望むだけ、作ってあげますよ」

 もとより、ねだられなくても彼女が喜ぶのなら、いくらでも作ってあげる気だった。

 しかし、こうして甘い声でねだられるのは悪くない。

「やったラブラブ

 満面の笑みで片手に持っていたみかんの皮をむき、もりもりと食べ出した。

 嬉しそうな彼女の様子を、男三人は心なごませつつ見惚れていると、どこか遠くから悲鳴が聞こえてきた。

「な、なに……?」

 一瞬にしてのりえの顔をから笑みが消える。

「様子を見てこよう。おまえたちは邸から出るな」

 九郎は立ち上がり、太刀を腰に差して部屋を出ていった。

「――神子、神子!」

 入れ替わりに白龍が飛び込んできて、床の上ののりえに抱きついた。

 遅れて朔もやってくる。

「どうしたの、白龍?」

 寄せてきた身体は小刻みに震えている。

「よどんだ気が近くにある……怨霊だよ」

「え……」

「神子、神子はだいじょうぶ? どこか、苦しいところはない?」

「う、うん。あたしはなんともないよ」

 怨霊の留まった気は、清浄なる存在ののりえにはそばにあるだけで悪影響を及ぼす場合がある。

 白龍はそれを気にして、しきりに彼女の体調を窺った。

「怨霊って……こんな町中にも現れるのか?」

 譲の問いに、弁慶が答える。

「前はそんなことはなかったのですが、最近になってから処構わず現れるようになってしまったんです。これも、平家が作り出した怨霊の数が増えているためでしょうね」

「怨霊は……嘆きから自然に生まれるのでは? 生み出すなんて――」

 朔が驚いたように言う。

「還内府殿がいる平家です。造作もないでしょう」

 耳慣れない言葉を聞いて、のりえが反応した。

「〝かえりないふ〟……?」

「平家の将の名です。小松内府重盛殿……平家の棟梁であった清盛殿の息子ですよ」

「え、そんなはずは……! ――いや、だけど、ここは俺たちの世界とは違うんだ。生きていても不思議はない」

 譲たちの世界の史実では、九郎義経が京に入った寿永三年(一一八四年)よりさかのぼること五年前。

 治承三年(一一七九年)の七月に亡くなっている。

「いいえ、譲くんの考えどおりですよ。重盛殿は、すでに死んだはずの人間です。しかし、今の平家を率いているのは、若き日の小松内府重盛――黄泉から還った還内府だと言われているんです」

「蘇って怨霊になるなんて、良いことではないはずなのに……」

「それだけ、向こうも必死ということでしょうね。自分の一族を、将を、子を……怨霊にする力を使ってしまうほどに。――さて、怨霊なら、僕も行ってきましょう。危ないですから、のりえさんたちはここにいてくださいね」

 弁慶はそう言い残して、外へと行ってしまった。

「……死んだ人を蘇らせることができるんだったら、あたしも死んだら生き返ることができるのかな?」

「のりえ、なんてことを言うの。怨霊はつらいものよ。たとえ蘇ったとしても、苦しみしかないわ」

「う、うん……。でも、先がないあたしにはやりたいことがいっぱいあって、やり残したまま死にたくない」

「のりえ……」

「まだバイトもしたいし、遊びたいし、書きかけの物語も最後まで書きたいし、何より子どもが欲しいな」

「え、子ども……!?」

 意外な言葉が出てきて、譲は驚きの声をあげた。

「……人に言うのは初めてだけど、そんなに驚くこと?」

「いえ、だって……」

「動物の本能としてさ、子どもを残すことは自然なことじゃない。……まあ、あたしの遺伝子が残っても迷惑な話かもしれないけど、女として、好きな人の子どもを産みたいと思って」

 産めればの話だけど、と苦笑混じりで続けた。

「せ――先輩っ、す、好きな人がっ、いるんですか!?」

「好き、というか、大切な人……かな? でも、叶わない夢なんだけどね」

(まさか、兄さんか!? ――いや、でも叶わない夢とはどういうことだ? 先輩の手の届くところにいない人物なのか?)

 譲が必死に頭の中で考えていると、外の騒ぎの音が大きく響いてきた。

 この京邸を警護している武士たちが口々に叫び、どこかに駆けていく足音がする。

「…………」

 九郎や弁慶が出ていってしばらく。

 騒ぎの様子からして、いまだに怨霊を退治できていないようだ。

 怨霊を完全に退治できるのは、二度と復活することがない封印の力を持つ白龍の神子ただ一人。

 言葉ではなく、状況で自分が白龍の神子なのだということを突きつけられるのは、今ののりえにとっては身を切り裂かれるほどの痛みを持った。

「のりえ、いいのよ。気にしないで」

 朔がのりえの気持ちを感じ取り、なだめるように背中を撫でた。

「……気持ち悪い……」

 胸元をつかみ、倒れるように布団の上に横になった。

「先輩、大丈夫ですか?」

 先ほどまで顔色は平常だった。

 しかし、今では青ざめて赤かった唇の色も薄紫色に変わってしまっている。

 譲は換気のために開けておいた窓を閉めようとして立ち上がった。

 ――……神子が……!

 ――九郎様より……守れ……!

 ――白龍の神子を……!

 その窓から、風に乗って武士たちの怒号のような声が流れてくる。

「……やめて……」

 耳をふさぎ、身体を小さく縮める。

 目に見えて分かるほど、身体は大きく震えていた。

 すぐに譲は窓を閉め、荷物の中から薬を取り出す。

「いらない……やめて、かまわないで……」

 鎮静剤を飲むようすすめたが、弱い力で振り払われた。

「怖い……怖い……ぞわぞわする……」

 叫び声は窓を閉めても聞こえてくる。

 その度に、のりえの心の中に不安と焦燥が波紋となって広がっていく。

(いやだ……なんかいやだ……)

 宇治川のときと同じ感じがした。

 記憶は定かではないが、以前にもこんな体験をしたことがある気がする。

 深い地の底に落とされるかのような不安が津波のように心の内を荒らし、平静を保っていられなくなる。

 ――ここは危ないから、おまえは隠れていなさい。

 耳の奥で、誰かの声が聞こえた。

 その場にいる朔や譲、白龍の声ではない。

 ――……、忠義を示すというのなら、ノリエを必ず守れ。

(やめて、守らないで、ボクなんかいいの――)

「……先輩?」

 突然、うずくまっていたのりえが立ち上がり、羽織っていた上着二枚を脱ぎ捨てながら部屋を出ていく。

「先輩、どこに行くんですか!?」

 慌てて譲が後を追いかける。

 のりえは濡れ縁を通って庭に出たと思ったら、人間とは思えぬ跳躍力で塀に飛び乗り、その向こうの通りに降りていってしまった。



 

 

 


 八体目の怨霊を斬り伏せたところで、九郎が声を荒げた。

「こんなことではきりがないぞ!」

 蝙蝠の姿をしたものをはじめ、大型犬ほどの大きさのカラス、むささびの怨霊たちが空を埋め尽くし、櫛笥小路の梶原邸を目指していた。

 目的は白龍の神子。

 神子がこの世界に降り立ったことで、わずかなりと龍脈の流れが変わった。

 怨霊は龍脈の気が留まったことで生じる。

 流れが変わったことには、いち早く感づく。

 これまで己の存在を抹消する者などおらず、好き勝手をやってこれたが、封印のできる白龍の神子は唯一の天敵となる。

 ――殺られる前に殺れ。

 本能とは、いつでもどこでも単純明快なものなのだ。

「数が多すぎますね……。これではこちらの身が持ちませんよ」

 薙刀で複数の怨霊を薙ぎ払いながら弁慶が言う。

 怨霊は斬り伏せたそばから復活してしまう。

 他の武士たちも懸命に奮闘しかいるが、問題の解決にはなっていない。

「のりえを呼んできたらどうだ!? 白龍の神子なんだろう!?」

 九郎はまだ、白龍の神子の持つ封印の力を目にしたことはない。

 半信半疑のまま、手近の怨霊を斬り、京邸に戻ろうとする。

「九郎! だめです! 今ののりえさんを戦わせてはいけません!」

「なぜだ!?」

 ここは武士だけではなく、あらかた避難したとはいえ、民間人もいる。

 これまで極力人目を避けてきたのりえにとって人前に出るのは、癒えかけた傷を無理やり開かすようなもの。

 ようやく笑顔の戻ってきたのりえに、それだけはやりたくなかった。

「このままで――」

 言葉の途中で、空が一瞬暗くなった。

 何事かと見上げてみれば、散り散りに飛んでいた怨霊たちを、一人の少女が宙を舞いながら素手で捕まえていた。

「のりえっ!?」

「のりえさん!?」

 それは、あられもない姿ののりえだった。

 彼女は通りを挟んだ反対の塀の上に着地して、空中で捕まえた怨霊を驚くことに、そのすべてをひきちぎった。

 ギィィィ……!

 断末魔が消えないうち、ちぎった体を地面へ叩きつけ、再び塀を蹴る。

「ひぃぃぃっ!! 鬼だぁ!」

「怨霊の次は鬼だよ!」

 突っ込んでいった先は、離れたところで避難していた民間人の中。

 だが、のりえは鬼とわめく者たちには目もくれず、落ちていた縄を拾い上げ、

 ばしぃん!

 ただの縄だったものは鞭のようにしなり、地面を打った。

 手応えを確かめてからのりえは空に向かって投げつける。

「ギエッ!」

「グガァ!」

 まるで刃でもついているかのように縄は怨霊たちの胴体を真っ二つにし、

「――かのものを封ぜよ!」

 すかさず封印する。

「のりえさん、だめです! 戦ってはいけません!」

 弁慶が声をあげ、彼女の元に走り出す。

 武士たちを相手にしていた怨霊たちは神子の封印の力に気付くと、標的を変え始めた。

 そしてのりえも身を翻し、そこから離れる。

「――……先輩!」

 遠くから譲の声が聞こえ、息を切らしてやってきた。

 その間も、のりえは次々に怨霊を斬って封印していく。

「先輩、やめてください! 身体が……!」

 自分で意識しているのか、いないのか。

 喉から漏れている呼吸音は乱れており、額には汗をかいている。

 しかし怨霊を仕留める手元は一切の狂いはない。

「おまえたち、あの者の援護を! だが、不用意に近づくな! 攻撃に巻き込まれるぞ!」

 武士たちに命令し、九郎は弁慶とともにのりえのそばへ。

 寝間着の着物は怨霊たちの攻撃で引き裂かれ、現れた白い肌には無数の傷。

 左肩の打撲は良くなったとはいえ、まだ本調子ではない。

 右腕だけで戦うのりえに限界が訪れるのはそう遅いものではなかった。

「のりえ!」

 崩れるように倒れた彼女を、九郎は抱きとめようとしたが、休みなく繰り出される怨霊の攻撃を防ぐことで手一杯でそれができない。

「弁慶、何かいい方法はないか!? このままでは埒があかん!」

「八葉としての力が使えればいいのですが、それでも神子であるのりえさんの力を借りなければいけません」

 そののりえは耳障りな呼吸音を立てて地面に伏している。

 とても起き上がれるような状態ではない。

「――ぎゃあぁっ!?」

 唐突に、人の叫び声があがった。

 何事かとそちらを見やれば、民間人の群れに向かって飛んでいく怨霊の姿が。

「くそっ、こんなときに……!」

 くだらぬ野次馬根性を出している暇があったらさっさと逃げろこの馬鹿者ども――九郎はそう怒鳴りたい衝動に駆られた。

 頭のまわりをうろちょろ飛んでいる数匹を斬り倒し、向かおうと足を踏み出したとき、ふと先ほどまで地面に倒れていたはずののりえの姿がないことに気付いた。

 あるのは彼女が武器として使っていた縄だけ。

 慌てて姿を探す。

 彼女は怨霊に襲われている者たちの中に突っ込んでいた。

(あいつ、いったいいつの間に……!?)

 怯え惑う人間たちの前に立ちはだかり、一人で怨霊の攻撃を受ける。

 そのうちの一つ。

 大カラスの鋭いくちばしが、のりえの右脇腹を深く突いた。

「……っ!」

 薄い色の着物にじわじわと赤い染みが広がっていく。

「先輩っ!!」

 譲が悲鳴をあげる。

 だが、のりえは低く呻くだけで、脇腹にいる大カラスの首をつかんで、力のかぎりそれを手の中で握り潰した。

「ひっ!?」

 近くでその光景を見ていた男が慄いて、のりえから離れていく。

「――……雑魚どもが。目障りだ」

 握り潰して真っ二つになったカラスの首を投げつけながら、彼女の声とは思えぬほどの低い声で言い捨てた。

「この私に楯突いたこと、後悔させてやる」

 言って右手を掲げ、振り下ろす。

 その瞬間、辺り一帯に飛び回っていた怨霊すべてが地に伏した。

「………………」

 あまりの出来事に九郎をはじめ、弁慶、譲、他の武士たちその場にいた全員があっけにとられていた。

「己の身の程も知らずに、私に向かってくるのは愚かさゆえか? それとも、本気で私を殺せると思うたゆえか?」

 ゆっくりとした足取りで伏した怨霊たちの間を歩き、近くの一匹を踏み潰す。

 のりえは部屋から出たままの姿だったので、靴は履いていない。

 土にまみれた素足が、さらに怨霊の肉片で汚れていく。

「愚か者め」

 呟き、左の青い眼が妖しく光った直後、何もない宙から無数の氷の矢が出現し、怨霊の体を貫いて地面に突き刺さった。

「――かのものを封ぜよ!」

 すべての怨霊が淡い光となって封印されていく。

 きらきらと天に立ち昇る光と一緒に、突如として現れた氷の矢も消えていった。

 あとに残ったのは、水を打ったかのような静寂のみ。

 しかし、それは長くは続かなかった。

 広い大通りの真ん中で、一人立ち尽くしていたと思っていたのりえがどさりと音を立てて倒れる。

 その音で誰もが我に返り、

「先輩っ!」

「のりえ!」

「のりえさん!」

 いち早くのりえの元に駆け寄ったのは弁慶。

 脇腹の出血は続いており、申し訳ないと思いつつも帯をゆるめ、腹の具合を診る。

「……よかった、内臓には達していません。すぐに傷をふさいで血を止めれば大事ないでしょう」

 けれど、傷よりも厄介だったのはのりえが患っている持病。

 ほんの一時とはいえ呼吸は元に戻っていたが、人間とは思えぬほどの身体能力を発揮した彼女の心臓は悲鳴をあげているはず。

 譲が一番心配している発作がいつ起きても不思議はない。

 次第に呼吸は乱れ、激しく咳き込む。

「のりえさん、苦しいでしょうが、我慢してくださいね」

 弁慶は懐から手ぬぐいを取り出し、傷口に当ててその上からきつめに帯を締めつける。

 命に別状はないとはいえ、出血が多ければ、死に至ってしまうことがある。

「――鬼はそのまま死んじまえ!!」

 ごつっ。

 怒鳴り声と同時に、石が飛んできた。

「な――何をするんですか!?」

 視線を見やれば、民衆がそれぞれに木の棒や石、クワを手にしていた。

「鬼が怨霊を連れてきたんだ!」

「原因は鬼だ!」

「殺しちまえ!」

「鬼なんか殺せ!!」

 たくさんの石が投げつけられた。

「っ……!」

 のりえに石が当たらないよう、弁慶は身を挺して彼女を守る。

「いい加減にしろ、馬鹿者どもが!!」

 そんな中、腹の底から怒りの声をあげたのは他でもない、九郎だった。

 びりびりと辺りの空気が緊迫する。

「こいつは自分の身を犠牲にしてまでおまえたちを守ったんだぞ!? くだらぬ野次馬根性を出して逃げなかったのはどこのどいつだ!? それで怨霊に襲われて、のりえに守られておきながら、そののりえを殺せとはいったいどういう了見だ!」

「お、鬼が怨霊を連れてきたんだろ! こいつがいなけりゃ、こんな騒ぎにはならなかったはずだ!」

 九郎の迫力に圧されながらも、一人が声をあげた。

「それならば、こいつが怨霊を連れてきたという証拠を見せてみろ」

「それはっ……」

 白龍の神子として、その存在を疎まれる理由から呼び寄せたという事実はあるが、鬼として怨霊を呼び寄せたということはない。

「戯れ言もいい加減にしろ! おまえたちはのりえに礼を述べることはあっても、排除する権利はないはずだ!」

 九郎さん、とかすれた声でのりえが名を呼んだ。

「もう……いい。あたしは、この人たちの、ためにやった、んじゃない……」

 途切れ途切れに呟く。

「自分の、ため……あたしの中で、繰り返したく、ない、過去が……」

「のりえさん、しゃべらないでください。傷に障ります」

「あたしは……死に、たくない……生きて、たい。だから、不当な、理由で、殺され……るのは、まっぴら……。――あたしを、殺すというのなら、自分の、命を守る、ために、相手を殺す……覚悟で受けて立っ、てやる……!」

 上半身を起こし、茫然としている民衆をぎらりと睨んだところで、のりえは激痛に耐えられず、意識を失っていった。





 聞こえてきた苦痛に耐える悲鳴を聞いて、譲は顔を背け、耳をふさぎそうになった。

 奥の部屋では、弁慶がのりえの傷を治療している。

 幸い、彼らが心配していた発作は起きなかったが、別の問題が発生した。

 怨霊につけられた傷は一般の傷とは違い、穢れを持ってしまう。

 穢れは傷の治りを遅め、そのままにしておくと傷口から腐敗が始まり、死に至る。

 穢れを取り除くには、清浄なるものの力が必要だった。

 神に選ばれたのりえ自身が清浄なる存在だったが、穢れと傷の痛みで浄化どころではない。

 そこで白龍が、自分の神子を救いたいがために、なけなしの神の力をもって穢れを浄化し、あとは傷口を縫合するのみとなった。

 元の世界のような麻酔はないため、神経を一時的に麻痺させる薬草を使って縫い合わせているが、それも完全に効くものではない。

 一針縫う度、凄まじいほどの激痛が全身を走る。

 薬は気休めにしかならなかった。

 しかも、その激痛が発作を誘発させるおそれがある。

 万が一のとき、すぐに駆けつけられるよう譲たちは近くに控えていたが、悲鳴が聞こえる度に自分の身体の一部が切り裂かれるような心の痛みを感じる。

(また、何もできない……!)

 大切な人が苦しんでいるのに、譲はただこらえるしかできない。

 なんともどかしいものなのだろう。

「……意識がなければ、まだ楽なのだろうが……」

 九郎が呟く。

 たとえ意識がなくとも、身に刺さる針の痛さで強引に覚醒してしまうだろう。

 自分たちは耐えることしかできずにいること、数十分。

 悲鳴は聞こえなくなり、しんと静まり返った。

「……終わったのか?」

 うつむいていた九郎が顔を上げ、戸のほうを見やる。

 すると、すっと開いて、弁慶を手伝っていた朔が出てきた。

 手には血に染まった水が入った桶を持っている。

「朔さん、先輩は……!?」

「譲殿、静かに。……のりえは今、薬を飲ませて眠っているわ。少し強い効果のあるものだから、弁慶殿の話だと明日までは起きないそうよ」

 それだけを伝えて、朔は外へと行ってしまった。

「――九郎、譲くん。お静かにできるのでしたら、入ってきてもかまいませんよ」

 奥から声量を抑えた弁慶の声が聞こえた。

 二人しておそるおそる部屋の中に入ると、のりえは新しい単衣に着替えさせられ、布団の上に横になっていた。

 そのすぐ脇には弁慶、のりえを挟んだ反対側には白龍が座っている。

 弁慶の横には、赤い血に染まった様々な医療道具や布、着物が積まれてあった。

「薬を飲ませてあるので、明日までのりえさんは起きません。……起きないからといって、無理に起こさないでくださいね」

「弁慶さん、先輩の具合はどうなんですか?」

「内臓は無事でしたので、彼女の発作が起こらないかぎり、命に別状はありませんよ。傷口を完全にふさがってしまえば大丈夫です。ただ、出血が多かったので、しばらくは貧血が続くと思いますが」

「そう、ですか……」

 弁慶の言葉を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす譲。

 反対に九郎はいぶかしげに首を傾げた。

「なんだ? その、発作というのは?」

「え? ――ああ……」

 九郎はまだ、のりえの身体のことを正確に知らずにいた。

 以前、弁慶や譲が、彼女は身体が弱いからと口にしていたことを聞いたことはあるが、九郎はそれを男女の身体の差だとばかり思っていた。

 譲が一から説明する。

 それを聞いているうちに、九郎の顔から血の気が引いていった。

「……そんな状況で、こいつは戦っていたのか!?」

「九郎、驚くのは分かりますが、声を抑えてください。意識がないとはいえ、五感は動いているんです」

「す、すまない。……だが、どうして? こいつも自分の身体のことは自覚しているのだろう? それなのになぜ、あんな戦いを?」

「それが分かったら、苦労はしません。宇治川でも、先輩は進んで前に出て……」

 疑問はそれだけではなかった。

 一番気になったのは、彼女が戦闘慣れしていることだった。

 幼い頃から一緒にいた譲はもちろん、のりえが剣を手にしたところを見たことがない。

 唯一、武器になるものを握ったのは、譲が弓道を始めてすぐ。

 好奇心から弓を触ったことだけ。

 素人目でも、宇治川での戦闘は無駄な動きがなく、水が流れるが如く剣を振るっていた。

 先ほどの戦いでもそうだ。

 邸から出るときに見た超人的な跳躍、そして素早い動きで宙を飛んでいる怨霊を素手で捕獲し、ひきちぎったあの力。

 ただの縄だったものが、刃のついた鞭の効力を発揮したのも理解不能。

 最後にはのりえは人が変わったような口調で話し、突如として出現した氷の刃。

 もはや思考回路は止まっていた。

「一つ聞きたい。のりえは武芸を習っていたのか?」

「まさか。先ほども話したとおり、先輩は一切の運動は禁止です。武芸なんてもってのほか」

「そう……か」

 しかしあの動き。

 よほど鍛練を積まなければ、身体がついていかないだろう。

 横たわっているのりえの顔を見る。

 顔色は悪く、青ざめていた。

 時折、白龍が心配そうに覗き込んでは、額や頬に小さな手を当てる。

「さて、僕は後片付けをしてきます。白龍、彼女のそばについていてくれますか?」

「うん。神子のそばに、ずっといる」

「ちょくちょく様子を見には来ますが、もし容態が変わったのならすぐに知らせてください」

「分かった」

「では九郎、すみませんが、そちらの布を持ってくれませんか? 譲くんも、のりえさんのそばにいたいでしょうが、今は遠慮してくださいね」