アメンバーの皆さんは、こちらもあわせてお読みください。
きのうから、長崎に住むハトコたちを訪ねていってたんですが・・・
彼女たちの家があるのは、グラバー園やら中華街のある市内南部から長崎駅をへだてて反対側、浦上地区といって、ちょっと盆地のようになった丘陵地帯。キリスト教伝来以来多数の信徒が移り住んだ隠れキリシタンの里で、彼女たちの先祖(私の、でもあるけど)も、江戸から明治初期の大弾圧の時期には、何人もの殉教者を出した家柄。そしてもうひとつ忘れてならないことが・・・、
3年以上前、私が父祖のルーツを訪ねて、五島列島から長崎市内を旅行したときの連載記事(楽天ブログ)で、このあたりのことを書きました。少し長くなりますが、その連載1回分を、こちらにコピーでご紹介させていただきます。(写真も3年前のものです)
<以下コピー>
長崎の鐘
平和公園
「・・・3日前広島を襲った敵新型爆弾、9日長崎に落下、爆心地は浦上付近、相当の被害の模様」
このニュースに接した、祖父をはじめ神戸のCredo一家の衝撃は想像に難くありません。どこをどう経由してか、診察カバンひとつを手にした祖父がようやく長崎にたどりついたのは、8月15日の終戦をすぎた数日後であったようです。
わが家にはそのとき現地から祖父が書き送ってきた生々しい報告のハガキが残されていました。・・・阪神大震災の折り、全壊した父の家をいろいろ探しだしたのですが、残念ながらこのハガキはついに見つけることができませんでした。何度も繰り返し読んだので、内容はほぼ覚えています。「一帯焦土ト化シ、大天主堂瓦礫ニ帰シ無惨」「本家跡形ナク門柱ノミ」「(祖母の実家)モ焼亡シテ家人行キ方シレズ・・・」それでも夢中で臨時のテント張りの救護施設に加わり負傷者の治療に参加したようですが「医薬物資欠乏シ・・・救ウニ足ラズ無念」と淡々と述べ、最後にその激しい怒りを神にむけています。数百年の苦難に耐えて信仰を貫いた数千の信徒たちを、「幾萬ノ無辜の民トモニ焼キ滅シ、汝ノ栄光ニ捧ゲラレタル聖堂ヲ微塵ニ破壊ス」しかも「同ジク基督信徒(アメリカ)ノ手ニヨリテ、汝ノ名ニオイテコノ挙ヲ成サシム、是汝ノ意思ナルヤ・・・」
このハガキをはじめて読んだのは中学生時代だと思いますが・・・祖母の「叙事詩」でも、この本家壊滅のくだりは最大のクライマックスでしたので、子供時代から繰り返し聴かされてきました。自分が生まれる前の、遠い親戚の身の上に起こった出来事ですから、身近な悲劇として受け止めることはできず、ただ恐ろしい、忌まわしい物語として、できればあまり聴きたくない話と感じていたのはやむを得ません。ただ自分では覚えてないのですが、何度目かに聴いたのち私は突然「ぼくは神様を許さない!」と叫んで祖母や母を驚かせたということです・・・。そしてこの祖父を襲った激しい怒りを、私が自分自身のものとして現実に追体験したのは、あの阪神大震災のときでしたが・・・
(このとき実際には、祖母の実家のご親族で2人の方が生存しておられ、うちお1人はその後神戸に移住され父の医院でもときどき治療を受けておられました。少年の私に被爆体験を語ってくださった貴重な生き証人のその方も、もう亡くなられて久しいです。)
終戦の数年後、神戸の医院を父にまかせ半ば引退した祖父は、その後も年に幾度か長崎を訪れ、いわゆるボランティアとして病人の治療にあたり、「長崎の鐘」などの著者永井隆博士とも面識があったようです。祖父は私がごく幼い頃に死去しましたが、まだ60台前半の比較的若い年齢で、あるいは被爆直後の残留放射能の影響もあったのかも知れません。
・・・日本キリスト教の聖地、わがCredo家にとっても忘れることのできない因縁の地、浦上の丘は、いまは平和を求める人類全体の聖地となりました。天主堂は再建され、瓦礫の中から奇跡のように無傷で掘り出されたアンジェラスの鐘はいまも、新天主堂の鐘楼にあって時を告げ、私たちに平和の尊さを訴えて響き続けています・・・。
再建された浦上天主堂
*天主堂内部の壮麗なステンドグラスや、昨年完成した被爆マリア像小聖堂、被爆資料室など、内部はもちろん撮影禁止で、せめて前庭左側に並ぶ被爆遺構や焼けただれた天使像・聖人像の写真だけでもここでご紹介を、と思ったのですが、この正面写真一枚を撮ったところであえなく電池切れに・・・(涙)こちらにそれらの像が紹介されたHPがありましたので、無断ですがリンクさせていただきました。
http://base.mng.nias.ac.jp/k5/urakami2.html
*天主堂内部、浦上地区の歴史(弾圧史など)、被爆状況や永井博士の業績などについては、
浦上カトリック教会のページへ
<コピー終了>
今回はデジカメをもっていくのを忘れたので、またもや被爆聖人像の写真はなし(汗)
写真の向って右側の鐘塔のうえにあるのが、「アンジェラスの鐘」です。
話に聞くところでは、祖父と祖母がはじめて出合ったのは、この天主堂の前だったそうです。ちょうど私がこの写真を撮っていたあたりだったかもしれません(^^)
ハトコたちの家は、コピー記事の中にある、全焼した祖母の実家の跡地になります。訪れるときはいつも、土地全体に祖先の血と涙がしみこんでいるような、厳粛な気持ちにさせられますね・・・
浦上天主堂は、長崎大司教座のいわば大本山なので格式が高く、カトリック以外の一般観光客の拝観はできませんので、平和公園に近いにもかかわらず人気はまばら。きょう長崎を離れる前に、門前にたたずんでいると、自然にきのうご紹介した「風がどこから」が口をついて出てきました。
教会の前でひとり聖歌を口ずさむ変なおっさんをどこかから見ていたようで、歌い終わると法服姿の(カトリックの位階はよく知りませんが、けっこう位の高そうな)方が寄ってこられて、「お祈りの方でしたら」と、門をあけて中に入れてもらえまして、おかげでゆっくり祈りを捧げることができました。
音楽の力は偉大です(爆)
きのうから、長崎に住むハトコたちを訪ねていってたんですが・・・
彼女たちの家があるのは、グラバー園やら中華街のある市内南部から長崎駅をへだてて反対側、浦上地区といって、ちょっと盆地のようになった丘陵地帯。キリスト教伝来以来多数の信徒が移り住んだ隠れキリシタンの里で、彼女たちの先祖(私の、でもあるけど)も、江戸から明治初期の大弾圧の時期には、何人もの殉教者を出した家柄。そしてもうひとつ忘れてならないことが・・・、
3年以上前、私が父祖のルーツを訪ねて、五島列島から長崎市内を旅行したときの連載記事(楽天ブログ)で、このあたりのことを書きました。少し長くなりますが、その連載1回分を、こちらにコピーでご紹介させていただきます。(写真も3年前のものです)
<以下コピー>
「・・・3日前広島を襲った敵新型爆弾、9日長崎に落下、爆心地は浦上付近、相当の被害の模様」
このニュースに接した、祖父をはじめ神戸のCredo一家の衝撃は想像に難くありません。どこをどう経由してか、診察カバンひとつを手にした祖父がようやく長崎にたどりついたのは、8月15日の終戦をすぎた数日後であったようです。
わが家にはそのとき現地から祖父が書き送ってきた生々しい報告のハガキが残されていました。・・・阪神大震災の折り、全壊した父の家をいろいろ探しだしたのですが、残念ながらこのハガキはついに見つけることができませんでした。何度も繰り返し読んだので、内容はほぼ覚えています。「一帯焦土ト化シ、大天主堂瓦礫ニ帰シ無惨」「本家跡形ナク門柱ノミ」「(祖母の実家)モ焼亡シテ家人行キ方シレズ・・・」それでも夢中で臨時のテント張りの救護施設に加わり負傷者の治療に参加したようですが「医薬物資欠乏シ・・・救ウニ足ラズ無念」と淡々と述べ、最後にその激しい怒りを神にむけています。数百年の苦難に耐えて信仰を貫いた数千の信徒たちを、「幾萬ノ無辜の民トモニ焼キ滅シ、汝ノ栄光ニ捧ゲラレタル聖堂ヲ微塵ニ破壊ス」しかも「同ジク基督信徒(アメリカ)ノ手ニヨリテ、汝ノ名ニオイテコノ挙ヲ成サシム、是汝ノ意思ナルヤ・・・」
このハガキをはじめて読んだのは中学生時代だと思いますが・・・祖母の「叙事詩」でも、この本家壊滅のくだりは最大のクライマックスでしたので、子供時代から繰り返し聴かされてきました。自分が生まれる前の、遠い親戚の身の上に起こった出来事ですから、身近な悲劇として受け止めることはできず、ただ恐ろしい、忌まわしい物語として、できればあまり聴きたくない話と感じていたのはやむを得ません。ただ自分では覚えてないのですが、何度目かに聴いたのち私は突然「ぼくは神様を許さない!」と叫んで祖母や母を驚かせたということです・・・。そしてこの祖父を襲った激しい怒りを、私が自分自身のものとして現実に追体験したのは、あの阪神大震災のときでしたが・・・
(このとき実際には、祖母の実家のご親族で2人の方が生存しておられ、うちお1人はその後神戸に移住され父の医院でもときどき治療を受けておられました。少年の私に被爆体験を語ってくださった貴重な生き証人のその方も、もう亡くなられて久しいです。)
終戦の数年後、神戸の医院を父にまかせ半ば引退した祖父は、その後も年に幾度か長崎を訪れ、いわゆるボランティアとして病人の治療にあたり、「長崎の鐘」などの著者永井隆博士とも面識があったようです。祖父は私がごく幼い頃に死去しましたが、まだ60台前半の比較的若い年齢で、あるいは被爆直後の残留放射能の影響もあったのかも知れません。
・・・日本キリスト教の聖地、わがCredo家にとっても忘れることのできない因縁の地、浦上の丘は、いまは平和を求める人類全体の聖地となりました。天主堂は再建され、瓦礫の中から奇跡のように無傷で掘り出されたアンジェラスの鐘はいまも、新天主堂の鐘楼にあって時を告げ、私たちに平和の尊さを訴えて響き続けています・・・。
*天主堂内部の壮麗なステンドグラスや、昨年完成した被爆マリア像小聖堂、被爆資料室など、内部はもちろん撮影禁止で、せめて前庭左側に並ぶ被爆遺構や焼けただれた天使像・聖人像の写真だけでもここでご紹介を、と思ったのですが、この正面写真一枚を撮ったところであえなく電池切れに・・・(涙)こちらにそれらの像が紹介されたHPがありましたので、無断ですがリンクさせていただきました。
http://base.mng.nias.ac.jp/k5/urakami2.html
*天主堂内部、浦上地区の歴史(弾圧史など)、被爆状況や永井博士の業績などについては、
浦上カトリック教会のページへ
<コピー終了>
今回はデジカメをもっていくのを忘れたので、またもや被爆聖人像の写真はなし(汗)
写真の向って右側の鐘塔のうえにあるのが、「アンジェラスの鐘」です。
話に聞くところでは、祖父と祖母がはじめて出合ったのは、この天主堂の前だったそうです。ちょうど私がこの写真を撮っていたあたりだったかもしれません(^^)
ハトコたちの家は、コピー記事の中にある、全焼した祖母の実家の跡地になります。訪れるときはいつも、土地全体に祖先の血と涙がしみこんでいるような、厳粛な気持ちにさせられますね・・・
浦上天主堂は、長崎大司教座のいわば大本山なので格式が高く、カトリック以外の一般観光客の拝観はできませんので、平和公園に近いにもかかわらず人気はまばら。きょう長崎を離れる前に、門前にたたずんでいると、自然にきのうご紹介した「風がどこから」が口をついて出てきました。
教会の前でひとり聖歌を口ずさむ変なおっさんをどこかから見ていたようで、歌い終わると法服姿の(カトリックの位階はよく知りませんが、けっこう位の高そうな)方が寄ってこられて、「お祈りの方でしたら」と、門をあけて中に入れてもらえまして、おかげでゆっくり祈りを捧げることができました。
音楽の力は偉大です(爆)

