9月の始業式を前に、学校が辛い子ども達へ向けて♯withyouという活動が行われていることを知った。

 

♯学校辛い というキーワードもツイッターで盛り上がっているみたい。

 

芸能人をはじめとする著名人からも相次いでメッセージが発表されていて、昔と比べてこういうことをかなりオープンに話せる環境になってきているのかな、と感じる。それ自体は、素晴らしいことだと思う。

 

私自身も小学校1年生の時から、学校が辛かった。

 

もともと大きな音が苦手なので、授業前後に鳴る大音量のチャイムが苦痛だった。

 

集団行動も苦手だったので、大人数で整列させられたりすると位置関係がよく分からなくなり、必ず列からはみ出してしまう子だった。

 

極め付けは、親友だと思っていた子が他のグループの子と仲良くなり、そのグループと一緒にいる時私を無視するようになったこと。

 

目の前にいるのに、話しかけているのに、透明の膜が張られているみたいに、近づこうとするとやんわり跳ね返される。

 

そんな些細なことで、と思われるかもしれないけど、家の外の世界では親友の存在が全て、学校が全世界、と思い込んでいた6歳の自分にとっては、自分の存在を完全に否定された状態。

 

自分の存在を無視され、居場所がないと感じることは、例えるなら心臓を針で刺されているような痛みを伴う。息が出来ない。

 

やがて休み時間が苦痛になり、ある日の休み時間、下校時間が待てずに一人で勝手に帰宅。壊れてしまいそうな自分を守るための行動だった。

 

そこから、約2年間の引きこもり。

 

身体的には健康なのに、どうして学校へ行かないのか。常に周囲から責められている気がした。

 

人と違うことをするのはエネルギーがいる。なぜなら、理由を説明しなければならないから。

 

でも、「学校に行かないほどの」理由が見つからない。

 

「学校へ行かない」=「義務を果たしていない」という図式が常に頭にあった。

 

そのため、いつも家にいる自分はまるで、犯罪者の気分。

 

今思えば、そんな深刻に捉える必要は一切無いし、学校が辛いなら行かなくて良い。全然オッケー。

 

24時間自由に時間が使えるなんて大人になったらそうそう無いのだから、おいしいコーヒーを淹れるとか(6歳じゃまだコーヒーまずいか…)、夢中になって本を読むとか、石の種類に詳しくなるとか、楽器を極めるとか、そんなことに時間を使えば良かったなーと思う。

 

でも当時の自分は自己否定の塊、罪悪感の塊で、親にも申し訳ないと思ってるし、近所の人の視線は気になるし最悪の気分だった。

 

ボランティアの人が運営している補習教室に通う以外は、同じ不登校の子と家の中で遊んだり、ゲームしたりしていた。

 

そんな時、一瞬心があたたかくなるのだけど、夜寝て朝起きると、今日も学校に行かない自分を突きつけられて、やっぱり苦痛だった。

 

そんな自分が現在思うことは、ありきたりな表現になってしまうけれど、学校が本当に嫌なら、他の道を探せば良いということ。学校がこの世の全てじゃないのだから。

 

苦手なことは人に迷惑をかけない限りやらなくて良い。

 

もし後になって学校に行きたくなったら行けばいいし、通信教育で卒業してもいい。大学に入学した時、同じクラスに20代後半で先生になると決めて、頑張ってバイト代を貯めて自分で大学の学費を払っているクラスメイトもいた。

 

学校に行っていない間焦る必要は無いし、遅すぎるなんて無い。

 

ある意味、学生の早い段階で、自分の得意と不得意を見極めるチャンス。

 

今の時代、オールマイティーになんでもそこそこ出来ます、という人より、何か一つのことを誰にも負けないぐらい得意とか、好きという方がお金も稼げる。

 

そこそこの仕事だったらコンピューターがこなせてしまう時代だから。きっと、今の学生さんが大人になる頃には、この傾向はもっと顕著になる。

 

だから、今が辛いなら、嵐が過ぎ去るまでゆっくり待って、力が湧いてきたらわくわくしながら他の道を探せばいいと思う。

 

私はちなみに、2年間充電させてもらって、ある日急に学校に行きたくなって、行くようになった。

 

学校へ行かない、というだけでもかなりエネルギーがいることだから、その後のことはけっこう何でも頑張れた。

 

そんなものだから、と今は思う。