日本には差別があるという。
たとえば、部落差別や在日差別。
そもそも、部落差別とは何かと言われると、おそらく、日本の穢れの思想からくる血を扱う職業に対する忌避であろう。
よって、部落差別は血を扱うことに対する日本人のアレルギーと考えてよい。
特に平安時代を見ると、刑罰に死刑はなかった。
そのくらい人を殺すと言うことに対して嫌悪感があった。
人を殺すとたたられると考えていたのだ。
菅原道真のたたりを考えるとわかるだろう。
そういった嫌悪感が、動物を殺すということに対しても嫌悪感を発生させたのはよくわかることだ。
そういう中、武具などを作成するために皮革が必要とされた。
その血を扱う必要のある人間が必要となった。
彼らは、動物を殺し、作成をした。
我々は、肉の形になってくる動物しか見ていないが、動物を殺す様をみることは決して気持ちのいいものではない。
ヨーロッパなどでも、牛や豚を殺す。
そこで、キリスト教では、牛や豚は神様が創ってくれた人間の食物ということで人間が動物を殺すことを納得しているわけだ。
しかし、よって、そういうキリスト教的な教えがないことから、日本には、動物と人間に対する区別の敷居が非常に低い。
そのため、差別という形で現れやすいのだ。
昔から肉屋を続けている人たちは、部落の人たちか、それか、日本人的発想のない在日の人かどちらかだった。
これは事実である。
しかし、日本人も肉を食べるようになった。
このことは一大転機と言ってよい。
たしかに、動物を殺す作業はしないが、肉を食べることにより、肉の血の穢れを意識しなくなった。
そのため、部落差別は少しずつ解消されてきた。
決して、部落差別解放運動のためではない。
部落差別解放運動という、ゆがんだ逆差別については反対に不愉快な思い出があるひとの方が多いはずだ。
反対に差別を教えると。
本当の部落差別を解消させたのは、肉食であり、肉食を好んだ徳川慶喜公が元になっているというのは、ずいぶん論理の飛躍があるだろうか。
慶喜公は、豚肉を込んで食べたという開明派。
彼の意識には、穢れの意識さえ合理化されていたのだろう。
筆者は、肉食の常態化した日本において、すでに部落差別は解消したと考える。
あとは、その人の内心の問題であり、部落差別とは創価学会に対する嫌悪感やオウム真理教に対する嫌悪感、もしくは、サヨク運動家に対する嫌悪感よりも少ないものである。
それ以上、差別のことを主張するなら、現在のアメリカのテキサスにおけるイスラムや黒人に対する差別を肌身で感じる必要があろう。
これこそ本当の差別である。